相思相愛 divertimento - largo -
*フレンとユーリで音大生パロ
今まで、特別誰かを好きになるとか深い関係になろうと思ったことは、一度もない。
幼馴染と言える誰かがいるわけでもないし、エステルは好意を寄せてくれてはいても妹のような存在で。
そもそもユーリの周りにいる女性は性格的にさっぱりしていて、恋愛感情に発展するような人はいない。
好きならば友達になるし、嫌いならば関わらない。
それがユーリの交友関係上の基本姿勢で、エステルもフレンも、みんな好きだ。
そこに隔たりも差もなく、均等に。そう思っていた。
でも、ひとつだけフレンと他の人とで、異なるところがある。
フレンは、ユーリにとって、初めて「相手を知りたいと思った他者」だ。
どんな人で、どんな人生を歩んで、どんな志を持っているのか。
聞けば聞くほど、フレンという人柄に惹かれていった。
隣にいれば他愛もない話をして、フレンの弾くピアノをただ静かに聞いていて。
練習室のゆっくりと流れる時間の中で、フレンの髪が夕陽を受けて輝く様子を見ていると、綺麗だと思ったりして。
『きみもたいがい、鈍感だよね』
フレンの言葉が、じりりと胸を焦がす。
他人の言葉で胸を痛めるなんて、とても面倒くさいことだと思っていた。
今までなら、もう切ってしまっても良い縁だと考えるのをやめてしまうくらいには。
それなのに、フレンの言葉は真剣に捉えて、そして自分の胸から出て行ってくれない。
傷跡は残ったまま、その傷跡がなんなのかさえわからない。
『ユーリが、ぼくのことだけ、見てくればいいのに』
それは、いったいどういう意味だ。
フレンのことは、ずっと見てる。付き合いは浅いけれど、今まで自分が、他人にさほど興味を持たない自分が。
隣にいたい、彼と一緒に音楽を奏でたい。そう思うくらいには、フレンを想い、出会えたことに感謝すらしている。
いったいフレンは、それ以上の何を望んでいるのだろう。
わからないから、この胸の痛みは取れない。切り捨てられない。
煩わしいと、邪険にできない。
なら、どうすればいい?
*****
「フレンも、悩むことなんてあるんですね」
なんだか安心しました、とエステルは天使の笑みで首を少しだけ傾けた。
それだけ見れば可愛らしい。もちろん、傍から見れば、だが。
フレンとエステル、音楽界のサラブレットに有名資産家の娘。
その肩書きから考えれば、ここが見合いの席だと勘違いしてもおかしくない二人だが、本人たちにはそんなつもりなど毛頭ない。
二人にとっての重要な話題は、お互いのことではなく、エステルの友達でありフレンの想い人、ユーリ・ローウェルについてだ。
エステルの言葉にうっ、と言葉に詰まりながら、フレンは片手で顔を隠して項垂れる。
ちなみに今は授業と授業の合間。前の履修授業が同じで、且つ次の時間は空いている二人は、教室に残ったまま。
二人の間に、それこそ「特別な感情」など湧くことなく、親しい友人としての付き合いである。
フレンにとっては、ユーリのことで相談できる唯一の人でもあった。
だからこそ。
「はぁ…」
「落ち込んでいても始まりませんよ?」
「そうですよね…わかってはいます」
一日経って、昨日衝動に任せて触れた感触が忘れらない。
こんな初心なつもりはなかったが、後からじわじわと責苦のようにやってくる恥ずかしさと自己嫌悪。
自制心が働かなければ、ユーリの顔すらまともに見れそうにない。
「フレンが悩んでいるのは、ユーリのことです?」
「…わかりますか?」
「はい。ユーリも同じように言っていましたから」
かつり、とペンが固い音を立てる。
エステルに相談したのか、と内心で呟くフレンの心にその音がやけに大きく響いた。
「どうすればいいのか、わからないんです。ユーリが…」
