人を想うということは、かくも悩ましく、盲目的で、懐疑的である。





六章


 二ヵ所目の拠点を制圧した夜、ヴィラン連合を名乗る人物がネットに動画を上げた。
 それは、自らの正当性を主張するものであり、ヒーロー社会に対する憎悪とこどもの癇癪を混ぜた虚勢であり、死んだ初代の意志を継ぐという的外れで一方的な妄想だった。
 最後に一言、付け加えられた物騒な宣言を除いて。
「ヒーローデクは、ヒーロー社会が蔓延る元凶。その死を齎すことこそ、我らが今日まで生き残った理由だ」
 彼らがどんな意図をもってこの発言をしたのかと考えれば、おそらく最後の抵抗として苦し紛れの犯行声明に過ぎなかった。彼らが束になってもヒーローデクに敵わないことなど、ヒーロー志望ではない子どもでも理解できる。
 だがヒーローに絶対はないということを、人々はオールマイトで知っていた。彼は今でも語り継がれる。平和の象徴、時代を築いた一人のヒーロー。そんなオールマイトと似た個性をもちながら、彼を尊敬し憧れると言って憚らないデクは、ヴィランの標的となりやすい。もちろんヒーローであるというだけで狙われるのは、彼に限ったことではないけれど。
 彼の根っからの正義感は、心臓に悪すぎる。十年も離れていられたなんて、少し前までの自分が信じられない。


「……緑谷」
 三か所目の拠点を目下に、夜の闇に身を紛らわせたヒーローデクの背中に声をかけた。突入の合図はまだだ。廃ビルの群という相変わらずお決まりのシチュエーションで、インゲニウムと爆心地は地上からの制圧、デクは敵の標的という事もあり機動性を活かした攪乱。外部からの制圧が自分の任務。地下は既にサイドキックたちが固めている。
 虚勢かもしれないとはいえ、あんな放送をした後だ。おそらく彼らは逃げない。自爆覚悟でデクを殺しにくるだろう。
「ショート、今は任務中で」
「引退にはまだ早ぇぞ」
「……」
 このタイミングでデクが引退したらどうなるかなど、答えは簡単だ。たとえヒーローデクが負けていなくても、彼が引退するに至るきっかけとしてヴィラン連合の名に箔が付く。そしてそれは、今も昔も変わらず蔓延る悪への引火剤になりかねない。
「忘れんな。おまえはヒーローだ」
「……こんなの、珍しくもない。僕は殺されないし、彼らを捕まえてきちんと受けるべき裁きを受けさせる」
「俺が言ってるのはそういう事じゃねぇ」
「ならどういう事だって言うんだ」
「諦めるな」
 沈黙が落ちる。こちらを振り返った緑谷の瞳に、傷ついたような色が宿った。痛いところをつかれた表情だ。
 彼がそういう顔をする時、驚くほどの頑固さで口を閉ざすことを、自分はよく知っている。けれど言わずにはいられなかった。
 ゆっくりと逸らされた視線が、眼下の建物に注がれる。自分のことを見ないようにしているのか。いつからそんな腑抜けになったんだと、詰め寄りそうになったその時。
 ザザ、と砂嵐の音と共に、耳元で任務開始の合図が放たれる。
 緑谷の身体を電撃が纏うのと同時に、盛大な爆発音が南西方向から鳴り響いた。
 爆豪の一撃が、灯りのない月夜に燦然と輝く。火花が飛び散る先に、おそらく敵の個性だろう、膨れ上がった風船のような何かが爆ぜ突風を巻き起こした。
 ヒーローデクが飛ぶ。夜空をかける稲妻となって、一蹴りで瞬く間にビルの隙間へと身を踊らせた。スピードに関して、この場においてインゲニウムとデクを越える者はいない。爆豪あたりが聞くと怒り狂いそうだが、こればかりは個性のタイプが違うのだ。
 氷の道を滑り台のように夜空に掛けて、ビルから飛び出す影を追う。緑の筋、そして、それを狙うように球体がビルの窓から姿を現し、その下方にはもう一人、ヴィランが走っている。
