音楽を流すかについての考察

「すみません、大学行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
「気をつけてなー」
 ちょうど雨があがった、午後三時。エプロン姿からどこにでもいる大学生のスタイルでリュックを背負った零央を送り出し、一騎と甲洋はランチタイム後の怒涛の洗い物に取り掛かっていた。
 店内はクーラーの冷気が程良く肌を撫でるが、開け放たれた扉の向こうからは湿度と熱気がむわりと窓を曇らせる。とてもではないが外に出たいとは思えない気候だ。
「たいへんだなぁ、三時半から一コマだけだなんて」
「必修授業だけの日って憂鬱だよな」
 店内には客が数人寛いでいたが、それぞれ注文の品は既に出し終えていたので、急ぐこともない。甲洋が時折店内を確認しながらカウンター回りを、一騎はキッチンに下がって皿やコップなどの洗い物を手際よく片付けていった。
 六月は休日が無い上に、天候はほぼ毎日が雨。まさに梅雨前線に直撃された気候で、近年はこの時期に台風が発生して大荒れとなることもある。店内にはラジオやテレビを置いていないのでスマホで天気をチェックするしかないのだが、最近はリアルタイムで天気を実況してくれるアプリやサイトが多いので、ありがたく使わせてもらっている。
 休日が変則的な喫茶楽園は、翌月の休店日を月の終わりに発行するチラシで知らせている。それには翌月の限定メニューや、二人のブレンドについて少しだけコメントを載せていて、かねがね好評だ。時々、ミケの写真も載せている。
 残念なことに外では雨と風が強さを増して、ミケの姿は見当たらない。
「最近いないな、ミケ」
「どこかで雨宿りしてるといいんけど」
「そもそもどこに住んでるんだろうな。結構長い付き合いだけど、この店以外で会ったことないし」
「猫と長い付き合いって……」
 繁盛していると捉えていいのか微妙なところだ、と苦笑する一騎が最後の洗い物を拭き終わったところで、扉がチリンと音を立てて開いた。
「いらっしゃいませ」
 甲洋の声が客を迎える。どこか気安さを含んだものだ。一騎がひょこりと首を伸ばして扉を見遣り、喜色に顔を綻ばせた。
「総士! いらっしゃい!」
「ああ、お邪魔する」
 律儀に外で傘と服の雨粒を払い、丁寧に畳んだ紺色の傘を傘立てに差す。迷いなくカウンターのいつもの席に座った総士は、一騎ブレンドを、と注文をしながらパソコンを取り出した。
「? 珍しいな、持ち帰りか?」
「少しだけ残っていてな。すぐに終わるが。いいか?」
「もちろん」
 すぐに終わるなら終わらせてしまってから来ればよいのに、わざわざ雨が本降りになる前にパソコンを持って店まで来たのだ。甲洋は隣で二人の会話を聞きながら、不器用だよなぁと呆れ交じりの微笑を浮かべる。
 ここ数日、課題が忙しくて会っていないのだと言っていたから、いい加減限界が来たのだろう。総士のための珈琲を淹れ始めた一騎を視界に収め、総士は満足そうに目を細めてからパソコンに視線を移した。
 キーボードを打つ音と、ケトルの中のお湯が沸騰する音。ソファ席では新聞をめくる音に、甲洋が注いだ水の勢いで氷がガラスと接触する音。それらすべての後ろに鳴る雨が窓を叩く音と、用水路の水が流れる音。
 様々な音が溢れ、柔らかに、微睡むように、空間を包む。
 会話は無くとも、心地の良い静けさがこの店には満ちている。
「――おまたせ」
 コトン、と珈琲が総士の前に置かれ、湯気と共に珈琲の香りが鼻孔を擽った。
