※本作は映画「初恋のきた道」をベースにした、蒼穹のファフナー 皆城総士×真壁一騎(女体化)のパロディ作品となっております。






 日本海には大小様々な島が浮かぶ。時に荒波にのまれ辿り着く事すら困難な離島のうちの一つに数えられる、竜宮島。一騎が生まれ、暮らし、二十年間を生きてきた故郷だ。
 日本はかねてより四季の美しい国と称され、古書から和歌まで風光明媚な景観を讃える記述はどの書物を紐解いても人々の心を鷲掴みにしていたのだと語る。ここ、竜宮島も四季折々の自然の豊かさは然ることながら、海の美しい島である。本土に行ったこともなければ島から出たことのない一騎ではあるが、きっとこの島の景色はいつだって変わらず美しいままでいるのだろう。
 この島には、一騎と同じく今年成人を迎えた若者が五人いる。十八歳になると本土に就職に出る者もいれば島に残る者もいて、一騎は後者。同年の遠見真矢も同じく島に残った。島を出て行った面々はいずれ島に帰るつもりなのだと言うが、一生のうち少しくらいは外の世界を見てみたいと飛び出していった。皆の決断に一騎は感嘆した。自分には到底できそうにないな、とも思った。
 狭い島の中、息苦しくもなければ大きな変化も無い。一騎は故郷が好きでここにいたいと願った。外に対する漠然とした不安もあったが、なによりここにいることは一騎にとって不変の使命のような決意を抱かせていた。変わらぬ日常と景色の中、日々の生活を繰り返すことを一騎は気に入っていたし、周囲もそれで良いと一騎が島に残ることを歓迎した。
 一騎は、島一番の美味しい料理を作る娘として評判だった。洒落た店など島には一軒も無かったが、お相伴にあずかろうと家で採れた食材を片手に多くの隣人が一騎の元を訊ねる。一騎の父、史彦は陶芸家でもあり、彼の作品がご飯と一緒に売れることもあった。本当に稀ではあるが。
 島の人は皆優しい。勉強は一つ上が教え、その上がさらに下に教える。決して裕福でお金のある暮らしではないし、書物も数えるほどしか島には無いけれど、穏やかで活気に溢れた場所だ。一騎は一生ここで暮らし、いつか島の誰かと結婚し、人生を島に捧げるつもりでいた。

 ある日、島に学校が作られるという噂が流れ、彼が海を渡ってやってくるまでは。






海の彼方より あなたへ





 船で数十分、さらに数時間電車に揺られた先からやってきたのは、十数人の男達だ。そのうちの数人は仕立ての服を着て、まるで人形のように髪を整え、背が高い。明らかに島の男達とは異なる様相に、遠目から集団を眺めていた女性陣から小さく黄色い悲鳴があがった。
 年齢は幅広く、上は父と同じくらいの人、下は一騎と同世代だろうか。随分と若く見えたが、もしかすると目が肥えていないからもっと年上なのかもしれない。彼等を出迎えた町の役人の中には父の姿もあって、船から降りてきた屈強な男性と親し気に話をしていた。どうやら知り合いのようで、なんとなくタンクトップが似ている。島出身の人なのかもしれない。
 女性陣に混じり集団を見ていた一騎は、隣で同じように野次馬をしていた真矢に声をかけた。
「あれ……学校を作るって言ってた人たちかな」
「そうなんじゃない? あんなひょろっこくて大丈夫かなぁ」
 真矢が言いたいことがなんとなく分かって、『ひょろっこい』と称された二人の男性に目を向ける。一人は、肩まである茶色の髪に緩くウェーブがかかった、優し気な面持ちの人だ。終始にこやかで、隣の同僚らしき人に話しかけている。彼の隣、つまり話をしているもう一人は後ろ姿だけで顔は見えないものの、腰まで伸ばされた髪はまるで女性のようだ。竜宮島でも、あそこまで髪が長いのは神社で巫女をしている立上芹くらいだろう。
 二人は、周囲のいかにも大工やら力仕事を任せられそうな男性たちと違って、勉強ができそうなイメージをそのまま体現していた。学校の先生、ということか。島の女性にとって力仕事ができる男性というのはとても魅力的だ。『ひょろっこい』と島で生活なんてできやしない。逆に美丈夫というのはほとんど見たことがないものだから、彼等に熱い視線が送られているのも、なんとなくわかる気がした。
「一騎!」
 突然、父に呼ばれる。
 こっちに来い、と手招きされて、思わず一歩後ずさった。あの中に来いと言うのか。
「父さん、何を……」
「紹介する。娘の一騎だ。差し入れや料理は、こいつが担当することになるだろう」
 なんだそれ聞いてない。というか差し入れってなんだ。何を勝手に決めたんだこの父親は、と無言で睨み上げるが、父のポーカーフェイスは固かった。一騎が放つ圧力をひしひしと感じているだろうに、淡々と話を進める。
「機材が届くのは明日以降だと聞いている。申し訳ないが、大勢を収容できる宿泊所が無いからいくつかの空き家を用意させてもらった」
「構わねえよ。こっちもこんな大勢で来るつもりは無かったんだが、こいつらがどうしても手伝うって聞かなくてよ」
「これから赴任する場所ですから、事前に交流は深めておきたいですし。な、総士」
「……ああ、そうだな」
 総士、と呼ばれた人が振り向いた。
 正面から彼の顔を見つめる。長い髪を緩く束ね、一騎より少し高い背丈はしなやかで予想していたよりがっしりしている。なによりも、彼の造形……まるで晴れた日の本土の稜線のように滑らかで美しく、夜と朝の境を切り取ったような灰色と紫を混ぜた瞳は相対する者を引き込む魅力があった。
 息をするのも忘れて、一騎は総士に目を奪われた。父が隣で何かを説明しているが、正直頭には入ってこない。耳が、彼の声以外の全てを遮断しているみたいで、ふわふわと足下が覚束ないのに胸も顔も頭も沸騰しそうなくらい熱い。なにがどうしてしまったのかわからないまま、我に返ると総士は荷物を持って移動してしまっていた。
「一騎くん? 大丈夫?」
「遠見……」
 俺、いったいどうしちゃったんだろう。
 熱かったと思ったら今度は泣きそうだ。目が痛い。喉も痛い。きっとみっともなく潤んでいる。
「どこか具合でも悪い?」
「ううん……」
 むしろ具合が悪くないから、突然のことに理解が追いついていない。
 ひとしきり一騎の背を撫で大丈夫だよと言い聞かせてくれていた真矢が、ぽつりと呟いた。
「格好良かったねぇ、二人とも」
 ぶわり、と総毛立つ。肩が跳ねて、また胸の辺りが熱くなった。
 真矢は目を丸くして、一騎の様子にふと大人びた笑みを浮かべた。
「一騎くん……それはね、きっと恋だよ」
 一目惚れしちゃったんだねぇといつもの甘い声が、少しばかり嬉しそうな響きを伴って一騎の心を撫でた。
「こ、い……?」
「うん」
 柔らかな手が一騎の甲に触れる。真矢は、時折こうして一騎を慈しむような仕草をする。亡き母のようでいて全く違う、背中をぽんと押すように優しい時もあれば、問答無用で力強く導いてくれることもある。今は、怖がらないで、逃げないでと決して目を逸らさないように導いてくれている。
 海風が髪を揺らし、まるで語りかけるように細波が謡う。一騎は髪を抑え、彼等が上っていった道を見上げた。竜宮島にはたくさんの坂道があり、全ては頂上に繋がっている。学校は一番の高台にできるのだと聞いていた。どの道を辿っても、その先には彼がいるのだ。
 日常に新たな出会いが扉を叩いてやってきた。一騎は胸を抑え、あの美しい灰色に自分が映ることがあるのだろうかと、少しだけ楽しみになった。


++++++


 学校に赴任する二人の名を、春日井甲洋と皆城総士といった。一騎とおなじ二十歳で、本土の優秀な学校を卒業し研究所という施設に所属しながら人の生活をよくするための何かをしているらしい。この島に学校が建設される計画は、総士の父、皆城公蔵が推進していた事業の一環だそうだ。公蔵は竜宮島の出身で、本土では名のある財閥の当主を務める。息子の総士は優秀な研究者として公蔵の事業を手伝っており、一騎には想像もできない世界だ、と食事を作る傍らの会話に耳をすませながら煮込んだ具材を皿に盛っていった。
 打診もなしに決定事項となっていた食事担当の件は、正式に史彦と相手方のリーダーを務める溝口から言い渡された。溝口も父の古くからの知り合いだそうで、本土の人とこんなにも交流があるとは失礼ながら意外だ。同時に、少しだけ父が遠い存在に思えた。
 一騎が用意する食事は、昼。もちろん調理をするのは一騎だけではなく、もっぱらメニューを決めるのは年上のおばさま方だ。
「それにしても、甲洋君と総士君は綺麗な子よねぇ」
 世間話に華を咲かせるのも厨房の楽しみの一つらしく、一騎以外はほとんど年上が集まっている場は甲洋と総士の話題で持ち切りだ。やれ昨日の佃煮を美味しそうに食べていた、本を読むときは眼鏡をかけている、花の名前を教えてあげた等々。接点を持ちたくとも、とてもそんな勇気が沸かない一騎にしてみればそれだけが二人の、強いて言えば総士の情報源だ。島は狭いが、生活の中では顔を合わせることもない。
「いつも本を持っているけど、夕方になったらすぐ寝室に戻って読んでるらしいわよ」
「甲洋君は子供達と遊んでくれるけど、総士君はそんなタイプじゃないのかねぇ」
 積極的に学校作りには参加しているようではあるが、あまり人に教えるタイプではないのかもしれない。それならどうして先生になんて、と疑問に思ったが、答えを聞く相手はいないので小松菜を炒めるのに集中する。火加減を間違えるとすぐに苦みが勝ってしまうから、なるべく火が通り過ぎる直前で味付けをすませて皿に上げる方が良い。余熱でちょうどいい歯ごたえを残しつつ皿に移すと、その上に豚肉を甘辛く炒め餡を絡めた主菜を盛った。彩りにニンジンシリシリと、ご飯と味噌汁。今日の昼食の完成だ。
「あら一騎ちゃん、もう終わったの?」
「あ、はい」
「さすが手際が良いわねぇ。あとはやっておくから、二時間くらい休んできていいわよ?」
「ありがとうございます」
 言葉に甘えてエプロンを外し、一直線に帰宅した。

