人を想うということは、かくも凛々しく、孤独で、身勝手なものである。
三章
あれは、卒業して二年ほど経った頃だっただろうか。各地に散り散りになった同期たちが、まだサイドキックとして日々切磋琢磨し、ヒーロー活動に没頭していた時期。
元A組全員参加で、成人祝いを兼ねてだとか、近況を知りたいだとかもっともらしい理由を並べ立てて、飲み会が開催された。詰まるところ、みんなで酒を飲みたいと上鳴が呼び集めてくれた。
いくつかのテーブルに別れて各々会話に華を咲かせる中、同じテーブルには障子と常闇がいた。互いの地区で逮捕したヴィランの情報やらを話していた時に、酒が入って調子づいた面々が無駄に騒がしく絡んできた。
「よーう轟、噂はかねがね」
「おう。噂ってなんだ?」
顔を赤らめた上鳴の腕が肩に乗っかる。随分と酔っていた。
「とぼけんなよぉ、このまえネットニュースになってたウ・ワ・サ」
「噂?」
「上鳴、飲みすぎじゃないか?」
複製腕でわざわざ忠告した障子は気にも留めず、上鳴が寄り掛かってきた。
「アレ、女か? ついに定めたのか?」
「女? ああ、そういやなんか書かれてたな」
「おっ、その反応は脈ありってやつ?」
「仕事で一緒になっただけだ。女とか付き合うとか、考えたこともねぇよ。それに今はヒーロー活動の方が大切だしな」
「はぁぁぁ想像通りの回答かよ……」
心底がっかりしたという体で項垂れた上鳴は、手に持ったグラスを煽る。こいつこんなに飲める奴だったのか、と思わず感心していると、酒臭い息が近付いた。
「そんじゃ、緑谷の奴のアレ、知ってるか?」
「……?」
思わず視線だけでなく顔ごと上鳴に向けると、してやった顔でニタリと笑う。
「緑谷は、絶対に恋愛報道なんて出ないと思ってたんだけどな!」
「恋愛? あいつが?」
「そうそう。なんか、前に助けた一般人? と一緒にいるところ撮られててさ。あいつも隅に置けねぇよなぁ」
羨ましい! 美人だったら許せん! とクダを巻く上鳴の叫びは左から右へすり抜けるが、意図せぬところで伝え聞いてしまった緑谷の行動に、胸の奥が冷えるような感覚に陥る。
あいつは、友人だ。大切な友達だ。そう言い聞かせて、雑念を振り払う。
奥のテーブルに座っている緑谷を盗み見ると、隣の尾白と楽し気に話していた。珍しい組み合わせだが、尾白は誰とでも話が合わせられる奴だ。ヒーローの話でもしているのだろうか、二人は時折笑顔を混ぜながら平和な空気を出している。
自分の心の中だけが嵐のようだ。轟、と話しかけてくる上鳴の声は最早意識を素通りしていて、口を付けたビールはやけに苦く、美味しくなくなっていた。
「ま、俺にだってもう少ししたら可愛い女の子と一緒に撮られちゃったりなんかして」
「上鳴いい加減ウルサイ」
「ギェ」
耳郎のイヤホンが上鳴の耳に刺さった。毎度の恒例行事のような二人の掛け合いに瀬呂や切島がはやし立て、その中心に座る爆豪が煩せぇと怒鳴ってさらに煩さが増した。
俺の目にはもうそのどれもがただの景色にしか映らなくて、ただひたすらに緑色だけを追いかけた。
あいつが何を話しているのか、何を思ってるのか、考えないようにしても知りたいと思ってしまう。あそこで笑顔になっている理由を、そのすぐ隣で聞いていられたら。
友達なら、隣に座ったっておかしくない。楽しそうだな緑谷、と。昔みたいに声をかけて、彼の声を聞いているだけで十分のはずだ。そうならなくてはと、決めた。
席を立って移動しかけた、その時。緑谷の視線が、チラリとこちらに送られた。ほんの一瞬、合わさった焦点に、動きかけた足が止まる。
「どうかしたか、轟」
常闇が声をかけてくれるまで、時間が止まっていた。そこにいろと、来るなと告げられたような気がした。緑谷の視線は、剣呑なものでも、制するような視線でもなかったのに、何故か拒絶されたのだと彼の視線を受け取ってしまった。
