相思相愛 divertimento - lento -
*フレンとユーリで音大生パロ
楽譜を開く。
風がそよいだ。
飛ばされないようにクリップで譜面台に固定して、チェロを構える。
今日の練習曲は、チャイコフスキーの『大序曲1812年』、チェロパート。
冒頭のロシア正教賛歌は、ヴィオラとチェロによる重厚で悲しい、ひそやかな調べ。
ナポレオンの侵略に怯えながらも、自国の勝利を望む市民の歌。
訴えるように、心を一つにして、小さな小さな祈りを捧げる。
極寒の地、ロシアで繰り広げられるであろう戦争。
川を隔てた戦い。地の利はこちらにある。しかし、勝利などどれほど確証されているだろうか?
運命はどちらにも左右する。自分達は兵士を送りだすことしかできない。
ならば此処で祈りを。親愛なる守護者たちにこの詩が届きますように。
戦場では、戦いの前の静けさが辺りを包む。
敵に悟られないように、できるだけ動きを小さく。
伝令が走る。夜明け前の一瞬。銃を持つ手が少し震えた。
祈りの歌が聞こえる。国を称える歌だ。勝利を切望する旋律だ。
兵士たちがその音色に心安らぐ。愛する妻が、愛する子が、親が、友人が。
待っている。帰りを待っている。だから帰らなければと心を強く持つ。
地の利はこちらにある。極寒の地に住まう我等を見くびってもらっては困る。
凍った川を渡ったことがあるか?寒さによる凍傷が肌を焼くことを知っているか?
身体は温まっていても手足が動かない、その意味を分かっているか?
寒さは我々の味方だ。
敵を撃て。ナポレオンの進撃を止めろ。
東の地は、我等が我等の手で守る。あいつは救国の戦士ではない。ただの殺戮者だ。
侵略を許すな。太陽が顔を出した。祈りの歌が空へと溶ける。
想いも全て、同朋と分かち合おう。そして勝利の文字を我が国に持ち帰るのだ。
そして戦争は、はじまった。
両者の戦いは続く。時にはフランス国歌が、時にはロシア正教会の聖歌が、ファンファーレと共に指揮を盛り上げる。
大砲を撃て!銃を構えろ!気を抜くな、死ぬことに怯えるな!
凍った川も真中は弱い。大勢で押し寄せればたちまち氷は割れて、一瞬にして体温を奪う水温が地獄の釜のように口を開けて待っている。
誘い出せ、思い知らせろ!
反撃だ!旗を掲げて我等の強さを思い知らせるのだ!
両者の戦いは続く。だがそう長くはない。
やがて、天高く響き渡るのは――
*****
楽譜が二重線に辿り着く。
ロシア国歌の余韻が教室内に残った。
澄んだ音だが、どうにも力強さが足りない。
勝利の宴には軽いのだ。音の表情は、時に普通の顔に出る表情より雄弁で、相手の心に訴える。
彼等の勝利はこんなに安っぽいものではないはずだ。
ナポレオンという世紀の革命家から、国を守った1812年の戦い。
戦略も兵器も、兵士の命も、軽くない。重く冷たく、そして激しい。
「ユーリ、おまたせ」
唐突に、背後から声がかかった。
最近では聞き慣れた、柔らかく耳に心地よい声色。
相変わらず重そうなバックを肩に掛けて、ユーリの向かいまで歩いてくる。
譜面台を除きこんだ拍子に、金色の髪が太陽の光を受けて輝いた。
「チャイコフスキー?スラブ行進曲かと思ったけど、大序曲の方だね」
彼の言う『スラブ行進曲』は、同じ曲編成だが『1812年』より短く、また旋律に若干の違いがある。
しかし同じ作曲家の作品で、似通った旋律を使うのは珍しいとも言えた。
「サマーコンサートの曲だっけ?」
「おう。因みに、準メインはサムソンとダリア」
「いいね。僕、あのオペラ好きだし。君が弾くなら、聴きに行こうかな」
「…バカなこと言ってないで、普通に聞きに来いよ。エステルも出るし」
「僕はユーリの音を聴きに行きたいな。君のソロはないの?」
「――…お前、マジでそれやめろよ…!」
「なんのこと?」
あーこいつ天然なんてレベルじゃねえ悪魔だ。と思っても仕方ないのではないだろうか。
先程まで真剣に、己の演奏技法について悩んでいたのにあっという間に彼方に飛んで行ってしまった。
天使のような笑みを浮かべた悪魔は、項垂れるユーリを気にすることなく譜面台をタンタンと叩いた。
「行こう、ユーリ。お店が閉まってしまう」
「あー…そっか、4時には閉まるんだよな」
「修理に出していた弓を取りに行くんだろう?」
忘れてた、と楽器をしまって戸口で待つフレンに追いつく。
忘れ物は無いねと念を押す様子は、まるで子供を持つ父親だ。妙に似合うのはなぜだろうかと、思わず苦笑する。
何故笑われたのかわからないフレンは不思議そうにユーリを見て、ああ、とどこからともなく相槌を打った。
「僕も、ユーリとこうやって一緒にいられるのは嬉しいな。また一曲作ったんだ。来週に合わせてみないかい?」
