あの猫はいつもの場所で
チリリン、と店の扉が開いて最後の客が出てきた。ミケは、自分と似た毛色を腰のあたりまで伸ばした青年をちらりと盗み見て、すぐに興味を失くす。この人はこの店のマスターととても仲が良いことを知っていた。だから、警戒する必要はない。
彼の後に続くように、マスター二人とアルバイトの子が出てくる。閉店の時刻を既に一時間以上過ぎた後だったので、どうやらこのまま店を閉じて帰路に着くようだ。
黒髪のマスターからはふわりと香辛料のツンとした香りがした。猫の自分でも感じるくらいなのだから、人間にはかなり強い香りなんじゃなかろうか。しかし誰も気にする様子は無いので、慣れか、人間には良い香りなのかもしれない。
扉を閉める栗色の髪のマスターが、ミケに気付いて手を伸ばしてきた。馴れ馴れしく触れるなと最初は引っ掻き傷をお見舞いしてやったが、めげずに挑戦してくるので今は気分が乗れば触れさせてやらないこともない。今日はそんな気分だったので、好きにさせてやることにした。
すると、黒髪の方のマスターがミケの腹と喉をワシャワシャと掻いてきた。まったくこのマスターは、ミケの警戒心をいとも簡単に潜り抜けて簡単に触れてくる。手つきは優しく、うっとりしてしまうのだ。
だがされるままというのも猫の矜持が許さなかったので、軽くパンチで手を払うと、あっさりと引っ込んでしまった。押しが強いのか弱いのかよくわからない。
ミケというのは、名前だ。店を訪れる客も、マスターたちも、揃って自分のことをミケと呼ぶ。人間が付けた馴れ馴れしい名前などにいちいち反応するつもりは無かったが、マスターに呼ばれるミケという音はなぜか心地が良いので、好きにさせていた。
この場所に居を構えて数年。縄張りを争うとする他の猫たちとの戦いに勝ち、この素晴らしい場所は常にミケのテリトリーだ。
突然現れた人間が店を開こうと、用水路に架かる橋は自分の寝床で、裏の出入り口の屋根の上は日差しが暑い日の休憩場所だ。湧き水は飲み放題だし、漁港まで下りれば新鮮な魚が食べられる。時々無礼にもテリトリーを犯す他猫がいれば、容赦なく返り討ちにする。
そうして保たれてきた平穏の中で、ミケは今日も猫の一日を過ごす。
「一騎、行くぞ」
「あ、総士待てって」
堅苦しい声に呼ばれたらしいマスターが立ち上がり、ミケに向かって手を振った。すぐに踵を返してしまったので、尻尾をパタンと波打たせてそのまま丸くなる。どうせ見てやしない。
「甲洋さん、七月のメニューのことなんですけど」
「ああ、デザート決まったのか?」
「はい。あとでメール送っときます」
アルバイトの子と、栗色の髪のマスターも並んで歩き出した。遠ざかる背中と足音とは別に、ミケはふと別の視線を感じて海の方に目を向ける。
そこには、ぼんやりと誰かが立っていた。全身が淡い緑色に発光していて、すぐに普通の人間じゃないのだなとわかる。彼はミケの視線に気付いたのか、こちらを向くと口に指先を添えて「しー」と無言でいることを求めてきた。
別に驚くようなことでもないし、声を上げるような無様な真似をするわけがない。欠伸を一つ、再び丸くなるミケに安心したのか、彼は笑って四人を見つめた。
普通の人間には見えないモノが、この店には訪れる。
ミケや猫仲間たちも彼らを見ることができるし、意志疎通が可能だ。なんら特別なことじゃない。でも人間たちにとっては、泣いてしまうくらい嬉しいことや、悲しいことでもあるみたいだ。猫にその機敏はわからないけれど、この店のマスターたちの存在が、その『見えないモノ』にとっては寄る辺のようであった。
明日もミケは、今日と同じように一日を過ごす。この店を訪れる客が用水路に寝そべる自分に平和を見出してみたり、今日も一騎カレーだとか言いながらほぼ毎日昼食時に現れる二人に呆れてみたり――ミケはいつもの場所で、いつも通りに過ごすだけなのだ。