(気を張る必要の無い人の前では口調や態度が乱暴になるリィン君とそれを受け止めるユーシスのお話)


「疲れた」

それは薄暗い雲に覆われた日の夜のこと。彼らしくない、と誰しもが思うであろう言葉をぞんざいに投げつけてきた男は、自分の部屋を訪れたかと思うとベッドに倒れ込んだ。一応ノックはしていたし来訪を告げる音に是を返したのは確かであるが、こちらの顔を数秒見つめたまま何も言わなかったため彼が聞いていた風には見えなかった。それくらい、彼の様子は”らしくない”。
ベッドの上で散らばった髪が、呼吸に合わせて微かに揺れる様を眺める。品行方正、誠実で正直、彼に対する認識が浅かろうが深かろうが、決して投げやりに「疲れた」などと言い放つような男ではないと誰もが口を揃えるだろう。おそらくZ組ですら、そのような姿を想像しても首を横に振る。
だが彼は極稀に、自分の前でこのような一面を見せた。一言、疲れたと零したきり続かない。沈黙は苦では無いが、ベッドの上で腕に覆われた顔色は伺えず、呼吸の音すら溶けて消えそうな静けさはある種の危険信号だと知っていた。


初めは、本当にただ疲れているだけだと思った。任務が続いて、言葉を交わす事すら億劫になるほど疲れているのだと。
彼は軍の中でも若さに比例しない高い地位に立っている。性格上、気苦労もあるだろう。世界を飛び回る任務が入る事もあると言っていたから、万全な体調が保たれているとは限らない。穏便に、ただの護衛だけで済む時もあれば、武器を振るう事態も少なくないと聞いた。
積み重なる責任と、厄介事を背負う性格とが彼の負荷となって疲れを齎している。そう判断した。
むやみに言葉をかけないでいるべきかと自らの作業に戻りかけたところで、彼が此方に視線を送っている事に気付いた。
名を呼べば一瞬だけ瞳が揺れて、だがすぐに瞼に閉ざされてしまった。
小さく開いた口から細く微かな吐息が漏れて、それがまるで心に溜まった何かを外に出さないように、塞き止めているかに感じられた。
いけない、と、直感的に手を伸ばして、ベッドに横たわる彼の瞼に指を沿わせる。
覗いた深い紺色の瞳はぞわりとした冷たい何かを感じさせて、無意識のうちに息を飲む。
勘は、当たっていた。
その瞬間から、彼の「疲れた」は自分にとっての「助けて」になった。


「リィン」

名を呼んで、彼の腕をそっと外す。
色素の濃い瞳は夜の室内灯が僅かに写り込んで自分を映し、何も言葉を紡がない唇を噛み締める。
傷がついてはいけないと親指で輪郭を撫でれば、ゆるゆると力が抜けて代わりに彼の指が自分の頬に伸ばされた。
確かめるような仕草は、いつだって彼の不安を表している。言葉にして訪ねたことなど無いけれど、感情の深い部分で自分にも共感できる何かが存在して、彼の好きにさせることで自分も安心していて。
どんな時だって言葉にすることを大切にしている彼が、こうして無意識の行動で本能的な充足を得ている。それは酷く倒錯的ですらあった。

「つらいか?」

いつもの問いかけに、いつも通り首を横に振る。
つらいと思っているか、やめてしまいたいか、逃げてしまいたいか。
彼が、自分が、もっとも嫌う言葉を、あえて音にする。現実にする。
そこで少しでも揺らぎがあるならば楽にしてやる事など雑作も無いのに、妙なところが頑固で強情で鈍感だから、強く在らねばという意識が先行して彼の深い闇を覆ってしまう。だから「疲れた」に集約された彼の本心を一つずつ紐解いて、「助けて」の根底にまで辿り着かなければいけない。
自分にしか許されない、彼の闇に触れるということ。
「ユーシス」と彼が紡ぐ名が己のものであるという昏い喜び。
だが、真逆に存在する正義感にも似た彼に傾ける己の一途な心。

「話をしよう、リィン」

どれだけ疲れていても、どれだけ辛くても、どれだけ口を閉ざしたいことでも。
ただ甘えるだけではなくて、互いが互いに存在している事の意味を忘れない為に。
リィンは少しだけ泣きそうな顔をして、今度はゆっくりと首肯した。