 予め聞いていた人数は八人。爆豪の方面に一人、今緑谷を追うのは二人。残りは最低でも五人。瞬時に計算しつつ、視線を周囲に巡らせ他の影が無いことを確認する。
 地上を駆けるヴィランに氷の礫を放ちながら、一気に急降下した。
「ヒーローデクを殺せぇ!」
 叫ぶヴィランの脚を、空を舞う氷が捕らえ、瞬く間に氷山へと閉じ込めた。牙のようなものが突出する顎のヴィランは手配書に描かれていた人相と酷似していて、ひとまず現在地の座標をインカムから送る。そのまま再び氷を生成し、空へと飛び上がった。
『爆心地が二人確保! ショートも一人確保した! インゲニウムは現在交戦中!』
「デクが囮で一人……いや、二人引き付けてる。援護に入るぞ」
『了解』
 援護と言っても、緑谷の立ち回りはかなり素早く、手助けが必要な程追い詰められてはいなかった。
 おそらくさっきまで球体だったヴィランは、人間の姿に戻ったのか緑谷と肉弾戦を繰り広げている。その背後から迫ったヴィランが緑谷に体当たりを仕掛けるが、素早い身のこなしで腕を取りそのまま壁に叩きつけた。鳩尾を圧迫しながらめり込んだ身体はピクリとも動かず、気絶したようだ。緑谷は壁から飛び退くとすぐに球体の方のヴィランと距離を取り、互いに睨み合っている。
 飯田が何人と交戦中かは不明だが、敵の狙いが緑谷である以上、潜んでいる残りのヴィランは間違いなく彼を仕留める機会を伺っている。
 注意深く目を凝らすが、ビルの合間に落ちる濃い影と、さらに廃ビルという条件の悪さから、物陰が動く気配は見当たらない。
(炎で炙り出した方が早いか)
 左手を掲げ、掌に赤い炎を生み出した。氷は当たれば敵の足を止めるが、炎熱は逆に隠れている敵が移動せざるを得ない状況を作りやすい。おそらく、インカムから互いの座標の報告を受けている爆豪がこちらに向かうだろう。爆豪の個性と炎との相性は、悪くない。
「跳べ、デクッ!」
 灼熱の炎がビルの壁を伝い、地面に到達すると水面の様に地面を這い広がった。デクが飛び退り、炎から距離を取る。
 壁を蹴って一番近いビルの屋上まで駆け上ると、炎が巡る地上を注意深く見下ろして耳元に手を置いた。
『敵影、五つあります』
『報告より多いな』
『こちらインゲニウム、敵を確保した。此方に敵影はなさそうだ』
『炎で一人出てきやがった! 俺が叩く!』
 ちょうど南側から爆発音と共に現れた爆豪が、どうやら出会い頭に交戦に入ったのか、重い蹴りをヴィランの腹に入れる。まさかこんなに早く見つかるとは思っていなかったのだろう、完全に無防備だったヴィランが呆気なく昏倒する様子が見下ろせた。
 その時、緑谷のいるビルが、根本から地響きの如き轟音を立て崩れだした。
「デク!」
 破壊系の個性持ちがいたのか、コンクリートが擦れ合う音と共にビルが沈んでいく。緑谷はビルの壁を蹴ると、フルカウルの状態で夜空に舞い上がった。
 緑谷に向かって氷の道を伸ばす。舞い上がった緑谷の視線が氷を捉え、おそらく着地しようと試みたのだろう、宙でくるりと回り氷の橋へと方向を定めた。
 ふと、緑谷の瞳が見開かれる。屈むように身体を曲げて、口元を手で覆った。

―ぷつり、と。まるで電池が切れたかのように、彼が纏う力が消え失せた。

「なっ……」
 夜空に無防備な身体が晒される。それは糸の切れた人形を思わせる、あまりに唐突な出来事で、反応が遅れた。
 鈍い咳と、苦しそうな呼吸音が風を切る自分の耳に微かに届いて、緑谷を受け止めなければとビルの屋上から氷の橋の上に飛び移った。
「潰れろぉぉぉ!」
