ヒラエスと杖を持つ人
春日井甲洋が『いない人』になったあの日は、初めて彼女と手を繋いだ日だった。
彼女は毎日自宅の窓辺から空を見上げているような生活で、学校も時々しか通学できなかったけれど、とても頭が良くて学内でも一、二を争う秀才だった。
身体が弱い彼女を背負うのは、幼馴染たちの中で一番力持ちの一騎の役目。あの日は梅雨の中休みで朝から珍しくからりと晴れていた。甲洋と、一騎と、衛と翔子。家が近かった四人は揃って丘の上の大木を目指した。そこが、総士たちとの待ち合わせ場所だ。
その日、彼女は背負われるのではなく一騎の隣を歩きたいと乞うた。けれど一騎の両手は大きな荷物で塞がっていて、彼女の歩くペースを考えると助けが必要だったから、ちょうどその場にいた衛が甲洋と手を繋げばいいと助け舟を出した。
荷物を甲洋が持って一騎が手を引いても良かったのに、彼女も一騎もなんの疑念もなく衛の案を受け入れて、一騎が持つ荷物の半分を衛が、一騎の隣を彼女が、彼女の手を甲洋が導き、四人で並んで歩いた。とても、幸せな時間だった。
衛は、甲洋が彼女に想いを寄せていることに気付いている数少ない友人のひとりで、狼狽える甲洋に向かって密かにチャンスをくれた。いや、チャンスなんて大層なものじゃないけれど、一騎を好きだと全身で訴える彼女の恋心を折ってまで自分に振り向いてほしいなんて言えなかった甲洋には、唐突で困惑ばかりの、でも逃したくないほんの些細な触れ合いだった。
初めて触れた彼女の手は、細くて柔らかくて、本当に物を掴めるのか不安になるくらい華奢だった。儚いという言葉がそのまま形を成したような子で、夏の日差しに溶けてしまいそうな透明感が甲洋の手に力を込めるのを躊躇わせた。
しかし彼女は存外呆気なく甲洋の手を握り返して、「春日井くん、ごめんね」と申し訳なさそうに顔を伏せた。気を遣わせたとか、足でまといになっているだとか、そんなことを考えている顔だ。決してそんなことはないのに。彼女の身体が弱いのは彼女のせいじゃないのに。
いいんだよ、とか、謝らないで、と慰めるのは簡単だ。甲洋に好きだと告白してくる女の子は皆、そんな甘い言葉を望んでくる。断っても断っても、だったら最後に優しい言葉をちょうだいと涙ながらに頼む。
彼女は違う。弱いことを是としない。か弱い見た目に反して芯の強い心をもつ子だと、甲洋は知っていた。そんな彼女に、惹かれたのだから。
一騎を慕う彼女を傍らで見守るのは、正直に言えば苦しかった。自分だけを見て欲しいと、ドロドロとした独占欲に引き摺りこまれないようにするので精一杯で、一騎への嫉妬はいつも腹の底に無理矢理沈めていた。
それでも、一騎のことだって甲洋は大切な友人だと思っていた。大切な友人と、大切にしたい人。天秤の両極で測ってみても優劣などなくて、淡い恋心と友人との時間は常に対等でかけがえのないものとして甲洋に刻み込まれている。
この矛盾に塗れた甲洋の内面が、あるいは不変への安堵に繋がっていたのかもしれない。
『翔子、あと少しだよ』
丘の上の大木を視界に捉え、甲洋は彼女に声をかけた。既に肩で息をしていた彼女が辿り着くのは難しいのではと懸念し始めた頃で、一騎や衛も心配そうに二人を振り返ってペースを落とした。
無理そうなら、彼女には悪いけれど、やはり一騎が背負った方が彼女自身の負担は少ない。せっかく遊びに行くのに、その前に体力が尽きてしまっては辛いのは彼女だ。
『翔子、一騎に――』
握る手に力を込めた時、ふと、金色に輝く何かが視界を覆った。
布のような、幕のような、ゆらゆらと揺れる巨大なカーテンが空から降ってきた。青空を突き破り、最初に衛と一騎を羽衣のごとく包み込み、攫った。硬直する甲洋と翔子の眼前で二人の姿は忽然と消え失せ、まるで二人がそこにいなかったかのような静けさが奇妙な耳鳴りとなって甲洋を襲った。
