戦艦パンタグリュエル。
帝都到着を間近に控え、その白磁とも翡翠とも見える太陽に輝く船内の廊下を、ルーファスは一人歩いていた。
内戦終結と共に、意味を代えた貴族派の象徴。
絢爛豪華な内装は、美しく貴族としての矜持を余すことなく伝えてくる。
なんて無意味な、と思わないわけでもない。
生まれた頃より当たり前に存在した貴族としての誇り、そしてトールズで学ぶ中で芽生えた、自らの道。
貴族としての自分を捨てることなく、最大限に利用して役に立ってこそ、自分を見出した宰相への献身・・・ルーファスは、そのように考えていた。
絶対的な信頼を寄せられるならば、それに応えなければならない。
およそ家族の暖かさというものに縁の無いルーファスにとっては、何よりも優先すべき想いであった。
だから、自分は先を読み、最善の道を示していかなければならない。
それが親愛なる弟の旧友を利用することになったとしても。
英雄リィン・シュバルツァー。
その名は今や帝国中が知るところとなり、そのせいもあって、リィンは現在、皇宮内の一角に軟禁されている状態であった。
あの激しい戦闘の後、宰相の言葉通り数刻で元通りになった城でルーファスがまず行ったのは、リィンの”保護”。
当然Z組は皆反発し、ユーシスでさえも、胡乱な目でルーファスを見つめていた。
ただ一人、リィンだけが呆然と…覇気の無くなった瞳で宙を見つめる。
彼の直面した事実は、如何ほどに彼を打ちのめしたか。
そこに同情を覚えないわけではなかったが、ルーファスはZ組を納得させる正論を述べる。
少なくとも、お互い敵同士ではない。
激闘の末疲れているだろうから、今からトールズに戻るよりも、一旦帝都で休息をとるべきだ、と。
渋々と言っていい雰囲気の中、突然ぷつりと糸が切れたかのように倒れ込んだのは、リィンであった。
慌てて駆け寄る仲間達。もっともリィンに近かったユーシスが支えるが、意識の無い人間を抱えるというのは容易ではない。
焦る彼らの下に近づき、ルーファスは軽々とリィンを抱き上げた。
「案内しよう。閣下、宜しいですね?」
この場で、ルーファスが閣下と呼ぶ人物など、一人しかいない。
何人かは息を呑み、ユーシスは問うようにルーファスを見つめて…その視線に、せめて安心するようにと笑みを返す。
害する気は無いのだと、伝える。
それが、ユーシスにとっては染みついた安心感を齎すものだと、知っているから。
「…よろしくお願いします、兄上」
「ああ。…君たちも付いてくるといい。心配ならば、ユーシス、君はリィン君と同じ部屋で休むといいだろう」
腕の中、身じろぎひとつせず気を失っている彼を部屋に送り、Z組それぞれに休むよう伝え、最後にもう一度リィンの部屋を訪ねた。
リィンの隣で、優しく愛おしむ手つきで頬を撫でる弟に苦笑するも、ルーファスは此処でユーシスと語らう時間などない。
ユーシスにも休むよう伝え、部屋を後にしたその表情は、次の一手を狩るルークそのもの。
ルーファス・アルバレア。
貴族派きっての貴公子であり、帝国内でその名を知らない人は居ない。
そう、誰もが彼は”貴族派の”総参謀であると思っていた。
そして表向き、その事実は今でも変わらない。
あの決戦の場に居た誰もが知っている裏の事実は、表では完全に伏せられている。
まさかルーファスが、”革新派の”総参謀だと、誰が予想できたであろうか。
リィンは、帝国時報に写る自分とヴァリマール、そしてクロスベル併合の文字を数秒見つめた後、視線を窓の外に逸らした。
帝都は、あの激戦が嘘のように穏やかさを取り戻しているらしい。
眼下に広がるドライケルス広場には、国旗を掲げた人が歓声を上げている。
その内容までは聞こえないが、帝国は素晴らしいだとか、そんな内容だろう。
そんな中、救国の英雄を掲げる旗が目に入り、リィンは思わず顔を背ける。
膝を抱えるように額を押し付けて、ソファに身を沈ませた。
バリアハートの実習で宿泊したベッドよりも柔らかいそれに、居心地の悪さを感じる。
あの時、隣にはユーシスが居た。
