人を想うということは、かくも憐れ、屈辱で、心躍るものである。
五章
事態の収束は迅速に図られた。捕まったヴィランは連合の残党の中でも下っ端だったらしく、他の潜伏先に関する目ぼしい情報を吐かせることはできなかったものの、お縄になって拘置所に送られた。
崩壊しかけたビルは、氷が溶ける前に警察によって囲いが整えられ、重機を用いての解体作業が始まった。ひとまず一件落着といったところだろう。
保須総合病院に担ぎ込まれた緑谷は、以前担当してくれた医師に穏やかながらも風雨の礫のごとく小言を食らって、翌日まで入院となった。以前、というのは、ステインとの戦闘で世話になった時のことだ。あの頃はまだ中年に差し掛かる手前の年齢だった医師は、院内でヒーロー診察のベテランと呼ばれるようになっていた。
数回にわたるリカバリーガールの治癒が施される程の重体ではなく、点滴で充分だと聞いた時は胸を撫で下ろした。飯田もほっと肩の力を抜いて、無茶ばかりする親友にキラリと眼鏡を光らせると「まったくこの歳になっても変わらない」と憤った。本当に、その通りだと思う。
警察ではヴィランの取り調べが続いていたので、飯田はそちらへ向かわなくてはならないと去っていった。管轄内での事後処理に手間がかかるのはどこも同じで、その日のうちに片付けておかなければ翌日の業務に支障が出る。暇を持て余すヒーローが増えてきてはいると聞いたが、ひとたび事件が起きれば時として命懸けだ。できることはできるうちに済ましておかなくてはいけない。
「次の作戦まで、きちんと身体を休めるように、しっかりと緑谷くんには言い聞かせてくれ」
「わかった」
自分も同様の想いだったので特に異論も無く、飯田の言付けを受け取った。
深夜の戦闘から一夜明け、事務所からは次の作戦に備えて待機が命じられていた。一旦ホテルに戻って身なりを整え、一睡もできずに訪れた病院は通常なら面会を許す時間ではなかったけれど、ヒーロー専用の入り口からデクの見舞いを申し出れば通してもらえた。事件の多い都市では、こうした裏口から警察やヒーロー関係者の来訪を許してくれる病院が多々ある。
早朝で人の少ない院内のテレビ画面には、未明に原因不明のビルの崩落があったとしか報道されていなかった。それも、事前に警察と打ち合わせていた通りだ。
ヴィラン連合のことは、基本的に表には出さず処理する。無用な混乱を市民に広げることは得策ではなかったし、そうしたところで敵が炙り出せるわけでもない。だが今回の襲撃で、元ヴィラン連合の連中にはヒーロー側が残党の確保に動いていることを察知されているだろう。今後はより迅速に、かつ慎重に動く必要があったし、相手の出方を注視しなければいけない。
緑谷がいるのは、四階だ。エレベーターに乗ろうと上階へのボタンを押して、ふと、脇に設置された自動販売機が目に留まった。
「……あ」
レトロな雰囲気を醸し出すイチゴオレの紙パック飲料に、まだあったのか、と独り言ちた。幼い頃から馴染みあるパッケージの柄は、入院中の母の元に行くと必ず差し出された飲み物のそれだった。さすがに甘すぎてもう飲めたものではないが、まだこうして自動販売機のラインナップにあるということは、一定の需要があるのだろう。
無意識に懐から電子マネーのカードを取り出して、ボタンを押し、支払いを済ませていた。ガコン、とプラスチックの板の向こう側に紙パックが落ちてくる。屈んでそれを取り出すと、冷え切っていない微妙な温さで手の平に収まった。
「……ちっせえ」
こんなに小さい紙パックだったんだな、と今更ながらに少し驚く。自分がでかくなり過ぎたのかもしれない。
左手で紙パックを持ち直し、個性を使ってもう少しだけ冷やすことにした。まだ冷えていた方が飲みやすいだろう。きっと緑谷なら、懐かしいね、と言ってこんな些細なものに対しても愛おし気に眺める。見たいような見たくないような相反する気持ちを抱えて、エレベーターに乗り込んだ。
緑谷出久、とプレートが掲げられた部屋の中に、爆豪の姿は無かった。さすがに一晩共にすることはなかったらしい。顔も見ずに帰ったのかもしれないが。
胸につかえていた棘のようなものは為りを潜め、仕切られたカーテンを静かに開ける。すうすうと寝息が聞こえ、起こさないようにゆっくりと身体を滑り込ませた。
青っぽい診察着を纏った緑谷の左腕から管が伸び、一定間隔で流れ落ちる点滴の袋には、栄養剤と短時間の睡眠導入剤が記されていた。おかげでよく眠れているのか、椅子を引いて枕元に座っても起きる気配はない。瞼にかかった前髪を払っても僅かに身じろぎするだけで、健やかな眠りに笑みが漏れた。
