窓辺の椅子
窓際のソファ席は、窓の向こうに広がる海を見渡すことのできる絶好の場所だ。
夏は深緑と青空と入道雲。秋は爽やかな風と紅葉。冬は空と海の境がわからないような雪と灰色の地平線。春は翡翠に輝く芽吹きの色。
四季折々の季節に見合う景色を堪能できるこのソファ席。一騎が一番好きだと思う季節は夏だ。ここからなら、対岸の島で上がる花火も、夏の風物詩といえる入道雲も、青い空を気持ちよさそうに飛ぶ鳥たちの姿も良く見える。普段は店の奥で仕事をしているので、外を見ている暇は大して無いのだけれど、大きな窓に切り取られた世界を一騎はとても気に入っていた。
連日の雨とは打って変わって、今日は夏の日差しが降り注ぐ一日となるでしょう、と出掛けになんとなく耳にしていたテレビの音声を思い出しながら、一騎は窓の方に視線を送った。
父の史彦は久しぶりの休日だというのに、いつもの時間に起きて一緒に朝食を食べた。何かやることでもあるのか、と聞いたら、晴れているなら土を補充しておこうかと思って、との返答に納得し、それ以外は無言の朝食だ。いつもの事なので、別に仲が悪いわけではない。
十代の頃は時々気まずいような気持ちになることもあったが、父は元より寡黙で、一騎もその血をしっかりと継いでいる。今ではそんなことを思うこともなく、静かな食卓が当たり前になると、逆に史彦が饒舌になった日には驚きに固まってしまうだろう。
大勢で集まって騒ぐのも、嫌いではない。それはあくまで総士たちとなら、という条件付きではある。幼い頃から見知った顔同士、今更変な気を使う必要も、一騎が寡黙であることをわざわざ引き合いに出すような人間もいないので、一騎が一騎らしく場に居られるのが総士たちの傍なのだ。
大学時代、大して知りもしないメンバーの飲み会に誘われた時には、何を話していいのかわからずとにかく早く帰りたいとばかり思っていた。話かけられれば答えはするが、自分から話題をふることなどほとんどしない。お酒だって総士や甲洋と他愛もない話をしながらゆったりと飲む方が性に合っている。
狭いコミュニティの中で生きてきたのだ。今更その性分を変えることなど、一騎にはできなかった。
一騎の性格についてはさておき、今日の窓際の席では、一騎の後輩が顔を揃えていた。
体力バケモノとまで称された一騎の小学生時代の運動能力を凌駕するのでは、と噂になった水鏡美三香。総士や甲洋と並ぶ優秀な頭脳を持ち、大学生ながら経済誌に論評まで寄稿している鏑木彗。そしてこの店のアルバイト、御門零央。
同期三人、かなり仲が良く、別々の大学に通いながらもこうして定期的に顔を合わせている。主にこの店が集合場所になるのは、零央が働いているということと、開店当初からこの店をよく利用してくれるお得意様だからだ。互いの近況から、最近の流行、テレビの話、時々甘酸っぱい恋話まで、三人は時に笑いながら、時に真剣に多くを語り合っている。
そしてもう一つ、大切な『試作品発表会』がこの三人の間で執り行われる。毎月半ばに、三人が揃わなければ一騎や甲洋も混ざって、来月のデザートの試食会だ。
「来月は、これ」
零央が、冷凍庫から取り出した小さな容器の蓋を開ける。彗と美三香が中身を目にして、小さく感嘆の声を上げた。
「すっごい! 零央ちゃんやっぱりお菓子作りの天才! 美味しそう!」
「これは……バターサンド?」
「夏だから、オレンジのピールを練り込んでシャーベット状にしたバタークリームを、柔らかめの生地で包んでみた。クッキー生地だと零れやすいし、フォークで切れるくらいの柔らかさで調整して……一応、バターサンドになるかな」
すらすらと説明をしながら、皿に取り分けたバターサンドにフォークを添えて二人に渡す。バタークリームの中には、零央の言葉通りオレンジ色の細かな粒が見え隠れしていた。香りはレーズンのような強さが無く、純粋なバターの香りがふわりと広がる。
「零央ちゃんの説明、半分くらいわかんないよ〜」
「右に同じく……あ、ほんとにフォークで切れるんだ」
漁師をしている母親の影響で魚全般の知識と捌く技術は人並み以上の美三香ではあるが、お菓子作りはほぼ経験なし。そもそも料理にさほど興味がない彗は言わずもがな、零央の料理人としての腕に感服していた。
生地はスポンジとクッキーの間のような感触で、外側はボロボロにならない程度に硬い焼き加減ながら、中はしっとりと冷たい。難なくフォークで切り分けて、いただきます、とお行儀よく揃った声の後、二人がバターサンドを口にする。
一騎ブレンドを啜りながら、零央は二人が咀嚼し終わるのを待った。
「……で、どうだ」
伺うように尋ねた零央に、美三香が左手を頬に添えながら幸せ全開の笑みで頬を染めた。
「ん〜〜おいしぃ〜〜」
美三香の反応に、零央の肩から力が抜ける。毎月のことでもやはり試してもらうのは緊張が伴うので、どことなく急いていた気持ちが落ち着くようだった。
「クリームも甘すぎないし、クッキーがちょっぴりしょっぱいからすごく美味しい!」
「確かに、これは珈琲に合うね」
甲洋ブレンドを一口含んだ彗も、美三香に同意する。
「夏にバターサンドはちょっと重いかなと思ったけど、冷凍庫で冷やすことでアイスクリームを食べてるみたいだ」