恐怖なのか、畏怖なのか――憧憬か。
金色の世界の向こうには、暗闇が広がっている。甲洋はようやく、己もあの金色の幕に攫われたのだと認識した。
繋いでいた手の温もりは消え、代わりに両の手首から指先までを生温かな何かに嵌め込んだような違和感があった。その何かに繋ぎ止められ、身体の自由が効かない。
黒と白が目まぐるしく反転する世界を見せつけられ、甲洋は識ることを余儀なくされた。ここは、『いない人』の世界なのだと。
それでも、春日井くん、と耳が拾った掠れた声は、最後の抵抗だったのかもしれない。より奥深くへ。為す術もなく甲洋を魂の辿り着く場所へと引き摺り込もうとした何かに、彼女の声が導となって大樹の根本へと留めた。
翡翠の大木――堅牢な城の一部。あの場所に繋がる、破片の集合体。
声なき声が甲洋に告げる。
――共に帰ろう、共に還ろう
心地の良い声はそよ風のように甲洋の頬を撫で、髪を揺らし、大木へと舞い上がる。葉を躍らせ、翡翠の輝きが再び土へと降り注ぐ。
生命の循環の縮図そのものだ。生から死に、そして生へ。大木という形に秘められた、永遠の輪廻。
為すがままに微睡む意識に、一際強く語り掛ける声があった。
『甲洋、おまえはまだだ』
誰の声だろうと沸いた疑問の答えは、すぐにでた。
皆城総士の、厳しくも明朗な意志を感じる、声だ。
『おまえはまだ、そちらに行ってはいけない』
――なんで、おまえがそんなことを
『僕の手を掴め、甲洋』
生憎、甲洋は一騎のように、総士に対して盲目的にはなれない。いや、盲目ではなく、盲信だろうか。一騎の在り方は当たり前のように皆城総士が根幹にあって、甲洋には到底理解できない二人だけの価値観が存在していた。
総士の声は、しかし己の手を取らないという選択肢を想定していないかのような、当然だといわんばかりの傲慢さがあった。手を掴む以外の何があると彼は断じていた。
なぜ自分なのか、と思わなかったわけじゃない。彼の言葉に抗うことだってきっとできたんだろう。伸ばされた手を振り払い、大木の下で生命の循環を見守り続けていたら、そのまま『いない人』でいたのかもしれない。
だが甲洋は己の意志とは関係なく、現実に引き戻された。ずしりと重みを増した身体が大樹の根本に押し付けられるような圧迫感の後、視界に色が戻った。輝きに満ちた黒と白の世界ではなく、少しくすんだ家具と天井、そして青空とカーテンの白の世界に。
枕元にはなぜか皆城総士の妹である皆城乙姫が立っていて、おかえり、と声をかけられた。後から聞いた話だと部屋は皆城家が所有する敷地の病室だったらしく、同室の向かいには一騎が横になっていて、これまた何故か総士の姪の皆城織姫が彼の傍らに座っていた。
一騎と甲洋だけが『いる人』となり、衛と翔子は『いない人』となったこと。告げられた事実を最初は受け入れることなど到底できず、総士に詰め寄った。総士がそうしたわけじゃないのに、彼のせいではないのかと。
総士は甲洋の身勝手な詰りに一切反論せず、ただ一言、すまない、とだけ呟いた。彼の中に渦巻く感情をすべて押し殺したような声に、甲洋はそれ以上総士を責めることなどできず、項垂れることしかできなかった。
悲しいのか、苦しいのか、寂しいのか。大切な人がいなくなってしまった事実は、負の感情ばかりを齎し、両親が甲洋を捨て雲隠れしてしまったことも相まって、甲洋は酷く無気力になった。
後見人となってくれた溝口には当たり散らして、人当たりの良い外面はすべて剥ぎ取って、冷たい眼差しを湛える甲洋を、なお愚かにも信じ続けていたのは一騎だけだ。翔子を失った甲洋の心情に寄り添ってくれるほど聡くもないのに、一騎が隣にいることで苛立ちと安堵の両極端な感情に振り回される。
これ以上繕うのは、正直に言えば、面倒だったのだ。
『――一騎、おまえ、なんなんだよ』