月の光に輝く金髪を綺麗だと感じたことを、今でも覚えている。
あれが初めて、ユーシスという人間を知る機会であった。
ユーシスは気付いていなかったようだが、隣でマキアスが寝たふりをしている事は呼吸で気付いていたし、まるで聞かせるように話をしてしまったのは意図していなかったとしても…リィンにとって、とても特別な夜であった。
レグラムで力を開放した後、眠れずにバルコニーでユーシスと語った事もあった。
途中からラウラも一緒になって光の剣匠の凄まじさを讃えた後、決して一人で抱え込まないでほしいと二人に約束させられた。
ああ、なんて恵まれていたのだろうと、リィンは両腕で肩を抱く。
今、自分の姿を見たら、クロウはなんと言うだろうか。
立ち止まるなと、俺の最期の言葉を忘れたのかと――
最期だなんて、嘘だと泣き叫びたかった。
それは、続いていく者の言葉だ。後に残すための言葉じゃない。
死の縁からだって引っ張って、返された50ミラの利子に代わるものを無理やりにでもこじつけて。
ただ笑って、隣に居て欲しかった。先輩たちと一緒に、門出を祝いたかった。
「クロウ…クロ、ウ」
ユーシスは、Z組の皆はちゃんと無事でいる。トールズだって、取り戻した。
なのに、ただ一人だけが居ない。
どうして、どうして。
カツリ、と部屋の前で靴音が響いた。
びくりと身を震わせ、リィンは顔を上げる。
「失礼するよ」
聴き慣れた、しかし今は一番聞きたくない凛とした声。
開け放たれた扉の向こう、白を基調とした服を纏ったルーファスに、リィンは自然と身を固くする。
「ルーファスさん…」
「顔色が悪いようだね。不便があったら、使用人に伝えるといい」
「…俺は、いつまで此処に居れば」
ゆっくりと、探るように紡がれた言葉に、肩を竦める。
二度目だが、と前置いて、ルーファスは続けた。
「君が此処に残るかは、君の意思だ。私は強制しない」
同じようにこの艦にリィンを招待した時、彼の瞳には炎の意思があった。
状況を打開しようと模索する、強い炎が。
だが今の彼は、揺らぎを堪えようと努力するので精一杯のようだ。
喪失はここまで人を弱くするのかと…表情には出さなくとも、ルーファスとしては少々意外でもあった。
「と言いたいところだが、実は今回は、君を勧誘しに来たんだ」
「かん、ゆう」
「単刀直入に言おう――クロスベルに私と渡り、灰の騎神と共に前線に立ちなさい」
「っ!?」
さらなる衝撃は、リィンのどこに届いたのか。
少なくとも、茫洋とした意識をルーファスに向ける程には効果があったらしい。
ルーファスを見上げ、困惑し、真意を測るような…複雑な瞳が注がれる。
「君も知っての通り、クロスベルは併合された」
視線を、卓上に広がる帝国時報にやる。
「迅速かつ無駄の無いように。なるべく人命を損なわず、しかし圧倒的な力を見せる必要がある。分かるね?」
「でも、それは…」
「騎神は戦争の道具ではない。誇り高き帝国民の象徴だ。内戦終結を導いた君にならば、クロスベル平定もまたその象徴となるだろう」
「あ、あなたは…」
リィンに近づき、ルーファスはそっと彼の頬に手を添えた。弟が彼にしていたように。
だが、ユーシスが込めていた意味と、ルーファスのそれとはまったく異なる。
さっと顔が青ざめたリィンは、ルーファスの手を振り払う。
大げさなまでに動揺し後ずさる姿に、ルーファスは笑みを深めた。
なんとか可愛く、哀れで、不安定なのだろう。
これが弟が惹かれた存在で、あの方の息子か。
「明日にはここを発つ。それまでに決めるといい。君の意思を、私は尊重するよ」
振り払われた手を腰にやる。その仕草はユーシスと似ていてここにもまた義兄弟の繋がりを感じて。
「だが、これだけは言っておこう。君が前線に立たないならば、より多くの血が流れる――それだけだ」
では、私はこれで。
颯爽と部屋を出ていく後ろ姿に、リィンは言葉も無く肩を落とした。
あまりに理不尽で、酷な状況…それでも、人の生命を蔑にできない少年の心は、悲鳴を上げる事すらできず涙を飲みこんだ。
クロウ、クロウならどうする?
