大切なものは
ある晴れた、普通の日だった。
ルドガーはいつものように兄を見送って、台所に立つ。
朝食の片付けをして、兄が読んでいた新聞を畳んでラックへ。
冷蔵庫を開けて、チキンといくつかの野菜しか無いことを確認し、夕食の献立を考える。
チキンのトマト煮かな、と適当なあたりに絞って時計を見れば10時前。
今日は休日なのでできれば兄と一緒に買い物でも、と思っていたが、仕事で呼び出されたので仕方ない。
兄ユリウスは、まだ17歳。まだ、と言っても自分よりも8つも上だから、十分に年上なのだけど。
世間から見たらまだまだ子供と言われる年齢だとルドガーは思っているし、実際このマンションの大家さんも同じことを言っていた。しかし兄は、働いている。
昨年までは学校に通っていたけど、クランスピア社というエレンピオスの大企業に就職して、製品の開発に携わっているらしい。
ルドガーはまだ持っていないが、世間では「GHS」と呼ばれるものが大人の間で流行っていて、兄はその開発をしているらしい。
すごいお兄さんね、完璧でしょう、と何度言われたか分からない。
ルドガーはまだ学校に通っている身分だし、まだGHSがなんなのかもよくわかっていないから、曖昧に返事をするだけ。
だが兄をすごいと褒められて悪い気はしない。むしろ、嬉しくて自慢したくなる。
でも、家での兄は、トマトソースを服に零すし、家に帰ってくる時間はバラバラだし、料理はできないし。
色々と秤にかけると、自慢の兄だが世間が言う完璧な兄ではないため、苦笑しか浮かばない。
そんな時に曖昧な笑いしか返せないと、クールだよね、とも言われる。
クールなつもりは特にない。
ともかく、せっかくの休日だが兄は留守。
仕事をして帰ってくるだろうから、とびきりおいしいご飯を作って待っていよう。
初めて作った時、泣いて喜んでくれたトマトソースパスタではないけれど、それに匹敵するくらい美味しい料理を。
たくさん作って、上手になって、兄が自慢できる弟になろう。
兄のためになる事だったら、なんだって率先してやっていきたい。
そんな決意めいた宣言を心の中で済ませて、部屋を見渡す。
家の掃除をして、それから買い物かなと考えていたところに、リン、と来訪者を告げるベルが鳴った。
誰だろう、と覗き穴から向こうを見る。
赤いコートの、かなり大柄な男性。初めて見る人に、思わず警戒心が沸く。
「はい……」
「ユリウス・ウィル・クルスニクの家で合っているかね」
「……どちらさまですか?」
「ああ、すまない。私は、クランスピア社の者で、ビズリーと言う」
「クランスピア社?」
「そう……渡したいものがあったのだが、ルドガー君しかいないのか?」
「伝言があるなら、あとで伝えます」
この時、まだ10にも満たないルドガーは、違和感に気付くことは無かった。
兄が務めている会社の人間が、家に来ること自体は不審ではない。
しかし、相手がルドガーの名前を知っていることは可笑しくは無くても、扉の向こうにいる人間が姿を見せないルドガーの名を呼べた事を。
クランスピア社の人間なら、兄さんが働いている所だし、悪い人はいないだろう、と。
「ちょっと待ってください」
「すまないな」
部屋の扉を開ける。
其処に立っていたのは、ルドガーから見上げる程大きい、兄よりも大きい人。
「君が、ルドガー君か」
「はい。僕を知っているんですか?」
「ああ、ユリウスによく聞くからね」
きっと仲良しなのだろう、と判断する。
ビズリーから、少しだけ重い箱を受け取って、ありがとうございますとお辞儀をした。
「…君は、とても礼儀正しいな」
「いえ、そんなことは無いです」
「その受け答えも…ユリウスは、ちゃんと君を育てているんだな」
「えっと…兄さんとは」
「仕事の部下だ。彼は、とても優秀だよ」
最初はよく分からなかったが、とても褒めてくれているのは感じられて、ルドガーは嬉しさに笑う。
「兄さん、今日もお仕事で。今忙しいんですか?」
「ああ。すれ違いになってしまったようだがな」
「そうなんだ。仕事大変なんだ…」
「……」
ビズリーは、ルドガーを見下ろしていた。
探るような目で。それに、気付かない。
