人を想うということは、かくも美しく、無様で、尊いものである。
一章
抜けるような青空の下、黒い服を身に纏って参列する人々の間に、緑がかった黒髪を見つけた。
彼も自分も、大多数に倣って黒いスーツに白いシャツを着て、ともすれば見過ごしてしまいそうな姿形だった。けれど、自分の視界は違うことなく彼を捉え、見つけ出し、彼がこの場にいないわけはないのに、と安堵のようなものを覚える。
今日、此処に皆が集まる理由の人物を、きっとこの場にいる誰よりも尊敬し憧れていたのだから。
オールマイト、本名は八木俊典。稀代の英雄、平和の象徴がその生涯を終えたのは、もう七年も前のことだ。自分たちが雄英高校を卒業して三年ほど経った、ごくごく普通の初夏の日。
父親から極秘情報だと告げられた時、一瞬何を言われたのかわからなかった。未だに確執はありつつも、日常会話を交わすくらいにはなった自分の父親が、いつもと変わらぬ鬱陶しい暑苦しさを少しだけ潜め、毎日の調子を聞いてくるような気軽さで口にするものだから、暑さにやられて最近は随分とマシになった思考回路がイカれたのかと思った。だが、神妙な口ぶりは嘘を言うようなものではなく、自分と同じ色の瞳は柄にもなく傷ついているかのように見えた。
父親の言葉をようやく理解できた時、頭の片隅を過ぎったのは、痩せた頬を緩ませた太陽の笑顔と、あの人を慕う彼の横顔だ。一途に、感心してしまうほど一心に、あの人のように笑顔で人を救うヒーローになりたいと口にしていた彼だった。
知らないはずはないだろう。在学中から、一介の生徒と教師の枠を越えた絆を築いていたから、あるいは彼が息を引き取るその瞬間に立ち会ったのではと突飛な想像が浮かぶくらいには、自分も動揺していた。そう、動揺していたのだ。
せめてもの理性が働いていたのか定かではないが、パトロールが、とだけ零した言葉を拾った父親に、午前中だけでいい、といつもの偉そうな口調で許しがでた。午後は葬儀に行くぞ、とも。
あっという間にやってきた午後は、昼食もそこそこに、いつの間にか用意されていた喪服を纏い、葬儀場に向かった。英雄の葬送にはあまりにこぢんまりとした、だが誰もがしんみりと肩を落としたその空気は、集まったのが葬儀場でなければ、ほとんどが顔見知りとの懐かしの再会の場のようなもので。
自分以外にも、数人の旧友と、学生時代にオールマイトらと教壇に立っていた先生たちの姿があった。三年間担任だった、相澤先生もいた。彼は相変わらず仏頂面で、少しだけ老けた背格好に時の流れを感じた。
会場を見渡し、目当ての人物の姿を探した。そこまで人数も多くない中で、いわゆる親族に近い位置に、彼はいた。泣き腫らした目元は赤く、痛々しさが遠くからでもわかる。彼の隣には、彼ほどでは無いが、どこか憔悴と寂しさを滲ませながらも他のヒーローと言葉を交わす人物がいて、確かオールマイトの友人だと思い当たった。
デヴィット・シールド。アメリカ留学時代の、オールマイトの親友。彼もまた、この葬儀を取り仕切る立場にあるのだろう。
受付をすませ、足早に目的の人物―緑谷出久の元に向かった。卒業して三年。サイドキックとして日々のヒーロー活動に邁進する中、ほとんど疎遠になっていた彼との再会がこんな場所だというのが、残念に思えた。
「緑谷」
俺の呼びかけに、ぼんやりと空を見ていた瞳に焦点が宿る。明るい緑色のはずだった瞳は色素を濃くして潤んでいた。
「轟くん……お久しぶり、だね」
「おう」
ご愁傷さま―というのもおかしいような気がしたが、続ける言葉は思いつかない。残念だったな、も変だ。悲しいな、は追い打ちを掛けているようであまり口にしたくない。大丈夫か―大丈夫なわけがない。
結局うまい言葉なんて出てこなくて、咄嗟に思いついたのは、彼の目が痛そうだ、ということだった。いつもにこりと満面の笑みを浮かべていたはずの彼が、泣き叫びたいのを我慢するように目元を歪ませている。物理的に痛そうというだけでなくて、彼の内面がズタズタに切り裂かれている。それはそうだ。だってオールマイトは、緑谷出久にとってのヒーロー像そのもの。心の支えのようなものだったのだ。
「轟くん―うわっ」
気付いたら、延ばした右手で彼の目元を覆っていた。掌に個性を発動させて、彼の目元の熱がせめて取れればいいなんて、後から理由をつける。
「……だいじょうぶだよ?」
口元に刻まれた苦笑が、自分の行動を咎める。だがそこには、拭いきれない悲しみと悼みを表に出さないようにとする彼の強がりが見て取れた。