 緑谷の隙をつくかのように、炎に炙られていたはずの敵が姿を現す。人型から巨大な風船に似た球体へと変化したヴィランは、フルカウルが解けた緑谷に向かって、まるで最後の力を振り絞るかのように突進した。
 彼の元まで、氷の道を全速力で滑る。強化が解けた状態であの攻撃を食らえば、無傷では済まない。敵の望み通り、潰されてビルへと突っ込み、最悪、死に至る。
 背筋を嫌な想像が撫でた。ざわりと総毛立つ感覚に歯を食いしばる。
(そんなことが、あってたまるか)
「デ―緑谷っ!」
 手を伸ばした。必死に、自分がどうなろうとなりふり構わず、ただ彼を守らなければと、それだけが思考を支配した。
 緑谷の目が自分を捉え、首を横に振った。だめだ、来ないで、と彼の目が訴える。避けられないとわかっていながら、なんとか自分を遠ざけようと叫ぼうとしている。そんなことできるわけがない。
 緑谷から発される言葉を聞くよりも先に、彼の身体に触れた両手がしっかりと体躯を引き寄せる。同時に、脇腹に激しい痛みが直撃するのを感じ、奥歯を噛み締めた。
「っ……!」
「ショート……ッ」
 風が唸る。視界が揺れる。
 氷の個性を発動すると瞬時にヴィランは氷漬けになったが、突進してきたスピードは緩まる筈も無い。スローモーションに見える世界が反転し、喉の奥に詰まった空気と僅かな鮮血を吐き出した。
「がっ……」
「ショート……! 轟くん、なんで……!」
 鈍い痛みに眉を顰めるが、いつの間にか夜空を見上げている自分の腕の中には緑谷がいて、涙声で何かを訴えているが、何を言っているか間では聞こえない。
 後頭部を引き寄せて、背中に回した手で身体を抱えていることだけは確信できたので、落下する感覚の中で彼が逃げないようにきつく抱き締めた。
「やめて、轟くん……!」
 怒っているのか、激しい語調で訴える緑谷の声は涙に掠れていて、遠退く意識の中を木霊する。
(泣くな、俺は大丈夫だから)
「やめてよ、僕のことなんて、庇わないでよ!」
「ば、か……やろ……」
 かろうじて絞り出した台詞は届いたのか届かなかったのか。
 落下の速度と腹部の圧迫に意識が遠退きかけるが、せめてもの自衛にと背中を庇うように氷で包んで細い氷の道を滑落する。落下の衝撃を和らげることができれば御の字だが、こういう時に風などの個性があれば良いのにと思う。熱波では代役にならない。なにより緑谷に怪我をさせる。
「つかまってろ……!」
 氷点下に落ちる肌を刺すような冷気と、腕の中にいる緑谷の存在を確かめたのを最後に、氷の鳴動と共に視界が暗転した。


***


 空気が薄い、と息苦しさに目を開くと、鉄パイプのようなものが積み重なり地面に刺さった場所に倒れていた。砕けた氷の破片が散らばっていて、暗さと相まって寒さが増している。
 細いが確かな風の流れから、随分と広い空間であることが察せられた。おそらくビルの地下貯蔵庫にでもあたるのだろう。大小様々なコンテナが、錆び付いて地面に貼り付いていた。
 地面に擦り付けるようにしていた頬に走る痛みは、どうやら顔面のどこかを切ったらしい。冷静に自分の状態を一つ一つ確かめていく。
 足と手は動くが、脇腹から右足の付け根にかけてジクジクと鈍い痛みがあった。おそらく、あの球体のヴィランから緑谷を庇った時に受けた攻撃が原因だ。咄嗟に氷を張り身体を捻ったことで威力は幾分か殺せたらしいものの、相殺しきれたわけではなかったようだ。動けないほどではないが、腹筋を使って体を起こそうとすると咄嗟に眉を寄せてしまう程度には痛かった。
 自分の状態がわかれば、次は必然的に腕の中に囲った存在に意識を向ける。意識を失っているようだが息はしっかりとしていた。髪や顔を汚す土埃を軽く払い、ゆっくりと仰向けに寝転がらせる。
