空が青く透き通り、頬を撫でる風が心地良い季節。夏が過ぎて秋も深まる頃、久々の来客を出迎えるべく、ユーシスはバリアハート空港に足を運んでいた。一般的な客船でありながら、乗船しているのは国の政治の中枢を担う人物。万が一にも不備があってはクロイツェン州領主であるユーシスの不手際とされてしまうし、それ以上に子供扱いをされてしまいそうで矜持が許さなかった。
クロイツェン州の領主となって、二年。五年前の内戦で失脚となった父の後を継いで確実に足場固めと腐敗の撤廃を進めてきたユーシスは、二十二歳という若さで既に州の政治を担う中核となった。旧態依然とした貴族政治が色濃く残るバリアハートにおいて正しく異質であり、ユーシスの存在を疎ましく感じる政治家も多い。ただでさえ若造がと口汚く罵られることも珍しくはない中、ユーシスはただ受け入れていた。受け入れた上で、徹底的に敵と味方を分別した。決して清くはない政治を担うならば、表面上は優雅かつ余裕を持ちながらも足下を疎かにしてはいけない。どんな些細なことからも蹴落とそうとするのが人間の性で、ユーシスは自らその中に身を投じたのだから。士官学院で過ごしていた頃の損得無い友情は本当に得難いものであると、心の底から実感するくらいには、ユーシスは自分の心が汚れてしまったと目を瞑る。

『ユーシスは本当に綺麗だなって思うよ。外見だけじゃなくて、内面がさ』

いつだったか、リィンが恥ずかし気も無く言ったことがある。おそらく、まだお互いが学生という身分で、内戦が始まる前だ。眩しく輝くあの時代は、Z組全員にとっての宝物だ。ユーシスにとっても、掛替えの無い日々。自分自身を偽ること無く過ごせていた頃。

『誇り高く在り続けるユーシスと対等の関係で在れたこと自体が、俺にとっての誇りだった』

たった一つ取り戻したかった掛替えの無い存在を追い求めていた内戦の最中、トリスタを取り戻した日の晩。第三学生寮でリィンが告げた言葉がいつだって自分を奮い立たせた。
彼の言葉は等しく自分の中で生き続けており、血肉と成って常に己に問いかける。
お前のやっている事は、正しく己の意思に沿った事なのか、と。

今でも蘇る声は鮮やかなのに、あまりにも遠い過去のような気がした。
久々に感傷的になっているのは、おそらくこれから現れる人物が、ユーシスにとってそんな郷愁を覚える人物の筆頭であるからだろう。思考に流されぬよう、小さく息を吐く。柄にも無く緊張しているらしいと、固く握られた己の手をゆるゆると解いて背を伸ばした。
がたり、と重々しい音を立てて客船の扉が開く。出入り口とタラップとを繋ぐ橋が架けられ、中から数人の武官が最初に降りてきた。後ろに領邦軍を従えたユーシスに気付き、整った敬礼で挨拶を交わす。音も立てずタラップの両端で待機の姿勢をとると、それを待っていたかのように穏やかな声がユーシスにかけられた。

「やあ、久しぶりだね」
「兄上こそ。ご健勝のご様子、何よりです」

心から歓迎できないことを悲しいと思いつつも、ユーシスは変わらぬ兄の姿に少しだけ安堵した。
彼の立場とは関係なく、大事な家族として、ユーシスはルーファスのことを慕う気持ちを偽ることだけはしたくなかった。それはリィンがユーシスに教えてくれたことでもあるし、ユーシス自身が望むことでもあった。

「立派にやっていると聞いているよ。さすが我が弟だ。私などすぐに追い越されてしまいそうだな」
「ご謙遜を。未だ至らぬ身ですから、とても兄上には適いませんよ」

お世辞ではなくそう返して、ユーシスは礼をする。どうぞこちらへ、と先導しようと目を向ければ、ルーファスの背後に隠れた人影が揺れた。

「ユーシスには、ぜひ紹介しようと思っていたんだ。私の新しい護衛でね。どうか”仲良くしてやってほしい”」

タラップを降りて、ルーファスはするりと横に体をずらす。
その奥から現れた姿を、ユーシスは息を飲んで凝視した。
なぜ、彼がここにいるのか、と。
クロスベルが独立国となって約二年。それ以来姿を見せていなかった彼が、なぜ兄の元にいるのか。

