ユーシスの朝は遅い。
遅いと言ってもそれはリィンの感覚であって、一般的には普通の部類に入る。そもそも、朝日が昇るより前に目覚めるのが早起きに分類されることさえ、士官学院に入学するまで意識していなかった。夜明けと共に起床するのは幼い頃からの習慣で、東方に伝わる”早起きは三文の徳”なる諺を重んじていた老師の教えを叩き込まれ、それが普通だと思っていたからだ。
バリアハートはユミルよりもかなり南に位置するせいか、真冬でも雪が降る日は少ない。窓の枠が凍ってしまうようなユミルの寒さではなく、少しばかり四肢が冷えるくらいの朝の空気を吸って覚醒し稽古に励んだ。体に刻み込んだ慣習は今も続き、リィンは朝稽古を既に終えてユーシスと共に朝食をとるべく手早く着替えを済ませていた。
リィンの起床と、ユーシスの起床の時間差はおよそ一時間。太陽はバリアハートの街を照らしていて、窓から眼下に広がる翡翠の公都の姿は相変わらずため息が出るほど美しい。

「おはよう、ユーシス」

廊下から覗いていた景色から一転、室内の豪奢なシャンデリアの下を歩く友人兼雇い主の姿に朝の挨拶を送る。あのマキアスですら「黙っていれば優雅」と言わしめた風貌は二十歳を超えた今更に磨きがかかっていて、だいぶ見慣れたとはいえやはり感嘆に値するものがあるなと改めて実感した。
そんなリィンの心境など知らず、「相変わらず早いな」と呆れたような感心したようなため息をつかれた。連れ立って、ダイニングに向かう。
広すぎるダイニングは十数人が共に食事をとれるくらいに大きなテーブルが置いてある。並べられた皿の数は二人分にしては多く、シャロンの適度な朝食の量に懐かしさを覚えつつ二人して席に着いた。
いただきます、と丁寧に手を合わせて食事を始める。作ってくれた人に感謝を捧げるのは、この年齢になっても同じだ。こうして食べ始めるだけで、使用人は喜ぶしさらに美味しく食べれるだろうとユーシスに伝えたのはリィンだった。

「今日の予定は?」
「午前中は、昨日纏めた税制案を見直す。昼食までには終わらせるつもりだ」
「じゃあ、昼までにやっておきたい事があるから、外出したいんだが」
「構わん」

朝の珈琲ではなく、紅茶を一口。ユーシスの手がパンに伸び、適当に掴んだものを皿に乗せる。リィンは自分が使っていたマーガリンをユーシスの近くまで移動させ、皿には幾つかの果物を取った。
ごく自然なやりとりは、士官学院で寮生活を送っていた頃から変わらない。最初はあれ取ってとお願いしていたことも、今は気付けば手が動いている。リィンがユーシスの元で護衛を始めた頃は、メイドが二人の朝食風景に目を丸くしていたものだ。どうやらアルバレア公とユーシスとでは、食事の取り方も異なっていたらしい。仰って頂ければパンを取りますのに、と横から慌てて口出しされた時は、逆にリィンの方が面食らった。食事は特に手伝ってもらうことは無いから下がっていていいと説得し、以来食事の席はユーシスとリィンの二人だけだ。堅苦しいのは好かないと、外で食べることもある。

「いっそ、外出ついでにケルディックを廻るか。遅めの昼食になるとは思うが、久々に大市に顔を見せておきたい」
「いいんじゃないか?だったら、昼前に駅前通りで待ち合わせるか」

籠ってばかりの領主ではいけない、というのがユーシスなりの流儀らしい。その意思が何に起因するかを考えるとリィンとしても暗い想いが過るが、負うべき責務も覚悟もすべて飲み込んで領主としての役目を全うするユーシスはとても強かった。リィンなら立ち止まってしまいそうな重さを背負って、進むことを諦めない気丈さ。最初は気負い過ぎなのではないかと心配もしたが、今は彼なりにきちんと折り合いをつけていることが分かっているので、深く追求したり言葉をかけたりすることはやめた。
気遣われるよりも、共に背負って歩もうと言った方が、ユーシスは何倍も喜ぶのだ。