 持ち手の部分は熱すぎない程度に温まっていて、キーボードを打っていた指の関節を労うように温めてくれる。総士は一口啜って、ふと小さく息を吐くと、パソコンを鞄にしまった。
「あれ、もういいのか?」
「後でやる」
「……? まあ、無理はするなよ?」


 会計を済ませた客が店を出ると、店内には総士一人になった。
 雨の音はさらに激しくなっていて、これは濡れずに帰れそうにないなと甲洋が嘆息していると、珈琲を飲み終わったらしい総士が、店内を見回しながら不思議そうに二人に尋ねた。
「前から気になっていたんだが、この店は音楽を流さないのか?」
「音楽……あまり考えたことはないな」
 窓際のテーブルを片付けながら答えた甲洋がカウンターの向こうの一騎に視線を送ると、一騎も首を横に振った。
「特にどうというわけじゃないが、クラシック音楽などをかけている店も多いからな。そういったことはしないのだな、と思っただけだ」
「俺、クラシックとか聞かないし……」
「右に同じく」
「CDプレイヤーとかあったっけ?」
「無いよ。スピーカーも無いし、そもそも音楽を流すような店の作りにしてないしな」
 考えもしなかった、と顔を見合わせる。煩わしいとか煩いとかではなく、純粋に音楽を流すという発想が無かった。音楽に接する機会そのものが乏しかったこともある。小学校や中学校の授業で音楽をやった記憶はあるが、義務に近い感覚だった。
 当然のことながら、実家にクラシック音楽を聴くような人はいない。史彦や溝口は歌謡曲などを好んで聞いているようだが。
「クラシック音楽なんて何年まともに聞いてないだろ……小学校で昼休みに流れてたのは覚えてるけどさ」
「ああ、あれだよな。モッツァレラみたいな名前の人」
「モーツァルトくらい正しく覚えておけ、一騎」
「覚えてなくても大して困らないだろ」
「常識の範囲内だ」
 大して本気でもないのだろう、総士は呆れを滲ませただけで小言をおさめる。
「堂馬食堂がカラオケを置いたらしいと、剣司に聞いた。それで、ふとこの店はどうなのだろうなと思っただけだ」
 甲洋が、ぽん、と両手を打つ。
「ああ、そんなこと言ってたな」
「立上が、広登の練習に付き合わされてるってこの前愚痴ってたよ」
「練習?」
「アイドルになるための、だって」
 揃って目を丸くした甲洋と総士に、一騎の方がおかしそうに頬を掻く。
「大学卒業して戻ってきたけど、やっぱりアイドルになる夢を叶えたいから上京するって」
「……あいつらしいな」
「小学生の頃からブレないよな、あいつの夢」
「まっすぐで眩しいよ」
 堂馬広登、立上芹。そして二人と同年の双子の姉弟、西尾里奈と暉。四人は一騎たちの一つ歳下で、とても仲が良い。里奈曰く腐れ縁なだけらしいが、何かと四人で集まって旅行やら学校行事やらをやっていた。
 大学も四人揃って上京し、今は暉だけが東京に残って、芹と広登と里奈はこちらに戻ってきている。この様子だと、広登は再び上京しそうだが。
「あそこは食堂で、夜は居酒屋もやっているからカラオケはウケるだろうな」
「広登の父さんとか歌好きそうだよな」
「意外と真壁のおじさんも好きそうだが」
「……」
「一騎、そんな嫌そうな顔して沈黙しなくても」
 顰め面になってしまった一騎の顔には、ありありと「想像できない」と書かれている。総士や甲洋にしてみると違和感はないのだが、身内ならではの感情でもあるのかもしれない。ちなみに、うまいか下手かは別にして、溝口が歌っている姿は特に抵抗なく思い浮かべることができた甲洋であった。
「でも、歌かぁ……借りるなら、咲良の母さんとかなら持ってそうだな」
「羽佐間さんも持ってそうじゃないか?」