 作業場でろくろを回していた父に「ただいま」と声をかけ、隣に座る。父の「おかえり」は聞こえない。集中しているときは何を言っても耳に入らないのだと知っている。
 足下のバケツには、まだ半分程の土が残っていた。これなら、少しくらいもらっても文句は言われないだろう。
「今日もやるのか」
 水で濡らした手で土を掬い、おおまかな形を作ってろくろの中心に置く。頷くだけで父に応え、足下で低い唸り声をあげ始めた機械の速度を微妙に加減しながら、ろくろを回し始めた。
 なだらかな曲線を描くように指を当てる。すぐにぺしゃりと歪んだ。
「あ……」
「まだまだだな」
 隣から父の手が伸びて、無惨にも裾が広がってしまった器の口を丁寧に直していく。
 こんな無骨で骨張った手なのに、なんでこんなにも繊細な動きができるのだろうか。幼い頃から父の手元を覗いてきたが、見ているのとやってみるのとではこうも違うのだとしみじみと実感した。
 あっという間に湯のみ程度の大きさになった土の塊に、口を尖らせる。
「俺が作りたいの、茶碗なんだけど」
「それにはまず土の量が少なすぎる」
 端的に返されぐうの音も出ない。今日の猶予は二時間。もう一つくらい、と形になった湯のみを崩して一度塊に戻し、バケツから拳大の土を足していった。
 父に茶碗を作りたいとせがんだのは、一週間程前のこと。総士たちにご飯を振る舞い始めてから気付いたが、この島には食器が足りない。父の作品をかなりの数を提供したが、一つでも割れたら予備は別の家から取ってくる必要がでてくる事態だ。
 それなら、と一騎は自分が作ると言い張った。素人には無理だと一蹴されたが、作業場に入ることは止められなかった。料理作りはちゃんとやっていたし、父の食事を用意するのはいつも自分だ。好きな時間を何に費やそうとそれは一騎の勝手であり、父が何も言わないのならそれこそ勝手にやろうと空いている時間は作業場に入り浸るようになった。
 結果はそううまくいくはずもなく、こうして教えてもらうことになったのだが、なにしろ言葉より見て覚えろを地でゆく父だ。教師役など向いてはいない。今日も勝手に直されて、崩してはもう一度試す。ここ一週間同じことが繰り返されている。
 これを使ってくれるかもしれない総士のことを考えながら、ひたすらろくろを回した。結局、彼とは一週間経っても言葉一つ交わしていない。おそらく彼は一騎のことなど忘れてしまっているに違いない。だが一騎の中で総士の存在は日に日に重みを増して、彼のことを考えるととても幸せな気持ちになった。料理を作っているときも、彼が使うタオルを洗濯しているときもそう。一騎が作ったご飯を食べる姿を遠くから見ているときは特に、胸がぎゅうっとなる。
 学校建設に、女性が関わることは禁じられている。彼等と交流がもてるとしたら、作ったご飯を食べてくれることだけだ。ごちそうさまも、美味しかったも聞くことはかなわない。
 けれど、一騎が作ったものを総士が残さず食べてくれているのだ。それだけで嬉しくて、毎日料理をすることが楽しみになった。食べるときの彼の癖、表情。その日の味付けを彼がどう思っているか、箸が進まないのはどんな料理か。小さな変化も逃さないように、ただひたすら、彼を見続けている。
 彼の舌に合うものを作りたい。毎日の料理が、彼の力となるために工夫を凝らしたい。二十年間料理をしてきて、初めて生まれた欲求だった。自発的に何かをしたいと思うのがこんなにもドキドキするのだと知って、もっともっとと手は動いた。新しい料理にも挑戦してみたかったが、文字が少ししか読めない一騎に料理本は手が届くものではなく、試行錯誤を重ねながら知識を増やした。肉を柔らかく煮込むために、一時間鍋の前から動かないなんてこともした。
 ただの片想いだ。見てもらいたい、とか、知ってもらいたいとか。願いはあったけれど、叶うようなものではない。彼は教師で、頭が良くて将来有望で。一騎なんかと釣り合うはずもない。ずっと島にいるわけでもないのだろう。いつかは、いなくなってしまう。
 つきりと痛んだ胸をごまかして、一騎は料理作りと器作りに励んだ。

 春を迎えた竜宮島。桜が花開き散り始め、一騎の器に父からの及第点がもらえた頃、学校は完成した。
 総士が島に来て、三ヶ月が経っていた。


++++++


 紫陽花が色付き桔梗が地面を彩り始めると、夜雨から晴れ間が顔を出して朝はやってくる。
 頑丈な紐で母が昔編んだという籠を手に、一騎は坂を登った。杏や李、梅が成る木は、ちょうど家から坂を挟んで反対側だ。季節の果物を収穫するのは女性の仕事で、毎年この時期には籠を持った年頃の女性があちこちでそれぞれの畑からもぎ取る光景が見られる。幼い頃は手伝うとお駄賃としていくらか分けてもらえたから、この島で暮らすのならば当たり前の常識であった。
 一騎は人より体力があって、籠いっぱいに採っても平気で坂の上り下りができる。普通は半分くらいで音をあげるというから、みんなは大変だなぁと思いつつ見えてきた校舎の屋根に自然と口元が笑んだ。
 春に完成した校舎には三十人弱の子供たちが通っている。授業は無料で、年長組と年少組で二つの教室に別れて読み書きを習得していると聞いた。
 総士が担当しているのは年長組の教室で、甲洋の授業と比べて落ち着いた雰囲気だ。甲洋がどうとかではなく、年少組は生徒の方が遊びたい盛りのせいで座っていられずに外に飛び出してしまうのだ。それでも甲洋は決して勉強を強いることなく、遊びを取り入れながら計算や本を読んだりと工夫を凝らしている。
 総士の教室は、黒板という濃い緑色の板に石灰を固めた棒で文字や数字を書き連ねている。時々、総士の声に混じってカンカンと硬いもの同士がぶつかり合う音がして、まるで合いの手みたいなそれを聞いているのが一騎は好きだった。
 今日も総士が授業をする校舎の裏、大木の幹に腰掛けて耳をすませる。風に乗って、総士の低い声が届いてきた。最初は冷淡と思ったが、子供たちの前で話すことに慣れてきたのか声に柔らかさが滲むようになって耳朶をくすぐる。さわりさわりと青々とした葉のこすれる音に、総士が偉人の歴史を語る声。微睡むのさえ惜しい時間がここにはあって、教室で彼の授業を受けられる子が少しだけ羨ましい。一騎にはもう絶対に無理だ。こうして梅を採りに行く時間を割いてでしか彼の存在を感じる手段はない。
「――彼が残した言葉で有名なものが……」
 目を閉じて、総士がどんな顔で授業をしているのか想像した。並んだ十の机の一番前、黒板を背に本を開いて、あの端正な顔が真剣に教室を見渡している。自分がその中の一人なら、彼の言葉をひとつ残らず聞き漏らさないように集中しているだろうか。いや、彼の声は子守唄みたいに心地が良いから、暖かな日差しと相まって意識がさらわれてしまうかもしれない。ちゃんと授業を聞け、と怒られる想像すら幸せで、彼のいろんな声を、感情を、表情を見たいなと思った。
 言葉を交わしたこともないのに、想像ばかりが膨らんで懸想に拍車がかかる。真矢にはいい加減話しかけてみなよと忠告されてしまった。実際、学校が完成した今、彼等と話をすることは禁じられているわけではない。変わらず食事は一騎が作っているし、あの溝口という人はよく話しかけてくれるので顔なじみになっている。たまにリクエストを受けることもあって、今日収穫する杏で杏酒を作るからと伝えたらそれは飲んでみたいと人好きする豪快な笑顔で頭を撫でられた。
――あ、そうだ。ずっとここにいては美味しい杏を誰かにとられてしまう。
 今更ここを通る理由を思い出して、慌てて裾についた土を払って籠を持ち直した。名残惜しいけれど、今日はここまでだ。
 校舎裏の壁に手を添える。一枚隔てた向こうに、総士がいる。絶対に触れられない距離はきっと変わること無く、壁の向こうとこちらが交わることは無い。それでも一騎は、彼のために毎日ご飯を作る。少しでも自分の何かが役に立てば、彼がこの島で暮らすための一助になればと願いながら。
 壁から手を離し、焦がれる想いをそのままに一騎は坂を下りた。眼下に広がる海はとても美しくて、抜けるような初夏の青は彩に溢れ一騎の心を優しく包んでくれた。総士もこの青を綺麗だと思ってくれたらいいなと、そんなことを思った。



