あなたを想うということは、私にとってなによりの幸福なのです。
終章
「僕、アメリカに行こうと思うんだ」
キッチンに並んで夜食の支度をしていたら、これから作るメニューのレシピでも読み上げるかのように緑谷が言った。
ヒーロー活動の合間に逢瀬を重ねるようになって半年。少しずつ緑谷は表舞台から退いて、上位チャートの常連からは名を見なくなった。
とはいえ根っからのヒーローだ。変わらずマスクを着てヒーロー活動に勤しみ、無茶をしない程度に事件があれば対応している。巷の人気に衰えはない。
実際、ワン・フォー・オールを酷使しなければ喀血だってほとんどしないということがわかった。体調が崩れた時には服用する薬を飲めば治まる。つまるところ、勝手にピンチになって勝手に死にそうになっていたのは、緑谷の焦燥や諦観が原因であったのだ。
そのあたりのストッパー役になれとリカバリーガールには懇々と諭された。
「……アメリカ?」
ちょうどカウンターの端を使って卵を割ったところの爆弾発言に、呆然と頭一つ分小さい同業者兼恋人を見下ろす。中途半端に割られた殻から白身が流れ出て、慌てた緑谷が差し出したボウルに運良く収まってくれはしたものの、こちらとしてはそれどころではない。
「危なかった〜」
「悪ぃ……いや、ちょっと待て」
今重要なのは、卵よりも緑谷の言葉だ。
アメリカ、となぞった国の名前をなんてことの無いように肯定した男は、つい先月まで引退するしないと一人で抱え込んだ挙句に、酔った勢いで打ち明けたにも関わらず勝手に気まずくなって気持ちの収集がつかなくなったところをようやく捕まえ、十年越しの恋心を伝え叶えた相手だ。事務所が遠いので同居は難しいが、なるべく休みの日にはどちらかの家に入り浸って、夜は戯れて身体を重ねる、そんな関係になったばかりだというのに、アメリカ。
「この力の継承者を探さなきゃだし。あとね、個性が無くてもヒーローのためにできる仕事があるよって言ってくれた人がいて」
「……誰だ」
「覚えてない? 雄英一年の時にアイ・アイランドで知り合った、メリッサさんって人なんだけど」
記憶を漁る。そんな頃から緑谷と面識があって、かつアメリカに誘うくらいの交友関係。アイ・アイランドという単語から引っ張ってきた顔の中に、ふと先日の七回忌で見た人影が被った。
「もしかして、デヴィットさんの」
「そう! デヴィットさんの、娘さん」
ほぼ自己紹介で会話した記憶しかないが、二つか三つ年上の女性で、かの地での戦いの際には緑谷にサポートアイテムを渡していたような覚えがあった。彼女は確か、無個性だった。
親しい者へ向けられる緑谷の笑顔に、卵を掻き混ぜる手が一瞬止まる。なるほど、悔しさや悲しさを共有できる人がいるのか。納得しつつ、こんなことでもやもやとしてしまう自分の心の狭さに、口を一文字に結んだ。
「彼女がアメリカの大学で講師を務めるらしくて。まず一年、学ばせてもらおうと思うんだ。授業は英語だけどね」
「……日本じゃ、駄目なのか」
「日本にいると、周囲に甘えてしまいそうだから。それに、ヒーローじゃない自分に、まだ耐えられそうにないし」
この国の多くの人が知っているヒーローデクが、海外に留学するだけでも結構なニュースになりそうではあったが。それもヒーロー科ではなく所謂サポート科なら、尚更その真意を根掘り葉掘り暴こうとする輩は出てくる。
いつかヒーローでなくなることが受け入れられて、新しい未来に進むための道を敷こうとしているなら、それを止める権利は自分にはない。むしろ背中を押してやらなきゃいけない立場だ。彼の傍で、ヒーローを続けていくためにも。
―でも、もし許されるなら。
「で、その、轟くんに」
「俺も行く」
「一緒に行って……えっいいの?」
びっくりを絵に描いたような真ん丸の目で、緑谷が少し仰け反った。聞いておきながら即答を予想していないなんて、見くびるなよと変な対抗心が湧き上がりキッと緑谷を見つめる。
「活動場所が日本じゃなきゃダメってことはねぇ……はずだ。親父は文句言うだろうが、海外のヒーロー活動だっていい経験だろ」
脳裏に浮かんだ父親の姿を意識の外に放り投げ、無名の頃にアメリカで活躍したというオールマイトを思い浮かべる。彼は、アメリカに留学していた期間中に多くの経験を積んだと聞いている。自分たちだってまだ二十代、今後のヒーロー活動を続けていくためにも、異なる環境にだって対処できる術を身に着けるべきだ。
と言いつつも、本心は緑谷と離れる選択肢を持ちえないというだけなのだが。緑谷だけがわかってくれればいいので、公言するつもりはない。
「おまえと離れるつもりはねぇからな」
「そっ……ソウデスネ……」
「お、顔赤い」
脛を蹴られた。照れ隠しに暴力に出るのは良くない。可愛いけれど。
フライパンからはケチャップと塩コショウの良い香りが漂ってきていた。ずっと掻き混ぜていた卵はいい加減泡立ち始めていて、ちょっとやりすぎたかもしれない。差し出したボウルの中身に緑谷は特に何も言わず、ご飯を皿に避けるとそのままフライパンに卵を流し込んだ。
円を描いた卵が固まり切る前に、炒めたご飯を丁寧に乗せていく。
「僕にどこまでのことができるかわからないけど、やっぱりヒーローに関わることはしていたい。それと、きみが無茶をした時のために、きみの命を守る術を、僕が生み出したいなって思った」
「緑谷……」
「ね、轟くん。僕たち、あと二年したら三十じゃない?」
唐突に話題を変えた緑谷は、どこかおかしそうに、嬉しそうに頬を緩める。
「僕たちは互いを知らない時間よりも、知っている時間の方が長くなるんだ」
「ああ」
「でも、一緒にいた時間は、片手にも満たないんだよね」
「……そうだな」
雄英に入って三年、ほぼ寝食を共にした。学生時代の思い出として語るには濃すぎる時間を歩んだ。それ以上を望んだけれど、叶わずに十年を過ごした。
「だからね……轟くん」
「?」
「僕は、僕が大切だと思う人が、幸せでいてくれたら良いんだと思ってた。僕はただ、大切な人の幸せを護ることができれば。見守っていられれば……いいんじゃないかって。でもね、きみと一緒に居たら、僕は想像以上に欲張りになってしまうみたいなんだ」
くるりと引っ繰り返った黄金が、綺麗にご飯を包み込む。
皿に移して火を止め、ほかほかと湯気の立つオムライスが乗った皿を差し出しながら緑谷は笑った。
「僕と一緒に、残りの人生、歩んでくれませんか?」
「……は」
熱烈な告白だ。耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
朗らかな笑みがかえって心臓を鷲掴みにして、照れが勝った。体温まで上昇しそうだ。
「顔、赤いね」
仕返しのつもりだろうか。ぐっと腰を抱き寄せて、可愛いことを言う口を塞ぐ。
びっくりしながらも、口づけを受け入れた緑谷が瞼を下して、鼻にかかった吐息を漏らした。
夜食にと作ったオムライスを食べるのは、もう少し先の事になりそうだ。
2019.7.14 published
laeuten ... Yu Mahiko
cover illust by hana