「リィ、ン」

乾いた唇が張り付いて、途切れ途切れに紡いだ名にもリィンは全く動じた様子を見せなかった。ユーシスの名を呼ぶことも無く、感情の見えない瞳で軽く会釈をする。どちらかと言えばよく笑う印象の強いリィンとは正反対の行動に、次の言葉は浮かばない。
リィンの纏う服装は、黒地に濃い赤が彩られた軍服らしき物。正規軍の物とも異なるそれは、おそらくリィンのためだけに作られた物であろうことが分かる。袖を通し、見慣れた武器を帯刀し、しかし全くの別人のような雰囲気を醸し出す姿。

「さて、行こうか」

ルーファスの声に一気に現実に引き戻され、背中を冷や汗が伝った。同時に、冷静な思考も戻ってくる。
再び兄の背にリィンが隠れた事で、逆に強張りが溶けた。あまりにも違いすぎる彼を問い質すのは、今ではない。
先導するために背を向けた瞬間、兄が可笑しそうに目を細めたのを、見ない事にした。









執務室で兄と話をしている間も、リィンはただ黙ったまま護衛としての役割に徹していた。
ユーシスから視線を送っても、気付いているだろうに目線を配る事すらしない。最初は無理に合わせないようにしているのではと思ったが、態度や表情に出やすいリィンが器用に繕っているとは考えにくい。
そもそもユーシスがもつ前提は、まだクロスベル独立前のリィンだ。二年近く行方不明となっていた彼に、心境の変化があったとしてもおかしな話ではない。

「…なるほど。なかなか苦戦を強いられているかと思ったが、今のところ大きな問題は無さそうだ」

一通りクロイツェンの現状について意見を交わし終わり、兄から発せられた言葉に内心胸を撫で下ろした。賞賛には程遠くとも、及第点は貰えたようだ。広げた書類を整えていると、そう言えば、と部屋を見渡しながらルーファスは片手を上げた。

「お前のハーブティーも久しく飲んでいないな、ユーシス。せっかくだから、淹れてはくれないだろうか」
「構いませんが…少しお時間を頂きますが、宜しいですか?」
「勿論だとも。リィン、手伝ってあげるといい」

ぎょっとして目を見張れば、ルーファスは柔らかな笑みでユーシスを見下ろしていた。話す事があるだろう、とその視線は語っていて。一瞬の動揺の後、ぐっと腹に力を込めてリィンの傍に歩み寄った。顔には出ていないだろう。リィンは変わらず感情の浮かばない視線を、ゆるりとユーシスに合わせた。
こちらだ、と短く促した半歩後ろの位置でリィンはルーファスに向かって小さく会釈をする。
いってらっしゃいとばかりに手を振ったルーファスの姿が扉の向こうに消えて、ユーシスは無言のままティールームへと歩き始めた。リィンも、それが己の仕事と割り切っているように自然な動作で後に続いた。

「…久しぶりだな」
「ご無沙汰をしています」

予想より自然と言葉は口をついて、廊下の静寂を破った。
返事は無いかとも思ったが、とても他人行儀な口調ですぐに返ってくる。
これが、リィンが引いた線、もしくは、距離。それを実感するには、十分すぎる返答であった。

「二年ぶりに再会した旧友に対する態度にしては、随分なものだな」
「貴方は、変わりませんね」
「お前と比べれば如何程でもあるまい。その口調を続けるつもりなら、この屋敷から叩き出すぞ」
「…それは、困るな」

背中越しの声には苦笑の色が滲んでいた。実際に笑ったかは見えずとも、音を消して歩くのが変わらなくとも、少しだけ思い出の中のリィンに近付いた声色だった。本当に叩き出したりはしない事などお互い分かっていたけれど、あえて軽口に乗ってやったと言外に伝わってきた。