ユーリが、知らない誰かと一緒に住んでいる。それが、小さな綻びの始まり。心が、渦を巻くように波立っていく。
生きてきた二十数年と、出会ってたったの数か月。その重みが逆転するほどに、フレンにとってユーリとの出会いは衝撃的だった。
入学して一年目。彼の奏でる音色に恋をして、彼のことを知った。
この音色を待っていたと、本能的に理解したのだ。
そして、ユーリのことを知りたくなった。
「ユーリに曲を弾いてもらいたくて、彼に声をかけました」
必須の授業で被ることもなく、一年二年と、彼と知り合う機会はなかった。
ただ一度聞いた音色と、黒く長い髪。それだけを頼りに、ユーリを探して。
結局、彼にたどり着くまでに三年生になってしまった。
「彼が、僕の求めていた人なんです。ユーリに弾いてもらいたい」
「願がかなったということですね。ずっと言ってましたし」
「ええ」
『僕の曲は、僕が弾いて欲しいと思ったただ一人に捧げますから』
幼い頃の、自分なりの誓い。ただ一人のために曲を作り、弾いてもらいたいという強い願望。
それに明確な理由はなくても、自分にとっても唯一に出会いたいと思ったから。
ユーリこそがその人だとわかって、自分の作った曲を弾いてくれて。
もっともっとユーリに弾いてほしい旋律が、次々に生み出されていって。
溢れる様に五線譜上で、調べが形となっていく。
快感と、感嘆と、緊張と。すべてが心地よくて、作曲という魔力に取りつかれたようだった。
「本当に、最初はユーリに曲を弾いてもらいたかっただけなんです」
「……」
「それなのに、いつの間にか僕は、彼の存在そのものに執着するようになっていた」
ユーリを手放したくない。
彼に曲を弾いてもらえば弾いてもらうほど、己の世界が狭まっていく。
その旋律も、音を奏でる両手も両腕も、存在も全て、自分のものになってしまえば――
「思えば思うほど、苦しいんです」
デュークの存在は、突然現れた驚異のようだった。
ユーリを自分から浚って行ってしまうのではないか。
この焼けつくような激情は、いったいどこに向かうものなのか。
ぎゅっとペンを握る手に力がこもる。それを見て、エステルは端正な表情に優しい笑みを浮かべる。
「何があったのか詳しくは聞きませんけど……フレンは、自分の気持ちに後悔をしているんです?」
「後悔、ですか…?」
「はい。フレンがユーリに対して抱いた感情は、捨ててしまいたいものなのですか」
ユーリへの感情。ユーリへの望み。ユーリに対する、この狂おしいほど愛おしい切望。
己だけ見ていればいいのにという、醜い浅ましさ。
それは―――
問いかける、自分自身に。
「ユーリに出会った事を後悔して、そんなに悩んでいるのです?」
エステルの問いは、深く暗い、だけれどフレンにとって大切な『夢』を、掬い上げた。
* * *
低温が混ざって、耳元で唸り声をあげる。
買い物が終わって帰宅の道すがら、今日の夕食はパスタなので合間に何かデザートでも作れるかと思案する。
店で食べるのも好きだが、自分で作るのも好きだ。特にプリンは長年作ってきたので、そこら辺のパティシエよりおいしいものが作れる自信がある。
最初にプリンを作ったのは、確か一番好きなものを作れるようになりたいと思ったからだ。
自分の舌が満足するプリンを作っていると、今度はデュークがユーリのプリンを気に入り始めて。
気付けば二人分のプリンを作り置きして、二人で食べた。デュークは何でもおいしいと言ってくれるけど、プリンは殊の外好きそうで。
他人のために作る料理は、デュークの為が最初だった気がする。
「…そうだよなぁ…」
デュークとの思い出は、当たり前だがたくさんある。おそらく、他の誰よりも長い。
抱く感情も深く、家族のような兄のような、親しい者へのそれだ。
じゃあ、フレンは?