どんな答えが返ってきたところで、己に響くものなどないと思っていた。どうでも良かったのだから。純粋に、甲洋と同じ経験をして『いる人』に還ってきた一騎が今の自分をどう認識しているのか、知りたかっただけだ。
一騎は、たいして動きもしない表情筋を僅かに歪め、小さく吐息を漏らし、薄く唇を開いた。
『俺は、俺だ』
ぐさりと刺さる。
まっすぐな、普段の彼らしからぬ意志の強い瞳が。
『甲洋は、甲洋だろ』
――侮っていたのだと、甲洋は恥じた。
一人で粋がった餓鬼のような恥ずかしさと、一騎の中に秘められていた物事を受け入れる強さは、甲洋が知る真壁一騎を打ち壊した。彼は彼であり、そんな当たり前のことすら目を覚ます光となって甲洋を撃つ。当たり前だからこそ、当たり前ではない、当たり前。
それから、すぐのことだった。
この世界には『いない人』がいるのだと気付いたのは。
「――春日井くん?」
鈴のような声音に呼びかけられ、甲洋はふと意識を起こした。
細く青白い手が白いカップの取っ手を摘まみ、ソーサーの縁に軽い金属音を響かせる。彼女の前に置かれたカップは既に空で、かなり長い間物思いに更けていたのだと甲洋は息を飲んだ。
「あ……ごめん」
「大丈夫? 疲れてるのなら、私……」
「そんなことない! ちょっと昔のことを思い出してただけなんだ」
長い黒髪を清らかに靡かせた彼女――羽佐間翔子は、心配げな様子を隠すことなく甲洋の顔色を伺う。カウンター越しとはいえ、少し近付くだけで心臓が激しく脈打つのが煩わしい。
甘く胸を締め付けるような彼女の風貌を、今だけ甲洋が独占していた。舞い上がるよりも彼女をもてなしてあげたいとか、たとえ会話がなくても一緒の時間を過ごせればいいとか、そんなことを願う自分は、彼女が『いる人』だった時に比べて随分欲が浅くなったと思う。
翔子は、一騎がここに居る方が良かったと思っているのかもしれない。
それでも身勝手な己の願望は、一騎ではなく自分ひとりの時間に翔子が訪れてくれたことを嬉しく感じていた。
「一騎くん、今日は病院なんだね」
「あ、ああ」
考えていることを覗かれたかのように名前が出て、甲洋はドキリとする。だが翔子は、甲洋の動揺に気付くことなく棚に備えられた一騎の珈琲に目を細めた。
「会いたかったけど、しかたがないよね。一騎くんも忙しいし」
「……羽佐間が会いたがってたって言っとくよ」
「本当? ありがとう、春日井くん」
花が咲くように笑顔になる翔子に、ああやっぱり彼女は笑っている方がいいなぁと鼻の奥がツンとした。甲洋では与えることができない、心からの笑み。同時に胸が苦しくなる。
珈琲なんて飲めなかったのに、一騎が淹れるからという理由だけで飲めるようになりたいと、些細な願いを口にしたのは甲洋の前でだった。甲洋が淹れる珈琲は一騎のものよりも濃く、苦みが強い。だから翔子の嗜好に合わせて、苦みを抑え、酸味をマイルドにして、彼女のためのブレンドを考えた。彼女の笑顔が見たいから。理由なんてそれだけだ。
甲洋ブレンドとは別に用意された、翔子のためのブレンド。その意味を、当の本人も、一騎も、知りはしない。
甲洋のささやかな恋は、小さな心の箱の中で完結している。
「ねえ、春日井くん。真矢や咲良は元気?」
「ああ、相変わらずだよ。遠見はあんまりこっちに帰ってこれないけど、仕事頑張ってるって」
「無理はしないでって言っておいてね。真矢、張り切るとすぐ頑張り過ぎちゃうから」
「うん、伝えておくよ」
翔子は、いつもこうして友人の近況を甲洋に聞きたがる。一騎と一緒だと、逆に緊張してたくさん話せなくなってしまうのだと、いつだったか言っていた。
好きな人の前では気丈に、強く在りたいのだと、翔子は自分に言い聞かせているようだった。一騎への憧憬は、か弱いだけの少女のものではない。一人の女性として、眩しく、尊い。