 初夏が過ぎ本格的に夏の太陽が顔を出すと、オレンジの収穫がはじまる。黄金に輝く夏の果実は水分を多く含み、絞って水と少量の砂糖を加えると子供から大人まで大人気の飲み物になる。皮の部分は細く刻んで甘く煮詰めたり、すり潰して料理に使ったりと用途は幅広い。
 オレンジの木は背が高く、脚立に上らなければ手が届かないので実を穫り籠に入れる者と下で受け取る者とに分かれて作業を行う。言わずもがな、一騎は毎年脚立に登ってオレンジを穫り、籠いっぱいにして真矢に渡す役だ。あまり調子に乗ると詰めすぎて、「重すぎて受け取れないよお」と困り顔をされてしまう。
「遠見、そろそろいいかー?」
 声をかけるが答えはない。あれ、と周囲を見回すと、四つ向こうの木で、おそらく受け取る拍子に落としてしまったのだろう、散乱したオレンジを真矢が拾っていた。
 あれは結構かかりそうだと判断し、おとなしく脚立の上で待つことにした。もう一度声をかけようかとも思ったが、焦らせるよりは向こうを早く終わらせてしまった方がいい。落ちたオレンジにはすぐ虫が寄ってくるから、拾わないと食べられなくなってしまう。
 島の南側の斜面に位置するオレンジ園は、夏の日差しを受けてとても暑い。梅雨を過ぎた数日前から、湿度が肌にまとわりついて汗がじとりと額に浮かぶようになった。だが同時に、緑が眩しいこの時期は海風が木々を揺らす。足下に気をつけていないと、つむじ風が大地を素早く駆けて身体ごと攫われてしまうくらいの強さだ。
 肩にかけていたタオルで汗を拭い、斜面の奥、丘の上へと視線を送ると、太陽は中天から少しばかり傾き始めていた。
 そろそろ年少組の授業が終わる時刻だろうか。毎日、甲洋が丘から伸びる一本の道を辿って子供の帰路に付き添っていて、オレンジ園の女性たちはその様子を見るのが密かな楽しみになっていた。甲洋はとても社交的な性格で、時々オレンジ園の中までやってきて話をして帰っていく。ここで果実摘みをしている女性の全員の顔と名前が一致していると言うのだから、とてつもなく記憶力が良くて彼が知らないことなんておそらく無いに違いない。
 緑のカーテンのように連なる林の向こうから、子供たちの笑い声が聞こえてきた。先を駆ける男の子たちと、その後ろから女の子に囲まれた甲洋が姿を見せる。今日もご苦労様、と心の中で労いの言葉を贈って微笑ましい光景に目を細めていると、やけに長い列が彼の後方にもできあがっていた。
 なんだろ、と首を傾げていると、いつもはこんなところに来ないもう一人の先生が、風にさらわれないように髪を片手で押さえながら坂を下っていた。シャツの首元を寛げ長袖を肘まで捲り、ラフなズボン姿は文句無くかっこいい。女の子数人に手を引かれ、振り払うこともできず困っているようだ。
 あまりの出来事に、オレンジ園の中が騒然となる。総士君がいる、とひそひそ話が木の裏で連鎖し一騎の耳にまで届いて来た。ちなみに、一騎がオレンジを穫っている木の一番近くを通るルートに彼はいる。
「珍しいねぇ、皆城君がここを通るなんて」
 いつの間にか脚立の近くに真矢がいた。一騎は同意も否定もできず、ぽかんと口を開け総士に目が釘付けになっていて、真矢はくすりと笑みをこぼす。
 すると、子供たちの中から一人の少女が真矢に向かって大きく手を振った。姪の美羽だ。今年で六歳になるが、村の子供達の中でも特に働き者で、学校に通うようになるまでは小さな診療所に務める両親の手伝いで村中を駆け回っていた。そのおかげか、彼女の名を知らない島民はいない。
「美羽ちゃん、走ると危ないよー?」
「だいじょうぶだよ、真矢お姉ちゃん!」
 元気一杯に走り出した少女に腕を掴まれたままの総士は、つんのめりながら「危ない」だとか「走るな」だとか言いながら腕を引かれて此方にやってきた。
 なんでこっちに来るんだ、とは言えず緊張に籠を持つ手が震える。皆城総士が近くにいる。せめて顔は見られたくなくて精一杯の抵抗をしようとオレンジに向き直る。遠くからだと会いたい、彼をずっと見ていたいと思うのに、近くなればなるほど彼の視界に入りたくなくなって頭の中が混乱した。
 黄金の果実に助けを求めて、手を伸ばす。正に『身体をさらうような風』が吹いたのは突然のことだった。
「――っ」
 あ、と思う暇も無く、強い風が一騎の身体を後ろに倒し、脚立に絡めていた足が支えを失う。腕から籠が滑り落ちて、重力に逆らえぬまま視界が反転する。
 地面にぶつかったら死んじゃうのだろうか。しかも彼の目の前で。ああ、やっぱり話をしておけば良かったのかもしれない。危険な状態になっていると、どうやらいろいろなものがスローモーションになって時間の進みが遅く感じられた。オレンジに傷がつかないといいなあ、なんて呑気に宙を舞う夏の果実を心配しながら、せめて痛くないようにと衝撃に備えて目を閉じる。
 どすん、と鈍い音と、顎が何かにぶつかってがくんと仰け反る。地味に衝撃が強くて、背に回る腕を思いきり掴んだ。頭が抱え込まれているのか、固い土の匂いではなく陽だまりの縁側みたいな優しい香りがする。
 ―腕?
 顎から頭に突き抜けた痛みに涙目になりながら目を開くと、やはり誰かの腕が目の前に在った。
「……つぅ……大丈夫か……?」
 おそるおそる、頭上の声に導かれて顔を上げると、目と鼻の先で端正な顔が一騎を覗き込んでいた。切れ長な瞳が目尻に伺うような色を乗せ、一騎の頬に手を伸ばす。指先が触れた部分が引き攣って、咄嗟に顔をしかめた。
「顔に傷がついてしまったな……すまない、ちゃんと助けてやれなくて」
「ぇ、いえ、あの」
「時折強い風が吹くとは聞いていたが、あんな風が突然吹き下ろすとは……お前も無理をして遠くのオレンジを穫ろうとするな。見ていて心配になる」
「え、あ……見てて?」
 なぜだか最後の部分が引っ掛かって問い返す。なんとなく、今見ていて、というだけではない気がした。
 総士はちょっぴり気まずそうに視線を泳がせると、唇をきゅっと一つに結んで真剣な眼差しを一騎に注いだ。
「いつも斜面に実る果物を収穫しているのは知っている。それに、ご飯も……ありがとう」
「知って、たのか」
「ああ。最初に、この島に来た時に紹介されただろう? あの時から、気になってはいたんだ」
 総士が自分を認識していた。これまで一度として目も合わせたことがないのに、一騎の存在を気に留めていた。
「話しかけたくとも何を話せばいいのかわからないし、厨房には入るなと怒られてしまって……礼を伝えるのが遅くなってしまった」
「お……おいしい、か?」
「え?」
 蚊の鳴くような小さな声しか出なくて、もっと頑張れよと自分の喉を叱咤する。聞き返してくれた総士の優しさに頬を染め、もう一度ちゃんと音にした。
「ご飯、美味しいか?」
 ぱちりと瞬いた灰色の瞳が綻び、今まで聞いたどんな声よりも優しくて暖かい声音が一騎を包んだ。
「ああ……僕が知るどんな料理と比べても、一騎が作ってくれるものが美味しい」
 嬉しくて、張り裂けそうな胸の鼓動を抑えるのでいっぱいいっぱいで、大きく頷いた。口を開いたら嗚咽にとって代わられそうで、目にはもう水の膜が張っている。こんなにも胸が暖かくなる涙を流したのは初めてだった。総士の腕のぬくもりが拍車をかけて、一騎の心を解していく。
 ずっと彼がどう思っているのか知りたくて、微かな仕草からでも読み取ろうと必死だった。総士は、美味しいと思っていてくれていた。一騎が作ったのだとちゃんとわかって、食べてくれた。
 自然と頬は弛み、泣きながら笑顔になった。総士に微笑みかければ、一瞬で目元に朱が差して困ったなあみたいな顔をされた。
「わあ、二人共『かっぷる』みたいだ!」
 囃し立てる女の子の声に、どきりと肩が跳ねる。カップルだ、お似合いだなんて楽しそうにはしゃがれてしまっては、総士が迷惑に思うかもしれない。止めるべく身体を起こそうとしたが、総士の腕がそれを許してくれなかった。身体の前に回っている手が、そろりと一騎の腰を掴む。普段人に触れられない場所だ。びっくりして身体が硬直していると、なんだか視界が暗くなって総士の顔がものすごく近くにあった。
 触れそう、と思っても身体は動かない。総士の瞳に一騎の顔が映り込んでいて、なんだか贅沢だなあとうっとりとした。
「はーい、二人共そこまで。一騎、怪我してるなら消毒してもらいなよ。いつまでその状態でいるつもりなんだい」
 甲洋に指摘されて、はっと自分達の状態を思い出す。彼の膝の上に乗って、まるで離さないと言わんばかりに一騎の身体を囲うように腕が回っている。慌てて飛び退こうとすると、しぶしぶといった体で腕の拘束が解かれた。
 総士に触れていた。いや、総士が一騎に触れていた。どちらでも同じだが、あまりの事態に遅れてやってきた羞恥心が汽笛を鳴らして耳から吹き出そうだ。顔は既に真っ赤なのが一騎自身にもわかって、地面に座り込んだ足に力が入らない。
「一騎くん大丈夫? 変なことされてない?」
「どういう意味だ、それは」
「オレンジ落としちゃったの拾ってるから、動けないようだったら言ってね。真壁のおじさま呼んでくる」
 華麗に総士をスルーした遠見は、ものすごく格好良く見えた。
 差し出された手を握って立ち上がる。服についた泥を簡単に払っていると、同じく汚れを叩き落としている総士の背中が草と葉まみれなのに気付いて当たり前のように手を伸ばした。ぽんぽんと自分でやるのより遥かに丁寧にそれらを落としていく。綺麗な服を汚してしまったのが申し訳なくなって、そう言えばまだお礼も言っていないと慌てて頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう」
 総士は、構わない、となぜか緊張の面持ちで一騎を見下ろしている。お礼になるようなことはできるだろうか。ご飯はいつも作っているし、一騎に恩が返せる手段なんて料理くらいしか無いのだが。と、地面に転がるオレンジに目がいった。
「じゃあ一騎、悪いんだけど俺たち、麓に子供たちを送ってやらなきゃいけないんだ。無理はしないように、何かあったら遠見先生のところ行けよ?」
「うん、ありがとう」
 別れの際、総士と目が合った。心配そうではあったけれど、大丈夫という意味を込めて手を振る。ほっと緩んだ空気に背中を押されたのか、物理的にも子供たちに引っ張られ、二人は丘の下へと姿を消した。
「一騎くん、痛いとこない? 歩けそう?」
「あ……ああ、うん。ごめん、オレンジ拾うよ」
「それは大丈夫だけど……あれでしょ、皆城くんにお姫様抱っこしてもらって緊張したんでしょ?」
「おひめっ……!?」
 あまりにお言い様にびくっと背中が揺れると、真矢がいいなあと腕を組んで嬉しそうに頷いた。
「一騎くんかわいいからなぁ、絶対に皆城くんも一目惚れだと思うんだけど」
「ひとめぼれ……え、俺がって話だよな?」
「逆だよ、皆城くんが」
 総士が、一騎に?  冗談だろうと思ったが真矢は本気のようで、顎に手を置いて険しい顔をした。いやそれはないと断言できるのだが、今それを言ったところで聞いてもらえない気がするのは長年友人として接してきた経験によるものだ。なにやらブツブツと呟いているが、一騎は取り敢えず気にしないことにした。
 オレンジに傷がないかをひとつずつ確認し、籠に詰めていく。このオレンジで、総士にジュースを作ろう。砂糖の甘さはあまり得意では無さそうだから、果実の甘みを全面に出した方が好みだろうか。皮ごと濾すことで、栄養もたくさん取れる。丸ごとオレンジを使う作り方は時間がかかるので普段はやらないが、総士のためならどんな手間暇をかけてもかけすぎることはない。結局、料理でしかお礼はできないけれど、美味しいと言ってくれたのだからもっと美味しいものが作れるようになりたい。食べてもらいたい。
 総士の指が触れた頬。もったいなくて顔が洗えそうにないなと浮かれた気分は収まりそうになかった。