「緑谷……緑谷、起きろ」
 肩を何度か揺さぶるものの目覚めの気配は薄かった。
「緑谷! だめか……」
 差し込む光は天井の隙間の月明りだけで、そこから落ちてきたのか、あるいは吹っ飛ばされた衝撃で崩れてしまったのか、正しい出入口は判別できなかった。
 目視できる範囲に球体のヴィランの姿は無かったので、どこまで安全かはわからない。少しの間逡巡し、手元に炎を灯し簡易的な光源を作る。敵に位置を教えることになるか、仲間がこの光源に気付くのが先か。難しいところではあったが、状況把握を優先することに決めた。
 多少の明るさに照らされた緑谷の顔色は、お世辞にも良いとは言えなかった。むしろ、悪い。失血でもしてるのかと疑うほど、青い顔をしているのが暗い中でも見て取れて、ひやりとした悪寒が背を撫でる。
「緑谷」
 破れたヒーロースーツから覗く首も、腕も、やはり細かった。病院で見た彼の姿は錯覚ではなかったのだ。最早こうなる理由に、オールマイトや緑谷の個性が絡んでいないとは思えなかった。
 個性を発動させ、全身に行き渡らせることで身体能力を強化する。オールマイトがマッスルフォームと名付け、姿を変えていたから気付かなかったが、言葉にすればそういうことだ。
 二人は同じ個性を持っていた。それが、血縁関係に因るものなのかはわからないけれど、他人の個性を与えることができる個性があるくらいだ。何かしらの方法が取られ、オールマイトと同等の個性を緑谷は発現した。
 そう考えれば、オールマイトが緑谷に目をかけていた理由も納得がいく。自らの……後を継ぐような存在だと見做していたのかもしれない。オールマイトが憧れの存在というだけでなく、個性という意味で生みの親のようなものだったんだろう。一周忌で親族席の近くにいたのも、あるいはそれが関係していることも考えられた。
 オールマイトは、引退と同時にマッスルフォームに変化することをやめた。年齢的なものや、オール・フォー・ワンとの戦いで平和の象徴としての力を使い切ってしまったと、彼は言った。
 あの骸骨に似た姿も、たまに吐血するほど体調が思わしくなかったのも、ずっと憧れてきたオールマイトという存在が体現する理想を砕くようなものではない。でも、心のどこかでずっと疑問には思っていた。なぜ彼は、個性を使うのをやめたのだろうと。
「おまえが、その理由を知ってるってことか」
 オールマイトが引退した本当の理由。緑谷が何故、オールマイトと同じ個性をその身に宿しているか。そしてそれが、緑谷が引退を決めた理由に繋がっていく。
「……全部、俺が受けとめるから」
 他の誰でもない、自分にだけ打ち明けたことに意味があるなら、遠慮はいらないと思うことは自惚れでは無いはずだ。かつて体育祭で、緑谷が轟焦凍という人間を救ってくれたように。緑谷に寄り添うのも、自分だけで在りたかった。


 時間にして数分程。緑谷が小さな呻き声を上げて目を開く。すぐに状況を悟ったのか起き上がり、忙しなく視線を巡らせた。暗がりの中でこちらの気配を察し、緑谷が目を凝らす。何かを堪えるように息を飲み―喀血した。
「おいっ」
 慌てて膝をつき、丸まった背中を摩る。服越しに感じる、浮いた背骨。手の甲に吐き出された血は、口の中を切ったとかいうレベルではなく、べっとりと赤い筋が手首まで垂れた。
 数度咳き込んで落ち着きを取り戻した身体を支えてやろうと腕を伸ばしたが、あまり力の入っていない細い腕で弾かれる。代わりに襟を掴まれ、顔が近づいた。
「なんで、僕のこと庇ったの」