もう互いに二十八だ。あどけない、なんて形容詞は似合わないけれど、精悍な顔つきが安らかに眠りについているとなんだか安心した。現場で会う時は張り詰めた顔ばかりだし、一年に一度の同窓会は楽しいけれど、二人きりで過ごす時間というのは片手で足りる回数だ。こうして静かな時間を過ごせるのは、ヒーローとして暮らしていると存外少ない。病院で、というのはいただけないが。
「……自分で気付け、か……」
正直、爆豪に言われた瞬間は言葉通りの意味にしか捉えていなかったが、裏を返せば気付くだけの要素やヒントはあったという事になる。
爆豪は確かに粗野で乱暴な言動ではあるが、頭の回転が速く、状況判断や思考に長けた人間だ。百パーセント無理なことを、できるとは言わない。自分に対して示されているはずの根拠となる事柄を、正しく把握できていないからこそ、緑谷に関して爆豪に後れをとっているのだ。
引退する、と言い出した時の緑谷の様子を思い起こす。彼から受ける印象の中に、後悔はなかった。寂しさや諦めは感じられたけれど、どれも前を向くために必要なことだと割り切っているように思った。むしろ、自分に「好きだ」と告げた時の方が悲しみに耐える顔をしていて、まるで自身を戒めているかのようだった。
他に、彼はなんと言っていただろう。酔った勢いだったとしても、どこかに彼が引退すると言い出した理由は隠れていないか。
―僕の役目が終わってしまったから、かな
小さな予感のようなざわめきが、彼の声色と共に思考を過る。
たしかに、緑谷は『役目』と言っていた。よく考えれば、穏やかな表現ではない。ただ単に、市民を守るヒーローとしての役目が終わってしまうと受け取るには違和感を拭えない言葉だった。
緑谷は、なんらかの役目を負っていたと仮定する。それはヒーローに関係するなにかで、その役目から開放される、あるいは役目自体が無くなってしまうから、ヒーローではいられないということ。
ヒーローをヒーロー足らしめているのは、その心はもちろんだが、個性そのものをどう使うかにかかっている。見た目がヴィランのようだ、個性の能力はヴィラン寄りだと陰口を叩かれたとしても、ヒーローとして平和を維持するために個性を使えば、それはヒーローとして賞賛される行いだ。
緑谷は、その心も個性も、違うことなくヒーローである。誰に問うてもそう答えるに違いない。ならば、彼の役目とはなんだろう。与えられたもの、演じるもの……シンプルに考えるなら、緑谷がヒーローであるために必要とするもの、なのだろう。そして自分が考えうる中で、緑谷が最も大切にしているであろうヒーローとしての資格は、個性そのもの―フルカウルの力。
しかし、役目と個性がどう繋がるのか。検討もつかない。もっとどこかにヒントはないのかと視線を滑らせた先、検査着に包まれた彼の上半身に、ふとオールマイトの姿が被った。
「……?」
オールマイトが入院する姿など目にしたことはないはずなのに、ほんの一瞬、パズルのピースが組み合わさるように眠る緑谷の姿に重なる。
ベッドの上で上下する胸。その横の、腕に触れる。想像と異なる細さに、自分の手の感覚を疑った。
「え……」
昨晩抱えあげた際に軽いとは感じたけれど、ここまで細いとは思わなかった。ヒーロースーツで補強していたとはいえ、この細さをあの時、直に感じないのはおかしい。
おそるおそる検査着の紐を解く。はだけた首と上腕部、肩、胸元は、明らかに細すぎた。絞ったという言い訳が効かないくらい、おかしな細さだ。まるで何かの反動のような、力を失ったかのような体躯だった。
「力……」
鎖骨に沿わせた指先に、ほんのりと熱を灯す。緑谷は起きない。心臓の上まで滑らせ、とくん、とくん、と緩やかな鼓動を刻む命の音がそこにあることを確認する。
決して体格に恵まれている方ではなかったが、緑谷は努力家で、鍛錬を怠るような人間では決してない。童顔に対して脱いだらすごい筋肉だよな、と同期の間でも賞賛されるくらいだった。
その強靭な肉体のイメージに反しての現状。まるで、ある人物を彷彿とさせる。あの、マッスルフォームと呼ばれるパワー増強の時限がきれてしまった、オールマイトの姿。
「まさか……」
見目は違えども、似通った性質の個性だと思っていた。だからこそオールマイトに目をかけられているのだと。けれど、この認識は根本的に間違っていたのではないか。