 夏の間、授業がある日は必ず校舎裏に通って総士の声に耳を傾けた。雨の日は大木の根元に座って。晴れの日は校舎の壁に背を預けて。総士は知らなかったようだけれど、一騎の行動は小さな島の中ではまたたく間に広まって、厨房に立っていると「今日も行くんでしょ?」とあたたかな眼差しを向けられた。
 だいたいの若者が本土に渡って、そこで恋人を作り結婚をしてこの島に戻ってくる。島の中で恋愛をするには周囲は皆知った人ばかりで、降って湧いた普段とは毛色の異なる色恋の話題に女性陣は色めき立って盛大に応援してくれた。良い人たちなのだが、如何せん「キスはしないのか」「告白すればいいのに」と踏み込んではからかってくるものだから心休まらない。
 彼女達の後押しがあって、というわけではないが、一騎自身も少しだけ話かけてみる努力をした。最初は心臓が張り裂けるかと思ったが、甲洋もその場にいてくれてうまく話題を繋ぎ、いつの間にか週に二日、一騎の家に夕飯を食べに来る約束ができあがっていた。迷惑じゃないか、と心配する総士に、「もっと色々食べてみてほしいから、嬉しい」と告げると仏頂面になってしまった。不快にさせてしまったかと青くなっていたら、甲洋が「大丈夫、満更でもないって顔だから」とフォローをいれてくれて。眉をしかめて睨みつけているのに満更ではないとは、さすが長く友人を続けている人は違うなと感心した。



 夏を過ぎても続いている習慣。緑の木々は色を変え、青空に赤や黄色、橙色が映えると空気は途端に乾いて澄んだ感触を肌に感じるようになる。実りの秋は、一騎にとって一年で特に好む季節かもしれない。
「総士、お待たせ」
 夕暮れが窓の外で宵闇に変わり始める時刻に総士はやってきて、二人で食卓を囲む。お盆の上にはご飯と味噌汁、今朝捕れた秋刀魚と大根の和物。こんがりと焼き色のついた秋刀魚がご飯から昇る湯気と混ざりあって、なんとも食欲をそそる出来だとちょっぴり自画自賛した。
 難しい顔をして難しい本を読んでいた総士が顔を上げて、一騎の手の中の夕食にほっと息をつく。小さな卓袱台に二人向かい合って座った。
「いただきます」
 自然と揃う声に居心地の良さを覚える。
 父は溝口さんたちと一杯やると言ってでかけたから、今日中には帰ってこないだろう。
 綺麗に魚の身をほぐしていく総士はとても几帳面だ。魚の骨の間までしっかり残さず食べる。けれど内臓系は苦手らしく、言葉にはしなかったが苦味に顔をしかめていたから以降は丁寧に取り出すようにした。苦いものが苦手なのではなく、単純に内臓を食べているという事実に抵抗があるのだと語ってくれて、そんなものかと適当に相槌をうったら不満そうな顔をされてしまった。
「そう言えば」
 味噌汁のお椀を置いて、総士は不思議そうに言った。
「ご飯茶碗だけ揃っていないんだな」
「……ああ」
 家にある食器類は、だいたいが父の作品だ。古風な人で、昔から家族というのは同じ釜の飯を食べ同じ柄の茶碗を使うもの、と決まっているらしい。今はそんなこだわりも無いのだろうけれど、新調する物でもないので使い続けている。そんな中、総士の茶碗だけは、一騎が作ったものだ。薄い紫を着色したシンプルな色形で、総士に使ってほしくて父に習った作品。わざわざ見せびらかすことでもなくて伝えていなかったと、今更ながらに気付いた。
「総士が使ってるのだけ、俺が作ったから」
「……お前が?」
 左手で椀を持ち上げしげしげと眺める。あまりじっと見られると恥ずかしいので、できれば一騎がいないところでやってほしい。
「……すごいな」
 純粋な賞賛の言葉に顔が熱くなった。
「その……総士に、使ってほしくて」
「っ……そ、そうか」
 総士も顔が真っ赤になっていた。二人して俯く。気まずくは無いけれど気恥ずかしくて、無駄に箸が音を立てる。
 熱い頬を持て余してしばらく黙ったまま秋刀魚を口に運んでいたら、あっという間に食べ終わってしまった。白米のおかわりは求められず、総士の茶碗に緑茶を注ぐ。
「今日も美味しかった。旬の秋刀魚はやはり味が良いな。大根の和物も、少し辛味が効いていて好みだ」
「そっか……えっと、総士は、何かリクエストとか、食べてみたいものとか、あるか?」
 思い切って気になっていたことを聞いてみると、総士はひとつ瞬いて、懐かしむような表情になった。
「そうだな……昔からカレーは好きだ。家庭的な料理を食べたことがないからあまり役には立てそうにない」
「本土にいた時に、料理は?」
「幼い頃は母が。最近は、ほぼ外食だった。抜くこともあったしな」
「ちゃんと食べないと、体力保たないだろ」
「ああ……そうだな、お前の手料理を食べるようになって、いろいろと思い出した」
 懐かしそうに目を細め緑茶を見つめる総士の視界には、きっと一騎の知らない時間が映し出されているのだろう。言葉通り郷愁に駆られているのだろうか。寂しそうな微笑に苦しくなって、一騎はまっすぐに総士を見据えた。
「じゃあ、とびきり美味しいカレーを作るよ」
 カレーは、一騎の得意中の得意料理だ。珍しいスパイスなどが手に入った時は、だいたいが一騎の腕でカレーとなって皆に振る舞われる。一日煮込んだ一品は、本土に渡った誰もが一騎のカレー以上に美味しいカレーを知らないと言ってくれるくらいなのだから、かなり自信を持っていた。
「スパイスが手に入った時だけだから、すぐにとは言えないけど」
「スパイスとは本格的だな」
「そうかな……でも分量とかよくわからないし、いつも感覚っていうか、その時の気分で味付けてるだけなんだけど」
 そう言うと、総士は家の中をくるりと見回して意外そうに呟いた。
「料理本の類いは見ないのか」
 そうか、そう言えば知らないのだった。当たり前のように接していたから忘れていたけれど、そもそも一騎は。
「俺、少ししか文字が分からないから、本とか読めないんだ」
 あっ、と総士が気まずそうに息をのんだ。そんな傷ついた顔をしなくても良いのに、すまない、と謝られてしまって、努めて明るく返す。
「あ、でも時々不便なだけで、ここにいる分には全然不便とかじゃないし」
「……それでも、配慮にかけた発言だった。許してほしい」
 許すもなにも、怒っているわけじゃない。どうしよう、と眉を下げていると、総士の目が強い光を帯びて一騎をひたりと見据えた。
「僕が教える」
「え?」
「もし、本を読みたいという願望があるなら、僕が文字を教えてやる」
 思ってもみないことを言われて、皿を片付けていた手が止まった。いまさら勉強など考えたこともなくて、そもそも文字を教えてもらうのはどういうことなんだろうかと想像がつかなかった。必要なら勉強しても良いのだろうが、今の一騎には特に有用性が無い。まったく読めないわけではないし、計算も会話も特に問題がないからだ。
「ううん、いいよ」
 首を横に振ると、総士はがっかりしたのか肩を落として「そうか」と囁いた。そんなに一騎に文字を教えたいのだろうか。だが一騎には、もっと大切で好きなことがあった。
「俺、総士の声を聞いてる方が好きだ。本を読むよりも、いっぱい話してくれる方が嬉しい。そうだ、わからないところがあったらそこを総士が読んでくれればいいんだ。そしたらいっぱい声が聞ける」
 我ながら良い思いつきだ。これなら総士の声も聞けるし、一騎が文字を覚える練習になるかもしれない。
 総士はぽかんと間抜けな顔をしていた。彼らしくなくて思わず苦笑してしまうと、一騎、と呼ばれて首を傾げる。何かを言いかけているようだが続く言葉にはならない。やがてゆっくりと息を吐いて、「いや、なんでもない」と卓袱台に肘をついて口元を手で覆った。
 変な総士だなあと思ったが、時計を見るとそろそろ彼が帰る時間だ。さっさと片付けてしまうべきだろう。ざあざあと蛇口から流れる水が冷たくて、夏の頃の気持ち良さはとっくに過ぎ、冬がすぐそこまで訪れているのを実感した。総士に手伝ってもらって、二人で流し台を囲みながら、明日の昼食の話をした。

