「本当に、もう一人の息子ができたみたいで、嬉しいわ」

リィンの妹エリゼとよく似た、御淑やかで清楚ながらも明るい声で、シュバルツァー夫人は朗らかに笑った。
その笑顔は少しだけ亡き母を想起させ、ユーシスの顔も自然と綻ぶ。

「いえ…お役に立てたなら光栄だ」

堅苦しいのかいつも通りなのか、微妙な敬語の混ざったユーシスの言葉にも夫人は気にすることなく続ける。

「子供たちにも随分懐かれているみたいだし、美丈夫だから女性たちも黙っては居られないわね。此処に、こんなに格好いい男の子が来るなんて初めての事だもの」
「はぁ…」
「リィンだって親の贔屓目とは言えなかなかの顔立ちだと思うけれど、ユーシス君はもう格が違うわ」

とにかく褒めに褒める夫人の言葉による攻撃に、ユーシスは曖昧な返事のみ。既に相槌に過ぎない。
この親にしてこの子あり、を垣間見るユーシスは、それでも丁寧に夫人に頷きを返し、温かみで溢れる言葉に目を細める。
本当に、ここは心が温まる場所だ。
何の策略も、駆け引きも無い。
人と人が、善意を示す事が当たり前に行われている光景。
リィンや他のZ組にしてみればどこか馴染みあるかもしれないが…ユーシスにとっては、ある意味でもっとも縁遠い感覚であった。

自分以外の周りだけが切り離されたような、自分だけがそこには居ないと錯覚する瞬間がある。
慣れていない温もりが、自分の在るべき居場所とは異なるのだと警告するようだ。
夫人の言葉に温かみを感じ、心が安らいだとしても…それは自分とは関係ないのだと、どこか一線を置いてしまう。

「さて、次はどうしようかしら」

思考に浸っていた意識が、はっとした瞬間に戻る。
そこには、少しだけ悲しそうに眦を下げた夫人がユーシスを見上げていた。

「…すみません。聞いていなかったわけでは、無いのですが」

苦しい言い訳だと自分でも思う。
そんな言葉を返してしまうこと自体が、甘えであるとも分かっている。
するりと出てきてしまう、己の弱さに、視線を逸らすユーシスの頭を、そっと夫人の手が撫でた。

「!」
「あのね、ユーシス君」

優しく、ただ愛おしむだけでの手つきに、ふるりと目の奥が揺れた気がした。

「リィンと知り合って、親友になってくれて、本当にありがとう」
「え…」
「あの子があんなに気を許す友達に出会えて、母としては本当に嬉しいわ」

撫でていた手を下して、ユーシスにソファに座るよう促す。
ユーシスが腰を下ろした隣に、ルシアも座って宙を見つめた。

「あの子は、知っての通り、内に在る大きな力が怖くて、そのせいで誰かが傷つく事にとても敏感なの」

外にできる傷だけじゃなくて、心にできる傷にも。
夫人はユーシスに視線を戻して、にこりと笑った。

「ユーシス君が隣に居るとね、あの子がとても安心しているように見えるわ。母の勘ね」
「勘、ですか」
「ええ。他の誰でも無い、貴方。きっと、ユーシス君のぴしっと前を向くまなざしに、惹かれたのね」
「それは…」

それは、自分の方だ。
リィンの言葉に、資質に、惹かれたのは自分だ。
家族の繋がりを尊び、しかし無理強いはせず、くじけそうになる心を何度も救われた。
彼は、鏡のようだと思う事がある。
脆く、壊れやすく、だが相対する者の性質を深く理解し、「ユーシスはこう在りたいのではないのか?」と問いかけてくる。
そんなリィンの理解者になりたいと思ったのだ。

「だからね、ありがとう」

夫人の言葉はどこまでも優しく、リィンへの愛に溢れている。
それが羨ましくもあり、同時に、嬉しくもある。

「…こちらの言葉です。俺は、リィンと出会えて良かった。ユミルに来れて、本当に良かった」

全ての出会いが無ければ、此処にたどり着くことは無かった。
この暖かで、優しい場所に。

「ふふ、今はこんな状況だけど、落ち着いたらいつだって遊びに来てちょうだい。あなたはもう、息子同然だもの」

こんな綺麗な子のお母さんになれるなんて私も鼻が高いわと微笑む姿は、とても先日まで夫が生死をさまよっていたとは思えない。
その強さにも、また一つ尊敬に値するとユーシスも感謝の意を返した。



「すまなかったな。妻に付きあわせてしまって」

テオ・シュバルツァーは未だ万全とは言えない身体を起こし、ユーシスを部屋に招き入れた。
座りなさい、と勧められたベッド脇の椅子に腰かけ、首を横に振る。

「自分には勿体無いくらいです」

ユーシスは視線を逸らさずに、テオと相対する。
その表情は、とても息子と同年代の子供が浮かべるものではない――

「改めて…身内が、ご迷惑をお掛けした。侘びの言葉もありません」

深く頭を垂れ、謝罪を口にした。
まだ17歳という年齢が背負うべき言葉の重さではなかった。
この内戦で、彼はどれほどの現実を目の当たりにしたのだろう。
アルバレア公爵は、御世辞にも人柄のよい人物とは言えない。
シュバルツァー男爵という爵位を有する以上、何度か言葉を交わしたことはあるものの、よくルーファスのようなできた息子が育ったものだと苦笑してしまう程だった。
そして目の前の少年、ユーシスもまた、貴族としての気高さを持ちながら、思考の柔軟さを垣間見せる。
それ故の、罪滅ぼし、罪悪感。
己の所業のために負の感情を息子に抱かせるなど、言語道断だとアルバレア公に一発お見舞いしたいくらいだ。

