モーンガータの夜

 六月の雨が用水路の嵩を常の半分以上に押し上げている午後五時の三十分前。閉店の時間が迫る中、今日は珍しく客が捌けて店内には一騎一人だ。
 甲洋は定期検診で病院、零央は大学で研究や課題に取り組んでいる。
 こういう日は、決して珍しくない。そもそも零央のアルバイトは週三回で、最近は土日にも入ることがあるけれど、不規則な店番だ。本業の学生生活を全力でやること、というのを条件にアルバイトをお願いしていた。
 喫茶楽園のデザートは零央のレシピに基づいているが、実のところ、当初の予定では作り手を彼の父に依頼していた。本職のパティシエである零央の父は、その侍のような風貌からは想像もできないほど繊細なデコレーションを施したケーキを作る。味はもちろん美味しいの一言だ。祝い事のケーキといえば、この地域の誰しもが一度は御門屋に世話になっていると言っても過言ではない。
 ただ、御門屋で販売するケーキの他に、喫茶楽園のためにわざわざプチデザートを卸してもらうのだ。そう頻繁には頼めないし、売上から考えても初めからは難しいだろうな、と考えていたところに名乗りを上げたのが、零央だった。
 零央自身はパティシエを目指しているわけではないそうだが、父の影響から菓子作りが幼い頃から身近にあった彼はその血をしっかりと受け継いでいた。大学に入ってバイト先を探していた矢先、知り合いの店ならばと推したのは彼の父で、せっかくなら接客もと話が進み、今や喫茶楽園にいなくてはならない従業員の一人になっている。
 今日のように、朝から大学の講義があれば零央の父がケーキを作り、一騎か甲洋が受け取りに行く。朝から雨が降りやまなかったこともあり、病院の前に甲洋が車を出してくれた。ちなみに、一騎は原付の免許は取っているが、車の免許はまだだ。
 窓から外を伺うと、しとしとと雨が店前の水溜まりをさらに広げている。用水路の付近に、ミケの姿はない。どこかで雨宿りをしてくれればいいが。この雨では、濡れたら風邪を引いてしまうだろう。
 見上げた先の灰色雲は、窓に打ち付ける雨粒で滲んで溶けた絵の具のようだ。雨はしばらくやみそうにない。
 一騎は再び店の奥に戻ると、ざあざあと木霊する音色をぼんやりと聞きながらカウンターに腰かけた。

 甲洋の定期検診は一騎が通うものと同じで、月に一度、簡易の問診と血液検査が行われている。異常値が示されたことはないが、必ず行けと鬼の形相をした親友兼恋人や世話好きな友人が口を酸っぱくして言ってくるので、欠かしたことは無い……忘れたことはあるけれど。
 甲洋とはまた違った形で大切な親友、皆城総士は、今日も大学院で忙しく研究に没頭しているんだろう。
 寝食を忘れるほど不真面目ではないが店に寄る時間もないらしく、律儀に「今日は行けない」というラインが送られてきていたのを思い出す。総士とのやり取りはいつもそんな感じだ。
 いつだったか、絵文字もスタンプもない、軍人会話のようなやりとりを繰り広げるラインの画面を覗き見た咲良と真矢は、あからさまに嫌そうな顔をしていた。だから皆城くんはモテないんだよ、と辛辣な評価をしていたが、何故ラインの会話とモテるモテないが関係してくるのか、一騎には理解の範囲外だ。
 スマホに浮かび上がるメッセージをぼんやりと眺めながらスクロールを繰り返す。本気で読んでいるわけではなく、文字の羅列は眠気を誘う霧のようなもの。すなわち暇つぶしであり、客のいない喫茶店ほど暇なものはないなとテーブルに頭を預ける。頬に触れる木の感触と冷たさに大きな欠伸が出てしまいそうだった。
 この雨と時間では、もう客が来ることもないだろう。あと半刻もすれば閉店時間であるし、早めに店を閉めてしまってもいいかもしれない。余ってしまった珈琲豆は真空パックに詰めて保管筒に入れ、明日の仕入れを考えなければ。その前に明日の天気と、在庫を確認しなくてはいけない。
 いつもは甲洋に丸投げしている、こうした経営面での彼是や作業が大の苦手である一騎は、しかし任されている以上やらなければならないことは理解しているので、重い腰を上げざるを得ない。ただ、帳簿の数字を見るのもできれば遠慮願いたいところだ。
 滑らかな縁を指先でなぞり、真っ暗に消灯した画面を無意味にタップする。ひんやりとしていたはずの机は一騎の体温と馴染み、湿気と合わさって心地が良いとは言えない。
 暇だな、と何度目になるかわからない、どうでもいいことを思った。