 その日の夜、帰ってこないと思っていた父がガラガラと玄関の戸を開けて帰宅を告げた。びっくりして目が冴えてしまい、玄関まで出迎える。
「お帰り、父さん。今日は飲んで帰るって言ってたからもっと遅いのかと思ってた」
「いや……飲みはしたが」
「酒臭いぞ。風呂入らないで身体拭くだけにしといた方がいい」
 ああ、と覚束ない返事は酔っぱらいのものではあるが、千鳥足ではないだけまだましだ。ふらふらと襖に手をつく姿に飲み過ぎじゃないのかと小言が飛び出す寸前、重く静かな声が床の間に響いた。
「お前は、総士君が好きか」
「え……」
 突然落ちてきた雷のように、父の問い掛けが心に突き刺さる。一瞬何を言われているのか思考が追いつかなかったが、徐々に意味を理解して変な声が出た。
 冗談で聞いているのではない。父の目は真剣で、幼い頃から一騎の意志を最優先にしてきてくれたからこそ、これはちゃんと答えなければならない問いだと背筋を伸ばす。
 好きか、と問われれば、間違いなく好きなのだ。総士のことが好き。共にいたいと思うし、彼の為にできることはなんだってしたい。彼が笑えば心が温かくなる。彼が辛そうにしていれば、寄り添ってその背を撫でたいと思う。声を聞けば一日が輝いているし、姿を見ることができればこの世に生まれて来て良かったとすら思う。
「好きだよ」
 たった四音の答え。一騎をじっと見下ろしていた父が、そうか、と複雑そうな声で呟いて「もう寝る」と寝室に上がってしまった。どういう意味なのかを知るのは、三日後の朝のことだった。


「本土に戻る……?」
 昼食の準備のため、厨房を訪れるのは朝の八時だ。ひととおりの家事を終えて集まってくる人たちの中でも年配の女性が、残念そうに頬に手を当てて「総士君がねぇ」と切り出した。
「なんでもここに来る前に務めてた仕事先に、戻って来いって言われたらしいわよ」
「せっかく子供達も授業に慣れてきたところだっていうのにねぇ」
「総士君って、本土ではかなり有名な務めた先の出身らしいわよ。父親の希望もあるみたいで。それがなんでこんな辺鄙な島で教師なんてやってるのかしら」
 どこまでが噂か事実か。鍋をかき混ぜながら、ぐるぐると頭の中も「何故」を繰り返して目が回る。足の下にあるはずの地面が、やけにふわふわとスポンジみたいに柔らかい気がして咄嗟に鍋の取手を掴んだ。
 いやだ、行ってほしくない。総士の声が聞けなくなる。総士のためにごはんを作れなくなる。出会ってたった半年の間に、一騎の心は全部総士に奪われてしまっていた。彼無しでは生きていけないんじゃないか、そう怖くなるくらいに。
 昼食の準備が終わり、一目散に校舎裏に走った。いつもなら息切れなど起こさないはずの坂で、心臓がどくどくと鳴り荒く息を吸う。ぜえ、と喉が枯れる音が秋枯れの大木の下に響いた。
「――次のページは……」
 壁の向こうから、総士の声がする。
 島の日常となった光景。子供達の騒ぎ声と、それを諌める甲洋の声。静かに淡々と、時折質問を織り交ぜながら進む総士の授業。一騎にとっての、掛け替えの無い時間。
「そうし」
 壁に手を置いて、向こう側に語りかける。
 聞こえるはずもないと言うのに、必死に壁を引っ掻いて額をつけて、呼びかける。
「そうし」
――行かないで。

 授業が終わってお昼の時間が始まっても、一騎は校舎裏から動くことができなかった。戻って配膳の手伝いをしなければならないのに、初めてすっぽかしてしまった。皆には悪いことしてしまったけれど、力が抜けて立ち上がれそうにない。呆と空を見上げて何も考えられずにいると、校舎の角を回った先から人影が飛び出して来た。
「一騎!」
 珍しく焦った様子で総士が駆け寄ってくる。そんなに慌ててどうしたのだろう。昼食の時間だから、今は子供達と一緒にご飯を食べているはずなのに、こんなところに来るなんて、と思っていると、座り込む一騎の傍らに膝をついた総士が息を呑んだ。
「お前、どうして……」
 泣いているんだ。
 目尻を優しい手付きで拭われて、一騎は自分が泣いていることに気付く。目の前がぼやけてもいないし、総士の顔ははっきりと見えるのに、頬を伝う涙はとめどなく溢れて顎からぽたりぽたりと膝に染みを作っていた。膝の上の手に総士の手が重なって、甲を優しく撫でる指先にさらに心が凍てついていく。この手が遠くに行ってしまうのだ。
「一騎……まさか、聞いたのか」
 苦しそうな声が胸に刺さり、膝の上の手に力が籠る。撫でていた指が握り締めるものに変わって、すまない、と謝る姿に頭を振った。
「どうしても行かなきゃいけないのか」
「……ああ。元々此処には、今年の終わりまで居る予定だったが、早く帰るように実家から連絡があった」
「そう、だったのか……」
「来年からは、新しい教師が赴任する。……すまない、隠しているつもりでは無かった」
「……いつ、行くんだ」
 一騎の問いに、総士は目を伏せて重々しく吐き出した。
「……明後日」
 息が止まる。そんなに早く、急に戻らなければならない用事ができてしまったのか。父が昨日言い出しかけた内容はこれだったのかと目の前が暗くなる。
 泣き腫らした目を隠すように抱き締められて、総士の服に涙の跡が移った。
「そんな顔をしないでくれ、一騎。僕も、こんなに此処を離れ難く思うようになるとは思わなかった。お前がいてくれるから……僕は此処に帰って来たいと思う」
 ごそりと上着から何かを取り出して、一騎の手の上に乗せた。赤色と琥珀色の糸で編み込まれたそれは髪を留める為の結い紐で、見覚えのある特徴的な編み方は島の神社が作っている物だとわかる。島の神様の加護が宿ると云われる装飾品は、特別な日に受け取るのが習わしだ。何故総士がこれを、と驚いていると、身体を離して一騎の大好きな声が語り出す。
「お前の誕生日が近いと聞いたから、渡そうと思ったんだ。最近、調理の際に髪を纏めていただろう? 普段使える物でお前が気に入りそうな物を考えていたら……これくらいしか思いつかなかった」
「総士が、俺に……?」
「立上と言ったか、彼女に教えてもらった。健康と幸福を願う琥珀色の糸と、贈った者との永久の縁を願う赤色の糸で、解かれぬ絆を意味すると。お前に貰ってほしい」
 離れ難きを耐えるのは一騎だけではないのだと知って、また涙が零れ落ちる。ちゃんとお礼を言いたいのに、この紐をプレゼントしてくれるはずだった日に総士はもういないのだとわかってしまうと、どうしても悲しさが先に立つ。こんな状態では総士に申し訳ない。後ろ髪を引かれるような別れは一騎だって避けたいのに、込み上げるのは行ってほしくないと縋る想いばかりだ。
 掌に乗ったそれを握り締めて、ぐっと想いを胸の内に堪える。笑って、総士を見上げた。精一杯の感謝を乗せて。
「ありがとう、総士」
「すまない」
「謝ることじゃない……待ってるから」
「待っていて、くれるのか」
 一騎がそうしないわけなど無いのに、くしゃりと顔を歪ませて総士はもう一度一騎を抱き締めた。感極まった、包み込むような優しさが心地良くて肩に額を擦り付けて頷いた。
「此処で待ってるよ。お前がまた、海を越えて来てくれるのを」
「……十二月二十七日」
 小さな声で囁かれ、え、と聞き返そうとすると総士の声に力が籠った。
「僕の誕生日だ。それまでに帰ってきてみせる。だから……カレーが、食べたい」
 島一番美味しいと誰もが口を揃えて絶賛するカレー。総士に食べさせてあげると約束をしてから、結局スパイスを手に入れることができないでいた、総士のためだけの特製カレーを。
「カレーだけじゃない。お前が作る料理も、何もかも……全部が、僕にとって」
 そこから先は、言葉にはならなかった。いつも冷静で穏やかな水面のような総士の声は、嵐の前の日のよう不安定に揺れている。
 総士が待っていることを望んでくれるなら、一人で待つよりもずっと心強い。
「カレー、とびきり美味しいのつくるから」
 一騎にできることはそれくらいだ。でも総士は、それで良いのだと言ってくれている気がした。

