相思相愛 divertimento - adagio -

*フレンとユーリで音大生パロ



緩やかな歌声が聞こえる。
暖かな日差しの下、背中を太い木の幹に預けて、本を開く。
栞が挟まっているのはまだまだ本の最初の部分。
いつ読み終わるかなんてわからないけれど、毎日少しずつ、この木漏れ日の中で読み進める。
風が吹くと、髪の毛がふわふわと揺れて心地がいい。
歌声は微かだけれど、風に乗って柔らかく包み込んでくれる。
そんな、穏やかで優しい、場所。

――ユーリは、目を開けた。
眼前に広がるのは、いつもと同じ練習室の風景。譜面台の上に乗った楽譜と、誰も弾いていないピアノ。
自分一人しかいない教室の中で、唯一窓の外から聞こえてくる音と自分の心臓の音だけが、この部屋の中の音だ。
歌声も、木漏れ日も、存在しない。
ふうと細く息を吐いて、力を抜いた。肩を落とし、椅子に深く腰掛ける。
チェロを肩に掛けてバランスを取り、先ほどまで奏でていた音色を想起する。ゆっくりとしたテンポで、子犬がうとうととしているような愛おしさを覚える旋律。
楽譜を指でなぞれば、フレンが書いたその軌跡をたどっているような気がする。
音色で表現することができる、それがどれほど慈しみと愛情にあふれたものであるか。
彼の頭の中で作り上げられ、彼の手で生み出される旋律。音楽。それを自分だけが弾いているという恍惚。
音楽の道を志すものとして、嬉しくないわけがない。

だからこそ、付き合いは短くとも、彼の音楽性という点でユーリは他の人よりほんの少し、フレンを理解しているつもりだ。
穏やかで、時折何を考えているのかよくわからないが、それでも一途にユーリを認めてくれている。
君に弾いてもらいたいと、本心から伝えてくれた。そんな彼が、作り出す音色だ。
どこか甘い、優しい、穏やかな旋律。悲しみを感じながらも、前を向くような曲調。
表情を変えているのに、根底に流れる彼らしい真面目な一本の想いと、それをめぐる葛藤。
それが、フレンの持ち味だ。
なのに、最近フレンが書き上げてくる旋律は、時にどこか、空虚な部分がある。
今さっきまで弾いていたのは、フレンらしい、少し前に書かれたもの。
昨日渡された楽譜は、同じような旋律ながらも、突然焦りのような、複雑な音が交じり合っていた。
フレンらしくない、なんて傲慢かもしれないが。
少し気になるのは、事実だ。



*****



西洋音楽史の講義が終わり、今日はもう帰るかと荷物をしまっていると。
ふと、スコアを先ほどまでいた練習室に忘れていることの気付いた。
同じ授業を取っていた知り合いの何人かと別れの挨拶をして教室を出た後、面倒くさいが取りに行くかと反対校舎まで足を運ぶ。
背負ったチェロが重いなぁなんて思いながら廊下を歩いていると、ふとフレンのことが頭に浮かんだ。
フレンの様子が少し変だ、と午前中は思ったが、ただの勘違いということもあり得る。
フレンの全部を知っているわけではないし、自分が勝手にそう思っているだけで、フレンにしてみればいろいろな曲を作ってみようと試しているのかもしれないし。
作って放りっぱなしというわけではなく、フレンは真面目だから、ちょくちょくユーリの意見を聞きたがる。
弾き方も、流れの感じ方も、旋律のつなげ方も、受け取って自分の中で昇華して曲として音を吹き込んでいくのはユーリ。
フレンの思っていたような弾き方にならなければ、好奇心旺盛の目でなんでこうしたとか、ここに強弱をつけたのはなぜだとか、ユーリが無意識にやっていることにすごく興味を持つようで。
いちいち煩わしいかとも思っていたが、フレンと一緒にいる時間も、フレンの曲を弾いている時間も、とても心地よいものだった。
ユーリ自身が驚くほどに、フレンはあっという間に、彼の心の一部に馴染んでいるのだ。