自分が自分に問いかける。
自分にとってフレンはパートナー、親友、どれも当てはまる。
隣にいてほしい人。隣にいたいと望む人。羨望の眼差し。尊敬と情愛。
唇に親指を当てる。拭うような仕草で、フレンの跡を辿る。
そこだけ赤くなるような、仄かに熱さを感じた。
あのキスの意味は、好きだと、いうことなのだろうか。
『きみの全部を、ぼくのものにしてしまいたい』
フレンの声が蘇る。頭の中で、真剣で張りつめた音が自分に向けられる。
昏く深く、優しいのに激しい――
ぱちり、と瞬いた。
夕暮れの紺色の空が、視界に広がる。
ロシア国歌を歌い、戦争の終結を神に願った人々も、こんな空を見上げていたのだろうか。
全てを内包するような、暖かくて柔らかい、夜になる前の空。
ユーリは、この色が好きだ。夜空に瞬く金色の星も、静まり返った音の世界も、夜になる前の世界が変わる瞬間も。
「…フレン」
髪に口付けるフレンの瞳は、こんな色をしている。
澄んだ青のはずなのに、夜の音色と、夜空の色彩を有している。
青く輝く瞳の奥に、夕焼けのような橙色が燻っている。
それに飲み込まれて、いつも恥ずかしくなってしまう。だが、その恥ずかしさはどこからくるのだろう。
フレンから直接的に向けられる好意、運命の相手だと臆面もなく喜ぶ、彼の心。
アパートの階段を登って、扉に鍵を差し込むとすでに開いていた。
あれ、と不思議に思い玄関を見れば、見慣れた靴がすでに揃えて帰宅を閉めてしていた。
どうやら、デュークが先に帰っていたようだ。
「ただいまー」
「遅かったな」
がちゃりとデュークが部屋から顔を出す。相変わらず笑いもしないが、わざわざ出迎えてくれるあたり少しは心配していたのかもしれない。
「あー…買い物行ってきたから」
「そうか」
「今日パスタでいいか?」
「構わない。何か手伝うか?」
「んや、大丈夫」
買い物袋を片手にキッチンに入ると、後ろからさらに声がかけられる。
今日は珍しくコミュニケーションか、と思いながら、夕食の準備を始めた。
「…最近、何か悩んでいるみたいだが」
「へ?」
「その意外そうな顔はどういう意味だ」
「いや、なんつーか…」
ここで「デュークが人のことを気に掛けるなんて明日は嵐でも来るんじゃないか」と言ってもいいが、それは流石に自分でも人でなしな気がするのでやめておく。
それで、と話を促すことにした。
「悪い。で、俺が、悩み?」
「思い違いならばすまないが」
「あー…まぁ、当たらずとも遠からずって感じだな」
パスタのゆで時間を確認して火を入れる。
ソースは、お手製のバジルだ。トマトを切り分けて、一緒に和える。
「悩みっつーか…まあ、人付き合いで」
「お前がそんな事に苦労するとは、よほど難しい相手なのだな」
これまた珍しく、苦笑交じりに言われた。
その指摘には、ユーリも苦い顔をせずにはいられない。微妙に読まれている気がして、渋面を浮かべた。
「なんだよ、俺だってどうしようかわかんなくなる時だってあるぜ?」
「それはさらに珍しいな。お前は、他人を好きか嫌いかで分けているものだと思っていたが」
「…よくわかってらっしゃるようで」
「まあ、単純に好きと嫌いの枠にはめられない気持ちというのも、あるものだと思うが」
――それは、沼から引き揚げられたような心の軽さ。
デュークの言葉に、パスタを茹でていた手が止まる。
枠にはめられない好意。それはまさしく、ユーリがフレンに対して抱いている気持ちそのものだ。
自分の今までの尺では決められない。当てはまらない。納得できない。
そんな、フレンからの、言葉の数々。
「…なぁ、デューク」
「なんだ?」
「俺もたいがい、鈍感だよな」
「それは、私に答えられる質問か?」
「いや、なんでもない。けど、さんきゅ」
残り一分を告げる音が鳴る。パスタは、良い具合に茹であがっていた。
* * *
こつり、こつりと部屋の中に足音が木霊する。
澄んだ音色。混ざり気のない、迷いのない音。
最後にこの部屋でフレンと会ったのは、一週間前。たったの七日間。