「あ、顔を見せるで思い出した。ラウラが今度来るって言ってたな。この前ユーシスが送った茶葉が気に入ったらしいから、買いにくるってさ」
「わざわざ、か?連絡の一つでも寄越せば、郵送もできるだろうが」
「たぶん、茶葉よりも、手合わせの方をしたい、が正しいんじゃないかな…」

無邪気に微笑んで「よしリィン、勝負をしよう」と、あの大剣を振るうラウラの姿が脳裏に浮かび、ありえそうだなぁと紅茶を啜った。同じようなことを考えているのか、ユーシスも半眼で遠くを見つめている。

「…まあ、来るとなったら連絡があるだろう」
「そうだな。しかし、もう二年ぶりくらいになるんだな…」

少しだけ大人になっても、多くのことはそんなに変わらない。
積み重なった分だけ考えることは増えて、でも変わらないと思うことはたくさんある。
こうやって思い出が増えていくことが少しだけ切なくて、その分邂逅はいつだって楽しみになっていた。
自分なりに前に進んでいるよ、と今は遠い影に何度でも語りかけるのだ。



職人街は午前中でも賑わいを見せており、宿酒場に宿泊していると見られる観光客がガイドブックを片手に坂道を上っていた。ラフなズボンとシャツ姿はバリアハート中央広場にはいささかそぐわない装いではあるな、とリィンは考え、そのように考えるようになった自分に少しばかり驚いた。日々をバリアハートで過ごすことが多いため、街の様子はなるべく頻繁に見て回るようにしている。数年過ごして感じたことは、やはりバリアハートは貴族の街なのだ。
内戦を経て革新派が勝利した後も、貴族制度そのものを根本から絶やすことはなかった。貴族制度を廃止し鉄道憲兵隊を各地の防衛に当てるので領邦軍は解体です、と宣言するにはあまりにも暴言である。バリアハートはその典型で、貴族が治め貴族が作り上げてきた街は、良くも悪くも商いが盛んで税収も潤う。経済、軍事、政治は、いくら三権独立を唱ってもどこかで必ず繋がっているのだ。だからこそ、貴族制度と政治を切り離しつつ、劇的な変化ではなく地道な改革を進める他無かった。
ユーシスが、アルバレア家が未だクロイツェン州を治めているのが良い例だ。軍事は国家体制として各領邦軍は正規軍に編入させ正規軍からの出向という形で各領地に設置、州運営はそれまでの政治制度に任せつつ革新派の政治家の席を増やした。ユーシスが頭を悩ませているのはその部分で、数年経った今でも過激な貴族派と革新派の論争は絶えない。

「いらっしゃいませーーあら、リィンさん。ちょっと待っててくださいね」
「ええ。すみませんでした、こんな短期間に」

仕立て屋《ヴァレンティ》の扉を開けば、独特の糊の香りと数々のアクセサリが店中に広がっていた。相変わらず、駅前の宝飾店に比べて安心するなぁとリィンは立てかけてある防具の値札を見て苦笑する。桁が違うので、駅前の方に寄るのは依頼があるときくらいだ。

「ええっと…ブーツですね。底の張り替えで1500ミラです。あ、紐も切れそうだったのでおまけしときました!」
「本当ですか?ありがとうございます。すみません、おまけとか付けていただいて」
「ご贔屓にしてくださってるお礼です。これからもぜひうちをご利用くださいね」

