マスターと珈琲ミル

 カウンターの向こう、湯が沸いたことを告げるケトルは控えめに音色を奏で、日差しと相まって目を閉じればすぐにでも睡魔が意識を攫いそうな午後のひととき。
 最も混み合う時間を過ぎれば、店は長居を目的とした客がぽつりぽつりと足を運ぶだけで比較的余裕ができる。
 一応はアルバイト、という名目の下、喫茶楽園を手伝ってくれている零央に、遅めの昼食が振る舞われた。ランチと同じメニューではあるが、パスタにカレーにと選択肢は豊富だ。
 今日はオムライスがいいです、とメニューから顔を上げた働き者の後輩のために、了解、と頷いた甲洋はさっそく冷蔵庫から必要な具材を取り出した。卵二個、ケチャップ、あらかじめ刻んである野菜とウィンナー、固めに炊いた白米という、凝ったところなど無い素朴でオーソドックスなオムライスではあるが、これが意外と人気メニューなのだ。
「零央、カウンター座ってていいぞ」
「あっ、はい。あの、一騎さんの珈琲って余ってますか?」
「あると思う……けど」
「じゃ、じゃあ俺、淹れてみてもいいですか!」
「いいよ。ほら」
 憧れの一騎が淹れる珈琲を好んで飲んでいる零央は、一騎の許しを得ると子犬のように目を輝かせて隣に並んだ。
 ケトルから湯が注がれ、セットされたペーパーフィルターに埋もれる焦げ茶色の粉がブクブクと泡立つ。豆が呼吸しているのは新鮮な証拠だ。途端に広がる香ばしい匂いに甲洋は笑みを浮かべると、オムライスに取り掛かるべくコンロの火を入れた。
「零央、ちょっと早い。それだと薄くなる」
「すみません。これくらいですか?」
「ああ……うん、いいな」
 湯を入れる速度の話だろうか。おおざっぱなところは限りなくおおざっぱだが、凝るところはやたらと凝り性のこだわりが発揮されているようだ。
 普段から繊細な菓子を作っていることもあり、零央はかなり器用な部類に入る。そして己の決めたことには一切妥協せず取り組む姿勢と相まって、認めた相手の言うことは素直に聞き入れて己のものにしていくのだ。一騎は、師のような存在に近い。
 甲洋は、さっと炒めた野菜と米を一度火から上げて、溶き卵をフライパンに流し込んだ。最初は強火、すぐに弱火へと変えて、卵の表面が焦げないように箸で軽く混ぜる。端を摘み卵の硬さを確認しつつ、炒めたご飯を中央より少し左寄りの位置で山盛りにした。
 ここが腕の見せ所。ヘラを使って、米を乗せたのとは反対側の卵をめくりあげると、手首のスナップを効かせてクルリとご飯を包み込む。きつね色とまではいかないが、軽く焦げ目のついた卵は裂けることなく俵の形に収まって、するりとフライパンから皿の上へと盛り付けられた。うん、美味しそうにできたなと甲洋は満足気に自画自賛する。
「零央、できた」
「あ、はい! ありがとうございます」
 ちょうど珈琲講義も終わったところなのか、カップ一杯の珈琲を手にカウンターに座った零央の前にオムライスの皿を置く。ほかほかと湯気の上がる出来立てオムライスが金色に輝いて、零央の瞳もまた期待に瞬いた。
「いただきます」
「召し上がれ」
 オムライスを頬張る零央を眺めていると、なにやら隣でペーパーをドリッパーにセットし直していた一騎が眉を顰める。何か不都合でもあったのだろうかと目を配ると、どうやら今朝挽いていた珈琲がもう無くなる寸前のようであった。
 充分に挽いたつもりだっただろうが、今日は朝から一騎ブレンドの注文が多い。いつもならアフタヌーンティーの直前に挽いて足しているのだが、余裕があるうちにやってしまった方がいいだろう。
「一騎、ホールは俺がやるから、豆挽いときなよ」
「悪い、そうする」
 ミルは自動だが、放っておくと粉が飛び散ったり、目詰まりを起こしてしまうことがあるので、挽いている時は必ず誰かが確認していなければいけない。
 一騎は棚から自分の名前が書かれたラベルの缶を取り出すと、豆をミルの投入口に流し込んだ。ざあざあと水が石を打つような音色と共に、ツンと強い焙煎豆の香りが立ち込める。静かな空間に、ミルが豆を細かな粒子へと砕く音が響き、店内で珈琲を飲んでいた客がちらりと一騎に視線を送った。すぐに手元の新聞へと視線を戻したが、挽き立ての豆でおかわりを頼もうとでも考えたのかもしれない。
 そこに、来客を告げる鈴が鳴った。まだ用水路の脇に居るらしいミケに声をかけながら、馴染みの顔が二つ、扉を潜る。