緑谷はすぐに視線を逸らし、尾白との話を再開した。こちらが立ち上がったことなど気付いていない。見えていた彼の横顔が隠れる。
もう隣へ行けるような心境では無くなってしまった。固まった足でなんとか椅子に座り直し、手にしたジョッキに映る自分の顔を呆然と見つめる。
だから聞こえなかった。彼がなんと言っていたかなんて。
一度近付いてしまった距離を元に戻すことの難しさは、底の見えない奈落にも似た深い深い穴を緑谷と自分の間に穿って、易々と越えさせてくれそうになかった。
***
どれだけ衝撃的なことが起ころうとも月日は流れ、毎日がヒーロー活動で忙殺されることに変わりはなかった。
オールマイト引退時、そしてヴィラン連合が勢力を誇っていた時と比べれば格段に犯罪の発生率は減っているが、日頃のパトロールの数を減らすほど平和ボケしているわけではない。
メディアへの露出は可能な限り避けてもらっているものの、それこそトップヒーローに名を連ねるからには相応のパフォーマンスだって必要になる。そうした、言ってしまえばヒーローとしての綺麗な部分というものを、より前面に出していくプロパガンダとして、自分が一翼を担っているという意識はあった。それくらいには、年を重ねて見えるものが広がった。十年前の自分なら不必要だと切り捨てていたであろう事柄に対する、分別も。
しかし、だからと言って緑谷の事を意識の外に追いやることができるはずもない。しかも勝手にあんな宣言をしておいて、今まで疎遠だったのを良いことに既読スルーまでしている。どうせ、どう返事をしようか頭を悩ませ、結果的に時間が経ちすぎてさらに返事に窮しているのではと予想はついているが。
緑谷の告白から二週間後、ナイトアイ事務所とホークス事務所の連名でエンデヴァー事務所他五つの事務所宛に通達があった。緑谷の言った通りに共同戦線の依頼であり、任務の都合上、可能な限り少数精鋭で対処したいこと、最上級の機密任務であることが記されていた。
極秘任務は至ってシンプルでありながら因縁とも言うべきものであった。保須市に潜伏するヴィラン連合の残党を、一人残らず捕らえること。最短三日、短期決戦で決着をつけることを想定した作戦だった。
世間的には、ヴィラン連合は既に過去の存在だ。
数年前、名だたるヒーローたちの活躍でヴィラン連合は主犯格が逮捕されているが、その勢力は地中深くに根を張って、未だ世の脅威から拭い去れていない。残っているのが末端とはいえ、巨大組織の片鱗だ。
思想犯として秀でていた主犯格がいなくなった今でも、彼らが築いたネットワークは、その全貌を明るみにするにはあまりにも根が深い。密輸売買から他国のヴィランとの接点まで、挙げたらきりがないほどの手口は、未だ社会を脅かす種と為りえた。
故に、かの組織はその思想が歪曲し暴発しないよう、常に監視の対象にある。
事務所からは三人が、保須市への派遣に選ばれた。そのうちの一人にと志願したのは私情も若干含まれていたものの、戦力的には申し分ないと判断されたようで、特に詮索されることなく受領されたことにほっと胸を撫で下ろした。
久しぶりに訪れたこの地には、感慨深さにも似た懐かしさが存在する。理由なんて、まだ仮免許すら取得していなかった学生の頃、緑谷と飯田の三人で捕縛したステインとの戦闘に他ならない。ステインもまた、カリスマ的な思想を持ちうる脅威だった。あの人を殺すことを躊躇わない視線に、死ぬかもしれないと初めて命の危機を感じた戦闘だった。今から思うと無謀以外のなにものでもないし、よくあんな実力で挑めたのもだと思う。あの時は必死で、緑谷を助けに行くのだということしか頭になかった。何かあったに違いないと疑わず、なりふり構わず彼の元へと駆け出すくらいには。