「大丈夫じゃねえ。大丈夫なわけがねえだろ」
「……っ」
怒りたいのでも、責めたいのでもないけれど、我慢するのは違うと思った。今彼の死を悲しまなければ、こいつは一人で抱えるべきじゃない感情を、抱え込む。
「泣きたいなら、泣けばいい」
「オールマイトを、笑って送りたいんだっ……」
「じゃあ、送る時は笑えよ。おまえが信じる最高の笑顔で、送ればいい。きっとオールマイトも、喜ぶと、俺は思う」
でも、泣きたいのを我慢するのはダメだ。それこそ、あの人は望まないはずだ。泣き虫は治さないと、と口を酸っぱくして緑谷に言い聞かせていたみたいだが、泣くべき時の涙を咎めたりするような人じゃない。
太陽のように笑う人だったからこそ、雨のような涙を受け止めてくれる広い心を持っていた。それは、緑谷も同じだった。ありのままの自分を肯定して、勝手に閉ざしていた道を覆う霧を晴らしてくれた。大切な―大切な友人だ。
緑谷は、歪んだ笑みを無表情へと変えた。瞬きを掌に感じ、熱を持っていた目元がいくらか冷えたのか、もういいよ、と静かに手を退かすよう促される。
「泣けって言ったり、笑えって言ったり、冷やしてくれたり……きみってほんと……」
「お。そうか」
「ふっ……へへ、変わんないなぁ」
無理をしていない、どこか甘い笑み。かつての緑谷を彷彿とさせる、どこか幼いその表情に、ほっと心が軽くなる。
「泣かせたかった」
「なんか変態に聞こえるよ、それ」
「そういうつもりじゃねぇ」
「うん、わかってる」
立ち上がった緑谷はデヴィットに何かを耳打ちすると、こっち、と建物の中へと誘った。まだ中に入る時間ではなかったが、何も言わず後に続く。
色とりどりの花に囲まれた先に、あの人の写真が置かれていた。寂しい光景のはずなのにそんなことを感じさせないのは、写真の中のあの人が最後に会った卒業式の笑顔と変わらないからか、それとも彼を想う人がこの花を飾ったからか。
段を見渡せる場所で目を細めた緑谷は、じわりと涙を目の端に滲ませた。
「少しだけ、きみに、甘えて、いい?」
「ああ」
頭一つ分の身長差。彼のふわふわとした髪の毛が口元に当たる。面持ちからはだいぶこどもっぽさが無くなったけれど、触り心地の良い髪は変わっていなかった。
頭を傾け、鼻先を埋める。三年前は当たり前にしていた仕草。癖のようなもの。それがこんな場所でも無意識に出てしまうのが、普段は感じることの無い未練を表しているようで虚しい。だがそれを差し置いても、今この瞬間、彼が抱く悲しみをさらけ出すことができる相手が自分だけであると、そう思いたかった
自分の人生を変えた三年間の中の、ほんの瞬きにも似た数ヶ月の関係。あまりに呆気なく終わってしまったあの時間は、未だ心の中に郷愁とともに思い起こされる。
取り戻したいと思っているわけじゃない。緑谷が望まない関係を続けたいと思っているわけじゃない。だから、ふとした時に顔を覗かせるこの想いは自分のエゴだ。
オールマイトという導を失ってしまった緑谷の、ヒーローである彼の笑顔にあまりにも遠い、弱々しい姿を抱き締める。轟くん、と彼のくぐもった声に、背に回した腕の力を強めた。
全身にこびりついた線香の匂いが、悲しみを閉じ込めているようだった。
あの日から、七年。
長いのか短いのかよくわからない月日が流れ、久々に見えた緑谷はさらに精悍な顔つきになっていて、幼さを削ぎ落としながら頬に散るそばかすと大きな目だけはアンバランスな柔らかさのようなものを醸し出していた。
純粋に、会えて嬉しい、と思った。この七年、会った回数は両手で足りるほど。
そもそも、ナイトアイ事務所に所属する緑谷と、エンデヴァー事務所に所属する自分とでは、活動拠点が離れている。過去に数回、共同戦線を張ったことがあるものの、その時は大きな案件として赴いた時であり、個人的な接触を図るのが難しいくらいに忙しい日々を送っていた。
雄英生として同窓会に参加はしていたし、その時は互いに酒を嗜む年頃になったことを感慨深く語ったりしたけれど、それだけだ。あの数ヶ月がまるで嘘のように、彼との関係は真っ当で健全な親友そのもの。まるで、そう在らねばならないと言うように。
父親が他方へ挨拶に向かうのを見届け、足は自然と緑谷のいる方へと向かった。
学生時代によくつるんでいた仲というのはこういう場所でも行動を共にする傾向にあるのか、彼の傍らには、もう一人見知った顔がある。