「よっ、席空いてるな」
「いらっしゃい、保さんと……イアンさんも」
 甲洋の呼びかけに片手をあげて応え、カウンター席に並んで座る。ちょうど隣でオムライスを綺麗に平らげた零央が、「こんにちは」と頭を下げた。エプロンをしていない零央に、昼食後であることを把握したのか保が「ご苦労さん」と肩を叩く。
 小楯保とイアン・カンプ。喫茶楽園から徒歩十五分、坂の下からわざわざ毎日のようにやってくる二人の職業は、漫画家。少年誌の連載を任されているため常に多忙で、時にとんでもなくやつれた様相で店を訪れる。
 今日は穏やかな顔をしているので、締め切りに間に合ったのだろう。締め切り前は、無理せう帰って寝ていろと押し返したくなるほど意識を飛ばしそうな顔をしているのだ。甲洋はおしぼりと水を二人の前に置いて、今日のメニューを差し出した。
「一騎くんは?」
「あっちで挽いた豆詰めてますよ」
 キッチンでは一騎が真空タッパーと粉との格闘に励んでいる。食べ終わった零央が皿をもってキッチンに下がると、手伝いますよ、とエプロンを手に隣に並んだ。
「うぅん、やっぱり一騎カレーか……」
「毎日食べても飽きないですね、ここのカレーは」
 ほぼ毎日メニューと睨めっこしているのに、だいたいはカレーを注文する二人は今日も眉を寄せてどれを選ぶか悩んでいる。その顔が回を増すごとにだんだんとそっくりになってくるのを目の前で見続けている甲洋は、親程に年齢が離れているはずの二人の成長を見ているような気分になって可笑しさを覚えた。
「いや待て、この焼きカレードリアはまだあるのか甲洋くん」
「ありますよ」
「ちなみにカレーは」
「一騎カレーを使ってます。一月の限定メニューだったんですけど、人気だったので数量限定でやってみようかと」
 絶対に食いつくと思ったと言わんばかりの甲洋を他所に、保は勢いよく宣言する。
「一騎カレードリアと、甲洋ブレンドを一つ」
「保さん、焼きカレードリアです。ええと、私は一騎カレーとレモンティーを」
「はい、ご注文ありがとうございます。一騎カレー一つと一騎カレードリア一つ!」
「一騎カレードリアってなんだよ」
「保さんご指名さ」
 豆の後処理が終わったらしい一騎がひょっこりと顔を出し、保のにやりとした笑顔に嫌そうな、その上で困ったような顰め面になった。
「溝口さんみたいに変な名前つけるのやめてくださいよ」
「間違ってないだろ?」
「そういうことじゃないです」
 溝口さんみたい、と何気に酷いことを言っているのだが、ここにそれを指摘する人はいない。軽口のような気安さで文句を垂れつつも、一騎はキッチンへ戻ってカレーとドリアの準備を始めた。零央がピッチャーを手にホールに向かってくれたので、看板の付け替え頼む、と声をかける。
「一騎くんも甲洋くんも元気そうで何よりだ」
「ほぼ毎日会ってるじゃないですか」
 ミニコンロに水を張ったミルクパンをかけ、冷蔵庫からアールグレイティーを取り出す。グラスにレモン果実を漬け込んだシロップとアールグレイを注ぎ、マドラーでかき混ぜながら味を調節している間に、ミルクパンから沸々と気泡と湯気が立ち始めた。沸騰した湯をホーローポットに移していると、こぽこぽという音に紛れるくらいの小さな声で保が囁く。
「……毎日顔を見てても気になるもんさ」
 その声音に含まれる、寂しさの片鱗。その意味を正しく理解している甲洋は会話を続けることはせず、ポットからドリッパーに湯を注いだ。粉がトツトツと泡を吹く様子を眺め、ちょうどよい距離と速度を測る。
「……悪い」
「いえ」
 謝るようなことじゃないと何度首を振っても、気持ちは未だに追いついていないのだろう。癒えることのない傷が、保の心には刻まれている。イアンが何か言いたげな表情で二人を見比べるが、やがて口は閉ざしたまま視線を手元に落とした。
 珈琲の豊かな香りが甲洋と保の間を行き交って、言葉のない二人の間を取り持つように染み込む。深い黒に茶色を溶かした、だがどこか澄んだ色。甲洋の記憶にしっかりと焼き付いた、懐かしい人物の色だ。
 小楯衛――もう、この世にいない人の名前。
「なあ、甲洋くん。衛は元気にしているか?」