愛嬌のある店員は、リィンがバリアハートに住むようになった同じ時期から働き始めた顔馴染みだ。最初こそ不慣れなところはあったものの、今では立派に一人で店番をしているようだ。再度お礼とお金を渡し、試着してみるかと訪ねられたので好意に甘えることにした。
赤と暗い灰色が基調のブーツは、餞別にとユミルの皆からもらったものだ。ユミルと違いバリアハートで雪が降ることは稀なので、厚底で豪雪対策としても重宝するユミルのブーツは少しばかり浮いてはいるものの、とても履きやすいし動きやすい。何より皆の気持ちが嬉しくて頻繁に冬は履いていたところ、早くも調整が必要となってしまった。
試着してみると、以前と変わらぬ履き心地に思わず顔が綻ぶ。ユミルの靴底はなかなか修繕も大変だろうと思っていたが、長年貴族の街で御用達客が多い仕立て屋は腕の方も一流だ。紐が新しくなったせいもあるのか、新品同然に見えてそのまま履いていくことにした。季節は冬に入る手前なので、おかしくはないだろう。

店を出ると、はたきをもって看板を掃除しているビスケが「リィンさんおはよう!」と元気な挨拶をくれた。もうおはようにしては遅い時間だろうと思わないでも無いが、リィンもおはようと返して来た道を戻っていく。

さて、昼前には少しばかり早い時間なのでどうしようかと悩みながらARCUSを開いて時間を確認する。オーブをはめ込みアーツが使用できる特殊な道具としての機能はそのままに、音声交換機や時計、簡単な地図機能までもが備わったARCUSは、ラインフォルト社の最新型だ。軍部にも配備されていない端末をリィンが持っているのは、もちろんアリサからZ組だけに送られたプレゼントだからだ。運用および性能を確かめるという名目のもと、まだ世に出回っていないARCUSを使用できるというのはどこか心弾む楽しさがあった。音声機能の連絡先にはZ組全員の端末番号が登録されており、頻繁に連絡が来ると言えば意外にもマキアスかもしれない。おそらくユーシスには一度もかけていないだろうが。
ARCUS越しに仲良くお喋りするマキアス・レーグニッツとユーシス・アルバレアの光景は、想像するだけで笑いを禁じ得ない。二人とも仲が悪いのではなく仲が悪いように演じているだけで、ユーシスの言い方もマキアスがそれにいちいち反応するのも昔から変わらない。でも、以前よりはユーシスがからかったり上からの物言いではなくなったように感じる。
おそらく、大人ばかり、それも利権やら地位やらを嵩に政治を動かそうとする大人と普段相対しているから、マキアスのように遠慮ない物言いができる友人に甘えているところもあるのだろう。猛反論に合いそうなので絶対に指摘はしない。

「…何をARCUSを片手に百面相をしている。不審人物になるぞ」
「え?あれ、ユーシス。もう終わったのか?」

とても失礼なことを言われた気がしたが、それよりも昼まで一時間近くあるにも関わらず既に待っていましたと言わんばかりのユーシスに驚いてARCUSの蓋を閉じる。
お馴染みの緑の外套ではなく、深い藍色のコートに身を包んで立っているだけなのだが、やはり遠目で見ても近くで見ても目立つなとユーシスに微笑んだ。すこぶる美男子であることは誰もが認めるのだが、十代の頃と違って背も伸び凛々しさが増しているせいもあって、隣に並ぶリィンが可愛らしく見えてしまうと言われたことがあった。あれはショックだった、今でも心に残る深い傷だ。

「纏めてあったものを再確認しただけだ。さして手間もかからん」
「それでも流石だよ。俺には到底無理だな」
「ふんっ…やると決めたことだ。妥協や甘えなど己の誓いに反する」

こういうところは本当にストイックだよなと感心した。自分の言葉に責任を持つところも、実現すると決めたことを曲げないところも。眩しくて、強くて、尊敬する。

「まあ、お前とたまには遠出も悪くないと思っていたしな。なら、さっさと終わらせてしまおうと思ったまでだ」

先ほどの語調のまま微笑まれ、リィンは固まった。ユーシスの笑顔だ。毎日見てはいるけれど、こうして不意に見せる柔らかくて心底嬉しそうな類いの笑みは久しぶりだった。
顔に急激に熱が集まるのが分かる。右の掌で覆って、落ち着かせるためにはあと大きく息を吐いた。やはり熱は引きそうにない。

