喫茶楽園 開店四十三分前より

 店の扉にかける黒板に『準備中』の文字を書くのは、甲洋の仕事だ。
 一緒に店を切り盛りする相方より甲洋の方が字がうまいからとか、その程度の理由から始まった習慣。誰にでも読みやすいお手本のような字を書く甲洋は、昨日も今日も明日も、『準備中』『開店』『閉店』の三つのメッセージを白チョークで看板に記す。
 大きなガラス窓は丁寧に乾拭きされ、海風と潮による傷みはほぼなく、唯一色褪せた屋根だけがこの店の年月を表していた。内装はほぼ新装と遜色なく、なによりこの店自体は譲り受けたものなので、特に不満もない。
 用水路にかかる歩幅一歩分の橋の上では、この店を開く頃からずっと居座っている三毛猫が我が物顔で陣取って己のテリトリーを示していた。円らな瞳で店内を覗く彼を、この店の常連が『ミケ』と呼んで挨拶を交わしている様子は、まるで店の扉を開ける許可を彼にもらっているような感じがするのでおかしい。
 今日も、ちょうど日向に差し掛かった橋の上で寝そべるミケに苦笑して、甲洋は看板を扉にかけると店内に戻る。適度な空調が効いた店内では、ランチの仕込みが終わったらしいもう一人の店主――真壁一騎が、ミルを挽いていた。
 古めかしい木製の手挽きミルではなく、店のオープンにあたって購入した電動式ミルは、豆の粒度を十八段階まで設定できる優れものだ。一騎が焙煎した豆が入っているキャニスターが陳列する棚から、毎日必要な分だけを挽く。豆の粗さを確認する彼の眼は集中していて、特に声をかけることもなく甲洋はコーヒーバーの前を通り過ぎてキッチンに入った。
 途端に漂うスパイスの香りを潜り、冷蔵庫を開ける。作り置きのサラダ、ドレッシング、タッパーの数々。足りないものはないことを確認して、扉を閉める。すぐ横の四つあるコンロのうち、一つはこの店の看板メニュー『一騎カレー』の鍋の定位置で、香りの原因はこのカレーだ。なんとも食欲をそそる香りと、丁寧に濾されたルーのうまみやコクが一目で伝わってくる一品。このカレーを目当てに店を訪れる人も少なくない。
 名前の通り、カレーを作っているのは一騎で、命名はこの店のオーナーだ。一騎の父親の親友兼仕事仲間で、甲洋も幼い頃から世話になっている、ちょっとばかり世話焼きの人。だが押し付けがましいわけではなく、頼れる兄のような、親戚のおじさんのような、不思議な立ち位置でもって甲洋に構ってくる。
 カウンターの上、並べられたバッドの上にアルミホイルに包まれた塊が目に入って、甲洋はそちらへと移動する。大きさから肉の塊であるのは明白だが、はてなぜこんなところに。ぺりぺりとアルミホイルを剥がしていくと、想像通り、ローズマリーやら岩塩やらで味付けされた肉が姿を現した。
「あ、ローストビーフ切り分けてない」
 すると突然、コーヒーバーにいた一騎が声を上げる。
「冷蔵庫から出してそのままだった」
「ちょっと、それ早く言ってよ」
「ごめん」
 開店三十五分前に明らかになった準備不足に、甲洋は急いで包丁を取り出した。切れ味抜群の包丁は、毎日閉店後に甲洋が研いでいるので抜かりはない。
 塊肉の端を一センチ程切り落とし、火が通って程よく赤く色づいた肉を等間隔で切り分けていく。スッと包丁が通る感覚は肉の柔らかさと程よい弾力を伝えてきて、相変わらずの料理の腕だと甲洋は苦笑した。一騎のそれは、最早プロの領域だ。本人は趣味の範囲内だと頑なに否定するけれど、それを真に受ける人は、少なくともこの店の常連にはいない。
 今月の限定メニューである、ローストビーフのサンドイッチ。「美味しいローストビーフが食べたい」という互いの幼馴染の一人から発せられた言葉が切欠となって、一騎が試行錯誤を繰り返し完成させた。
 イタリア産の塩と胡椒を肉に塗り込み、低温でじっくり焼いた後、アルミホイルに包んで焦がし醤油、バター、蜂蜜、ローズマリーのソースに浸けて一日冷蔵庫で寝かせる凝り様だ。
 ちなみにこのイタリア産の塩と胡椒は、開店当初から店を気に入って常連となっている男が「これで美味しい料理よろしく!」と頼んでもいないのに買ってきたものだ。
 美味しい料理に塩と胡椒を買ってくるあたりどう反応していいか悩んだ甲洋ではあったが、一騎はいたく感謝していたので、店の調理師が喜ぶのなら結果オーライなのだろう。
