愛情の証
身体を貫くような閃光の向こうから、骸殻を纏った弟の姿が迫る。
血を吐くような叫び声と共に、閃光ではなく確かな槍の力が身を貫いた。
ああそうか、と構えていた武器が自然と下りる。
お前は、兄を超えたよ。
護ってやらねば。そう心に誓い続けてきたけれど、もう必要ないな。
お前はお前自身の手で、未来を掴め。
例えそれが悲しみに溢れていたとしても、悔いのない選択をしろ。
弟の顔が歪む。怯えるような色は無いけれど、どうしようもない悔しさが滲み出ていた。
こんな眩しさの中でも、お前の顔はちゃんと見えるんだ。
全部筒抜けだぞ、ルドガー。
槍が光る。消滅の合図。
最後に一言だけ伝えたかったけれど、それももう叶いそうにないな。
でも兄さんは、安心したよ。
お前が、ちゃんと俺を超えることができた事を、この目でちゃんと、見届けることができたんだからな。
――最後に浮かんだのは、弟の成長に満足する笑みだった。
***
チクッタクッ、と気付けば時計の針は午前10時を指していた。
電子時計が多い中、やけに古めかしい音をたてるそれは、机の上で静かに時を刻んでいる。
ユリウスは、突然目の前に広がった光景に、ここはどこだと息を呑んだ。
見紛うことは無い。ユリウスと、ルドガーがクラストリグラフのマンション。
ソファを背に、目の前にはダイニングテーブル。少し視線をずらせば、入り口とキッチン。
ルルようの餌入れに、ルドガーの部屋、自分の部屋。
平和な――朝の陽射しがまだ降り注いでいる、随分と久しぶりの光景だ。
何故自分は、ここに立っている。
身体は硬直してしまっていて、金縛りにあったように動けない。
先程までルドガーと刃を交えていたはずだ。
文字通りの死闘を繰り広げ、骸殻に変身したルドガーに貫かれ、魂の橋となったはずだ。
それなのにどうして――ここにいる?
「にゃーお」
ざわりとした感触が背筋を通った瞬間、聴き慣れた声が足元から緊張を解いてくれた。
慌てて見下ろせば、太り気味を超えた体躯を器用に丸めたルルが、ユリウスを見上げている。
すり寄るような仕草は、餌をくれと訴えていて。
しゃがみ、ルルを持ち上げる。
目線を合わせれば、透き通った青緑の瞳が、「いつもと同じように」ユリウスに注がれて。
ぎゃふ、という抵抗の声と共に、右ストレートパンチが顔面にヒットした。
「ぐっ」
違いない。重量級ルルのパンチを食らうのは何か月ぶりだが、間違うはずもない。
だからこそ、この現実はあまりにも現実味があり過ぎて、一瞬分史世界なのではないかと疑った。
いや、しかし、あの世界は正史世界で。自分はまだ時歪の因子になっていないはずだ。
分史世界が生まれる必然は無い。ならば、この世界は。
「何が、起こっているんだ……」
呆然と部屋を見渡した時、不意にポケットからGHSの着信音が鳴り響いた。
驚きすぎて、みっともなく取り落とす。
慌てて拾って着信相手を見れば、表示された名に再びざわりと悪寒がして手が震えた。
着信相手は、ルドガー。
取るべきだろうか。取らなければ、不審に思うのではないか?
しかし、この世界がなんなのかも分からないのに、無闇にとるべきではない。
相手はルドガーだ。何の危険があるというのだ。
そう判断した瞬間には、指は通話ボタンを押していた。
『もしもし、兄さん!?』
「………!」
電話越しに聞こえる、まぎれもない弟の声に、喉が震える。
ほら、何か言わないとおかしいだろう。自分に言い聞かせても、言葉は出てこない。
『兄さん?兄さんてば!聞こえてるんだろ?』
「……どうした、ルドガー」
『なんだ、一瞬間違えてかけたかと思ったじゃん』
びっくりしたーと、呑気なような、焦ってるような声。
弟の、ものだ。何度でも確認してしまう。
そんな兄の葛藤は、どうやら弟には伝わっていないらしい。
『ごめん、俺の部屋にバッジが置いてあるからさ、こっちまで持ってきてくれない?』
「バッジ?」
『トリグラフ駅社員証のバッジ!』
「…忘れたのか」
『うっ……だって朝急いでたしさ…』
おっちょこちょいで、手が離せない。
そんな、弟が。
電話の向こうに、いる。
『ごめんってば!あれないと、厨房に立たせてくれないって』
「そんな大事なものを忘れるな」
『……ごめんなさい』
「…今から用意する。少し待ってろ」
『ありがと兄さんっ』
ぴ、と無機質な音を立てて通話は切れた。
電話の向こうにあった、弟の存在は、残したまま。
ああ、これはなんだろう。
夢じゃないだろうか。
弟はクランスピア社では働かず、駅の食堂で働いている。
まるで戦いを……暗さを感じない声色だった。
あの日、列車テロという名の始まりが起こらないあの日が、普段通り終わっていたらありえたかもしれない未来。