「……っ!」
はく、と大きく開けた口から音は出ず、ユーリは顔を背けた。
おかしい。こいつ絶対におかしい。
顔が赤いとか、考える暇もなくフレンの言葉に体温が上昇する。
最高の笑顔を向けられて、この青い瞳に見つめられて。恥ずかしいと思う自分もおかしい気がする。
だって相手はフレン。男。同性。綺麗だし優しい。斜め上の発言に困惑させられる。
色々な言葉が浮かぶけれど、何よりもフレンの事が好きだという気持ちに偽りはない。
好き…好きなのだろうか。恋愛という意味の好きとは少し違う、相手を信じて共に居ることを当たり前だと感じる好き。
親愛に近い、家族に向けるような暖かな『好き』。そちらの方がしっくりくる気がした。
「ユーリ?」
心配そうにのぞき込んでくるフレン。
そうか。兄弟みたいな、好き、なのか。
そう結論付けると、なんだか心が軽くなる。
「ん。俺も、フレンと一緒にいるのは楽しいし。お前の作った曲も、弾きたい」
フレンが、嬉しそうに笑った。
こういう顔をすると、幼い印象が強い。普段はきりっと真面目さがにじみ出ているから、その違いも大きくて。
頬が少し赤いのは、お互い様だろう。
「いこっか」
「帰りにクレープ屋寄ろうぜ」
そんな他愛もない話が、すごく楽しくて。
毎日フレンの曲を楽しみにしている自分がいた。
* * *
ぴぴぴ、と同居人の目覚ましが鳴り響く。
寝ている場所は別々なのに、どうしてここまで聞こえてくるのだろうか。
毎朝の疑問に、だが身体はいつものサイクルを辿るために覚醒を促した。
背伸びをしてカーテンを開ければ、部屋に満ちる朝日。
肩より少し長い髪を一つに結って窓を開ければ、初夏の太陽がじりじりと熱い。
もう少しで夏本番か、とつらつら思いながら朝の支度をしていると、隣の部屋の同居人が起きる気配がした。
それからきっかり5分後、そいつは現れる。
「おはよーさん、デューク」
「…相変わらず早いな」
「あんたは相変わらず低血圧だな」
日常的に交わされる会話は、もはや定形句だ。これが朝の挨拶。
デュークは、ユーリの部屋に住む同居人。いわゆる相部屋というやつだ。
大学に入学した頃から数えて三年目。その前から知り合いだから、付き合い自体は六年目になる。
デュークはユーリより三つ年上の社会人で、会社の経営に携わる若手のエリートだ。
染めているわけではない白髪はこれ以上ないほど目立つが、本人が気にしていないためユーリも気にしていない。
初めて見た時は驚いたがそれも今はただの思い出だ。
「今日は一緒に出るんだったっけか?」
「その予定だ。おそらく今日中には帰れない」
「了解。夕飯は?」
「必要ない。明日は昼過ぎて帰ると思うが」
傍から見ればそっけないが、特に不快感は覚えない。
お互いが弁えている感覚は二人には当たり前のもので、作業をしながら淡々と進む。
朝ごはんを食べ、用意をし、部屋を出る。
いつもはデュークが先に出るが、今日は二人同時だ。ユーリの授業が一限からというのもあるし、デュークの仕事が今日に限って少し遅く始まるという偶然だ。
久々に二人並んで歩く。少しだけデュークの方が背が高いが、チェロを背負った上に全身真っ黒なユーリとの対比で妙に目立つ二人である。
駅までデュークを送って、ひらひらと手を振った。
「あ、そういや俺も明日は用事があるから、夕飯は外で食べるから」
「そうか」
無愛想な顔のまま、デュークは駅へと消えて行った。
相変わらず表情が動かない奴、と思いながら、自分は大学への道を歩く。
すると、背後から知った気配が近づいてきて。顔だけで振り向くと、そこには予想通りの人物がいた。
「フレン、おはよう」
「あ、ユーリ…おはよう」
どうも元気がなさそうな声に、ユーリは首をかしげる。
フレンは、いつもまるで子犬のように寄ってくるから、朝から沈んでいるのは初めてだ。
何かあったのだろうかと尋ねれば、フレンは何もないと首を振った。
「さっき、一緒にいた人、誰?」
「…ああ、デュークの事か。ただの同居人だよ」
「同居?一緒に住んでるの?」
「まーな。成り行きっつーか、俺が勝手に転がり込んでるっつーか…」
まあ世話してんのは俺な気もするけど、とは言わずに肩をすくめる。
フレンは探るように、怖々とユーリを見つめている。それには気付かず、すたすたと歩いて以前フレンと別れた信号で止まった。
「働いてる人、なんだね。ちょっと驚いた」
「あの髪だろ?ま、あいつが気にしてないから俺も気にしないけど」
仄かにユーリの言葉の端端から、にじみ出る信頼のような強い二人の絆のようなもの。
フレンはユーリには見えないように聞こえないように、ぽつりと呟いた。