 次の日、高そうな服を着た大人達が総士を連れ戻しに来た。期限は明日だと言っても取り合ってもらえず、結局一日早く島を出ることになった総士を近くで見送ることは叶わなかった。一騎は、海に一番近い島の先端まで全速力で走って、小さく地平線の向こうへと消えていく船を、ずっと見つめていた。総士に貰った髪留めを握り締めて、夕日が沈むまで、ずっと、ずっと。泣き崩れそうになっても、帰ってくると約束してくれた総士を信じていたかった。



 誕生日、毎日ご飯を作ってくれてありがとうと子供たちから花束をもらった。さっそく居間に飾ってみると、随分と色鮮やかになって家の中が実はとても寂しいことに気付いた。史彦があまり派手な内装を好まないこともあって、カーテンの色も白や茶色ばかりだ。
 花瓶の傍ら、袋に入れて大切にしまっておいた髪留めに指を絡めた。これを初めて着ける日は誕生日にしようと決めていた。高鳴る心臓を抑えながら髪を束ねていく。肩を越すようになってから、切らないで毛先を整えるだけにした。あまり伸ばしすぎても似合わない気がして気が引けていたのだが、総士がくれた髪留めを毎日つけることを考えればそれなりに長さは必要だ。
 使い古した鏡の中の自分を覗き込む。首を傾けるとかろうじて視界に入る髪留めは、自分がつけるには明るすぎて少しばかり躊躇いが生まれる。似合っているのだろうか、とつけたり外したりを繰り返してみたが、三度目でふわりと懐かしい声が「似合ってる」と言ってくれた気がした。振り返っても誰もいない。心臓が煩いくらい音を立てているのに、部屋の中は対象的な静けさが広がっていた。
 総士の声だった。ちゃんと残っている、一騎が大好きな声。
 おそるおそる鏡の前に戻って、髪一本一本を丁寧に手櫛で梳き留める。首元は少し寒かったけれど、こうしているとまた総士の声が聞こえる気がして安心した。

 ひたすら総士が帰ってくるのを待ち海辺を訪れた。秋も深まり冬の気配が近付いて来ると、島は途端に気温が下がって肌寒さが増す。海風は刺すような冷たさを伴うけれど、髪留めを外すつもりはなくてマフラーを首に巻いて過ごした。
 手持ち無沙汰になった時は、教室の掃除をするようになった。総士がいつ帰ってきても良いように、二日に一回は机を磨いて床を掃く。一通り終えれば彼の声を思い出しながら、校舎裏の大木に背を預けて眼下の海を眺めた。
 彼の為に作ったお椀は、布に包んで食器棚にしまってある。せっかくだからカレー用の皿も作っておこうかとろくろを動かし、父の仕事を手伝いながら日々を過ごした。
 柿の収穫の時期が来て、脚立に上ると総士と初めて言葉を交わした日を思い出した。籠半分に詰めた柿は固めの歯触りで甘味が強い。これも総士に食べてほしかったなと残念に思った。
 総士がいなかった頃、自分は何を考え、何を目標に生きていたのだろうか。どうやってこの先の人生を生きようとしていたのか、もう思い出せないくらい総士の存在が大きなものになっていた。総士が生きる世界と、一騎が生きる世界は本来まったく交わるはずもなく、けれど二人は出会えた。そして、恋をした。総士の隣で生きる日を祈った。総士がいなければ、もう一騎は一騎でいられない。好きだと、そればかりが生きるための感情を創り上げていた。
 校舎の裏から見上げる空は深く濃い赤に染まって、うつらうつらと木の葉の影が身体の上で揺れる。心地良い風に寝息を立てている一騎の上に、濃い影が落とされた。
「……一騎」
 それは父のものであったが、返事をするのも億劫なほど微睡みは一騎の意識を捕えて離さない。
「待っているのは、辛いだろう」
 父の声には、悔恨の響きがあった。そんなふうに言わないでほしいと思った。たとえ何があっても、総士を待ち続けると決めたのは一騎の意志だ。そうしたいと思ったからそうするのだと、誰に咎められようと待ち続けるのだけはやめない。
「もし彼が帰ってこなかったら……その時は……」
 そんな事、言わないで。総士は帰ってくると約束してくれたんだ。
 だから、きっと……絶対に。


++++++


 年末には友人たちが年越しの為に島に戻って来て、久しぶりに賑やかな声が響いた。幼い頃から共に育った友人達と話をするのは気が楽で、やはりと言うべきか、総士のことは皆に話すはめになった。
「それで、一騎くんずっと待ってるの?」
「まあ……うん」
「いいなあ、その人すごく幸せだね」
 彼女に好かれた方が幸せなのではと思うくらい優しい笑顔を浮かべる羽佐間翔子。その隣では、この二日間で翔子に一目惚れして剣司や衛に揶揄われている甲洋が座り大人達に酒を注いでいる。翔子も剣司も衛も、一騎の大切な幼馴染みだ。彼等は島を出たけれど、関係は変わらない。皆、最後には必ず島に戻ってくる。
 明日は、総士の誕生日だ。帰ってくると約束した日。海が見える場所で待とうと決めていた。総士が乗った船を、一番に見つけることができるように。
「カレーは、もう準備してあるの?」
「昨日作ったんだ。明日には、もっと美味しくなってる」
「一騎くんのカレーは、世界一美味しいよ」
 翔子がそう言うと周りも同じように口々に美味しいと褒め、照れくささに肩を竦めていると甲洋が「あいつにさあ」と切り出した。
「絶対自分より先にカレー食べるなって脅されたんだ」
「総士が?」
「そ。だから俺もお預け状態ってわけ」
 ひどいだろ、とウィンクまでされて、甲洋もこの島に随分と馴染んだよなあとしみじみと感じた。最初の頃は総士ほどでは無かったけれど、やはりどこか身構えていたところはあったが、今は立派な島の住民だ。甲洋自身、本土に戻らず島で教師を続けていたいと言っている。
 総士も同じように思ってくれているだろうか。この島で先生として生きていく道は彼には勿体ないような気もするけれど、そうであったら嬉しい。
「総士もさ、いろんなしがらみの中で生きてきたんだ。あいつの家は本土では結構名が知られてて、この島に来たのは一時的な気分転換も兼ねてた。仕事で行き詰まってあっちに居辛くなって、でも優秀で影響力はでかい奴だからさ。総士の父さんがこの島に学校作るって言い出した時、あいつを連れ出すチャンスだと思った。別の場所で頭空っぽにしてみろって無理矢理連れてきた」
 総士からも聞いたことがあった。狭い視野でしか物事が見れなくなった自分を連れ出してくれて、甲洋には感謝していると。気分転換程度にしか考えていなかったこの島での生活を、総士は『僕が得たい思った平和そのものだ』と言ってくれた。大切にしたい、総士にとっての第二の故郷が此処にあると、はにかみながら。
「俺は良かったと思ってる。あいつは本土にいた時よりずっと生きているように見えた。毎日をちゃんと、足を踏み締めながら生きてた」
「そう……だったらいいな」
「違いないよ。あいつがあいつらしくいられる場所は、一騎の隣なんだって俺は信じてる。一騎がこの島にいてくれて、本当に良かった」
 向かいに座っている真矢の、「私もそう思うよ」と彼女らしい甘やかな声。彼女に肯定してもらえると、そうなのだと素直に受けとめることができて心が軽くなる。両手を添えたグラスを見つめながら頷いて、明日が楽しみだと騒ぐ面々に苦笑した。
 どうしてもぬぐい去ることのできない一抹の不安は、心の奥に燻ったままでいた。



――総士は、帰ってこなかった。
 年が明けて春がきて、彼と初めて言葉を交わした夏を過ぎても、一騎の二十二歳の誕生日になっても、雪が竜宮島に降り積もっても。いくら待っても、総士が海の向こうから帰ってきて「ただいま」を言ってくれる日はこなかった。


++++++


 とぷん、と足を海に浸ける。眼前に広がる水平線。夕暮れの太陽が赤く空を染める中、くっきりと浮かぶ稜線の境。
 総士を乗せた船は、未だ水平線の向こうから姿を現す気配は無かった。
 寄せて引く波は穏やかであるのに、一騎の心は夜の深く暗い海の底に在った。冷たくて、凍えそうで、身動きの取れない水底。どれほど目を凝らしても、総士はいない。現れない。太陽はすでに沈み、あとは宵闇が訪れ黒く塗りつぶすのを待つだけの海。街中では薄らと降り積もる雪を見て子供達がはしゃぎ、寒い夜になりそうだと大人達は暖炉に火を焼べている。そんな中、素足を真冬の海水に浸けるなど正気の沙汰ではないとわかっていても、少しでも総士の近くに行きたくて無意識のうちに波打ち際に靴を脱ぎ捨てていた。
 島に渡航する便はすでに最終を迎えている。これ以上待ったところで総士が来ないことは理性ではわかっていた。どれほど焦がれても、総士の姿は島には存在しない。
「そう、し」
 今日、十二月二十七日は総士の誕生日だ。総士と出会って二度目の冬。食べたいと言っていたカレーを用意した。ご飯は火加減に気をつけて、少しだけ固めでカレーに合うように炊き上げた。器は、何個も作ったうちの一番出来の良いものを選んだ。全部、全部総士のためだ。総士が笑ってくれるように。おかえりなさい、と言う為に。
 それなのに。