 緑谷の問いはあまりに愚かで、ひどいものだった。眉根が寄る。
「フルカウルを解いた状態であの直撃受けてたら、確実に骨折るくらいはしてる。状況から判断したら、カバーに入らねぇわけが」
「やめてよ、いやなんだよ、きみが傷つくのは!」
「……ふざけんな」
 それをおまえが言うのかと、遮られた言葉に苛立ちが募った。傷つくのが嫌なのはお互い様だ。個性が突然解けて、夜空に投げ出された身体にどれほど驚いたか。
「……なんで、フルカウルが解けた?」
「……」
「意図していないことだったんだろ」
「それ、は」
「そんな不安定な状態でヴィラン相手に立ち回って。もし一人だったらどうなってたと思ってる。無茶はしても、無理することがヒーローじゃねぇだろ」
「っ僕は!」
「……今までずっと、おまえが隠してることを暴かなくても、おまえは前を向いて歩いて行ける奴だと思ってた。でも、個性がそんな状態だと、おまえは」
「やめて!」
「俺だって、おまえが傷つくのは嫌だ!」
 こんなに声を荒らげたのは久しぶりだ。脳がびりびりと刺激されて耳の奥が痛い。
「教えてくれ。なにがおまえを、苦しませるのか」
「僕、は……」
 膝が、地面へと落ちる。泣きそうな、今にも涙が零れそうな眼には、抱えきれない感情が渦巻いていた。くしゃりと歪んだ緑谷の顔に、昂っていた感情が急速に冷やされた。襟を掴んでいた指先から力が抜け、戦慄く両手を見下ろした緑谷は、呪いでも吐くかのように声を絞り出す。
「怖いんだ、この力がないと誰も救えない! ヒーローではいられない! 僕はヒーローでいたいんだ! もっと、ずっと、オールマイトみたいにかっこよくて、みんなの笑顔を守る、そんなヒーローになりたかったんだ! でも、もう僕は……!」
 言っていることが、支離滅裂だった。
 いろんな思考がぐちゃぐちゃになって、自分が進みたいはずの道も、見つめるべき道も、わからなくなっている。
 もう、こんな状態の緑谷を、このまま放っておけるはずがなかった。
「……おまえが何を怖がってるのか、俺にはわからない。でも、おまえはまだヒーローなんだ。おまえが目指してきたヒーローを、おまえが否定すんな」
 頭を振り、両手で耳を塞ごうとする緑谷の腕を掴んで止める。
 右手から炎が消えたことで、静寂と暗闇が訪れた。そんな中でも弱々しい光を宿す緑の瞳に、切に訴える。
「そんなことっ……」
「胸張ってろよ。オールマイトだって、最後までかっこいいヒーローだっただろ!」
「ぼく、は」
「おまえがなりたいヒーローを忘れるな! ヒーローデクは、まだ生きてんだ!!」
 ひゅう、と緑谷が細く息を飲む。力が抜けずるりと崩れ落ちた背を支えなおし、二人して地面に座り込んだ。
 ついに溢れた涙が胸元に、膝にぽたりぽたりと落ちた。深い苦しみに揺れていた緑から溶け出した涙が、布に染み込んで色を濃くしていく。
 ひとつ、またひとつと涙が流れ頬に筋を作る度に、緑谷の頑な心が剥がれて、柔らかな部分が差し出されていくようだった。
「何も知らないのに、きみは、どうして」
 涙混じりの声が、力なく詰る。
 なんでだよ、と重ねて問う緑谷の背中に置いた手をゆっくりと上下させ、彼の顔を覗き込む。瞳に映るくらい近く、彼の本心へと訴えるように。
 自分の中に答えはあった。とても単純でわかりやすい、でもこれ以上ない答えがするりと音になっていた。
「おまえのことが、好きだから」
 彼が抱く理想も、輝きも、弱さも、悲しみも。
 彼を足らしめるすべてが、好きだから。
「おまえのことを考えると、あたたかい気持ちにも、苦しい気持ちにも、優しい気持ちにもなれる」