一週間に、せいぜい一枚分の曲というペースで、フレンは作曲を行っている。
課題もその中に含まれているのだろう。和音の種類も豊富だし、古典から近代まで、フレンの想像する音楽は表現が豊かだ。
ユーリの感覚に沿うようになって、今までの生真面目一辺倒のような音楽だけでなく、この次の和音にこれが来たら面白んじゃないか、なんて面白そうに取り入れている。
中世の貴族みたいな風貌だから、あー昔の音楽家もこんな感じだったのかな、とよくわからない感心をしてしまうこともしばしば。

窓の外を見れば、もう夕方だ。
今日は帰って、夕飯を作らなければ。一週間ぶりにデュークが家に帰ってくるというから、何かあいつの好きなものでも作ろうか。いや、でもデュークの好物って確か野菜とかそういう、おおざっぱな感じだよな…とつらつらとメニューを考える。

デュークは、ユーリの同居人であると同時に、音楽の道に進もうと思わせてくれた、一応大事な人だ。
一応、とつくのは、デューク本人がそのことを覚えていないのと、ユーリ自身が彼に恩を感じる以上に彼の世話をしている気がするからである。
やり手の経営者とはいえ、家事全般に関しては一般人以下の知識しか持ち合わせていない彼は、恐ろしいほど現実離れしている部分がある。
それはもう、世話をしてやらなければ、と思わせるくらいに。

部屋の扉を開けようと、ドアノブに手をかける。
すると、部屋の中から微かな旋律が聞こえてきて。どうやらピアノのようだ。
黄昏色の空に溶けるような音色。フレンの曲。
誰がいるのだろうかと、ドアの隙間をそっと覗いて、金色の髪が橙色の夕陽を受けてピアノの陰から見え隠れした。
フレンか、とゆっくりと扉を開ける。

綺麗な音色だ。優しくて柔らかくて、夕暮れの海を眺めているような気がする。
フレンの髪は、言うなれば水面に輝く光の反射。
手が届きそうで届かない、幻想的でありながら現実的な、誰かを見送る送別の歌。
音をたてないように扉を閉めるが、気配に気づいたのかピアノの音が止まる。
もったいないな、と残念に思った。

「ベートーベンのピアノソナタ、第八番『悲愴』、第二楽章」
「あたり。流石に有名な曲だからね」
「これくらいは、な」

弾いていた曲を当てれば、フレンはにこりと笑って席を立つ。
もう少し弾いてればいいのに、と言えば、君と話をするほうが良いよと見覚えのある楽譜を手渡された。
この部屋に忘れてきた、フレンの書いた曲だ。

「あと、これも。新しく書いたから、渡そうと思ってたんだ」

もう一枚手渡されて、驚く。
やはり、曲を作るペースがすごく早い。
新しいそれを眺めれば、少し乱雑ながらも手書きの音符が並んでいて、その旋律を目で追う。
そして感じるのは、やはり、曲を作る丁寧さがないという、こと。

「…フレン、最近曲作るペースが早くないか?」
「え、そうかな?」
「ああ。前は、週に多くても一枚くらいだっただろ?ここんところ、会う度に持ってくる」
「気が付かなかったけど…創作意欲がわくんだ。君に、弾いてもらえると思うとね」

紳士的で、フレンに懸想している女性ならば溶けるような笑みだ。だが、ユーリは眉を寄せて、苦しそうに言う。

「こんなこと言うのもなんだけど。なんていうんだろ…お前の作る曲、俺は嫌いじゃない」
「ありがとう、君にそう言ってもらえるなんて、」
「でも、最近お前が作る曲は、なんか違うんだ。何を焦ってる?何か戸惑うようなことがあったのか?」
「焦る?戸惑う?君は何を言って…」
「前と違うんだ、お前の作る曲が。弾いてる俺だからわかる。何か…あったのか?」