「君が謝る事ではない。それに、私はこうして生きている」
「しかし」
「リィンから聞いた。君がバリアハートで、貴族連合として情報を集めようとしていた事。ユミルの事がきっかけだったそうだな」
「…っ」

唇を噛んで俯いたユーシスの頭を一つ撫でる。
大げさなほどに驚いて顔を上げた彼は、こうした愛情表現に慣れていないのだろう、居心地が悪そうに身を引く。
それは僅かな体勢の変化ではあったが、無意識のうちに為されたものであろうことは予想がつき、無理強いする事ではないと手を退けた。

「その行動力と判断力…さすが、ルーファス君の弟だ」
「…確か、兄上がお世話になったことがあったと」
「はは、もうずいぶんと昔のような気がするが…彼に狩りを教えた」

ルーファスは、確かに聡明で柔軟な思考の持ち主であった。
貴族でありながらも特有の傲慢さは無く、礼節を弁えながら内なる強い意志を秘めた青年。
狩りの腕も初心者にしては凄まじく上達が早く、三日の滞在の中で地元民でもそこそこ難しいと言われる地形にまで足を運んだ。
素直に感嘆すれば、まだまだです、と謙遜し。

「とても、貴族派の総参謀を務めるとは思えなかった――失礼だが、公爵の事も含めて、な」
「いえ…そう言われても仕方ありません。それに、ユミルの事は兄上にとっても痛手でしょうし、父の下で集めた情報から推測しても、ユミルを襲った猟兵を雇ったのは父の独断のようでした」
「ルーファス君は、間違いなく総参謀として類稀なる手腕を発揮できるだろう。だからこそ、アルバレア公の行動が不可解でならない」

杞憂で終わればいいが、と肩を竦める。
テオが示唆する内容は、ユーシスもどこかで引っかかっている事ではあった。
ルーファスは、貴族派の勝利の為に動いているのは間違いない。チェスの腕前を見ても、幾手先を読み状況に合わせて戦法を変える事ができる能力を持っている。
弟として、家族としての贔屓目では決して無いのだ。
にも関わらず、暴走する父を積極的に止めようとする気配が無い。
ユミルの事をルーファスが気付いていないはずは無いのだから、一報くらいは入れてくるだろうと思っていたが、父の下で動いていた間にルーファスから働きかけは無かった。
気に掛ける暇もない程忙しいのか、それとも、何か別の思惑があるのか。
微笑を浮かべる兄が脳内に浮かぶも、その真意を問う術がない。

「…いずれ、兄から何かしらの接触があるかもしれません。今は、それを待つしかない」
「君も歯がゆいな。せめて、ユミルに滞在する間はゆっくりするといい。街の子供達とも、随分仲良くやってくれているようで、感謝している」
「いえ…」

歯切れの悪い返答しかできないのは、テオの言葉に素直に喜べないからだ。
ユーシスにとって、それほどに、ユミルが襲われたという事実は枷になっている。

息子は、決してユーシスを責めることは無いだろう。
テオはそのようにリィンを育ててきたつもりだし、実際息子の性情は、他者の痛みに敏感だ。
だから、ただ大丈夫だと。
ユーシスが気負う必要は無いと、言うだろう。
彼が息子の言葉をどう受け取り、昇華し、乗り越えていくか。
それは、彼自身の問題だ。

少し俯きがちだったユーシスが、ふと背後の扉に目を遣った。
おや、とテオもそちらに視線を向ければ、扉を叩く音に次いで「失礼します」と黒髪が姿を覗かせた。

「ユーシス。やっぱり此処にいたのか」
「どうかしたのか?」
「母さんが、焼いたパンを街の人に持って行って欲しいらしくてさ。あ、でも父さんとまだ話があるなら、無理にとは言わないけど」
「構わん。断る理由は無いな」

様子を窺うようにしているリィンに頷き、ユーシスは立ち上がる。

「病み上がりの所を、失礼した」
「構わないさ。呼び出したのは私の方だ――おっと、大事な事を言い忘れていたな」

テオは、ちょいちょいと手招きし、ユーシスの身体にぽんと手を置いた。
心臓のあたり…少しだけ軽く、そこを押す。

「迷い、戸惑い、辛い事も多いだろう。だがユーシス君なら、君なりの道を見つけ出せる――自分を信じなさい」

その言葉に、ユーシスは目を少しだけ揺らして。
しっかりと、頷き、胸の前で拳を握った。

「ありがとうございます」

女神の加護を。
最後にそう付け足して、リィンの後に続くユーシスを見送った。

「”若者よ、世の礎たれ”――か」

かのドライケルス帝の言葉は、この時代において何を指し示すのか。
願わくば、息子たちにとって最善の道であって欲しい、とテオは窓の外を見上げた。