あの頃から、緑谷はどこか自分にとっての特別だった。彼と並び立つこと、共に戦うこと、当たり前を共有すること―彼にとって特別な存在になりたいという望みへと変わったこと。そうした、起点とも言える出来事だった。
スマホのメッセージ画面を開く。この件について担当を受け持ってから出したメッセージに対する返信はない。読んでいることだけが示されている。
ぼんやりと残ったままでいた、ずっと心の内に隠して気付かないようにしていた執着を自覚させておいて、この放置具合だ。いい加減、彼の元に殴り込んでもいいような気がした。
「轟くん! この前ぶりだな!」
「……ああ」
こちらにやってくる生真面目な友人は直角に上げた腕を振った。全身をヒーロースーツで覆っているため表情を伺うことはできないが、なんとなく想像がつくのは長年の関係性によるものからだろう。
スマホをポケットにしまう。てきぱきとした動作で隣までやってくる彼とは対照的に、素顔を晒したままの轟の表情を目にすると僅かに頭を傾けた。
「なにかあったのかい?」
感情が顔に出にくいと言われる自分の僅かな変化を見分ける飯田の観察眼に、心臓が波うった。なるべく平坦な声で、いや、と返す。
「この要請を出してきたのはナイトアイ事務所だ。詳細を見る限り、きみが手古摺るヴィランとは思えないが」
「そうだな」
「相手の個性は不明な部分も多いが、不測の事態に備えて五つもの事務所が共同で対処する。俺たちは自分が動くべき時を見極めて行動すればいい」
「わかってる」
「それとも、何か他に懸念があるのなら任務が始まる前に相談に」
「……緑谷の」
遮るような小さな呟きも律儀に拾った飯田は、言葉を止めて訝しげに首を傾げた。
「緑谷のこと、何か知らねえか」
「緑谷くんなら、本部のホテルで待機していると聞いたが……まさか勝手に先行していると」
「いや、ちげぇ。そうじゃない」
カクカクと手を動かして、眼鏡をずらすような仕草をする。そういうところの信用が未だにないところが緑谷らしいといえばらしい。冷静に状況を判断できるくせに突然本能に任せた行動をする癖は、治っているのだろうか。いないのだろうな、と勝手に心の中で帰結した。
だが、今飯田に聞きたいことは、まったく別のことだ。そして彼の勘違いの方向から、おそらく。
「あいつから、なんか聞いてねぇか」
「今回の件のことかい?」
「……」
他の誰にも引退の事は伝えていない、と緑谷は言っていた。それが、飯田の態度を見れば真実であるのだとわかる。知っているのなら、聡い彼ならば察してくれるはずだった。
チクリと、何故か胸の奥が痛んだ。
「緑谷くんといえば、先程爆豪くんの所属事務所と打ち合わせをした時、気になることを言っていたな」
「爆豪?」
「確か、『自己完結にも程がある』、と。彼らしくない物言いではあった」
久しく顔を合わせていない名は懐かしく、心をざわつかせた。そしてその言葉が意味することに、ひどく胸騒ぎを覚える。
「昔から彼は緑谷くんに対してあたりが強かったから、そこまで気にするようなことではないかとも思ったのだが……轟くんは、何か心当たりがあるか?」
「いや……」
どういうことなのだろう。爆豪は知っているということなのか、あるいは緑谷に関して別の何かがあるのか。
緑谷が引退する可能性があることを知らなければ、また爆豪が突っかかっているだけなのか、あるいは緑谷が話してくれるのを待てばいいと呑気に思えた。だが今、自分には爆豪の言葉が示唆していることを察するだけの根拠がある。
「オールマイトの七回忌の後でもあったし、落ち込んでいたところだったのかもしれないな。そういう意味では、彼も丸くなったと言うことだろうか……」
どこまでも人の良い勘繰りをしている飯田に、緑谷が何を考えているかを伝えるべきではないと判断した。緑谷が言うつもりのないことを、自分の口から明らかにするわけにはいかない。