「ユーシスって、たまに、すごく、恥ずかしいよな」
「お前も同じだということを自覚しろ。さて、行くか」

さりげなく握られた手に導かれ、リィンはユーシスと共にバリアハート駅へと足を進めた。
颯爽と前を歩くユーシスの横顔に、俺も嬉しいな、と呟いた。



降り立ったケルディックの街は、青く高い空の色と褐色の街並、そして商人たちの掛け声が溢れる変わらない風景に彩られていた。一先ず昼食を、と二人で屋台に向かう。顔見知りの店主はユーシスを見るなり「作り立てを味見してみるか?」と焼いたばかりらしい鶏肉の刺さった串を、ずいと眼前に突き出す。漂う香ばしさに無表情なユーシスの目が輝いて、目は口ほどにものを言うとはこういう事だな、と微笑ましい気分になった。
二人分を購入して、大市に併設された休憩所に腰を下ろした。彼のアルバレア公爵家の人間であるユーシスが焼き鳥を頬張る隣で、男爵家の子息であるリィンも滴り落ちそうな肉汁に気をつけながら齧り付いた。妙に身なりの良い男二人が焼き鳥を食しながら大市を見渡す。考えてみれば不思議な光景だよな、と思いつつリィンは周囲に目をやる。大人に子供、観光客らしき人や妙に隙のない二人組、ベッキーの父親が野菜を売る声が風に乗り、値段交渉やら笑い声やら、ざわめきは五月蝿いながらもどこか心落ち着くものだった。

「…すごいよな、やっぱり」

特に口にするつもりはなかったのだが、ぽろりと溢れたリィンの言葉にユーシスは頷く。

「ああ。彼らの強さは尊敬に値する」

きっとユーシスの目に写っている光景は、自分と同じものだろうなとリィンは感じていた。抜けない刺の如く心に刻まれ、生涯忘れる事が無いだろうと断言できる光景だ。焼かれた露天、崩れ落ちた屋台、木片と貸した看板、焼け焦げた道路。ただ呆然と、起こってしまった惨状を眺め、失われた尊い命と悲しみに項垂れる住民を慰めることすらできなかった、あの時の。ユーシスにとっても、Z組にとっても、決定的に意識が変わった出来事は、今でも昨日の事のように目の前に広がる気がした。

「…俺にできるのは、ここに住む人々が、二度とあのような恐怖に晒される事の無いようにすることだ」

子供が二人、はしゃぎながら前を駆け抜ける。
ユーシスは眩しそうに目を細め、そしてゆっくりと閉じた。

「お前と共に、な」
「ああ。もちろんだ」

力強く頷く。ユーシスにこの決意がどこまで伝わっているだろうかと不安に思っていた頃とは違い、まっすぐとユーシスを見つめれば、蒼い光はちゃんと伝わっている事を教えてくれた。


協会に寄るというユーシスを待つため、リィンは駅前の広場の一角で入れ替わる人々の波をチェックしていた。平和な日々が続いているとはいえ、商人が多く集まる街というのは否が応にも問題は起こりやすい。鉄道憲兵隊が定期的に見回っているため治安は安全と言えるだろうが、思わぬ所で何かが発生するのは士官学院の実習時代から身に染みて実感していた。そもそもリィンはユーシスの護衛のような立場であるので、どこに行くにも付き添って控えているのが正しい姿勢なのだろうが、ユーシスが「待っていろ」と言えばリィンはそれに従う。バリアハートならば立場を重んじるが、ここはケルディックだ。ユーシスとて、四六時中一緒というのは息苦しい事もあるだろう。
そう言えば、とリィンとは反対側の角で演奏をする男性に懐かしさを覚えた。確か、かつてケルディックが戦火に見舞われた際にチャリティコンサートを開いたメンバーの一人だ。エリオットと共に、バリアハートに避難していた彼に演奏をお願いした記憶がある。まだ放浪の旅でも続けているのか、どうなのか。今のリィンには知る由も無いが、元気でやっているらしい姿が見れて良かった、今度エリオットに伝えてみようかと考えていたリィンの思考を、幼い声が引き戻した。