 ふと窓の外に人影が浮かび上がった。
 歩いてきたにしては唐突なタイミングで、足元から姿を現したかのような影の主は、赤色の傘を指して店の軒先に立っている。窓に背を向けているせいで顔はわからないけれど、一騎はその傘に見覚えがあった。
 ざあざあと降り止まぬ雨に、その人は濡れることはないのだけれど、傘はお気に入りなのだと前に言っていたから、今日も持ってきたのだろう。
 一騎はエプロンを軽く手で叩いて伸ばし、店の扉を開けその人に声をかけた。
「……入るか?」
 一騎の声に、その人――傘をさした女性は、ハッと驚きを顕にした後、雨の憂鬱を吹き飛ばすような明るい笑顔を咲かせた。ほんのりと朱に染まった頬は、照れているのだろうか、視線も一騎と眼下の海とを行ったり来たりしている。
 肩のあたりで左右に跳ねた夕焼け色の髪が特徴的な女性は、傘を畳むとゆっくりと頷いた。
「すまない、今日も迷ってしまって」
「雨が止むまで休んでけばいいさ」
「ありがとう」
 濡れていない傘を傘立てにしまい、女性は少しばかり落ち着かない雰囲気で店の中に入った。それでも店の中を歩いてカウンター席に向かう足取りに迷いはない。
 一騎は店の前に掲げた看板を『閉店中』に変えて、早速キッチンへ向かう。
「久しぶり、カノン。今日は、何にするんだ?」
 カノンと呼ばれた女性は、いつものを、とちょっぴり得意げに言うものだから、一騎もなんだか面白くなって「仰せのままに」と椅子を引いてあげた。真っ赤になったカノンに、今度は笑いを堪えきれず小さく吹き出す。
 彼女は、カノン・メンフィス。
 一騎と甲洋にしか見えない、もうこの世界には『いない人』だ。

 喫茶楽園には、もういない人たちがやってくる日がある。それは一騎と甲洋の親友であったり、甲洋の想い人であったり、あるいはまったく知らない人が辿り着くこともある。
 理由はわからないけれど、原因は識っている。
 十五年前。一騎と甲洋がまだ十歳の時、二人は一緒に遊んでいた友人と共に、生と死の境を越える出来事に巻き込まれ、『いない人』になった。けれど、一騎と甲洋は再び『いる人』になれた。
 真っ白で真っ黒な、瞬きひとつで反転する目まぐるしい世界。透明な結晶が集まった樹のような場所の根元に寄り掛かり、ありとあらゆる思考を奪われ、ただただ微睡の中にいたのを、覚えている。
 幼心にも、自分は『死んだ』のだと疑わなかった。怖いとか、辛いとか、そんな感情は無くて、父さんはちゃんとご飯が食べられるだろうかとか、総士に会えないのは寂しいな、とか。ひとつずつ残念なことや心配なことを数えて、ゆっくりと沈んでいく意識に身を委ねていたら、気が付くと総士の顔が目の前にあった。
『――一騎。ここに、いるな』
 その時の彼の表情を、一騎は今でも言葉にできない。
 泣きそうな顔、ではない。安心したのとも違う。怒っているのでもない。例えるなら、海のように深い水の底から両手で掬い上げた砂粒を、流れに逆らってようやく陸に運べたような。何か途方もない術をもって一騎たちを助けてくれたような、そんな気がした。
 結局、なぜ一騎と甲洋だけが『いない人』にならずに済んだのかはわからないけれど、その時失ってしまった友人は時折この店を訪れ、他愛もない話をして、どこかへ帰っていく。
 それは、小楯衛であり。甲洋の想い人――羽佐間翔子でもあった。