 十年前は、言えなかった。好きと彼にかけた言葉に嘘はなかったけれど、彼の心に本当に届いているわけではなかった。その理由が、今ならわかる。
「やっと、ちゃんと言える」
「とどろき、くん」
 ふるりと緑谷が首を横に振ったけれど、もう逃がしてやるつもりはなかった。十年越しに伝える言葉は、幼いあの日、ただ彼の存在が与えてくれた感情に傾倒していただけでは形にできなかった、すべてが含まれている。
「好きだ、緑谷。過去形になんてできない。ずっと、おまえのことが好きだ」
 緑谷の瞳から大粒の雨が降った。あまりに静かに、頬に跡を付ける暇も無くぼろぼろと落ち往く雨粒を、掌で受け止める。
 張り詰めていたものが緩んだように、彼の内に留まっていた感情が洗い流れていった。
「うう……あ……ぁ」
 ヒーローだって泣くと、伝えた日のことを彼は覚えているだろうか。それを隠せない時があったっていい。辛いことを辛いと受け止めて、乗り越えるために涙を流したっていい。無理に笑って、歪んだ決意に殉じるより、ずっと。
 もし緑谷にそういう時があって、誰にも知られたくないのなら。
「誰にも知られたくないなら、俺がおまえのことを隠してやる。俺が、おまえの涙を肯定する。そんで、無理しないように見張っててやる。緑谷が望んだように、おまえがおまえらしく最後までヒーローで在り続けるために」
 小さな嗚咽が、やがて慟哭へと変わる。
 この十年、彼が抱え込んで溜め込んできたものが、流れ出てくれればいい。そう願って、彼の背を摩り続けた。
 緑谷は強い人間だ。でも、ずっと強いままでいられるほど彼は鈍感じゃない。むしろ、たくさん傷付いて人一倍努力して、強く在ろうとする奴だ。
 根っこのところは変わっていないのに、この十年で変わった環境、考え方は、いつの間にか彼を雁字搦めにしていた。もっと早く、気づいてやれば良かった。ちゃんと傍で、彼を見ていればよかった。
 別れた瞬間にひとつの区切りを勝手につけてしまったことで、同じ轍を踏むのを怖がっていた自分が愚かしい。諦めるなと偉そうなことを言っておいて、一度緑谷を諦めたのは自分の方だった。
 どうしようもない。でも、やり直せるならここからはじめる。今度はちゃんと、彼の手を繋いで一緒に歩いていく。
「……僕も、僕もね」
「ん?」
 額を胸元に押し付けていた力が弱まる。涙で枯れた声は、しっかりと耳に届いた。
「やっぱり、きみのことが、好きなんだ」
 両手で涙を拭いながら、確かめるような声色で緑谷は言った。暗闇の中でも先程までよりずっと明るい緑が、木漏れ日のように光を瞬く。
 遠くを偲ぶのではなく、目の前にいる轟焦凍という人間を真っ直ぐに見据えて、笑ってくれていた。
「うん、やっぱり、大好きだなぁ」
「俺も大好きだ」
「ふっ……ふふ、轟くん、かっこいい」
 おかしなことを言ったつもりは無かったのに、緑谷はおかしそうに笑うと鼻を啜った。
 泣いて熱を持った目元が痛々しかったけれど、瞳は彼本来の明るさに戻っていた。視界が広くなった人間は、顔が全然違う。オールマイトが、自分にかけてくれた言葉だ。そして、緑谷がもたらしてくれた最初の新しい自分の姿と同じ。
 緑谷が申し訳なさそうに、脇腹を見遣った。
「轟くん、怪我……ごめんね」
「動けないほどじゃない」
 痛いのは痛いけれど、という言葉は胸の内にしまっておく。
 申し訳なさそうな顔はもういらない、大丈夫だと心を込めて腫れた目元に左手で触れる。自分の怪我よりずっと、涙の跡の方が痛々しい。個性を発動させたことでひんやりとした掌に、緑谷は気持ちよさそうに目を閉じて頬を寄せた。
 懐かしい仕草に、学生の頃の彼が被る。轟くんの個性は優しいね、と口癖のように唱えていた声が聞こえた気がして、目を細めた。