だが、少なくとも、自分は詮索することを許されているのは確かだ。知らされないままでいることは後に悔しさや、やるせなさを生む。
既読のままのメッセージを思い返して、心臓の上で拳を握った。ジクジクと増す痛みは、ひどくなる一方だった。
ヒーローたちが待機するホテルは、当たり前だが一般には公開されていない。特にここは今、ヴィラン連合の巣の中に足を突っ込んだようなものだ。どのホテルに誰が宿泊するか、実際に事に当たるメンバーのみが知らされている極秘情報だ。
そして緑谷とは、同じホテルに泊まっている。好都合だ、と思わないわけがない。仕事中だとしても、このタイミングを逃しては顔を合わせる機会が次にいつやってくるかはわからないのだから。
作戦の決行は明け方。世間が寝静まった深夜、いつもなら眠くなっていてもおかしくない時間だが、任務前であることも相まって目が冴えていた。もちろん、緑谷のことを考えていたせいでもある。
結局、手元のスマホのメッセージに返信はなく、数十分前に送った最後のメッセージに既読はついていない。何を考えているのか、押しかける理由には十分だろう。
緑谷が宿泊している一室の前で一度立ち止まり、二度、扉をノックくる。
『……轟くん、だよね』
わざわざ確認したところで、覗き穴でこちらを見ればわかるはずだ。あえて答えはせず、仁王立ちで扉が開くのを待つ。長期戦になるならそれはそれで構わないと覚悟していたが、ドアノブは案外あっさりと回った。
頭一つ分低い位置から恐る恐るといったように現れる顔に、避けられているわけでは無いのかとほっとする。
「い、いらっしゃい」
「緑谷」
「はいっ」
「話がしたい」
殴り込みに来たのだと勘違いしていたのだろうか。心外だった。最初から、話がしたいと伝えていた。
緑谷は僅かに目を見開いて、虚を突かれたような、ハッと己の間違いに気付いたかのような顔をして、腕を伸ばした。引っ張られる形で部屋の中に入り、背後でオートロックの扉が閉まる音が響く。
「……ごめん」
「メッセージのことなら、いい。おまえのことだから、なんて返事したら良いのかわからなくなって、返信打てずにいたら間が開いて余計に返し辛くなったとか、そんな理由だろ」
「ウッ……おっしゃる通りです」
「だから、それは別にいいんだ。俺が……話したいのは、別のことだから」
「轟くん……」
わかってるだろう、と首を縮こませた緑谷を見下ろす。髪と襟のある服の隙間から見えるのは、細い首筋だ。鍛えているので体幹はがっしりしているし、バランスの取れた筋肉をつけているのに、首や腕はどうしたって太くならないのだと悩んでいた学生時代と、驚く程変わらない。
シングルサイズのベッドの端に二人並んで座った。カーテンがきっちりと閉められた部屋は、自分の宿泊する部屋と寸分違わず同じ内装だ。テーブルの上に置かれたヒーロースーツのケースは開いていて、すぐに着替えられるように準備されていた。
「……こうして並んでると、寮にいた時を思い出すね」
懐かしさの滲む声で微笑んだ。ベッドに座って、どこか遠くを見つめる瞳。そこにかつての母校や寮の影が映っているようで、静かな客室の壁にオールマイトのポスターの陰が浮かんだ。
「楽しかったよね。勉強したり、演習のこと話したり」
「三年にあがってからは、インターンでほとんど会えなかったけどな」
「それでもこうやって、時々どっちかの部屋で過ごしたりしたよね……懐かしいな」
三年の後期に差し掛かると、一年から共に過ごした友人たちがそれぞれのヒーローとしての道を歩み始め、ハイツアライアンスで顔を合わせる回数が少しずつ減っていった。