「総士、総士」

 一歩ずつ海の向こうへと足を進める。海面が膝まで到達すると、こっちには来るなと言わんばかりに一騎の身体を押し戻す強い波がきた。
――俺は、そっちに行くんだ。
 総士は此処にいない。だったら、一騎が迎えに行けばいい。この海の向こうに総士はいるんだ。邪魔をするな、あちらに行かなければいけないのだから。
 足が動かし辛くなってきて、転びそうになるのを何度となく堪えながら前へ進む。海の向こうへ。海の底へ。
「一騎くんっ」
 がくんと膝の力が抜けて、背後から誰かに腕を掴まれた。腕どころじゃない、身体ごと引っ張り上げられて、陸へと連れ戻される。砂のじゃりじゃりとした感触が、包丁の切っ先で突くような痛みを伴って足の裏を刺した。それなのに、麻痺したように生身の感覚が遠い。
「一騎くん、そっちに皆城くんはいないよ……!」
 真矢の声だった。いつも柔らかく響くはずの音は悲鳴に近く、一騎の心に引き裂くような痛みを齎す。
 どうしてこんなに辛そうに一騎の腕を掴んでいるのだろう。水に濡れた両手両足を砂まみれにして、それは違うと、選んではいけないと訴えている。
 掌を見つめる。視線をそのまま海へと移して、先程まではくっきりと見えていた水平線が闇の中に消えていることにぞっとした。
 自分はどこに向かおうとしていたのだろう。いや、総士のいる場所だ。
「遠見……総士は……?」
 真矢なら、どこに彼がいるか知っているのではないか。実は一騎がちょっと目を離していただけで、家には総士が帰っていて、一騎のカレーを待っていてくれているのではと、微かな期待が沸き起こる。
「皆城くんは……いないんだよ」
「いない……?」
「今日は、帰ってこれなかったんだよ。だから一騎くん、家で待とう? 一日遅れちゃっただけで、明日は帰ってくるかもしれないよ」
 嘘だ。だって総士は、誕生日までに帰ると約束してくれた。その約束があったら総士を待っていられたのだ。
「総士」
 はらりと髪が目にかかる。あれ、と不思議に思った。ちゃんと総士にもらった髪留めで縛っていたはずなのに、どうして髪が解けているのだろうかと後頭部に手をやって、手に触れるべき紐を探し当てる事ができなくて血の気が引いた。
 無い。総士にもらった髪留めが、無くなっている。
「なんで……っ」
 必死に砂浜に膝をついて砂を掻き分けた。やけに鮮明な視界には、一騎が求めるものは映らない。総士とのたった一つの繋がりが失われてしまう。早く見つけなければ、と砂の上を這いずり回っていると、ぷつんと何かが切れる音がして腕から力が抜けた。砂浜に崩れ落ちた身体に砂が纏わりつく。
 ふらりと視界が暗転し、真矢が自分を呼ぶ声が遠くに聞こえるような気がした。身体が重い。寒いのに熱くて、近いものが遠くへと離れ、世界が反転する。
 暗い海の向こうに、淡く夕暮れ時の雲の色が揺らめいた。総士の髪はあんな色だった。空に溶けてしまいそうでいて、はっきりとした輪郭を持っていた彼の横顔。かずき、と呼ぶ声を久しく耳にしていなかったから、早く彼の声が聞きたくて手を伸ばした。

――待って。そっちに行くよ、総士。

 いくら叫んでも、総士は一騎を振り返ってくれない。

――いかないで、

 高熱を出して倒れた一騎は、処方された薬を飲んでも症状が改善する気配が無く布団の中で夢現を彷徨っていた。目が覚めても時間の感覚は曖昧で、ふとした拍子に総士の声が聞こえると校舎裏を歩き回る姿を咎められては再び熱を出す。次第に総士の名を口にすることすらなくなって、下がらぬ熱に浮かされながらただ生き繋いでいる状態の娘に史彦はある決意を抱いた。
 子の事を想うのなら、総士を好いていた一騎を諦めさせるべきだった。総士が帰ってこられない可能性は高かったし、公蔵が総士を早々に呼び戻したのは彼の力を必要としていたからならば、そう簡単に区切りを付けるのは難しいに違いない。ただの友人同士、離れ難くとも時折会える程度の仲で留めておけば、一騎はこんなにも辛い想いをせずにすんだであろう。
 けれど、好きにさせてやりたいという気持ちが勝った。史彦自身が、今は亡き妻に惚れて妻の姓である真壁を継いだように、一騎にも誰にも左右されず己の道を進んでほしかった。親のエゴにすぎない。苦しむ一騎を前に、本当に正しかったのだろうかと自問する。後悔だけは避けなければと、史彦は筆をとった。
 宛名は、一騎が待ち侘びている人。この手紙が彼の手元に届く前に、公蔵の目に入れば破り捨てられる事も考えられた。それくらい厳格な奴だと、竜宮島で幼馴染みとして育った史彦はよく知っている。だが、ここは引く訳にはいかない。
 手紙が届くまで最短でも四日。せめてそれまでに、一騎の状態が回復することを祈るしかない。
「一騎の心を、君は連れて行ってしまったのだな……」
 一騎が必死に探していたという髪留めを見つけたと訪れた真矢や甲洋の声にも微かな反応しか見せず、一騎は暗く沈んだままでいた。もう、限界だ。これ以上は、一騎が壊れてしまう。
 襖を少しだけ開けて静かな寝息を確認し、隣の自室へ戻って目を閉じても眠気が訪れる気配は無かった。船に運ばれ、今手紙はどの辺りを進んでいるだろうか。一日でも早く総士の手元に届く事を願って止まなかった。


++++++


 総士の声が聞こえる。
 一騎を呼ぶ声だ。でも、どこから呼ばれているのかがわからない。自分がどこにいて、どこに立ち、目を開いているのかどうかすら。
 かつては暗い海にいた。重くて苦しくて、次第に抵抗する気力もなくなって、どこにもいない場所へ沈んでいくのにただじっと身を任せた。
 どこに行っても総士はいない。校舎裏で彼の声を聞くことはできない。家に夕ご飯を食べにくることもない。
 ああ、もう総士無しでは息をすることすらできなくなってしまった。このまま呼吸を終えれば、思い出の中に埋もれて大好きな総士の声に包まっていられる。
 どろりとあまい誘惑は一騎の意志を覆い、暗い海の底に誘う。そこに居場所があるのだと教えるように。

――かず……き……

 闇ばかりの視界に、一本の糸がゆらりと揺れた。金色と赤色に輝く糸は螺旋を描いて一騎のすぐ側までゆっくりと降りてくる。

――……一騎

 今度は、はっきりと聞こえた。優しくて暖かくて、ずっと聞いていたいと思う大好きな人の声。

――僕を置いていかないでくれ

 おかしなことを言うな、と一騎はまどろみの中で考える。置いていくな、なんて。自分が総士を置いていくわけがないのに。
 紐に手を伸ばし、指先が触れる。重かった身体が少しだけ軽くなって、しっかりと握りしめた。

 総士に「おかえり」を言わなくては。
 (目が覚めた先に総士がいなかったら)
 それでも待っていると約束したんだ。
 (もう帰ってこないかもしれない)
 その時は、またこうやって沈むだけだ。

 この声に応えよう。置いていくなと総士が願うなら。
 なにより、一騎が総士に会いたいから――


 朝日だ。カーテンの隙間から差し込む眩しさに目を細め、起き上がる。家の中に人の気配がないから、父はもう仕事に出たのだろうか。ならばこの日差しは朝日ではないかもしれない。カーテンを開けると、あたり一面真っ白で、今は冬だったろうかと時間の感覚が曖昧だった。
 夢を見た気がした。総士に呼ばれる夢。この一年、聞きたくてたまらなかったあの人の声が、すぐ近くで日常を刻んでいる、そんな優しい夢を。
 外は快晴で、雲ひとつない青空の下を歩く。足は丘の上を目指していて、どうして自分がそちらに向かっているのかもよくわからない。行ったところで総士はいないのに。同じ結果だとわかっていても、いつか彼の声が聞こえる日が来ると信じて、繰り返してはその度に落胆して。
 坂を登りきると汗がどくどくと流れ、息切れを補うように心臓が早く鼓動を刻む。日差しが降り注ぐ校舎に一歩一歩近づいていくと、二つの声が届いた。
 ひとつは、甲洋のもの。もうひとつは。
 校舎の裏ではなく正面にまわり、青空教室となっているその場所の入り口で足を止めた。
「総士先生、こっち教えてください!」
「あ、私の方が先に手挙げたのに」
 わいわいと机に向かう子供達の騒ぎに混ざって、亜麻色の髪が揺れた。見覚えのある赤と琥珀色を編んだ紐で緩く髪を結び、眼鏡をかけて、子供達を諌めながら一人一人に寄り添って質問に答えている。
 目の前の光景が信じられず動けないでいると、一騎に気付いた子供がわっと大声を上げた。
「一騎だ!」
 立ち上がってこちらに向かって走ってくる。彼に連れて他の子供達も一騎の存在に気付き、ゆっくりと立ち上がった彼もまた、一騎を視界に捉えた。
 目を大きく開いて、堪えきれない喜びと安堵を浮かべた表情で一騎へと駆け寄り、そのまま彼の腕の中に囲われていた。
「一騎っ……!」
 総士の腕は震えていた。そうか、総士も寒かったのかと彼の背に手をまわす。彼の腕の中はすごく温かくて、一騎は自分が寒かったのだと知った。
「夢、なのか」
「夢じゃない。お前も僕も、ここにいる」
 ここにいる。もう喪失に怯える必要も、彼を求めてさまよい歩く必要もないのなら。
「総士、総士……!」
 どれほど引き寄せても足りない。もっともっと近くに総士を感じたい。
「……ただいま、一騎」
 後頭部に添えられた手で、これ以上ないくらい総士と密着して、息を吸うと目の奥がツンとした。涙が止まらない。溢れても総士の服に吸い込まれて、それにひどく安心した。
 やっと伝えることができる。ずっと言葉にしたかった、この想いを。
「おかえり、総士」
 ただいまとおかえりを、気が済むまで贈り合って、ようやく満足した頃には一騎はことりと意識を手放していた。慌てて背を支えてくれる総士の胸元に擦り寄ると、苦笑混じりにしかたがないなあと頭を撫でられる。
 次に目を開けた時、総士はそばに居てくれるだろうか。絡み合う指先を握り返したら、もちろんだと言われた気がした。