それでも、目の前のこの顔をこんなに長く見ない日は、出会った時から数えれば初めてだ。
「フレン。この前の、ことだけど」
ユーリが切り出せば、夜の教室に灯る月明かりに照らされたフレンの姿が、少しだけ揺らぐ。
彼は何も言わない。言わないようにしているのか、全身に緊張の糸が張り巡らされているような気がした。
「デュークは、親とか兄みたいなものなんだ。フレンがどう誤解したかはしらねーけど」
デュークは、家族だ。血の繋がっていない他人でも、他人にはなりきれない他人。だから、それ以上でもそれ以下でもない。
養ってくれていることも、此処に通わせてくれていることも、すべて感謝して恩を感じている。
だからこそ、ユーリにとってデュークは「デューク」という存在なのだ。
フレンは、不意に肩の力を抜いて、ユーリのそばに歩み寄った。
椅子に座っているユーリと、立っているフレン。必然的に見下ろす形になるが、その瞳は怒られるのを覚悟しているような子供の色。
「ごめんね、僕の早とちりだ。というか、勝手な想像だった」
ごめん、ともう一度謝って、ユーリの手を取る。
そっとその細い指に触れて、フレンは目を閉じた。
ユーリも、立ち上がって目を細める。
「僕には、夢があった。僕が心を捧げ、曲を捧げ、いつまでも共にいるパートナーを」
まるで物語の朗読。
フレンの声は耳に心地よくて、夜闇の中では特にその声が綺麗に通る。
「君に出会って、君は僕の望んでいた以上の存在で、僕の心を奪っていった。君以外に曲を作る事なんて、できないくらいに」
瞼の裏から現れた青い瞳が、ユーリを見つめた。何度見ても美しい、飽きることのない色彩。
「僕の想いは、迷惑だと思う。君が嫌なら、僕は君から離れないといけない。君の音を曇らせたくないから」
自分のせいで、その優雅さと魅力を損ねてしまうのなら。
フレンの作る音色が、フレンの心そのままであるということを、ユーリは知っている。
五線譜に踊る音符も、彼とまるで一体になったかのように手が勝手に動く、あの感覚も。
音楽というのは、自分の想像以上に表現豊かであるということも。
フレンの作る曲を弾きたい。彼との感覚がまるで表裏一体であるかのようだから、余計に。
「俺は、お前が好きとか嫌いとかで、判断するのは嫌だ。一緒にいたいという気持ちは、俺にだってある」
まるで、言葉を操るのが不得意な人形のようだ。
うまく言葉にできないなんて滑稽なこと、自分にはないと思っていたが。
今フレンに伝えようとしている気持ちは、彼を落胆させるだろうか。
ああ、音色ならもっとうまく伝えられるかもしれない。
「お前の作った曲が弾きたい。お前の曲が、いいんだ」
本心をさらけ出すのは、どんな時でも恥ずかしい。いや、むしろ抵抗があると言えばいいのか。
必要以上に言葉を交わすことを得てとしないけれど、フレン相手ならばその苦手もどこかへ飛ばされている気がする。
何より、フレンの一直線な心に、いつまでも回りくどい言い訳を晒しているのは、駄目だ。
「だから、お前がその…俺のことを、どう思ってても。俺がお前を嫌いになるなんて、ないと思う」
言い切った一瞬の後、フレンが握っていたユーリの手を離して。
「なんだ、すごく緊張した…あんな風に言ったけど、やっぱり君を手放すなんて考えられなくて」
泣き笑いのように零して、フレンが肩の力を抜く。
「ユーリに嫌われるのが一番怖い。君の隣で、君の対等で、君の一番でいたいから、頑張るよ」
そっと、ユーリを抱きしめた。
暖かくて優しい、フレンの抱擁。親しい者にするような、愛しさが込められたもの。
耳元の声が、春の訪れを告げる陽の光みたいだ。
ユーリも同じように、フレンの背に手を回した。
どきどきと鳴る心臓の音がうるさい。フレンに聞こえているだろうから、柄にもなく緊張しているのが伝わってしまい、今にも体を離してしまいたいところだけれど。
全身で縋るフレンの体温が、夜の静けさの中で心地よい。
「ずっと、僕の曲を、弾き続けてください」
それはさながら、愛の告白のようだった。
(茜色に染まる空も、君の髪が揺れる音楽室も、君の心が奏でる淡い夢も)