少しだけ沈黙の後に、ビズリーは固い声でルドガーに問うた。
「…君は、ユリウスが何をしているのか、知らないのか?」
「何って…お仕事は、何かの発明やってるって聞きました」
「発明…そうか、伝えていないのだな」
「え?」
「それは嘘で…真実が隠されていると言ったら、君はどうする?」
「嘘?何がですか?」
「ユリウスが君に伝えていたことが、だ」
兄が自分に伝えていた事。
クランスピア社で働いている事。その中でも、とても優秀でやっているという事。
仕事が忙しくて、なかなか一緒に居られる時間は無いこと。
それ以外に、何があるというのだ。
「う、嘘じゃないです。兄さんは、僕に嘘をつくような人じゃない」
「人間誰しも、立派ではないよ。ユリウスの真実を知りたくはないか?」
「兄さんが嘘をつくはずない!!でたらめ言うな!!」
ルドガーが腕を振りかざして、ビズリーを部屋の外に出そうと力を入れる。
兄の会社の人だからと言っていい人ではなかった。
早く出て行ってほしい、そんな一心で。
「君にも、一緒に来てほしい。すべてを教えてあげよう」
「うるさい!!出てけ……ぁっ!」
ヒュン、と風を切る音がして、首に何か衝撃が走る。
耳から脳に変な刺激が通って、目の前が暗くなり、荷物がどさりと足元に落ちた。
床にぶつかる前に、ルドガーの意識は暗転する。
兄が、必死に自分の名を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
***
分史世界から帰還したユリウスは、ビズリーからの突然の招集に驚きつつも、地下訓練場へ向かった。
早く帰ってルドガーの夕飯を、と思っていたけれども、ビズリーに変に勘ぐられても仕方ない。
地下訓練場へと向かえば、そこにはビズリーと、なぜかリドウが待っていた。
「ようやくお出ましか」
「分史世界の破壊、ご苦労だったな」
「どうして、リドウがいるんですか」
リドウとは、ここの所会っていなかった。特別会いたいわけではなかったけれど、久々に顔を合わせた場所が此処とはどうにも胸騒ぎがする。
「なに、彼はただの暇つぶしだ」
「じゃあさっさと帰ってもらってください。用があるのは俺なんでしょう?」
やれやれ、とリドウは肩をすくめて地下訓練場から姿を消す。
そのあまりの引きの良さにも違和感しか感じられない。
「……で、何の用ですか?」
「君の骸殻能力が、どれほどのものか。久々に、見ておきたいと思ってな」
「そんなことで?」
「ヴェルに任せてはいるが、本格的に単独任務を任せるには、やはり自分の目で確かめておく必要がある」
「…分かりました」
渋々と、ユリウスは骸殻能力を発動させる。
――二つの、時計を使って。
何気ない、いつもと変わらない動作。
しかし、両手を掲げたユリウスの前に立ったビズリーは、その手から金色の時計だけを奪い取った。
その行動の意味するところに思考が及ばず、ユリウスが呆けている間にも、ビズリーはじっくりと時計を見渡して、皮肉気に目を細めた。
「なるほど。これが、ルドガーの時計か」
「――っ!!」
言葉よりも先に、飛躍した身体能力で時計を奪い返そうと跳躍する。
しかし、ビズリーが腕を一振りするだけで、ユリウスは部屋の端まで吹き飛ばされた。
「があっ!!」
叫びが部屋中に響き渡る。
それと同時に、骸殻が一段階解けたのを見て、ビズリーは踵を鳴らして背を向けた。
その背を追おうと身体を起こしたとき、ビズリーの先、隣の部屋から見えた姿にぎくりと喉が強張った。
こんなところで見るはずの無い、だが見間違うはずもない姿が、驚愕を湛えた眼でこちらを見つめている。
「兄さんッ……」
悲鳴と共にこちらに駈け出そうとする姿に、来るな、と叫ぶ前に、その細い腕をビズリーが掴んだ。
必至でもがいて、こちらへ駆けようとする。
だが、ビズリーの拘束はそう簡単には解けない。
「兄さんっ、兄さん!!」
助けなければ、ビズリーが、ルドガーに何かしようとしている。
――俺が、俺が護ると決めたのに。
罪滅ぼしのような自己満足。だが、弟を、なんとしてでもクルスニクのしがらみから解放して、何も知らずに居てほしいと。そう願ったのに。
――俺が、ルドガーを…!