そんな中でも、学生生活は最後まで楽しかったという思い出が多い。体育祭も、文化祭も、全力でやった。ビッグスリーなんて呼ばれたりもして、一年相手に特別授業をやったりもした。
どれもが記憶に残る経験で、傍らには必ずと言っていいほど緑谷がいる。インターン先は別々だったが、学校生活は時間を共にすることがほとんどで、付き合うことになってもそれは変わらなかった。強く意識することもないくらい自然に、互いの懐を許していたのだと、思っていた。
隣に座る緑谷の手がシーツを握って、波打つ跡を生む。
「僕、きみに嫌われてるんじゃないかなって思ったこと、あるんだよ?」
突然何を言いだすのかと、思わず噎せた。よりにもよって有り得ない勘違いだ。今だって、ともすればベッドに引き摺り倒したいくらいだというのに。
咳き込む自分の背を摩り、緑谷は小さく唸る。
「嫌いとは違うかな……話しづらく思われてるんだろうなって」
「……」
「あ、やっぱりそうだよね?」
ムッとして口を引き結ぶ自分を横目に頬を掻く。あっけらかんとした口調に僅かな苛立ちが湧き上がるが、今度はまったく違うとは言えない。実際、卒業して一年は忙しさを理由に、ニュースや同期生とのやりとりに甘んじて彼の活躍だけを追っていた。メッセージを送ることすら、満足にできなかった。
まともに連絡を取れるようになったのは、同窓会で『付き合う前のような』関係に落ち着いてからだ。特別じゃない、普通の友人のように相対する一線を引いた笑顔。それが緑谷の中で線引きされたものであることは、付き合ったからこそよくわかった。わかってしまった。だから自分も、そう在るべきだと思い込んだ。
目の奥がツンとするような慣れない感覚に眉が寄る。緑谷の笑顔は、変わらず優しくて暖かいのに。
「僕が別れようって言ったから、連絡を取るのも嫌だよなって……」
「そんなわけない」
緑谷を見上げた。見下ろしているはずなのに、彼のどこか傷ついた顔はとても遠く見上げなければ判別できないような場所にあった。それが嫌で、そろそろと手を伸ばして彼の右手に自分の左手を添える。
いざ問おうとすると、言葉に詰まった。昔はあんなに無遠慮に思ったことを口にしていたのに、なんと問えば彼から答えが得られるのかわからない。しかも、どんな答えであろうと納得できない自分がいる気がして、一層先走る感情ばかりが積み重なっている。
「……ヒーローってなんだろうって、思うことはなかった?」
俯いた緑谷の、どこか自嘲めいた声色。繋がりのない問いが自分の中で消化できず、だが首は先を促すように肯定していた。
「ただ上を目指していた頃とは違う。いろんな現実を知って、それでも僕は、僕が目指すヒーローで在りたかった。綺麗なだけじゃないヒーローの世界を知っても、根本は変わらない。誰かを笑顔で助ける、あの人みたいなヒーローになりたかった」
「実際なってただろ。ヒーローデクは、笑顔で誰かを救うヒーローだ。俺も」
―俺も、そんなおまえに救われたのだと、何度伝えたか。
それでも彼は、まだ足りないのだと言わんばかりに立ち止まらない。彼の在り方が、あまりにもこわい。
「ずっと、お前は、ヒーローだ。どこにいても、誰がなんと言おうと」
「うん……そうだといいな」
どうしてそこで、顔を上げない。諦めたような顔になるんだと、悔しさが込み上げる。
彼の心に、どうすれば自分の想いは届くのだろう。響くのだろう。
「緑谷、俺が聞きたいことはわかってるだろ?」
小さな震えが手のひらから伝わる。今度は逃さないと固くベッドに縫い止めて、反対側の手は肩を掴んだ。
「酔った戯言かもしれないよ?」
「たとえ酔ってても、おまえはあんなこと言わねぇ」
「なんでそんなに自信満々な」
「好きだから」
遮るように、積み重なっていた想いは決壊した。口をついた衝動的な言葉は、音にしてようやくその意味を得る。