 ポットから湯が無くなったところで、カップの中で跳ねる珈琲の雫が徐々に速度を落としていく。ミルククリームの小さなピッチャーを添えて、甲洋はソーサーに乗った珈琲と、レモンティーをカウンターに置いた。
 カラン、とグラスの中で氷が擦れ合う。
「元気にしてるみたいです。この前一騎が会ってたんで、後で話聞いてみてください」
 彼が好きだったキャラクターのカラーリングが施された珈琲カップに、保は目を細めた。今もまだ、そのキャラクターが活躍する漫画は、彼の手で生み出されている。
「うん、今日もうまいな。甲洋くんの珈琲は、俺の好みぴったりだ」
 淹れたてを一口ずつ、ゆっくりと味や香りを確かめるようにカップを揺らしながら、沁みるような声音で呟いた。ありがとうございます、と頭を下げる。
「少し苦めで、すっきりとした後味。甲洋くんが淹れる珈琲は香りが強いから、甘いものともよく合う」
「一騎くんとは対照的ですね。彼の珈琲は、柔らかくミルクによく合う味と香りですから」
「どちらも、それぞれの個性が出ているってことだ。この店の空気も、雰囲気も、二人が作り上げた形だ」
 店内を見回した保は、そこに誰かを見つけたいとでも語るかのように目を凝らし、少ししてから再び珈琲を啜った。
「私は始めの頃、この空気に馴染めませんでしたが、最近は『何も考えない時間』をこの店に居ると意識するようになりました。外の世界から切り離されたようなこの空間で、何かに急かされ追われるわけでもない。時間というのはそれだけで尊いものだと、再認識するようです」
「日本人は、その『何も考えない時間』にすら名前を付けるくらいだからな、大切にしているんだよ。まあ、時間の使い方なんて人それぞれ。俺はこの美味しい珈琲とカレーを食べられる場所ってだけで十分尊いさ」
「お二人は、この店の一番の常連さんですよ。いつも、ありがとうございます」
 この店を気に入ってくれている二人には感謝しているのだ。特に保にとっては、『何も考えない時間』とは正反対の位置に在るであろうこの店を好いて通ってくれているのだから。
 キッチンから、タイマーの音が掠れて聞こえた。料理ができあがる頃合いのようで、カレーの香りがカウンターまで漂ってきた。
 零央と一騎の声が漏れる方向にちらりと視線を送り、保は声を潜める。
「一騎くんも元気そうだな」
「ええ、定期健診も問題ありませんから」
「甲洋くんもかい?」
「はい」
 保の元で仕事を手伝うイアンは、まだ甲洋たちとの付き合いは一年ほど。詳しい事情までは知らないだろうが、一騎と甲洋が定期的に検診を受けていることは既に言ってある。
 もう十年以上続けている月に一度か二度の検診は、遠見医院という診療所で行われていて、遠見先生という女性の医師は幼い頃から甲洋たちの専属医のような身近な存在だ。遠見先生の娘の真矢と、遠見医院と繋がりの深い皆城家の総士は、一騎と甲洋の幼馴染。親同士の交流があったので、それこそ生まれた時から互いを見知り、今でも同学年の顔馴染みの近藤剣司や要咲良と六人で飲むくらい仲が良い。
 ただ、親同士という点において、甲洋の親はもう存在していない。死別ではなく、捨てられたのだ。両親は忽然と姿を消し、残ったのはわずかな自分の持ち物だけ。まだ義務教育も終えていなかった甲洋を溝口が引き取って、書類上の父親という繋がりを与えてくれている。
 彼は、甲洋がやりたいことにあまり口を出さないが、決して見放したりはしない。時々だらしのない大人を演じながらこちらの様子を伺ってみたり、ちゃっかり出前を頼んで店としてやっていけているのか、目を光らせている。そういった、言葉にしないけれど過干渉にならない程度の距離感が、甲洋にはちょうどいい。
「お待たせしました。焼きカレードリアと、一騎カレーです」
 ちょうど話が途切れたところで、零央がプレートを二人の前に置いた。焦がしたチーズとカレーの焼き色が絶妙に食欲を刺激する焼きカレードリアと、毎日食べても飽きないと豪語する一騎カレー。冷水も合わせてピッチャーから補充すると、保とイアンは相好を崩してスプーンを掲げた。
「これはとびきり旨そうだな」
「よし、それでは」
「いただきます!」
 揃った保とイアンの声に、キッチンで一騎がこらえきれず苦笑した。

 綺麗にカレーを平らげた二人は、コーヒーバーに戻った一騎といくらか言葉を交わして帰っていった。衛のことを聞いたのか、それともカレーの話か。まったく関係のない話題かもしれない。皿とカップを洗う一騎の横顔は、特に思案するようなものではなかった。