足に力を入れて、跳躍の姿勢を取る。
まっすぐに向かう先は、ビズリーを殴り飛ばすため。
剣を振りあげ、切り裂こうとしたその瞬間、ビズリーの姿が消え代わりに腹に重い衝撃が走る。
兄さん、と涙ながらに自分を呼ぶ声がして。
――ルドガー、今、助ける…!
意思とは反対に、身体は天井近くまで投げ飛ばされて。
もがくように動かしても、意思を聞かない。
助けなければ、護らなければという想いは、こんなにも強いのに。
「兄さん――っ!!」
血を吐くような叫び。
自分に向けられた、弟の強い想い。
「ルドガー」
そう名を呼びたいのに。
まばゆい光に包まれた部屋は、そのほんの一秒の後、ユリウスにとって最も望まない、絶望へと変わった。
骸殻に身を包んだ、弟の姿に。
乾いた音すら出ない喉が、嘘だ、嘘だと呟いた。
弟の手には、金色の時計。ビズリーが持たせたであろう物。
骸殻の力は想いの強さに比例する。
だが、潜在能力というものは間違いなく存在して。
そうであって欲しくない、絶対にそんなはずはないと思っていたのに。
初めて骸殻を使った弟が、自分と同じ、第二段階であることを。
「素晴らしい…予想以上の力だ、ルドガー」
ビズリーの感嘆する声すらも、気にならないくらいに。
急いで駆けよってくる弟は、自分が変身したことに気付いていないのか、飛びつき縋ってきた。
兄さん、兄さん大丈夫、と涙で声を濡らして。
「ルド、ガー…」
ようやく声が出た。
弟が離れて、ユリウスの笑みにまた涙を流す。
大丈夫だ、とその頬を撫でようとしたとき、暖かさが目の前から消えた。
目に留まらぬ速さで、ビズリーが弟を反対の壁に投げつけたのだと気付いたのは、ルドガーの短い喘鳴が聞こえてきてから。
「ビズリー…!貴様…!」
「彼は、我がクランスピア社が保護しよう」
唐突に切り出された話に、ユリウスの顔が歪む。
「誰がお前に…!」
「いいのか?お前のその甘さが、彼を殺してしまうかもしれないぞ」
「俺が護ると決めた!何に代えても!!」
振り上げた足はビズリーのコートをかすり、一気に体勢を立て直してルドガーの下に行こうとする。
しかし、全てビズリーの速さの前では叶わぬことで、再び壁に吹き飛ばされた。
「やめて!!兄さんを苛めるな…!」
手に持った槍をビズリーに投げつけても、片手でその槍を掴んで捨てられてしまう。
圧倒的な力を前に、ルドガーはユリウスがこのまま死んでしまうのでは、とビズリーに掴みかかった。
「ルドガー!!」
「兄さんを、これ以上…!!」
「君が私の下に来るというのなら」
「いい、なんでもいいから…!!」
「ルドガー、やめろ!ビズリーの言う事なんて聞かなくていい!!」
「でも、このままじゃ兄さんが…」
「ルドガー!!」
「契約成立だな」
ビズリーはルドガーの腕を掴み、もう片方の手で何か機会をいじり始めた。
倒れ伏す兄の姿を見て、止まっていた涙が再び流れてきたルドガーに、ユリウスは唇を噛み締める。
どうして、なんでこんな事に。
全部隠し通せると思っていたのが間違いだったのだろうか。
幾人かのエージェントが駆けつけて、ユリウスの身体を抑える。
弟の骸殻が解けて、元の姿に戻った。
ふらりとよろけた身体を支えてやりたくても、ビズリーによって無理やり立たされた弟は何も言わずにただユリウスをずっと見つめ続けている。
――すまない、ルドガー。
声は出ないけれど、その気持ちがあふれ出てきて、思わず目をそらした。
謝りたい。謝って、ビズリーに頭を下げて、もっと過酷な任務でも何でもやってみせるから、弟を自由にしてやってくれと言いたい。
でも、もうできないのだと心のどこかで諦めてしまって。