「えっと、あの…」
「ん?どうかしたのか?」

少女は、まだ10歳にも届かないくらいの年齢のようだ。手には、先週刊行の帝国時報を持っている。

「あのあの、もしかして英雄さんですか?」

ぴり、とこめかみに走った痛みに気付かないふりをして、少女と目線を合わせるために屈む。屈託の無い笑顔は自分に肯定を返してほしいと物語っていて、さて騒ぎを起こさないためにどうしようかとなるべく声を小さくする。

「英雄さん、じゃなくて、リィンと名前で呼んでほしいかな。君は?」
「私は、リンっていいます!」
「リン、可愛い名前だな。自分の名前は好きか?」
「はい!英雄さんと一文字違いだから、学校の友達にも自慢するんです」
「そうか。俺も、俺の名前が好きだから、名前で呼んでもらった方が嬉しいな」
「リィン、さん?」

よくできた、という意味も込めて頭を撫でてあげれば、嬉しそうに更に頬を赤くした。
リンは丁寧にお礼を言って、駆け足で大市の方へ下りていった。母親らしき人の胸に飛び込んで、何やら嬉しそうに話をしている。以前、うまくかわせずに子供数人が騒ぎだしてしまった事もあって、なるべく慎重に言葉を選ぶように心がけていた。数年経った今でも触れると鈍い痛みを伴うその名は、それでも少しずつ昇華できているような気がする。
英雄という存在は、帝国が掲げたプロパガンダであること。その裏で何が失われ、何が蠢いたかを知るのはごく一部だ。先ほどの少女のように、大半は英雄が本当に内戦を終結に導き力の象徴となったことを素直に喜んでいる。最初は抵抗し、否定するべきだと思っていた。だが今は、もう過去となってしまった事象について下手に言い訳をしない事にした。
英雄という一面を持つ自分が存在する。
事実を飲み込んで、昇華して、それでも自分は自分だと心から言えるようになるまで、こんなにもかかってしまったけれど、今はもう大丈夫だと確信を持って断言できる。

俺は、リィン・シュバルツァー。それ以上でも、それ以外でもない。

「ふん、子供相手にも容赦ないな」
「へ?」

背後に突然ユーシスの気配がして、慌てて振り向けば無表情で仁王立ちしていた。なぜだろうか、機嫌が悪い。

「どういう意味だ?」
「分からんのなら別にいい」
「気になるだろ」
「…はぁ」

ため息をつかれた。これは本格的に呆れているが、睥睨されても理由が分からなければ謝りようもない。先ほどの出来事を反芻してみるが、ため息をつかれるような事があるとすれば、少女とのやりとりだろうか。

「変な事言ったかな?というか、話を聞いてたのか?」
「聞いていない。だが、あの少女がああまで頬を染めるような浮ついた事でも言ったのだろう」
「……」

これはあれだろうか。俗に言う、嫉妬というやつだろうか?

「痛っ。何も言ってないだろ」
「随分と失礼な事を考えていそうだったからな」

思っていただけなのに脛を蹴られたので前のめりになる。たたらを踏んで文句を言い返せば、視線を合わせず顔をふいと背けるから、なんだかユーシスが可愛く思えてきてしまった。勝手に誤解して嫉妬をする。ユーシスに熱を上げる世の女性に申し訳ないくらい愛されている自覚はあるが、さすがにここまでだとは思わなかった。
本当は、この話題を出すとユーシスの顔が暗くなるから、できるだけ避けたかった。だが、誤解を解くためには事実をそのまま伝えた方がいいだろう。