「ダウンロードしようという気はないんだな、おまえたち」
「だって、こういう雰囲気に流す良い曲なんて知らないぞ」
「そう言うなら、総士が選んでくれよ」
 僕が、と眉間を寄せた総士が眼鏡のブリッジをくっと持ち上げる。あ、変なスイッチ入ったと甲洋が悟った瞬間には、ぶつぶつと曲名らしい何かを呟き始めた。
「一騎、スイッチ入れるなよ」
「だって総士なら良い曲選んでくれそうだし」
「その絶対の信頼感はいいんだけど、このままだと音楽流すことになる」
「別に俺は、どっちでもいいけど」
「帳簿付ける時に項目が増えるの、いいか?」
「っ……」
 一騎が最も苦手とするところを指摘すると、息を飲んで一騎が拳を握り締める。
 総士の好きにさせたいという葛藤と逡巡に瞳が揺れ、やがてぐっと奥歯を噛みしめると意を決したのか「総士」と彼の肩を掴んだ。
「俺、この店には音楽必要ないと思うから、その、色々考えてくれてるのに、ごめん」
 見てるこちらの身が引き裂かれそうな悲壮感溢れる表情で謝罪を口にした一騎に気圧されたのか、三度ほど瞬いた総士が、こくりと首を縦に振った。
「そ、そうか」
「ほんとに、ごめん」
「いや、そこまで謝るようなことではないが」
「総士は店のこと考えて、色々提案してくれたのに」
「一騎、そう落ち込むな」
 重すぎだろ、という突っ込みは内心に留めながら、甲洋は一騎の後ろ頭をポンポンと叩く。若干引いている総士の両手を握る手が震えていて、演技ではなく本気で申し訳ないと思いやっているのだから、まったく恐ろしい奴だ。
 こんな一騎を前にして、総士が己の提案を無理矢理に貫くことなどするわけがない。
「まあまあ一騎、音楽が無くても、総士はこの店に来てくれるんだから」
 慰めなんだかよくわからないフォローをする甲洋に、総士も焦りを露にして一騎のために言葉を重ねた。
「そうだ一騎、僕はこの店でおまえに会えるのを楽しみにしているんだ。むしろおまえに気を遣わせるような提案をしてしまいすまない」
「総士が謝るようなことじゃないだろ、俺が」
「ほら、ストップ!」
 二人の間で両手を鳴らす。すぐに二人の世界に入ってしまうのだから、引き戻すのはだいたい甲洋か剣司の役割だ。
「この話は終わり。音楽については、気が向いた時に相談させてもらうさ」
 甲洋らしい執り成しだなと総士は頷き、一騎はしょんぼりと肩を落としながらも従った。
 音楽を流す、というのは悪い案ではない。甲洋だって、どちらかと言えば乗り気だ。今はその存在をほとんど残していないが、レコードの音色が店に流れていたらお洒落で格好いい。
 だが、それはもう少し後でいい。
「この店、結構いろんな音がするだろ? 俺、結構好きなんだ」
「いろんな、音」
「例えば、今日みたいな雨の日の雨音とか。夏は海風に乗って、波の音が聞こえたりもするだろう?」
「……ああ、確かに」
「それを言うなら、僕も、おまえたちが珈琲ミルを挽く音は好きだな」
「そうなのか?」
「ああ」
「そっか」
 そうか、と呟く一騎は、己の珈琲が詰まった缶を見つめ、思いを込めるように己の胸に手を当てた。
 総士が喜ぶことを、と一騎は己に言い聞かせている。総士が好きだと、いつも全身で表す彼にとって、自然なこととして。
「なら、この店に音楽はいらないかな」
 極端ではあったが、一応一騎の中で決着がついたらしい。
 眉を下げ、どこか情けなさと庇護欲を感じさせる笑みに崩れた一騎の頬を、総士の右手が包む。そのまま猫のようにじゃれる二人に、誰もいないからいいけどさ、と嘆息した甲洋は、飲み終わった珈琲カップを手にキッチンに退散することにした。