 ほんの数秒、わずかな時間。無言のままで互いの息遣いだけを感じる。じくじくと痛む傷ですら彼と共に在る証のようで、晴れ渡った空のような思考は鮮明になった。
 もっと言葉を交わすべきだと思う。でもそれは今じゃなくていい。かつてのような一方通行の、好きでありながらすれ違っていた頃とは違う関係を築けるはずだから。
 静けさが落ちていた空間に、鈍い爆発音が届く。次いで肌を駆け抜ける振動に、発生源がそう遠くないことを察して頬から手を離した。
 力強い緑と目を合わせ、頷く。
「まだ戦える……ううん、戦うよ。僕はヒーローだ。みんなの平和を守って、たくさんの人を笑顔にする」
「そうだ」
「轟くんは、まだ行ける?」
「それこそ、誰に言ってんだ」
 自分たちはヒーロー。任務はまだ終わっていない。
 最期の瞬間まで、やらなければならないことがある。
 立ち上がって緑谷に手を差し伸べた。掴み返す彼の顔は、正しくヒーローそのものだ。世界中の誰よりも輝いている時の表情だ。
「行くぞ、ヒーローデク」
「もちろん、ヒーローショート」
 逆境を覆し、己を超えてこそヒーロー。
 迷い戸惑い悩むことと、諦めることは違う。ヒーローは、その最後の輝きまでヒーローで在り続けるからこそ、人々を救う。
 ヒーローであることを諦めたりしない。だって今この瞬間、自分たちはヒーローなのだから。

 フルカウルの稲妻が瞬く。
 跳躍した彼の背が、月の光を浴びる。
 頼もしい、孤独な背中。

 その姿を、何よりも愛おしいと思った。

***


 ヴィラン連合の残党を捕え、後処理に追われること半月が過ぎた頃、緑谷から連絡があった。
 あの後、数日間の合同チームはそれぞれの担当地域に戻り、束の間の旧友たちとの連携は名残惜しさを覚えない程あっさりと終わった。またいつか現場でと手を振り合い、できればそんな日が来ない方が良いと笑い合って。
 ヒーローが飛び回るような日が来なくなればいいと願いながら、自分たちはヒーローを続けていく。
 ビルの地下に吹っ飛ばされた自分たちがあの場を脱出する直前まで、爆豪がほぼ一人でヴィランたちを捕縛していたらしいと報告で聞いた。なかなか姿を見せないので、受けた攻撃で気絶しているか地下で交戦状態に入ったか、あるいは身動きが取れないほどの大怪我をしているのではと飯田が突入寸前だったようだ。地下では緑谷とのあれこれですっかり失念していたが、インカムが外れてしまってこちらの位置を捕捉できていなかったらしい。
 ナイトアイ事務所によって任務の完了が宣言され、事務所のメンバーと共に場を後にする緑谷の背を見つめていた自分を、爆豪はものすごく不機嫌な顔をして睨み付けた。
「気付いたかよ」
「……全部じゃねぇ、たぶん」
「ケッ」
「でも、あいつが泣いてくれたから」
 黒いアイマスクから覗く赤が釣りあがる。だがそれ以上何を言うこともなく、爆豪は背を向けて緑谷とは反対方向へと消えてしまった。
 爆豪はきっと、ずっと前から緑谷の秘密に気付いていて、それとなく気にしてやってきたんだろう。この十年の間、緑谷の相談相手だったりしたのだろうか。幼馴染という関係性以上の差を見せつけられていると感じているのは、学生の頃からだ。たとえ本人たちにその気が無くても、あるいは嫌がっていたとしても、緑谷が最も身近な存在として憧れた爆豪という男と同じ立ち位置にはいられない。
 それを飲み込んで、自分には自分の、緑谷と紡いできた絆が在って、そしてこれから刻んでいく道を行くのだ。
 お互いが最高のヒーローであるために。ヒーローではない緑谷と、歩むために。