それがそのまま、再現されているんだ。
「ルドガー」
声に出せば、歓喜に震えた。
やり直せるチャンスがあるのだろうか。
何のしがらみもなく、弟に辛い思いをさせる事もなく。
戦いや殺し合いを知らず、当たり前の幸せを送ってくれて。
だが、心のどこかでも気付いていた。
この幸せは、きっと時限付きなのだ。
ルドガーの部屋には、クランスピア社入社試験不合格通知の紙とトリグラフ駅食堂の合格通知、そして駅職員を意味するバッジが置きっぱなしになっていた。
どうやらこの世界の弟も、クランスピア社の入社試験を受けたらしい。
だが、無事に駅食堂職員として働いているようだ。入社日は、なんとおととい。
二日後にはバッジを忘れる大ボケをかますとは、我が弟ながら情けない。
これはきちんと言ってやらなければと思いながら、苦笑した。
あまりにもあっさりとこの世界に馴染んでいる自分がいる。いや、馴染むことで幸せを感じている自分がいる。
ルドガーと戦ていたのはつい数分前の事のはずなのに。
マンションを出れば、子供たちがせっせと砂遊びに励んでいたり、マンションの住人が雑談に花を咲かせていたり。
皆ユリウスの姿を見て。おはよう、今日は出勤日じゃないのね、ルドガー君の就職先決まっておめでとう。
そんな言葉をかけてくれる。
坂を下り、駅へ向かって歩けば、必然的にクランスピア社の前を通る。
幾人かのエージェントと挨拶を交わし、ちょうど現れたヴェルに分史世界の状況はどうなったと小声で尋ねる。
すると、耳を疑う返答が戻ってきた。
「分史世界…ですか?それならもう、一週間ほど前にビズリー社長が消去しましたが」
「えっ?」
「ユリウス様……お疲れなのではないですか?」
「…そうか、そうだったな」
「せっかく長期休暇を取られたのですから、ゆっくりお休みください」
「そうするよ。変な事を言ってすまなかったな、ヴェル」
「いえ。ルドガーも心配していましたし」
そのルドガーに呼び出されたんだがな、とは言えず、ユリウスは早足に駅に向かった。
感情が興奮しているのが分かる。
この世界では、全てが終わっている。何がどうなって終わったのかは分からないが、少なくとも自分やルドガーが犠牲になる事はせずに。
本当に――本当に、夢のような世界だ。
駅前の人だかりを抜けて、駅改札近くの駅員専用出入り口まで来れば、見知った顔が被っていた帽子を少しだけ上げてユリウスに声をかけてきた。
「お疲れ様です、ルドガーですよね?」
「ああ。電話で呼び出された」
「まったく、こんな出来のいい兄さんがいてアイツが羨ましいですよ」
おいルドガー!と大きな声で舎内に呼びかければ、程なくしてルドガーが扉から飛び出てきた。
自分が最後に見たルドガーが、その姿に被る。
骸殻に体を覆われているのではない、普段通りの格好に身を包んだ、弟。
瞳は悲しみに満ちては無いないし、胸が張り裂けそうな叫びもない。
「兄さん遅い!!」
我儘を言う、甘えたな弟の、あまりにも平和で愛おしい――
「に、兄さん…?」
戸惑うような声が聞こえて、はっと我に返る。
頬に伝う涙を急いで拭ってポケットから頼まれた物を取り出した。
もちろん、一言の説教付きで。
「こんな大事な物を忘れる奴がいるか、馬鹿」
「あ、えっと…ごめんなさい…」
どうやら、自分の姿に動揺しているようだ。
当たり前だ。いきなり姿を見て泣きだされたら、困るに違いない。
だがあえてそれには触れず、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
いつもの自分が、弟にしてやっているように。
正確には――してやっていたように。
ルドガーの懸念を払拭するには、一応それで十分だったのだろう。
職場の人間に子ども扱いされている所を見られるのが、恥ずかしかっただけかもしれない。
ルドガーは慌ててユリウスの手を振り払い、「ありがと!じゃあね兄さん!」と元気の良い別れの挨拶を残して再び戻っていった。
***
来た道を戻る途中、マンション前の十字路で見知った白衣の少年が立っていた。
どきりとして、足を止める。見間違いではない。正史世界でずっとルドガーと共にいた、彼であった。
「あの、すみません」
幼さを残す声は、穏やかでありながら困っていますと如実に伝えてきて。
固くなる声を何とか抑えながら、なんだと聞き返した。
「トリグラフ駅に行きたいのですが、どっちに行けばいいですか?」
「駅は、あっちに行けば大通りに出るから、そのまままっすぐに行けばいい」
「あ、向こう側なんですね。ありがとうございます」
GHSを片手に、彼はユリウスの前を過ぎ去っていった。