「緑谷、飯田」
「轟くん」
「久しぶりだな、轟くん」
変わらぬ眼鏡の奥の理知的な眼差しが、優しげにこちらに向けられた。さらに背が高くなっただろうか。もう二十代後半に入ったというのに、彼の上背はさらに引き締まり、特徴的な両足のエンジンは大きめのスラックスに収まっている。日々鍛錬を欠かしていないことが、見て取れた。
「結構久しぶりだよね。一年くらい前?」
「もうそんなになるのか」
「たまにメッセージのやりとりはしてたけど、最近はあんまりだったしね」
互いに忙しい身だ、というのはわかっていて、それを理由に頻繁に連絡をするのを控えていたのは間違ってはいないが、全てではない。
七年前に比べて随分と晴れやかな表情の緑谷を見下ろし、燻る例えようのない想いに返事を窮する。
「俺とは三ヶ月ぶりになるか。エンデヴァー事務所とは幾度か共に案件に対応したし、君の話を聞くことも多いからあまり久しぶりという感じはしないな」
「お互いにな」
「飯田くんは轟くんと一緒に任務に就くことがあるんだね」
「そう頻繁ではないが。エンデヴァー事務所は大きいし、他の地区に赴くことも珍しくはないようだぞ」
「轟くん、事件解決数の多さではチャート入りしてるもんね」
こちらの葛藤など知らぬ顔で、緑谷は飯田との会話に戻ってしまった。最近事務所に入ってきた新人ヒーローのここがすごい、こういう個性の使い方ならより長所を活かせる、と個性の話で持ち切りだ。その様子が、学び舎の下で切磋琢磨したあの頃を彷彿とさせる。懐かしさと、少しの名残惜しさ。よく休み時間や放課後に、三人で自主トレーニングをした時のような時間が、まったく同じではないけれどここに在る。
緑谷の横について、彼を見下ろしながらその大きな口から紡がれる言葉に耳を傾ける。相変わらずよく分析しているというか、語調はマシになったが、好きなことを語る彼の言葉は途切れることを知らない。それについていける飯田の絶妙な相槌もまた学生の頃から変わらなくて、目をキラキラとさせる緑谷を見るのが好きだなと心が温かくなる。
それができるだけの余裕が彼の中に生まれたのなら、歓迎すべき時の流れと言えるだろう。特に此処は彼の愛する師が眠る場所であり、溢れる涙を抑えることができなかったかつての悲しみが、おきざりにされていないことの証明でもあった。
「この前の、保須のニュース見たよ。インゲニウムお手柄だってね」
「それを言うなら、ナイトアイ事務所の分析力にはいつも助けてもらっている。都市間の隔たりに縛られない捜査協力は有難いと、事務所に入ってつくづく実感するな」
ヒーロー事務所はその特性上、警察のように管轄をはっきりとわけないことを協定として定めているものの、やはり事務所が幅を利かせる地域というのは存在している。全てのヒーローがかつてのオールマイトのように世界中どこへでも駆け付けることなど到底難しく、地域に根差したヒーロー活動を行うヒーロー事務所は、強個性に負担の偏らないチームプレーを重視する昨今の世論にうまく順応していた。
微風が若葉を揺らす空の下、喪服に包まれた体躯を観察するように視線を滑らせる。これは決して変態的な行為ではなく、無茶をしがちだった彼を前に自然と身についた癖のようなものだ。それが、卒業して十年経っても当たり前のように為されることは喜ぶべきか―あるいは。拳を握りしめて、邪念を振り払う。今この瞬間は、そんなことを考えるべき時ではない。自分と緑谷は、親友だ。
あの時、二人で決めた。別れを切り出したのは緑谷の方からではあったけれど、自分だって頷いた。それが互いのためだと、消えそうな声で訴える彼の願いを、受け入れた。
「そう言えば、俺はヒーロー事務所の関係者として呼ばれたのだが……二人もそうなのかい?」
「ああ。俺は親父が、アレだし」
曲がりなりにもかつてのトップヒーローエンデヴァー。既にその名は過去の英雄の一人となっているが、鬱陶しいことにまだまだ現役だ。オールマイトとも一応は親交があったということで、七回忌に呼ばれていた。
「他の皆はいないようだな。遠い者もいるし、皆それぞれのヒーロー活動に穴をあけるわけにはいかないだろう。少し残念ではあるが」
「そうだね」
緑谷くんは? と尋ねた飯田に、緑谷は、薄く笑みを浮かべ首を傾けた。
「僕は、デヴィットさんに呼んでもらったんだ」