 そんな彼は子どものようにキラキラした目で、初夏のノルウェーに行ってくると先週旅立った。同じ年頃か少し下であろう彼が、いったいどんな生活をして海外旅行に度々行けるほどの金銭的余裕があるのかは謎であるが、今のところ借金をしたり行き倒れている様子は無い。
 とりあえず「いってらっしゃい」と一騎と二人で送り出しはしたが。さて、今回はどんなおみやげを買ってくるだろうか。
 チリン、と店の扉が軽快な音を鳴らして開いた。一騎が顔を上げる。キッチンから扉が見えないので一騎を伺うと、一騎は目元を綻ばせて入店者を迎えていた。
「おはようございます、一騎さん」
「おはよう、零央」
「今日のデザート持ってきました」
「中、置いておいてくれ」
 カウンターの内を視線で示す一騎に従って、扉の閉まる音とパタパタと靴音がキッチンに近付いてくる。カーテンで仕切られた中にひょっこりと顔を出した影は、甲洋の後ろ姿にパッと表情を明るくさせた。
「甲洋さん、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
 僅かに跳ねた癖毛が精悍な面立ちをどこか幼くも見せる青年は、御門零央。地元で有名な菓子屋『御門屋』の一人息子で、一騎と甲洋の後輩だ。和風な名前の通り和菓子屋だが、零央の父の代から洋菓子も取り扱うようになり、一騎たち世代の誕生日は必ず御門屋のケーキで祝っている。
 二段に重ねたアルミバットを軽々と、それでいて衝撃を最低限に抑えながら運ぶ両腕の逞しさは、料理人というより武士のような凛々しさがある。が、彼から漂う甘いカスタードクリームの香りが色々とギャップを生んでいて格好いい、というのがもっぱら女性陣の談だ。
「今日のはこんな感じなんですけど」
 蓋を開けたバットの中を覗き込むと、艶々と光るブルーベリーが敷き詰められたタルトが並べられていた。今月のデザートメニュー、ブルーベリーのタルト。ブルーベリーの旬は産地によって五月から八月の長期間にわたり、時期に応じて味や大きさが異なるのが特徴だ。まだ小粒のブルーベリーは酸味が強い分、タルト生地とカスタードクリームとの相性が良い。
「相変わらずすごいな……」
 毎日見ているはずなのに毎日感嘆の声を上げる一騎に、そんなことないですよ、とはにかみ交じりに答える零央は本当の兄弟のように仲が良い。十代の頃から零央は一騎を一等尊敬していて、一騎はそんな零央に最初こそ圧倒されていたけれど、今は一目置いている節がある。きっかけがなんだったのか、甲洋は知らないけれど、仲が良いのはいいことだ。
「零央、それ冷蔵庫に入れておくから」
 まだ午前中は涼しいとは言え、手持ちで運んできたケーキはなるべく早く冷やした方がいいだろう。冷蔵庫内のケーキ専用スペースにバットを収めて、時計を見ればもう開店まで十五分を切っていた。
 ローストビーフの残りを切り分け、味をなじませるためにソースを軽く振りかけると再度アルミホイルに包む。これで準備は問題なさそうだ。包丁とまな板を片付けようかと流しを振り向くと、黒いエプロンを身に着けた零央があっという間に甲洋の手元から器具を攫っていってしまった。
「洗いますよ」
「……悪い、頼んだ」
 このさりげない気遣い。どうやったらこんな子に育つのだろうかと感心を禁じ得ない甲洋は、まるで自分こそ親戚のおじさんのようだなと内心で苦笑した。
 一騎は既にコーヒーバーに戻って、ミルから珈琲を取り出していた。途端に広がる香りが店中に馴染み、これが喫茶楽園の香りとなる。
 少しのスパイスと、木材と、珈琲の香り。どこか安心する隠れ家のようで、誰をも拒まない喫茶楽園は、あと少しで開店だ。と、突然店内に電話の音が鳴り響いた。
 どうにも嫌な予感がする。半眼になって手をタオルで拭いていると、一騎が「甲洋、手離せるか?」と首を傾げた。
「いい、俺が出るよ。一騎はそっちに専念してて」
「ん、悪い」
「零央、もし俺の電話が終わりそうになかったら店開けておいて」
「はい」
 必要なことは頼んで、既にコールが五回を超えた電話の受話器を持ち上げる。
「喫茶楽園です」
『おー、俺だよ俺』
「タダイマ営業時間外デス」
『いいねぇ、おまえも冗談言えるようになったんだな。オーナーとしては嬉しい限りだ』
「切りますよ溝口さん」
 本気で通話終了のボタンを押すべく指を伸ばしたが、その様子を見ていたのかという慌てぶりで電話の向こう――溝口恭平は、軽く謝罪を口にした。