フレンの腕を掴めば、ふるりと体が震えた。
青く澄んだ目を見開く。フレンの戸惑いが手に取るようにわかる。
でも、いったい何にそんなに。

「…フレン」
「何もないよ、ユーリ。君こそどうしたんだい?らしくないな」

からかうように言われても、ユーリは納得がいかなかった。
パートナーだと、フレンは言った。自分を手放したくないのだと。組んでほしいと。
ならば、どうして彼のことを放っておくなどできるだろう。

「俺に、お前の曲を弾いてほしいのなら。あんな曲、弾かせるな」

卑怯な言い方なのは分かっている。
でも、これくらい入り込まなければ、フレンの心を引き出すことはできないと思った。
恥ずかしくて、ねじが一本飛んでいて、変な奴でも。
自分にとって、フレンは大事な友だから。

フレンが俯く。下手な言葉を、発さないように。それでも、腕をつかむユーリの掌がどくどくとフレンの頭を侵していく。
口を開いたら、感情のままに叫びそうになるのに。

「…きみ、に」
「え?」
「僕のことを、浅ましいと思ってほしくないから」

どういう意味だ、と聞く前に、フレンが顔を上げる。
不安に彩られた瞳が、ユーリに問いかけた。

「あのデュークさんっていう人と、どういう関係なの?」
「はぁ?なんでここにあいつが」
「いいから」
「…あいつは、ただの知り合いというか…前からの馴染みというか…」

フレンの質問の意図が分からず、促されるがままに答えるが、そもそもデュークとの関係など、ちょっと仲の良い知り合いのようなものだ。
勘ぐられるような関係でも、ましてや天地がひっくり返っても恋人同士などあり得ない。

「俺が、この道を志すきっかけをくれた人って感じだよ」
「きっかけ?」
「ああ。此処の学費の半分を出してくれてる代わりに、俺が家事とかやってるってだけ」
「それって…」

それって、君の才能を僕よりも早く見抜いたって事じゃないのか。
そう思っても口に出すことはできなかった。
これはただの嫉妬だと分かっていても、どうしてユーリと先に出会ったのが僕じゃないのだろうと意味のない悔しさが湧き上がる。

「ユーリは、デュークさんのことどう思ってるの」
「どうって…フレン、お前どうしたんだ?別にあいつとは、同居人ってだけで特別好きとか嫌いとか…」

ぐっ、と言葉の途中で引き寄せられた。
思わぬ強い力に、フレンにぶつかるのではと身構えて目を閉じる。
しかし、衝撃は予想もしなかったところに与えられた。
そう、与えられたのだ。目を閉じていたから、ちゃんと見たわけではないけれど。
時が止まったような、そんな陳腐な表現がお似合いの一瞬だった。
唇に残る感触が、それが現実だと物語っていた。

呆けて、フレンを見上げる。
なぜ、今のはいったいどういう意味で。
そう問いかけたくても、腰が抜けてしまったように力が出なくて、ただ驚きで頭がいっぱいだった。
悲しそうに揺れる青い瞳が、ユーリを包み込む。

「君も、たいがい鈍感だよね…」

そっとユーリの髪に唇を寄せた。いつかの再現のようだ。

「僕はね、ユーリが僕のことだけを見てくれればいって思ってるんだ。すごくあさましくて、ユーリを独占したくて。君の存在が、僕だけのためにあればいいのにって思ってる」

いつもなら、恥ずかしいことを言うなと怒鳴っているだろう。
そう冷静に自分を分析できるのに、行動はできなかった。
まるで四肢もすべて束縛されたように、動かない。フレンの唇が触れている部分にだけ、視線がいく。

「君の全部を、僕のものにしてしまいたい」

抗えないのは、なぜだろう。





(君の奏でる音楽だけじゃ足りない、君の存在全てを)