「なぜ、兄上と共に居る」
「それをユーシスが知る必要は無いさ」
「この俺が頼んでも、お前は首を縦に振らないと?」
「…ああ」

ティールームの扉を開け、中にリィンを誘う。
いくつもの引き出しの中から、目当ての茶葉を取り出してワゴンに乗せた。兄の好みそうな茶器は既に揃えてあったので、ここで蒸らして運べばちょうど良い時間になるだろうから、用意するものはほとんど無かった。

兄が与えた時限だ。今問い質さなくては、きっと機会は無い。
そっと扉を閉めたリィンの腕を掴んで、逃げられないように身体を反転させる。思ったより軽い動作でお互いの場所は入れ替わって、退路を断つが如くユーシスが扉を背にした。
初めてちゃんと目にしたリィンの表情は、想像していたよりもずっと幼かった。いや、容姿は随分と大人びて顔立ちに子供らしさは無い。けれど、少しだけ驚いたように目を丸くさせてユーシスをその瞳に写していた。
時が止まったかのように、二人はただ無言の中に居た。何かをぐるぐると考えているのではない。どちらかが根負けするか勝負のようなものだ。そしてそうした勝負に、ユーシスが負ける事など有り得ない。
リィンは少しだけ手を揺らして、ふと微笑んだ。ひどく疲れたような、呆れたような、眦を下げた笑みだった。

「…ユーシスは、頑固だよな」
「ふん。こうでもしなければ、俺に無二の親友とまで言わせた奴の本心を聞き出す事など出来ないからな」
「知ったところで、何も変わらない」
「それを決めるのはお前ではない」
「事実だ」

少しだけ俯いたリィンの表情は、前髪に隠れて見えなくなった。
途端に、まるで重力に押しつぶされるかのような圧力が身体全体にのしかかり、ユーシスから小さな呻きが漏れる。同時に、リィンを取り巻くように一陣の黒い焔が帯を成して視界を遮った。見覚えの、体感した覚えのある焔の色、濃さ、何より圧迫感。
一瞬で辿り着いた答えは、到底リィンが選び得るものではない筈でーーだからこその変わり様だとでも言うのか、と焦げるような火花が脳を焼いた。
沸々と込み上げるのは、怒り。リィンの手を握った方とは反対の拳を振り上げ衝動のままに振り下ろそうとしたのに、凪いだ藤色の瞳は甘んじてそれを受け入れる姿勢を見せていた。
以前のリィンなら、それは己のせいであるといった、不必要な自己犠牲や負担を感じてのものだった。
だが、目の前の彼はかけ離れている。ユーシスが『そうする』のが当たり前であり己には非が無いとーそう語っているようで。
ぐっと奥歯を噛み締めて、振り上げた手を下ろした。

「気付いたな」

問いかけではなく確認だった。
握っているはずの手が、遠すぎて不確かなもののように感じられた。

「お前は…」
「マキアスとエリオットは話す時間も無かったけど、ガイウスには雰囲気で気付かれたな。アリサやフィーには会ってないし、エマはこれから会えるだろう。ミリアムも、かな。ラウラには『お主の道なら』とか言われるから、逆に俺の方が驚いたよ」

すらすらと並べられる旧友の名前に、リィンの様子を既に知っている者が何人も居るのだと把握できる。
皆驚き、そして困惑しただろう。その先で受け入れるか、拒絶するかは人それぞれだろうが、少なくともガイウスとラウラは許容した。二人が納得するならば、リィンが相応の対応を示したという事だ。
そしてリィンは、己には力の片鱗を見せた。既に染まってしまったのだと、戻る事など無いと告げるために。リィンなりのユーシスに対する覚悟の見せ方なのだろう。

「戻ろうか。さすがに、ルーファスさんを待たせ過ぎだろう」

話はここまで、とばかりに既に力の入っていないユーシスの手を解いて、茶器の乗ったワゴンを押し始める。
廊下も始終無言のまま、変わらぬ凪いだ瞳でリィンはユーシスの隣を歩いていた。気まずさなど無いのに、分厚い壁に阻まれて声が届かないような距離感があった。
それともこの壁は、ユーシス自身が造ったただの幻なのだろうか。どちらの心が生んだものか判別がつかないのに、明確にそこに存在した。
執務室の前に到着して、扉を開けようとノブに手を伸ばす。