「…英雄さん、って言われたからさ」

その呼称に、ユーシスは一瞬で気遣わしげな顔に変わり、口を開く。何かを言おうとしたのか、中途半端な何かになってしまうと判断したらしく、そうかとだけ返された。
こうやって、ユーシスだけじゃない、Z組の皆がリィンに寄り添ってくれるから、自分自身を取り戻す事ができたのだ。その感謝は、いつだって伝えたいと思うしいつまでも伝えきれないと危惧する程だ。
ユーシスの手を取って、両手で包んだ。大丈夫、という意味を込めて。

「帰ろうか」

笑った。過去を振り返るのではない。未来に進むために。
帰る場所が、ユーシスの隣である事が嬉しい、自分にとって誇りとも言うべき誉れだ、と。
ユーシスも、小さく笑った。リィンにしか分からないくらいの、ささやかな動き。その笑顔を間近で見れる事こそ、本当の幸せかもしれない。



宵闇が星と月の明るさになる頃、リィンはユーシスの部屋を訪れた。大人一人が横になれそうな広さの机の向こう、窓を背に真剣な表情で書類に目を通すユーシスは、リィンの訪れに気付いているだろうが視線を上げることはない。リィンは自室で用意したハーブティーを手に、あえて靴音を立てて近づいて机にカップを置いた。ポットを傾ければ適度に暖まった液体がカップに注がれ、ふわりと香るハーブにようやくユーシスが書類から目を離した。
本来紅茶を淹れるのは執事の仕事だが、夕食後の紅茶だけはリィンが担っている。護衛という立場上、執務室の右隣がリィンの部屋として充てがわれているため、自室で淹れたての紅茶を届けるのが日課となって久しい。

ユーシスの指先がカップの取手にするりと絡まり、茶器の音を立てずにソーサーからカップが持ち上がる。無駄に優雅な仕草だがユーシスとしてはこれが当たり前なのは知っているので、リィンは相変わらず綺麗な指にいつも目がいってしまう。斜め後ろに控えているので表情は伺えないが、さらりと揺れる前髪や少しだけ伏せられた瞼、カップの縁が口につく瞬間、全てがすこぶる整っているお陰で、容姿について目が肥えてしまって仕方ない。

自分に用意した紅茶はハーブティーではなくチャイ。シナモンが香る独特の風味は癖があり、好みは人それぞれだが、体の芯から暖まるので夜の紅茶として選ぶ事が多い。
ポットにティーコーゼを被せて置くと、ユーシスの座る執務椅子後方の窓枠に軽く腰掛けた。お行儀が良いとは言えないが、夜の闇に浮かぶ街の光をここから眺めるのが好きで、ユーシスが紅茶を飲む気配を感じながら自分のものに口をつける。
こうした、一日の終わりを迎える静かな夜が特に好きだ。ユーシスが口には出さずとも、美味しそうに自分の淹れた紅茶を飲む姿を見ていると、平穏の幸福を肌で感じる。特に今日のような軍部の要請が無い日は、あちこちに移動する事も無くゆっくりと流れる時間を楽しむ余裕がある。

ぎしり、と気配が動いたのを感じ振り向けば、ユーシスが椅子に座ったままこちらを向いていた。可動式の椅子に座った彼の手に書類は無く、足を組んで深く腰掛けている。じっとこちらを見つめる薄蒼が言わんとすることを悟って、窓枠にカップを置くとゆっくりと立ち上がった。

「お疲れ様、ユーシス」

こめかみに一つキスを落とせば、満足そうな笑みを浮かべてそっと後頭部に手が添えられる。屈むような姿勢から引き寄せられて、倒れ込まないように椅子の淵に手をかければ、先程見蕩れていた指先が手首を掴んで撫でるように掌を這う。ぞくりと甘い痺れが脳にまで届いて、繋がれた手が微かに震えた。窓を背に、外から見られるかもしれない背徳感すら凌駕する甘い口付けに、リィンは目を閉じて吐息を漏らす。



明日も、明後日も、ずっと貴方の隣で、幸せを感じていたい。