「何か食べるか?」
「今月のランチメニューは」
「ローストビーフのサンドイッチ。あ、ケーキは売り切れてるんだ」
「……悪いな、お金なんて払えないのに」
「食材が余る方が困るから、いいよ。それにカノン、いつも美味そうに食べてくれるだろ?」
「それは……一騎が作るものが、おいしいから……」
「ん、なんか言ったか?」
「いっ、いや、なんでもない!」
 最後の方が聞きとれず、振り向いた一騎にカノンは慌てて首を振った。そうかと特に気に留めずキッチンに戻ってしまう後ろ姿に、ほっと胸を撫で下ろしているのも知らず、一騎はパンを取り出して切れ込みを入れていく。既にできあがっているローストビーフを、チーズや玉葱、レタスと一緒に挟むだけのシンプルなものなので、手間はさほどかからない。パンをトースターにセットしタイマーを入れ、冷蔵庫からはカノンの『いつもの』を取り出した。
 カノンは、この店を始めて一年程した時、七人目の彷徨い人(おきゃくさま)としてこの店を訪れた。
 今日のように、一騎がひとり店番をしているタイミングで、傘を差して所在なさげに店の前をうろついていたのを引き留めたのがきっかけだ。
 当時はまだ『いない人』になったばかりで、一騎や甲洋にだけ己の姿を見つけてもらえることにひどく狼狽していたが、少しずつ現状を受け入れ始めたのか今ではすっかり店の常連になった。
 カノンの生まれ故郷はヨーロッパらしく、日本のこんな田舎とは縁がないはずだ。それなのに、カノンは此処を訪れる。この場所に縁でもあるのか、当の本人にも覚えはないそうだけれど、この場所に来るとなぜだか懐かしい気持ちになるのだそうだ。
 もしかすると、魂が帰る場所なのかもしれない。生まれ故郷とは違う、己が帰りたいと思う場所。それがこの場所なのだろうなと一騎は密かに感じていた。
「はい、ローストビーフのサンドイッチと……」
 青い皿に乗せたサンドイッチの脇に喫茶楽園のロゴを印刷したコースターを敷いて、グラスを置いた。しゅわしゅわと炭酸が弾け、バニラアイスがゆっくりと氷と共に上下する、メロンフロート。カノンが必ず注文する、『いつもの』。
「ちょっとだけアイス多めにした」
「あ、ありがとう」
「ゆっくり食べろよ」
 食事を前に目を輝かせる彼女を、一騎は素直に可愛らしいと思う。小動物のような幼さと細さの反面、力強い意志を宿す瞳はまっすぐで眩しい。彼女が好む、このメロンソーダのように、ぱちぱちと淡い光の粒が彼女の周囲に舞っている。
「カノンはさ、なんでメロンフロートが好きなんだ?」
 ぱちりと瞬く。思いもよらない質問だと顔に書いてあった。こういう顔に出やすい素直なところは、とても彼女らしい――どうしてそう思えるのか、納得できるのか、不思議ではあるけれど。
「あまり、考えたことはないが……」
 頬張っていたサンドイッチを皿に置いて、カノンがメロンフロートをじっと見つめる。赤い瞳に、緑の輝きが写り込む。
「懐かしい気持ちや、優しい気持ちになれるんだ。炭酸が口の中で弾ける度に、此処に帰ってきたんだなと感じる」
「帰ってきた……?」
「うまく言えないんだが、そんな気持ちになるんだ」
 おかしいな、と笑う彼女に、一騎は己も似たような気持ちを抱いているのだと告げるべきか迷い、結局「そうか」とだけ呟いて窓の外に視線を遣った。
 雨脚が弱まり、コンクリートに跳ねる雫に先程のような勢いはない。窓ガラスに映る自身の瞳が赤く濁っていることを視認して、一騎は瞼を伏せた。この色は、総士があまり好まない色だった。『いない人』と『いる人』の境を彷徨う人がもつ、赤い瞳は。
 今この瞬間、この店の中は外の世界との境界が曖昧になっている。雨が降り、訪れたカノンの存在が、やがて元の場所に帰るまで。
 一騎にも、甲洋にも、きっとカノンとは別の、でも同じ帰る場所があるのだろう。『いない人』に触れることで、その場所へと続く道が普段より少しだけ近くなって、二人を誘うのだ。こっちだよ、と。
「雨、やみそうだな」
 いつの間にか空になった皿と、半分に減ったメロンフロート。カノンの視線も窓の外に向いて、明るさを取り戻しつつある灰色の空に目を細めた。
 雨がやむ。それは、合図だ。
「今日は、短いな」
「うん」
「美味しかったよ、一騎。ご馳走様」
「良かった」
 カノンの声には、喜びと切なさ。アイスが溶けて、緑と混ざり合って、透明な泡が沈んでいく。ぱちぱちと弾けていた輝きが、雨の音ともに消えていく。
「ま、また来ても! いいだろう、か!」
 カウンターに両手をついて立ち上がり、突然意気込んだカノンが上擦った声で一騎に詰め寄った。驚きに固まった一騎との間に流れる沈黙は十秒、カウンターの距離の分だけ伸ばされた腕が、一騎の手を掴む。
 じんわりと温もりが伝わる。冷えたカウンターとも、生温く馴染んだ体温とも異なる、人の温度。カノンが『いない人』でありながら、今この瞬間はこの場所に居るという証。
 帰ってくる、とカノンは言う。
 衛も、翔子も、この店に来ると必ず「帰ってきた」のだと。
 他のどの場所でも、そうは思わないのだと。この店の、この空間の、一騎や甲洋がいる狭い店内が、彷徨う彼女たちの一つの寄る辺であるということ。
 そこに、一騎が感じる懐かしさの意味が、理由が、あるのかもしれない。
「……ああ」
 一騎も、カノンの手を握り返す。柔らかな、でも存外しっかりとした両手。カノンの、体温。
「なら今度来た時は、おかえりって言うよ」
「……っ」
「だからカノンも、ただいまって言ってほしい」
「いい、のか」
 ゆっくりと頷けば、カノンは感極まったように瞳を揺らして、ああ、と涙交じりの肯定を返した。掴んでいた両手は、震えていた。

 雨が上がる。
 のっそりと店の軒先から姿を現したミケが、用水路を飛び越えて店の前の鏡越しにじっとカノンと一騎を見つめていた。
「もう、行かなきゃいけない」
 カノンが顔を上げて、僅かに目尻に残った涙の痕を拭い、笑った。綺麗な、笑顔だった。
 メロンフロートの残りを啜って、ナプキンで口を拭き、店を後にする彼女のために扉を開ける。空は雲が切れ、月明りが海を照らしていた。
「それじゃあ、また」
 赤い傘を手に、カノンが店の扉を潜る。透けていく姿に、一騎は元の色に戻りつつある瞳を細め、口元を綻ばせた。
「ああ、またのお越しを――行ってらっしゃい、カノン」
 振り向いた彼女の表情はわからないまま、夜の闇に溶けるように、カノンは再び『いない人』の世界へと戻っていった。