オールマイトに似た個性なのではなく、もしこれが、オールマイトと同じ個性なのだとしたら。
「うっ……」
深みに入りかけた思考を引っ張り上げる呻き声が耳に届き、慌てて緑谷の顔を覗き込んだ。指の下の肌が震える。持ち上がった瞼の下から現れた緑はぼんやりとさ迷い、自身に触れる存在に気付いたのか、黒目が徐々に焦点を結んだ。
「……ここ、病院だよね?」
「ああ」
「そっか……」
重々しく吐き出された息に合わせて身体から力が抜ける。外れた視線は天井を見上げ、再び瞼を下ろした。
「きみがいてくれると思わなかったから、驚いた」
とても驚いた風には見えなかったが、無言のまま彼の言葉を待つ。さすがに病院のベッドの上では逃げ場が無いから、浮きかけた腰を椅子に戻して座り直した。
「現場は?」
「一応、収束した。次の作戦は、予定通り明日だ」
「なら、まだ僕の仕事は終わってないね」
腹に力を込めて起き上がる。支えようとして、手に持ったままの紙パックの存在を思い出した。ずっと氷の個性を発動させていたから、よく冷えてパックの表面に霜がおりている。
ストローを外して、差し出した。
「……飲むか?」
目の前に現れた牛とイチゴの絵柄に、緑谷はぽかんと口を開け、戸惑いの表情を浮かべる。まあ、そうなるだろう。
「これ、どうしたの?」
「下で売ってた。で、なんか、買いたくなって」
「そ、そっか……」
受け取った緑谷は、ストローに口を付けると、ちゅうちゅうと音を立てて吸い上げた。嚥下していくその様子をじっと眺めていたら、頬を染めて恨めし気に睨まれる。
「そんなにじっと見られると、恥ずかしいんだけど」
「悪ぃ」
別に特別楽しいものでもないけれど、緑谷が紙パックの飲み物を飲んでいる姿は新鮮で、思わず見つめてしまった。
「懐かしいね、これ」
「……やっぱ、そう言うんだな」
「え?」
「いや、なんでもねぇ」
予想通りだったことに内心でなんだかほっとして、あっという間に飲み切って空になった紙パックを受け取った。その時、ちらりと袖の下に見えた腕はやはり細くて。
問うような視線を投げかけてしまっていたのだろう、緑谷は曖昧に笑むと手首のあたりを擦って、膝に視線を落とした。
「緑谷、おまえ……」
その身体は、と言いかけた口元に、人差し指が触れた。歪な右手の関節が目の前に晒され、その向こうでは寂しげに瞳を揺らした彼が首を横に振る。
「言わないで」
言葉にしてしまったら終わりなのだと恐れるように、少しでも先延ばしにするように。
開きかけた唇を戦慄かせて、ゆっくりと閉じる。泣きたくなった。諦めの感情なんて、彼には似合わない。
「きみが何に勘づいたとしても、まだ、言葉にはしないで」
「……だが、それは」
「もうヒーローとして、できることは少ないかもしれない。でも、僕にはまだやらなくちゃいけないことがあるから」
決意の宣言は、そう自分を奮い立たせるための枷のようだった。
(―そうか)
思い違いをしていたのだと気付く。緑谷は、前を向いているのではない。前を向こうと足掻いているのだ。
(でも、違う)
伝えたいのは違うことだ。なのに、上手く言葉にできない自分がもどかしい。
はだけた検査着を皺ができるくらい強く掴んで、彼の肩に額を寄せた。ツンと鼻を刺激するアルコール消毒の匂いと、鼓動の音色。緑谷の手が後頭部に添えられて、柔らかな手つきで髪を梳く。
手触りが良いのだと言って、緑谷はよく自分の髪を梳きたがった。寮生活では、風呂の後に乾かすのをめんどくさがっていると、綺麗な髪なのにと口を尖らせて、ドライヤーで乾かしてくれたりもした。
この年齢になっても未だに緑谷はこの髪を気に入っているのか。気に入ってくれて、いるのか。
何度となく指を通して、彼は何事かをぽつりとつぶやいた。
***
尊敬するヒーローは誰かと問われれば、緑谷は必ずオールマイトの名前を出した。おそらく緑谷に限らず、自分たちの世代の多くはオールマイトを理想のヒーロー像として挙げる。他のヒーローが目標でも、理夢を語るときに出る名前はオールマイトが圧倒的だった。
付き合っていた時、緑谷から同じことを問われた。自分が答えたのは、オールマイトの名ではなかった。
「……え?」
大きな目をさらに丸くして聞き返した緑谷に、苦笑した。
「そんなに驚くか?」
「いやだって、僕だよ? なんで?」
そのあたりの自覚がないのが、緑谷らしかった。