「史彦さんから手紙を貰った。僕の手に届く前に父に処分されるところだったんだが、妹が内緒で持ち出してくれた」
 総士は本土で務める会社で特に重要なプロジェクトと呼ばれる仕事に関わっていて、一度抜け出してこの島に来た事が影響し、島に戻ることを禁じられていたのだという。短くて今の仕事が片付くまで、連絡を取ることもできず軟禁状態におかれ、約束の日がきても実家に縛られ行動は封じられていた。早く終わらせてしまうしかない、と仕事に打ち込んだが、甲洋がいない分総士のストレスは溜まる一方で、せめて連絡の一つでもと歯痒い思いをしていると、史彦からの手紙を受け取って一騎の現状を知ることになった。
「すまない。謝って許されることでは無いとわかっているが……お前に、辛い思いをさせた」
 総士が帰ってくると信じ真冬の海で待ち続けていること。一騎が高熱を出して生死の境をさ迷っていること。総士の名をうわ言でずっと呼び続けていること。なんとか帰ってくることはできないか。せめて数時間でもいい、一騎に生きる希望を与えてやってはくれないかと綴られた手紙。
 いてもたってもいられなくなって、総士はそれまで我慢していた全てをかなぐり捨てて家を出た。勘当されようが縁を切られようが、最早総士にとっては大したことに感じられなかった。
 一騎に会いたいという気持ちだけに従った。
「いくら呼びかけてもお前は目を覚まさなくて……僕は取り返しのつかないことをしてしまったんだと思った。待っていてくれなんて言わなければ良かったと後悔した」
 そう弱音を零したら、甲洋に殴られた。総士がそんな気持ちでは、一騎はもう本当に目覚めない。手の届かないところに行ってしまう。それが嫌だから戻ってきたんじゃないのかと。
「なら僕が一騎を信じなくてどうするんだと怒られてしまった……あんなに声を荒らげる甲洋を見たのは初めてだったな」
 三日三晩一騎に寄り添った。手を握り、帰ってこいと、置いていくなと声をかけ続けた。
 そうかと納得する。夢の中で語りかけていたのはやはり総士だったのだ。総士の声は、ちゃんと一騎に届いていた。一騎が応えるのが遅くなってしまったから、不安にさせてしまった。
「ちゃんと聞こえてたよ、総士の声」
 布団の淵からそろりと手を出して、膝の上の総士の手に重ねる。俯いて陰ってしまった灰色の瞳を見たくて「顔見たい」とねだれば、眉間に皺を寄せたまま総士が一騎に近付いた。
「総士が帰ってきてくれたから、じゅうぶんだよ」
「お前は僕に甘すぎる」
 総士の唇が、瞼に触れる。次いで目尻に、頬を辿って、目を瞑れば唇同士が合わさった。息をするように重なって、総士の首に腕を回す。ひたすらに優しい触れ合いに満足できなくなる前に身体が離れ、一騎は問うた。
「どれくらい、島にいられるんだ?」
 総士の顔が強張る。なんとなく察していた。今回も、決して長くはないのだろうと。
「二週間……休暇扱いにすると、父から」
「そっか」
 総士の手を借りて起き上がり、そのまま胸にもたれかかる。いなくなってしまうのは悲しい。寂しい。
「プロジェクトのことなんて全部他人に任せてしまって、ここでお前と暮らしたいんだ、本当は」
「でも総士はそれを選ばないってこと、俺は知ってる」
 責任感の強い人だ。一騎のために培ってきた全てを捨てるには、彼にはまだやり残したことが多すぎる。ここで一騎を選んだとしても、きっと総士は一生それが正しかったのだと自分に言い聞かせて生きるのだろう。そうしなければ、『本当は選ぶべきだった道』があったのではないかとずっと心に蟠りと棘を抱えて生きることになる。
 そんな生き方を、総士に選んでほしくなかった。
「プロジェクト自体は、あと一年。長くて一年半は、此処に移り住むことは難しい。だが、全てが終わったら、僕は此処で生きたいと思う」
「うん」
「教師として、あの教室で子供達と関わっていきたい。この島の人達と、誰よりお前と一緒に、生きたい」
「うん」
「僕が戻ってきたら……結婚しよう、一騎」
「……うん」
 この人と結ばれたい。
 この不器用で、誠実で、この世界で一番に一騎を愛してくれる人と。
「ここで、待ってる。総士が帰ってくる場所で、ずっと」
「ああ……愛している、一騎」
 この人と生きよう、と思った。
 もう何も迷う必要なんてない。不安に怯えることなんてない。
 見知らぬ世界にいた筈の彼がこの島にきてくれたように、海の向こうへ道は必ず続いている。
 どれだけ離れても、もう二人を別つものは存在しない。
 彼が帰る場所が一騎の元なら、一騎が生きる場所はずっと総士の隣なのだ。


++++++


 その日、一騎は太陽が昇る前から起き出して台所に立っていた。
 数日前から煮込んだ鍋の中身に火を入れると、窓の向こうに広がる朝靄と同じ色の湯気が鍋から立ち上る。くつくつと空気が音を立て、具材が崩れないように丁寧にかき混ぜたら一旦火を止めた。白米の準備はさすがに気が早すぎると、米櫃に伸ばしかけた手をひっこめる。
 玄関から一歩外に出ると真冬の寒さが深々と身に沁みて、足元の雪がいっそう世界を静けさで包んでいる。それでも空気は澄んで、肺いっぱいにする前に鼻の奥が痛んでしまうくらいにキンと冷え切っていた。
 美しい朝だ。そして、美しい青空。抜けるような冬の青は、中天から海へと近づくほどに光に染まり白くなる。本土の稜線を朝日が照らし、その滑らかさに一騎は知らず微笑んでいた。
 一度家の中に戻って、部屋から小さな紙袋をポケットにしまう。隣の部屋の父はまだ起きる気配がなくて、少しくらい外出しても朝食までに戻ってくれば良いだろうとこっそり家を抜け出した。玄関の引き戸はうるさい音を立てるから、もしかするとばれてしまっているかもしれないが。
 ゆっくりと土を踏みしめながら丘の上を目指す。髪は彼に貰った髪留めで一つに纏め、首にマフラーを巻けば充分に暖かい。頂上に辿り着く頃には、血液が身体中を巡って少し汗ばんでいた。
 木の陰に背を預け、校舎裏から海を見渡す。今日、十二月二十七日は総士の誕生日。彼に出会って、この日を迎えるのは三度目だ。ポケットから紙袋を出して、中身を取り出す。赤と琥珀色の糸を編んだ結い紐。一騎が総士に貰ったものと、揃いの髪留め。総士の誕生日にこれを渡そうと思って、芹に編んでもらった。決して絆が裂かれることのないように。たとえ離れていても、必ず繋がっていられるように。残念だが今年は無理そうだ。もし年越しまでに帰ってこられればその時に。それ以降だと、来年の総士の誕生日になってしまうだろう。
 はあ、と掌に息を吹きかけ背筋を伸ばす。どれだけでも待つつもりだった。もう自分を見失ったりしない。確かな約束と、総士を信じる心がちゃんと一騎の中に根付いているから、どれほどの時がかかろうと一騎は此処で待ち続ける。
 ふと、校舎の方で机を動かすような気配がした。こんな時間に誰かいるのだろうか。学校はもう休みの時期に入っているから、いるとすれば大人の誰かになる。
 壁に沿って表に出ると、入り口に人影があった。木の陰になっているが、ふわりと風に舞う亜麻色の髪に、一騎の足が止まる。まるで島の神様が祝福しているみたいに、その人の周りに小さな輝きが降り積もって弾けた。
「そう、し……?」
 くるんと丸まった相貌が一騎を捉える。口元に笑みを浮かべ、彼の両腕が一騎に差し出された。
 此処にいる。
 総士が、この場所に。
「ただいま、一騎」
 総士の声に導かれるまま、飛び込んだ腕の中で一騎は全身で彼の香りを吸い込もうと抱き締めた。これ以上ないくらい近くに総士を感じたくて、背に回した手を伸ばし足りないと何度も掴み直していたら、くすりと笑われてしまった。
「お前、カレーの匂いがするな」
 それは今朝カレーを煮込んでいたからだ。総士がもし帰ってきてくれたら、一番に食べて欲しくて。そういえば、甲洋も早く食べたいって愚痴ってた。
 伝えたいことはたくさんあったけれど、どれも言葉にならなくて心臓が痛いくらい早く鼓動を刻んで一騎を急き立てる。ほら、何よりも最初に伝えるべきことがあるだろう、と。
「総士」
 すう、と二人の再会を歓迎する風が吹く。一騎の琥珀色の瞳には総士が。総士の灰色の瞳には一騎が映って、二人は二人が望み在るべき幸福をこの島で刻もうとしていた。

「おかえり、総士……!」