『すまん、出前頼むわ!』
「そんなことだろうと思いましたけど。夜の分ですよね? いつも通り十九時でいいですか」
 電話の向こうで実際に頭でも下げているのだろうな、という口ぶりに、甲洋は溜息をつく。
 喫茶楽園は、基本的に出前サービスを行ってはいない。あくまで身内の食事を届けに行くという体で、溝口や一騎の父親の頼みを聞いている。
 この店のオーナーである電話の主、溝口恭平と、土地の所有者である一騎の父真壁史彦は、少しばかり特殊な仕事をしていて、夕食を食いはぐれることが多い。もともと一騎が真壁家の家事全般を担っていたせいか、米も満足に炊けない父を見かね夕食のみ出前をし始めたことが、ディナータイムを設けていない喫茶楽園の出前夕食の始まりだ。
 どこから漏れ聞いたのか、オーナーが「だったら俺も」と言い出し、結局ランチ時間前に出前の予約を入れてもらえれば、その日の閉店後に届けるという形で受けることにした。
『一騎カレー一つ、甲洋ナポリタン一つで』
「わかりました……お願いですから、もうちょっと時間に余裕をもって電話してください。いつも開店ギリギリじゃないですか」
『いやぁすまん、この時間に今日の残業が決まるんだよ……あと珈琲二つ』
「まあいいですけど。それでは、十九時にカレーとナポリタン、届けに行きます」
『珈琲も忘れないでくれよ! よろしくな〜』
 呆気なく切れた通話に、本当に忙しいのだろうということは察せられた。結局文句は言いつつも流してしまうのは、甲洋が溝口に恩を感じていることが大きい。
 甲洋は自身の育ての親と、あまり良い関係を築けず子育てを放棄された過去がある。その際に、大学進学まで面倒を見てくれたのが溝口なのだ。この店をするにあたっても、かなりの便宜を図り、オーナーという肩書まで負ってくれた。
 おちゃらけて底の見えない人ではあるけれど、付かず離れず親身になってくれる大人で、甲洋は頭が上がらない。少なくとも、甲洋に限らず、一騎や幼馴染たちにとって、溝口は誰にとっても頼りになる大人に等しい存在ではあるのだが。
 受話器を置いて、書きつけたメモを忘れないようにレジの横に貼っておく。一騎は甲洋の様子を横目に、また溝口さん、と小さく溜息をついた。
「父さんの分も?」
「そうみたいだ」
「また仕事籠る気なのか……」
「一騎、届けて来いよ」
「……」
 即答しないあたり、面倒だと思っているのか、それとも予定でもあるのか。互いに通院のスケジュールは把握しているので今日は違うと知っているけれど、それ以外のプライベートな予定までは、さすがに認知していない。
「……今日、総士が来るって言ってたから」
 なるほど、と甲洋はそれ以上の追及はせず、じゃあ俺が行くな、とだけ返した。一騎も頷き手元の作業に戻る。零央は自分の作業に没頭しているのか、しているふりをしてくれているのか、詳しく一騎の言葉の意味を追及してこない。
 リィン、とコーヒーバーの時計がベルを奏でた。開店時間だ。電子時計とは別に、開店と閉店の時間だけを告げる時計に、甲洋はよしとエプロンの紐を固く結ぶ。
 店内の照明を僅かに強くして、レジの動作を確認した。手書きのレシート、インクは足りている。開店に問題はない。
 小さなお店ではあるけれど、甲洋にとってはこの店の存在こそが生きる場所である。きっと一騎にとっても、それは同じこと。
 たった二人で初めて、今は零央という強い助っ人を加えて三人。客足は絶えないし、この店を好きだと言ってくれる人は大勢いる。幼馴染たちは事あるごとにこの店をパーティー会場にするだけでなく、ほぼ毎日のように訪れてくれるのは、本当に人間関係に恵まれていると言えるだろう。
 甲洋が大切にしている、この小さな楽園は、今日も誰かに安らぎを届けることができるだろうか。
「一騎、零央、開けるぞー」
「ああ」
「わかりました!」
 準備中の札を、開店の札に。毎日の仕事がここに在って、それはすなわち、甲洋の居場所がここにあるということ。
 ミケは欠伸と共に橋の上から店の扉横に移動して、ぽかぽかと陽を浴びながら転寝をする。扉の向こうには、毎朝珈琲を飲みに来る小綺麗な老人が「おはよう」と温和な笑みで帽子を脱いだ。札を書き換えた甲洋は老人に手を差し出して、転ばないように支える。
「いらっしゃいませ」

 今日も、喫茶楽園の一日が始まった。