駄目だ、と心が叫んだ。
ここで終わってしまっては、何も始まらない。
一つだけ、せめて一つ伝えなければならない事がある。

「リィン」

振り返らずに、名を呼んだ。

「俺は、納得などしていない」

リィンが驚いたのか、変わらず平静のままなのか、それとも別の感情を見せたのかは分からないけれど。
扉を開けたら、彼は二度とここに戻ってこないだろうという予感があった。





泡沫







「こんな所にいらっしゃいましたのね」

どこか甘いような声が、リィンの思考を遮った。
見知った姿は振り返らずとも分かっていたし、今はなるべく目の前の翡翠色に輝く公都以外を視界にうつすつもりはなかったから、特に返事もしない。
気分を害した様子も無く、ただ呆れたと言わんばかりに溜め息をついて、黒のドレスが風に揺れる。正確には自然の風ではなく、空間転移によって発生する磁力波が風という現象を作り出しているだけなのだが。

「明日にはルーファス卿と共に、帝都へ行くのでしょう?ふふ、きっと驚かれますわ」
「……」

誰が、とは明言しないのは彼女なりの気遣いなのか、それともただ単に勿体ぶっているだけなのか。
どちらにしても、リィンがやるべき事は一つ。それは誰に再会し、言葉を交わそうとも変わらない。
黒を纏う女性、マリアベル・クロイスの手を取った時から覚悟していた。

胸に手を当てて、誓いを反芻する。
自分なりの、ノブレスオブリージュ。持ちし者の義務。

理解してくれた仲間が居た。
どうして、と悲しげな表情を浮かべる仲間も居た。
彼はどちらだろうか。

「――俺の心は、決まっています」

彼を、仲間を、慕う気持ちはあれども、己の進むと決めた道は既に後戻りできない。

「後悔はありませんから」

リィンの覚悟に、マリアベルは満足そうに微笑んだ。

「リィン・シュバルツァー。『結社』は、貴方を歓迎いたしますわ」

参りましょう、と踵を返す姿にリィンも後を追った。
一瞬だけ振り返りそうになったのを自制し、目を閉じる。
浮かぶのは、ただまっすぐにリィンを射抜いた眼差し。
青い輝きが、何一つ昔と変わらず在った事が、リィンにとってどれだけ嬉しかったか。
「納得していない」と偽る事無く口にした想いに、どれだけ救われたか。
彼は知らない。知らなくて良い。
結社の一員となろうとも、自分の道に背いていないと思えるのは、間違いなく彼のお陰なのだから。



斯くも簡単に、人は価値観を覆す。
泡沫の如く、取るに足らない、儚いもの。
やがて消え逝く、命の灯火にも似た――







続かないのでとてもいい加減な妄想設定:
・リィンはクロスベル独立直後に結社の一員に。マクバーンの元で異能の力を最大限に引き出す訓練みたいなのをする。騎神の起動者として、『幻焔計画』の至宝二つ目を顕現させるために必要だが、あえて結社の一員となることで帝国への被害を最少に出来ないかと画策。
・マリアベルがリィンをスカウト。クロスベル独立に乗じてリィンに取引を持ちかけ、頓挫した計画にあえて参加させる。おそらくマリアベルさんなら言葉巧みにリィンを勧誘するんじゃないかと。
・リィンは執行者では無い、あくまで協力者の立場。ルーファスさんと一緒に居るのは、結社がオズボーンとなんか取引した結果、帝国での地位をリィンに与える事で表でも裏でも動きやすくした感じ。
・ユーシスたちと敵対してるのでもなく、リィンはリィンなりの信念を持って結社に加わったので、ラウラはそれをきちんと聞いて、彼の意に背いていない事を確認したので納得。
・今後どうなるかとか特に決めてないので、続かない。