知らない人に対する行動だ。この世界では、自分はまだ彼らと出会っていないようだ。
ならば、ルドガーもまだ彼らに会っていないのだろうか。
自分はルドガーと彼等の出会いの何も、知らない。だから、いっそ会わないでいてくれた方がいい気がする。
だが、ルドガーが彼らと出会うのが必然ならば、それを曲げることはできないだろう。
少しでもあの世界との違いがあれば…あるいは変えられるなにかもあるかもしれないが。
部屋に戻ると、ルルがキャットタワーの下で寝ていた。
そういえば自分の部屋にはまだ入っていないと思い、扉を開ける。
そこには簡素で家具もろくにおいていない自室が広がっていて。
何一つ変わらないあの世界と、錯覚しそうになる。
ようやく一息付けて、ユリウスはリビングのソファに腰掛けた。
現実を少し落ち着いて見れるようになる。それは今まで分史世界を渡り見続けてきた経験に似ていた。
自分は、弟の力を前に、間違いなく敗れた。
腹を突き破り、意識を白く染める瞬間は、今でも思い出せる。
だから、まぎれもない事実。
だが目の前に広がるこの光景も、今の自分にとっては事実。
分史ならばあり得るかもしれないが、いわゆる偏差というものを感じない。
正史とは違う、という感覚が無い。違和感を覚えない程に「そのまま」なのだ。
手を握る。開く。また握る。
目を閉じる。開ける。陽射しの色は変わらない。
腹に手を当てる。骸殻の力に反応しない。
「骸殻の、力……!?」
そうだ、何を呆けている。
少なくとも一週間前までは自分はエージェントだったらしいから、懐中時計があるはずだ。
急いで服の中を探す。ジャケットを叩き、無いとあたりを見渡せば、机の上にぽつんと置いてある「それ」に目を疑った。
「あっ……」
銀色の時計だった。
表面は焼け焦げ、亀裂が入り、無残な形を晒している。
よろよろと歩み寄って、ふたを開ければ、時を刻む音が鳴っている。
最初にこの世界を認識した時に、聞こえてきた音だ。
まるで、世界の進む時を刻む、心臓のような音。
「そう、か……そうなんだな」
この時計が、自分が見てきたすべてを肯定していた。
この世界が歩む果てを象徴していた。
「ルドガー……」
この世界とは、きっといつか、別れる日が来るんだろう。
さきほど頭を撫でた弟も。道を聞いてきた彼も。きっとこの世界に居る、彼の仲間たちも。
皆が皆、生きているのに。幻のように、消え去るのだろう。
だったら、せめて。
「もう一回、お前のトマトソースパスタを食べれるんだな」
この世界を享受する幸せを、ください。
世界は優しく時を刻んでいった。
泣いた俺を心配したのか、その日の夜は俺の大好きなルドガー特製トマトソースパスタで。
次の日は、ジュードと知り合ったと紹介してくれた。
道を教えたのを覚えていて、あの節はどうもと丁寧に挨拶をしてくれた。
どうやら隣のマンションに、アルヴィンとバランと一緒に暮らしているらしい。
バランの家に二人して居候しているようだが。
ルドガーとジュードは気が合うようで、よく二人で料理を作ったりしていた。
男二人でキッチンなんて、と笑ったら、気分を損ねたようでその日の夕食はラーメンだったけれど。
俺の仕事は、エージェントから警備兼護衛官に変更になった。
二国間の会合の警備をやったり、危険はつきものだが、自分には合っている仕事だ。
ルドガーは相変わらず心配性で、いつも仕事を無理するなと気を遣う。
俺も同じことを言えば、似たもの兄弟だと笑いあった。
就職祝いだと言って、金の懐中時計を贈った。
もうこれは、自分が持っているべきものではなかったから。
弟は殊更喜んで、それ以来ずっと身に着けている。
兄さんと繋がってる証だと、抱きしめてくれた。
それから、お前のトマトソースパスタを食べた回数は数知れず。
ずっとこの永遠が続けばいいと思ってしまうくらい、優しい日々が続いた時。
ふと、この世界にはエルがいないのだと気が付いた。
その意味を考えることはしなかった。
どこまでも自己中心的な奴だと、苦い思いがこみ上げたけれど。
日常は、呆気なく終わりを告げた。
いつものご機嫌取りの「トマトソースパスタ」。
行ってきます、と駆けだす弟を見送って。
その数秒後に、扉を開けて入ってきた弟の顔は。
――ああ、そうか。
まるで自分が死にそうな眼をしている、大事な大事な、最愛の弟。
――俺は、嬉しかったよ。
――最後に、約束を破ってしまうのは、少し心残りだけれど。
「お前が教えてくれたことだ」
――守る事も、愛する事も、強い意志も、挫けない心も。
ありがとう、ルドガー。
こんな兄貴だったけど。
少しでもお前は、幸せでいてくれただろうか?
俺はお前がいてくれて、
幸せだよ。