穏やかな微笑とともに告げられた答えに、飯田はそうかと頷く。だが緑谷の顔は、僅かに強張っているように見えた。昔を懐かしんでいるようにも見えなくはないが、目が笑っていない。一歩下がって、踏み越えることを望まない線を引かれてしまったような疎外感。それはかつて、彼が自身とオールマイトとの関係を詮索された時よりも、嘘をつくのに慣れた大人の対応にも思えた。
何故今もなお、彼がそんな態度を取り続けるのか。それ以外については以前と変わらず接してくるというのに。
「……?」
ふと、堅苦しい白いシャツからのぞく首元が、想定より随分と華奢に感じられた。もともと細い方ではあったけれど、あれは学生時代の話だ。七年前に会った時はそんな違和感を覚えなかったし、それから少なくとも一年に一回は顔を合わせているけれど、細いと思ったことは無い。
パワー系の個性の持ち主である彼が、日々の鍛錬を怠るとは思えない。自分が知っている緑谷は、そんな奴ではない。
「緑谷……」
疑念を解消したくて声をかけたその時、端末の着信を示す音が流れた。飯田がポケットから取り出し確認すると、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「すまない、この後だが、事務所に戻ってくるよう指示が入ってしまった。二人と飲みにでも行ければ良かったんだが」
「そっかぁ。残念だけど」
「仕事ならしかたねぇか」
「本当にすまない」
「また次の機会があるだろ」
頭を下げてまで謝罪する飯田の生真面目さは彼の美点だ。そもそも飲みに行く約束などしていなかったのだ。顔を合わせればなんとなくそんな話になることもあるだろうが、事前に予定でも入れておいたところでヒーローは常在戦場と言ってもいい。
「そっか……」
ふと、緑谷の横顔が陰りを帯びた。引き結んだ唇が僅かに歪んだような気がしたのはほんの一瞬で、すぐに笑顔に戻る。
「また現場が一緒になることがあれば、行こうね」
「ああ! また会おう」
「おう」
事務所の所長に呼ばれてしまった飯田を見送り、緑谷はどうするのだろうと少しだけ期待した。積もるほど話があるかと問われるとそこは閉口してしまうが、緑谷の話を聞くのは嫌いじゃない。それに、もし彼の傍なら気を張っていなくて済む。
「緑谷、おまえは……」
「あ、うん。そうだよね、せっかくだし」
振り向いた緑谷は、どこか飄々とかわすように言葉を急いていた。視線はまっすぐこちらを向いているというのに、本当に自分を捉えているのか不安になる。
「……緑谷、おまえ、ちょっと変じゃないか」
「ええ? 変って、ひどいや」
「おまえらしくねぇ。また何か抱え込んでるんじゃないだろうな」
詰問するつもりはないのに、ごまかそうとする態度が癪に触って思わず手首を掴んで離さないようにと動いていた。緑谷もさすがに驚いたのか、丸く目を開いて「轟くん?」と困惑気味に身体を引く。
「っすまねぇ」
「あ、いや、いいんだけど……その、さ。別に僕、変じゃないよ?」
「本当か?」
「本当の本当……ううん、きみって変なところで疑り深いよね」
困惑から苦笑に変わった瞳が穏やかに緩まり、やんわりと腕を解くように促された。傷だらけの右手が、俺の手首を掴んで壊れ物を扱う様に離す。
既に時刻は開場を過ぎて、周囲に散らばっていた人々が建物の中へと足を運び始めていた。塊になっていた集団の向こうに、腕を組んだ父親がこちらを睨んでいる。
「……」
「そんな顔しなくても」
「顔、出てるか」
「うーん、昔ほどあからさまじゃないけど。僕はわかるかなぁ」
周囲からはここ数年、父親に反発しなくなったと言われるくらいには態度に出さなくなっていたのに、緑谷にはわかってしまうのか。バツが悪くて、踵を返す。
「あ、轟くん」
「どうした?」
「その、もし良かったらなんだけど」
両手を身体の前で組んだ緑谷が、僅かに俯きながら言う。改まった様子に、何を告げられるのかと心臓が大きく脈打った。身構えるように、顎を引く。
「終わったら時間ある?」
「ああ」
「すごく久しぶりだし、時間があったらご飯とか」
「行く」
即答すると、大きな目がパチパチと瞬いて自分を映した。
遠ざけてはいけない、と直感が告げていた。彼から目を離してはいけない。それなのに、彼の誘いに頷くと、なにかとてつもなく苦しいことが待っているような予感に、肺が重くなった気がした。
緑谷は、ほっとしたように肩から力を抜いて、後でね、と会場の中へと人込みに紛れてしまった。その背に、何故か卒業式の日のオールマイトの背中が被って見えた。