この状況を前に、何を目指せばいい?
Z組の皆は此処に居ない。自分一人だけ、縋るものは何もない。
かちゃり、とポケットの中でARCUSが音を立てた。
緋色の騎神を前に、最後に繋がっていたのはユーシスだった。
彼の声に背中を押され、アーツを唱える彼を護り、人の身では到底勝利を収めることなど不可能であった戦いを生き抜いた。
ユーシス。
ユミルで語り合ったお互いの進む道。
彼の父親を捕える事となった日、彼の決意に滲み出た後悔。
二人で剣を交わし、意思を貫いて目指す未来を誓った。
あの時と、変わっていない想いはなんだろう。
自分にできる事はなんだろうか。
そして、後に灰の騎神の異名を冠する少年は、クロスベルに降り立った。
Z組は皆一様に驚き、その帝国時報を食い入るように見つめた。
リィンを除いて戻った、第三学生寮。
結局彼を士官学院に戻すことは叶わず、Z組の見送りにわざわざやってきた宰相に厳しい視線が注がれるのみ。
リィンの父親がギリアス・オズボーン…その事実は当然のことながら他言無用であり、Z組もそれに反対することは無い。
精神状態を鑑みれば、知っている人は少ない方が良いはずで、実際にこの問題に折り合いをつけられるのはリィン自身のみなのだ。例えZ組が何を言おうとも、フォローにはなるまい。
それが分かっているからこそ、歯噛みする気持ちであった。
そして、心に傷を負ったのはリィンだけではない。
あの場に居て、クロウが命を落とす様を見ている事しかできなかった彼等もまた、後悔と自責の念に責め立てられていた。
己が持てる全力で戦った。散った命も、理不尽な暴力も、抉るような傷跡を彼らの心に残していた。
だから、帝国時報が綴る”英雄リィン・シュバルツァー”に、怒りを覚える他無かった。
彼にすべてを背負わせ――ただ一人、あの場に残った彼は、どうなってしまったのか。
寄り添う事すらできず、帰還を余儀なくされたZ組は、何度も教官と交渉し、リィンの様子を見に行きたいと訴えた。
それでも許可が下りなかったのは、彼等がまだ学生であり、学院としても守るべき対象であるため。
リィンの安否を尋ねたくとも、≪鉄血の子供達≫は音信不通、かろうじてオリヴァルトと連絡はつくも、直接会うことは叶っていない。
そんな中、告げられたリィンの処遇は、あまりにも酷ではないかとアリサが叫んだ。
クロスベル総督府直属、臨時武官として共和国との戦闘に加わる事。
意味するところを正確に読み取ったユーシスは、兄上の考えそうなことだと呟いた。
「リィンの灰の騎神の力を共和国に示し、圧倒的な戦力差を見せつけるつもりだろう」
「そだね。騎神を使った戦闘が、戦場に与える影響は大きいと思う」
フィーもまた同意するが、エマとエリオットは気遣うようにユーシスに視線を送った。
それに首を振って、ユーシスは続ける。
「むしろ気にかかるのは、リィンがそれを承諾したという事だ」
「まだ決戦から一週間しか経っていないのに…」
「も、もしかして、何か弱みを握られてたり…?」
エリオットの言葉に、全員の表情が曇る。
その弱みとなり得るのが自分たちであるという自覚はあった。
それを利用する宰相であろうという予想も。
だが、ここに居ては自分たちにできる事は何もない。
真実を知る術を、まだ手にしていない。
然ればこそ、彼らは顔を見合わせ頷く。
その後、一週間。授業再開までにある決断をしていた。
お互いがやるべきことをやること――自分が歩むべきと思う道を、歩むことを。
約一か月ぶりとなるバリアハートに降り立ち、ユーシスはアルバレア侯爵邸に足を踏み入れた。
父の処遇は皇帝に依るところとなり、ルーファスは内戦終結後帰ってきていないという。
ならば、自分に課せられた使命は一つだけだ。
「アルノー、クロイツェン州全土の様子を調査し報告しろ。そして、領民および他州の各領主に伝令を出せ」