 一騎ブレンドをもう一杯おかわりした客は既に店を後にして、入れ替わるように窓際の四人席に主婦らしき三人組が会話に花を咲かせ始めた。時折盛り上がるらしい話題が静かな店内に響くが、それを気にするような客はいない。やがてその客もいなくなってしまうと、店内は途端に静寂に包まれた。
 コーヒーバーで簡易椅子に腰かける一騎は、手持無沙汰に珈琲カップを拭いたりミルの洗浄をしたりと、時間を潰している。
「保さんたちと、何話してたんだ?」
「衛のこと、少しだけ」
 既にいない息子の話を、一騎か甲洋からなら聞ける。そう信じて疑わない保は、月に数度、衛の話を聞きたがる。
 答えを持っていれば隠すことではない。正直に話をするが、このことが決して『正常』ではないことはよく理解している。超常現象なのか、それとも何かしらの要因があるのか。現代科学では証明できない、だが間違いなく実在する現象の中で、一騎と甲洋は生きているのだから。
「あと、締め切り終わってほっとしたって話だった」
「やっぱり締め切り後だったんだな……」
「ぼうっとする期間なんだって」
「? なんだ、それ」
「ぼうっとする時間も、人生には大切なんだって。何も考えていない時間にすら名前を付けるんだから、日々は忙しなく時間に追われてるけど、時間を大切にしてる証拠なんだってさ」
 そう言えば、そんなような話をイアンとしていた。保には何も考えない時間など悪夢のようなものではと危惧していたが、時の流れは彼の心の傷を確実に癒しているのかもしれない。
「無為とかってことか?」
「難しいことは、俺にはわからないけど」
「そうやってると総士が嫌そうな顔するだろ」
「難しいことを考えるのは総士や甲洋がやってくれるから」
「甘やかされて育った箱入り息子か、おまえは」
「……それは酷くないか」
 むすっと顔を顰めた一騎の額を、人差し指で払った。いわゆるデコピンというやつだ。なにするんだよと抗議の声を流して、甲洋は一騎の隣に寄り掛かる。
「今はこうして、二人でやってるけどさ。いつかは道が分かれる時があるかもしれない。おまえひとりで何とかしなきゃってなるかもしれない。そうなったら、何も考えてませんでした、なんて後味悪いだろ?」
 一騎は、どことなくショックを受けたような顔で甲洋を見つめ、拭いていた珈琲カップを棚に戻した。金属のカップが触れあい、澄んだ音を立てる。まるで一騎の動揺を表しているかのように。
「……俺は、甲洋がもし離れていったとしても、この場所を守りたいよ」
「一騎……」
 思いもよらない返答に、今度は甲洋の方が言葉を失った。
 伏し目がちの濃いアンバーが、カップに映る。その横顔は、寂しさと精一杯の決意を混ぜ合わせたような、ひどく脆そうなもので。
「……悪い。俺は、この店をやめるつもりはないよ」
「此処があると、安心するから。誰かが寛げる場所になってるなら、ずっと此処を続けたい」
「ああ、そうだな。おまえの言う通りだ」
「総士も、遠見も、剣司も咲良も……衛や翔子だって、この店が好きって言ってくれるんだ。だから、続けられるところまで続けよう、甲洋」
 一騎の、愚かなほどに一途な言葉を向けられて、甲洋は少しだけ己を恥じた。
 心にもない言葉を放ってしまった。この店を一番の拠り所にしているのは自分の方なのに。むしろ離れていくなら一騎の方であると思っているくらいで、そんな一騎に甘えて。
 交差した視線は、互いの真意を確かめるかのように無言の中で絡み合い、探り合い、やがて笑みへと変わった。
 一騎が突き出した拳に、甲洋は己のものを当てる。ゴツン、と無骨な男の手が重なり、まるで待っていたかのように時計が閉店の時刻を告げた。
「やっば、もうこんな時間か」
「零央、看板変えてきてくれるか?」
「はーい」
 バックヤードで食材の後片付けをしてくれていた零央が、小走りにエントランスに向かった。レジの帳簿を甲洋が確認しているので、一騎は店内を軽く清掃するため掃除用具を取り出す。
「明日はもうちょっと珈琲出るかな……」
 なにやら帳簿と睨めっこしている甲洋がぶつぶつと呟いた。
 明日、という当たり前のように囁いた言葉に、一騎は胸を震わせ、はにかんだ。