本当は目をそらすべきではなかったのだ。
ルドガーの事を本当に愛しく思っているなら、猶更。
兄に助けてほしいと、心の底から信じていた事を、ここで感じ取ることができなかった。
「兄さん……」
ユリウスの横をわざとらしく歩き過ぎていったビズリーと、最後までユリウスを呼ぶルドガー。
タラップを踏むその足音が遠ざかっていく中、蔑むような声が降り注がれた。
「諦めるんだな、おにーちゃんは」
それはリドウだ。すべて見ていたのか、いつの間にか骸殻の解けたユリウスの前で見下ろしている。
「所詮そんなもんだったわけだ」
「――お前に何が分かるっ!!」
「知らないよ、そんなもの。だから所詮ってことだ」
リドウは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
掴みかかるユリウスを振り払い、用は無いとばかりに去って行った。
ユリウスは、まだ訓練場の上から自分を見下ろす弟に視線を投げる。
心配そうに、不安そうに。
泣きたいのを我慢している姿に、堪えきれず叫んだ。
「ルドガー!俺が、絶対にお前を助ける!!」
「にい、さん」
「だから、待ってろ!!」
いつか必ず、もっと強くなって。
それは、二度目の誓いだった。
部屋に残された、幾つかのトマト。
それを掴んで、そのまま齧りつく。
熟れ過ぎて一部が変色していても、味は少しすっぱいだけ。
――お前のトマトソースパスタが食べたい。
その願いは、自分で掴みとりに行くしかない。
ユリウスは一つになった時計を握りしめ、住み慣れた家を後にした。
あとがき。
結局、分史世界は正史世界のユリウスによって破壊されます。
分史世界で良かったって、最後に涙するユリウスさんです。
本編ではビズリーはルドガーの事を気付いてなかったけれど、始まったら自分の息子だって知ったわけで。
ユリウスが、自分に弟がいるって言ってないってことですよね。絶対に気付かれないようにしてきた。
でも普通に考えて、気付かないんですかね…あれだけ情報化とテクノロジーが進んだ世界で。
ユリウスはルドガーを引き取ったあたりから一人暮らししてるって偽ってるって事?
それにしては年齢低い気もするけど、そのあたりは爺やが絡んでるのかな。
爺やと一緒に住んでました、とか。爺やはルドガーの事、ユリウスの想いも知ってたみたいだし。
でも、もしばれちゃったらどうなっただろう、と思って書き始めたのがこの話でした。
で、書いてみて思ったこと。
本編のビズリーさんは、間違いなくユリウスもルドガーも愛してたっていうこと。
この二次創作みたいな、非道な人では決してなかった。エルを利用したのは、ビズリーにとってエルは愛すべき対象ではないから。
奥さんにプリンセシアの花を献花してて、ルドガーの母にも本編で献花したってことは、
少なくともルドガーの母親が彼女だってわかってて、ありがとうとかいう気持ちを込めたということ。
奥さんだけじゃなくてその妹にもしたんだったら、奥さんの事愛してないわけないじゃないか…
そして、息子たちも然り。ユリウスを結局橋にしなかったのだって、息子を想う気持ちからだって信じたい。
最後は自分の好きにさせてやりたい、とか。
ルドガーのフル骸殻の時だって、もうその力は使うなとか言ってたよビズリー。
せめて愛、とまではいかなくても、息子を大事に思ってるっていう気持ちは、一個人としてあったと信じたい。
もちろん、クランスピア社の社長としての顔もあったし、クルスニク一族としての為すべき信念みたいなのもあっただろうけど。
なんてつらつら思いながら書きました。
ルドガーとユリウスが辛い思いしかしてないし。ごめんね、二人とも。