ユーシスは元は父の居場所であって、兄が継ぐはずであった席に座り、片手を挙げた。
「今後はこのユーシス・アルバレアが、領主代行として領地および領邦軍を治める」
「直ちに」
アルノーは父の時と同じく、深々と礼をして部屋を出て行った。
机の上に広げられた書類の山は、決済や指示を待つものばかり。
アルバレアという名が、今のユーシスにとっては唯一の後ろ盾だ。
貴族という身分が無くなるであろう近い将来、自分に課せられたもっとも重い役目は、おそらく強硬派と渡り合う事。
兄ならば――と何度思う事があるだろうか。
だが、立ち止まるわけにはいかない。自らが歩むべき道を定めた今、それをひたすらに突き進んで行く事が、あの迷惑だが暖かい先輩の最期の言葉なのだ。
「……」
しばらく無言のまま部屋を眺めていると、コンコンと等間隔で部屋の扉が鳴らされた。
「ユーシス様、お客様でございます」
「どなただろうか」
「…ルーファス様にございます」
一瞬の間に珍しいなと思った瞬間、ありえないと思っていた名前に目を見張る。
開かれた扉の先、見慣れない白い礼服に身を包んだその人は、変わらぬ笑みを湛えて優雅な仕草でユーシスの眼前へと姿を現す。
喉が渇いて、張り付いたかのように声が出せない。
「ふふ…そなたの驚いた顔というのも久々だな。我が親愛なる弟よ」
「あ、兄上…」
「壮健そうで何よりだ。此度は、領主代行の御祝いに訪れた次第だよ。パーティの一つでも開きたいところだが、生憎私も忙しい身でね。今回は勘弁してくれたまえ」
飄々としているとも思える言動は、ユーシスの知る兄と寸分違わない。
それなのに、その姿に違和感を覚えるという事態が、ユーシスにとっては衝撃であった。
「何故、私が領主代行の事をこんなに早く知ったかという事に驚いているかな?それは簡単だ。ある程度予想していたから、お前が帰るならばいつだろうかと考え、見事的中したわけだ」
それとも、と笑みに微かな暗さが覗く。
「『彼』の事について、かな?」
「ッ…!リィンは」
思わずその名を口に出していた。
溢れる激情に押し流され、問答無用で詰め寄りたくなる衝動を、かろうじて堪える。
そんな弟の姿に満足そうに目を伏せて。
「彼は今、クロスベルへと向かっている途中だ。むろん私も今日中には現地入りをするが、可愛い弟の姿を一目見ておこうかと思ってね」
「では…やはり、本当なのですね」
確認するかのように呟いて、ユーシスは腹の底に力を入れる。
この兄と対等に渡り合うためには、生半可な精神力ではいけない。
「私は、私のすべきことを為します。リィンに会う事があれば、伝えてください。『皆、お前の帰りを待っている』と」
その言葉に、ルーファスは軽く驚いたように笑みが消えた。
弟の顔をまじまじと見つめ、ふむと頷く。
「分かった。伝えておこう。しかし…会わせてくれ、などと言われるかと思っていたが」
「そうしたいのは山々ですが、兄上はそれを許さないでしょう?」
今のリィンがどのような状況かは分からないが、少なくともクロスベル同行がリィンの意思によるものならば、不確定要素であるユーシスとの邂逅を許すわけはない。
その読みはどうやら当たっていたようで、完璧な兄に一泡吹かせた事を誇ってもいいかもしれないとユーシスは笑んだ。
「なるほど。私の想像以上に、お前は成長していたらしい。ならば、これは渡すつもりが無かったものだが、サービスだ」
ひらり、と紙を一枚手渡して、ルーファスは去り際に言い残す。
「彼の心は、一度だってお前の事を忘れたことは無いようだ」
受けとった紙に書かれた一文を目にし、ユーシスは机に拳を叩きつけた。
その音に目を細め、ルーファスは己があるべき場所へと戻っていくのだった。
(俺なりの貴族の義務は、きっと力を持ってしまったことへの責任なんだ)