「……本当はね、ちょっと寂しいの。お母さんや、真矢たちに会えないこと」
故に、翔子が甲洋にだけ見せる、この儚さと弱さを愛おしく想う。守ってあげたい、大切な人。結局、甲洋の独りよがりではあるけれど。
「でもね。一騎くんが、私だけを見てくれる時間があるのが、嬉しいの」
「……そっか」
「酷いよね、私」
「酷くない」
甲洋は知っている。彼女のその想いは、『いない人』となって久しい彼女にとって、縁のようなものであることを。決して戻ることのできない、当たり前の日常を送るこの場所に、彼女が留まることができている理由の一つであることを。
いうなれば己の方が、よっぽど酷い奴だ。
今、この時間を――一騎ではなく、己が翔子を独占しているということを、喜んでいるのだから。
「酷くないよ」
いくらだって、彼女のために優しい言葉をかけられる。本心から、彼女を想う言葉を。
「ありがとう、春日井くん」
僅かに首を傾げ微笑む、大切な人。細い指が長い髪を耳にかけ、重力に従って毛先が揺れる。
何気ない仕草に、甲洋は堪らない気持ちになった。切なそうに目を細める彼女を見ていられなくて、そんな顔をしてほしくなくて。
いつだって笑っていて、ほしくて。
「春日井くんが――」
「あ、あの!」
甲洋が語勢を強め、僅かにカウンターから身を乗り出す。遮られた翔子は驚きに目を丸くして、胸の前で手をきゅっと握り締めた。
ずっと言いたかったこと……それこそ、なぜ今更と己でも不思議に思うことが、喉をついてでてきた。
「苗字じゃなくて、名前で。名前、俺も、下の名前で呼んでよ」
本当に今更だ。たぶん傍から聞いたらどうでも良いような些細なことで、けれどずっと言い出せずにいた。もう『いない人』だというのに、甲洋や一騎と同じように年齢を重ねていく翔子の姿を見守りながら、いつかはと願って。
「……甲洋くん」
これでいい? と翔子が先程とは反対の方向に首を傾げる。少し肩を竦めて、恥ずかしそうに、笑みを刻んで。
彼女が紡ぐ己の名前は、まるで別物のように聞こえた。
ずっと今まで、変わらずこの場所に存在していたのに、呆気なく風が攫ってしまったかのように、真新しい音色となって甲洋の耳に届く。
帰らぬ場所を想い、帰れぬ場所に留まり、いなくなってからも甲洋を此処に繋ぎ止めるのだ。
「私ね……甲洋くんが私のこと見てくれてるの、すごく安心する」
伸ばされた両手が、カウンターの上で固く握りしめられていた甲洋のそれを、優しく包む。
「羽佐間……」
「いつも私のこと気にしてくれて、見ていてくれて、ありがとう」
目の前が明るく弾けたような錯覚に、甲洋は顔を俯かせた。あまりに眩しくて、思いもよらない告白に、心の中が掻き乱れる。嬉しいはずなのに素直に受け取れない彼女の言葉は、きっと、甲洋にとってどうしようもなく有り得ないことだと思っていたからだ。
翔子が、一騎以外の存在を意識しているなんて。
違うからこそ己を見て欲しいという矛盾した欲求を抱いていたのに、それが現実となってしまうことなど想像もしていなかった。
「甲洋くん。私のことも、翔子って呼んで?」
「え……」
「不思議だね。もう長い間、こうやってお話してるのに」
視線を落とした先で、甲洋の手にはまだ翔子の手が覆い被さっていた。
暖かい手。『いない人』だなんて誰が信じるだろう。甲洋は翔子の手を取ると、ゆっくりと顔を上げて、穏やかに微笑む彼女を見つめた。
恋心よりも柔らかくて、守りたいという想いよりも苦しい感情を、甲洋はこの時、初めて知った。
「翔子」
綺麗な名前だ。空へ羽ばたき、限りなく自由に駆けることができながら、帰り道も知っている。甲洋が焦がれてやまない、少女。
触れた指先を、掌で包み込んだ。
「翔子」
――好きだよ、という想いは、きっと一生、胸の中にしまったまま。
「甲洋くん」
このひとときが、何度だって続けばいいのにと、願った。