「シャリシャリしてるね」
「その方が食べやすいかと思って」
「うん、そうだと思う! やっぱり零央ちゃんすごいなぁ」
パクパクと残りを食べ終えた美三香は、満足気にソファに寄り掛かって零央に微笑んだ。
「ごちそうさまです、美味しかったよ!」
「……おう」
むず痒くなるような眩しい笑顔に当てられ、零央も同じく頬を染める。
傍から見れば「若いっていいわね」と言われそうな初々しい空気の中で、彗は特に気にした様子も無く真面目にお菓子の感想と何か改善点があるだろうかと推考していた。普段は頭脳明晰で色々なことによく気が付くのに、この一種の鈍感さが発揮されるのは仲間内だけらしい。ちょっとだけ総士に似てるなと一騎は思っていた。
「美味しいセンサーが敏感なのかなぁ……一騎先輩もそう思いませんか」
「へっ、俺?」
ほのぼのと三人の会話を眺めていた一騎へ、美三香が唐突に声をかける。ずっと見てたのがバレたらしい。美三香としては気にしていたわけではなく、ただ単に憧れの一騎に褒めてもらえたら零央も嬉しいだろう、という心づもりでいただけなのだが、一騎は知る由もない。
「美味しいですよね、零央ちゃんのお菓子」
「あ、ああ。もちろん。いつも感心する」
「きょ、恐縮です」
「零央のデザート目当てのお客さんも増えたしな。だいぶ助けてもらってるよ」
事実なので飾ることもなく言えば、零央はごほんと咳払いをして隠すように片手で口元を覆う。にやけてる〜と美三香に揶揄われ、照れる姿は幼い頃の二人と変わらない。もう二十歳を過ぎてお酒だって飲める大人だというのに。
一騎たちも同じなのかもしれない。こういう店をしていると、自然と他人とある程度の線引きをする。接客業なんて自分には絶対に向いていないと思っていたのに、この場所には優しい人が多すぎて、良い距離感を作ってくれている。
でも、総士たちといる時間は、今零央たちが心から三人の時間を楽しんでいるように、一騎も楽しくて嬉しくてたまらない。決してそうは見えなくても、皆といると安心する。
窓際の席から見える景色が移ろい、毎日の表情が少しずつ異なっていても、切り取られた世界は変わらないように。
なおも零央のお菓子を絶賛している零央の横顔を、一騎はちらりと盗み見た。
あたたかな眼差し。緩んだ頬と目元。同性の一騎から見ても綺麗で男前な彼の、甘く綻んだ表情には、美三香への隠しきれない愛おしさのようなものが溢れていた。好きなんだろうなと一目でわかってしまう。零央はずっと美三香のことが好きで、気持ちを一心に注いでいて、一緒にいたいという想いを隠さない。
淡い恋心が、やがて現実みを帯びてはっきりとした形を成すと、途端にそれを持て余す。甲洋は以前、そんなことを言っていた。経験則なのか、彼なりの考え方なのか。どちらにせよ、零央の今の状態は似たようなものなのかもしれない。美三香への感情がはっきりと自覚されたからこそ、こうやって地道に距離を詰めながら、彼女に想いを告げるタイミングを探している。そんな風に見えた。
「零央、このバターサンドってブルーベリー入れたらどうなるの?」
そこに、空気を読まない見事な質問が彗から投下された。二人の甘い空気をものともせず、ちゃんと疑問点や改善点を考えていたようだ。
「あー……それだと、たぶん小粒のブルーベリーが必要なのと、練り込んだ時に色が出て、紫色っぽいバターサンドになるような……」
「紫とクリーム色が混ざった色……?」
「あんまり想像したくない色だね……」
「不味くはないと思うけど。ブルーベリータルトで使ったやつだと、バターサンドには大きすぎるから、今からは難しいかな」
渋る零央に、ハイと美三香が片手を挙げた。
「じゃあ、夏のフルーツと言えばグレープフルーツとか!」
「そ、れは……ちょっと難しい……と思う」
さらに渋面になってしまった零央は、腕を組んで唸る。残念そうに眉をハの字にする美三香は、しかしめげずに他のフルーツ名も列挙していった。
スイカはさすがに無理、レモンならなんとか、桃は挟んでみたらどうか、と続くやり取りに、お役御免となった一騎は小さく息をついて苦笑した。零央の意識は、もうすっかりお菓子の方にあるようだ。自覚している分、なんだかもどかしい。
「……珈琲のおかわり、いるか?」
まだまだ白熱する様子を見せている話し合いには、飲み物の一つも補充した方がよさそうだ。「お願いします」
「俺も」
「私はミルクティーお願いします!」
「はいはい、ちょっと待ってな」
空になったカップだけを持って、キッチンに下がる。珈琲は朝挽いたものが十分に残っていて、一騎ブレンド、甲洋ブレンドとそれぞれペーパーフィルターに注ぐとお湯を注いだ。
ぷつぷつと音色を立てる気泡を眺めながら、ふと来月のブレンドについて自分も考えておかなければいけないのだと思い至った。無料配布のペーパーに載せるための文もある。いっそのこと、それも三人に任せてしまいたい。店の宣伝も兼ねているとはいえ、どうにもあの手の短い文章は苦手だ。
七月の青空を思い浮かべながら憂鬱を吹き飛ばそうとする一騎に対し、窓際の席で話に花を咲かせる三人は、それは楽しそうに笑い合っていた。