―だって、まだ好きなままなのだ。嫌いになるとか、そんなことを考える隙などないくらいに、一度でも心を繋げた経験は彼への好意を捨て置くことなどできはしなかった。
数秒の沈黙の後、は、と吐息に交じった困惑が緑谷の口から漏れた。目を真ん丸にして、自分を映す。ようやくこちらを見た。三十歳手前にもなって、十代の頃と変わらないあどけなさすら感じる童顔が、驚愕に彩られている。
「おまえのことが、今でも好きだから」
「そっ……それとこれとは、話が」
「違わねぇ。もう長く離れちまってたし、緑谷のこと全部わかってるなんて言うつもりもねぇけど。でも、おまえが冗談でヒーローやめるなんて言わねぇことくらい断言できる。なんか、理由があんだろ」
「あ……」
振り払おうと動いた右手がぴたりと硬直した。
けれど、あと一押しかと綻びかけた緊張を察したように、訴える、いや、内に押し込めようとしている感情が僅かに溢れようとしているのを、緑谷は唇を引き結ぶことで耐えた。
そんなにも、自分は彼の想いを受けとめるに足りないというのか。悲しいくらいの決意に、目の奥をじくじくと苛む痛みがチカチカと視界に散る。
「……っ」
気付けば、噛み付くように、彼の唇を奪っていた。
溢れてしまえばいい。ここでさらけ出してしまえばいい。
そうしないと、緑谷が、どこかに行ってしまいそうで怖い。声も聞こえない、笑顔も見れない場所へ。
「……ろ、き……く、ぁ」
はぐらかされて悲しいのか、頼りないと言われているようで歯痒いのか、怒りすぎて逆に感情が冷めているのか、最早自分でも収拾のつかない衝動に突き動かされる。
「おまえが……どっかに、行っちまう」
「んう……ぁ、やめ……て、轟くんっ」
解放した途端、大きく息を吸って縋るように腕がシャツを掴んだ。
離れようとはしないんだな、と漠然とその手を見つめる。突然の暴挙に怒って突き放せばいいのに、そうしない。
このままずっと傍にいられればいいと、彼に向けるべきではない想いでいっぱいになる。この十年、向き合わないようにしてきたドロドロとした感情が、頭の頂点から爪先まで絡みつくように身動きを取れなくさせる。
でも、それでも。
「なあ、頼むからどこにも行くな」
ヒーローデクも、緑谷出久も、どちらも大切な存在で。
「おまえは、ヒーローじゃないと、死んじまいそうで」
小さく息を飲んだ緑谷は、一度口を開いて何かを言いかける。左手に込めた力が柔らかに解かれ、代わりにぬくもりが全身を包み込んだ。
視界に揺れる緑色と、不規則に重なる心臓の音。ぎゅうと締め付けられるような切なさに、息が止まる。
「ばかだなぁ」
幼子を慰めるような緑谷の声が耳元で溶けた。
「死なないよ」
その言葉を求めていたはずなのに、正反対のことを言っているように聞こえてしまう。
本当に死なないと思って言っているのか。本心から、ヒーローをやめても一人死んだように生きたりしないと断言できるのか。緑谷出久が、遠くからヒーローを眺めているだけで済むのか。
抱き締め返すために背に向けて伸ばした手は彼に触れることなく、ぱたりとシーツに落ちた。だって、彼を抱きしめてしまえば、彼の言葉を肯定しているように思えてしまったから。
「みどりや……」
目の奥がツンと痛む。ふと、この痛みがどこから来るものなのか、唐突に理解した。これは自分の内に秘めた感情が出処を求めさ迷っていたのだ。緑谷と出会って十年間、抱え続けた想いが渦巻いている。
彼に伝えるべき言葉を探しているうちに、けたたましい緊急警報が端末から発された。即座に動いた身体は、個人としての意識を切り離しヒーローとしての思考に切り替わる。
緊張感を湛えた緑谷に頷き返し、ヒーロースーツを纏うべく自室へと走る。互いに交わす空気は一変した。
今はヒーローだ。
そう自身へ言い聞かせるのが、ヒーローという生き方なのだ。