抱き合った後の、情事の名残のようなものを持て余して、灯りを落とした部屋で交わした会話は数知れない。お互い素っ裸で情緒も何も無かったけれど、枕代わりに緑谷の頭を左肘に乗せ、右手でしっとりと汗ばんだ髪を指先に絡ませる時間が好きだった。
落ち着いていく熱に身を任せてそのまま寝落ちてしまうこともあったし、興が乗って二ラウンド目に突入することもあった。
嫌だとかやめてとか言いながら、最後は乗り気になって自ら腰を振る緑谷が可愛くてしかたがなかったし、確かな幸せをお互いに感じていたと思う。それがやがて終わりゆく関係だと、心のどこかで不安を抱きながら、一度結んだ関係性は離れ難く、溺れる他無かった。
「俺が抱えてたいろんなモン、ぶち壊してくれたから」
「それ、前も言ってたけどさ。そこだけ聞くと、僕かなり図々しい奴だし」
「実際そうだろ」
家族のことも含め、三年間でどれほど彼に影響を受けたか。緑谷は、それを特別なことだとは思っていない。どれほどの恩を、尊敬を、憧憬を向けようと、持ち前の鈍感さで受け流す。
押し付けるものではないけれど、もう少し自分に対する好意を推し量れるようになればいいのに。
それを言うなら轟くんの方だよ、と緑谷には言われてしまいそうではあるが。
「お節介はヒーローの本質だっておまえは言うけど、おまえのお節介は、きっとおまえにしかできない優しさだ」
「きみは僕を買いかぶりすぎ……」
ふにゃりと頬を染めて眉を下げる。その顔があまりにも可愛くて、額に口付けを落とすと擽ったそうに笑い声を上げた。
「しかたねぇだろ。惚れたモンの弱みだ」
「弱みなんだ!?」
「っ……まあそういうことにしとけ」
「ちょっと、なんで笑うのさ」
言葉で、態度で、彼の全てを欲しがった。きっとその欠片くらいしか伝わっていないけれど、それでも良かった。全部伝わっても、困らせてしまうだけだろうから。
反面、いつかどこか遠くに消えてしまいそうな緑谷を繋ぎ止めるために、できることならなんでもしたいと思った。
ヒーローの彼が死んでしまわないように。ヒーローでない彼に寄り添えるように。
「おまえに出会えて良かった」
いつだって、それが本心で、心の一番、深いところにある想い。
緑谷は目を細めて、スリ、と枕にした腕に頬を寄せた。
「僕も、だよ。僕だって、轟くんと……その、こうしていられるのも、別に嫌ではないわけで」
尻すぼみになる口調の内容は爆弾だった。しんみりとしていた空気に着火された導火線が、治まっていたはずの熱がまだ内に残っていたことを認識させる。
がばりと起き上がり、両肘で緑谷が逃げられないように囲った。下敷きにされた緑谷は、それはもう林檎も驚くほどの赤さでワタワタと聞き取れない呟きを繰り出す。
「やべぇ緑谷。もう一回」
「えっ、待って待って、僕もう二回はイッた、って、ぁあ……ッ」
「……ほんと、おまえって……」
悪いのは緑谷だ。これは言い逃れできるはずもない。
美しい緑の瞳に映る自分が甘く笑っているものだから、ああ自分はこんな表情もできたのだなと心の奥が暖かくなる。
幼い頃に凍てついた感情を溶かし、自分自身のことを考えるということも、他人を推し量るということも、全部彼が取り戻してくれた。己の血肉を形成する言葉の数々に、一生救われていくんだろう。
それはとても幸せなことなのだ。
***
―幸福な記憶から覚めると、緑谷が寝息を立てていた。どうやら、眠ってしまっていたらしい。深夜の戦闘で疲れが溜まっていたのか、陽だまりが差し込む病室の窓は薄く開いて、中庭の風が適度な冷たさを部屋の中に取り込んでいた。
髪を梳いていた手は行儀よくベッドの上に揃い、柔らかな濃緑の髪が枕の上に散らばる。イチゴミルクの紙パックも、ちゃんとゴミ箱に捨てられていた。
千切れた記憶を繋ぎ合わせて、今ここにいる彼と夢の中のかつて頃彼を見比べると、随分と長いこと、幸せに崩れる彼の顔を見ていないことを今更ながらに実感した。
あれは、もうありえない光景なのだろうか。もっと踏み込んで、彼が抱えているものを引き摺りだしてやれていれば、今も屈託なく笑ってくれたのだろうか。
そうすれば、十年という時間をすれ違わず、常に彼がそばに居てくれるような時間を過ごせたのかもしれない。
取り戻せない時間ばかりに目が向いて、視野が狭まっていては、きっと何も聞き出せない。
緑谷は確かにあの時、幸せだと言っていた。その言葉に嘘はなかったはずだ。
「―なら、俺が取り戻してやる」
緑谷が、たくさんのものを自分に取り戻させてくれたように。