約束の地

誰もいなくならなくて、皆で成人式を迎えるお話。
衛と翔子と総士と一騎をメインに、19歳組オールキャラです。雰囲気総一かもしれませんが、シリアスで甘い展開はありません。

白い病室に佇む二人の間で、一冊の電子カルテが揺れた。
真壁一騎、と名が記された画面にはいくつもの数値とグラフ。連なる文字を目で追って、やがて辿り着いた一文に僅かばかり息を詰める。驚きよりも悲しみが滲み出る口元は微かに息を吐いて、続きを静かに読み進めた。
やがて画面が音も無く最後のページを告げ、沈黙が落ちる。
かたりと電子カルテを机に置いて決意を宿した双眸と相対し、もう一人は哀し気に顔を曇らせた。

――約束の地で

島にたった一つの喫茶店の開店時間は遅めの11時。
昼食を目当てに訪れる客が多いこの店には、アルヴィスの職員を中心に最近とあるメニューが評判だ。
歴代ファフナーパイロット中最高の戦績を残す真壁一騎が毎朝作り込んでいるという、通称『一騎カレー』。
メニュー表には『カレー』としか書かれていないそれに、溝口が「こんなにうまいカレーはただのカレーじゃもったいねぇだろ、一騎カレーだ!」と店内で豪語したのが発祥だ。
ちなみに、本人には了解を得ていないどころか、いやがられているという始末である。

「よ!邪魔するぜ」

開店30分前という忙しい時間にも関わらず、準備中の看板がかかったドアを開けて入ってきたのは、剣司、カノン、総士、真矢の4人であった。
いらっしゃいませ、と甲洋の爽やかな声が響いて、厨房からカレーの良い香りが鼻孔をくすぐる。美味しそうな匂いだね、と顔を綻ばせた真矢に続いて、カノンも嬉しそうに頷いた。
店には先客が居り、テーブルを寄せて椅子がセッティングされていた。4人の来訪を待っていた事が伺える。

「マスター、全員揃ったよ!」
「そのマスターっていうの、慣れないからやめてくれってば」

氷水をテーブルに置きながら、甲洋は4人に椅子を勧めてまたカウンターの奥へ戻っていった。その顔には苦笑と僅かばかりの照れが見え隠れして、真矢はうんうんと頷いた。

「春日井君のマスター姿、だいぶ板についてきたよね」
「そりゃあ、今や西坂を代表する名店『喫茶楽園』のマスターだもの。甲洋目当ての客だって多いでしょうに」
「料理は一騎担当、ドリンクと接客は甲洋担当。見事な連携プレーではないか」
「あの二人が喫茶店経営してるなんて、昔はぜんっぜん考えつかなかったけど」
「でも、今はしっくりくるっていうか…そうなるべくしてなった、って思うの」

翔子の言葉に、でもやっぱりあの二人だよ不思議でしょ、と咲良が反論して女性陣の会話が盛り上がる横で、粛々と今日の議題と書かれた紙を取り出した総士が眼鏡のブリッジを押さえた。

「さて、今日の話し合いだが」
「お前さ…雑談とかさ、あるだろ?もうちょっと」
「時間が惜しい。僕はこの後会議がある」
「あーはいはい。多忙な研究者様のスケジュールは分かってるよ」

お手上げ、とばかりに大袈裟に手を挙げた剣司は、「一騎、甲洋!」と名を呼んだ。そのまま二人に出席を促すのだろうと待っていると、「軽食頼んだ!」と明るいが予想外の展開を示す声に総士の鋭い視線が放たれた。
剣司はどこ吹く風、衛は渇いた笑いを奏でて時計を指す。

「ほら、もうすぐお昼の時間だし」
「僕の記憶が正しければ、あと30分もすれば開店時間だ」
「今日は、夜営業なんだよ」

サンドイッチとチーズ、ハムに野菜と彩り豊かなプレートを置きながら、甲洋が肩をすくめる。

「17時開店予定。16時30分に御門さんちがケーキ卸してくれる事になってるから、今日はデザート付きのカレーと、オムライスセットがメインになるよ」
「うわぁ、春日井君宣伝上手だねぇ」
「ちなみにそれ、いつから宣伝してんの?」
「一昨日の10時から。零央くんが相変わらず一騎目当てついでに親父さんのお使いで店に来て、夕方の客入りを増やすにはどうしたらいいかなって話になったらデザートセットはどうですかって言うからさ。一騎の負担になるからプリンくらいならって方向だったのだが、零央くんのケーキが美味しいんでパティシエ修行がてらプチケーキ作りますよって」

おかげでデザートセットでも料金はプラス50円くらいで出せそうなんだよな、とすらすら続く回想に、話を振ったはずの咲良が「はいはいもういいわ」と手をひらひらとさせる。
甲洋もそうやって話が途切れるのに慣れているから、「一騎呼んでくるから先始めてて」と厨房に引き返していった。
じゃあ食べてようかと女性陣に続いて剣司と衛が皿に手を伸ばす中、総士は持参した紙を手に今度こそと今日これだけの同期メンバーが集まった理由に取りかかる。

「成人式まで、あと一ヶ月というところだ。アーカイブの資料を漁ったが、やはり衣装としては袴や振り袖が一般的だろう」
「袴かぁ…家には無いな」
「浴衣とかならあるんだけどね」

衛と翔子が、ねぇと顔を見合わせ、真矢もうーんと左上に視線を送りながら唸る。記憶を辿ってみても、姉が振り袖を来ている姿を見た事が無いため家にあるとは思えない。
咲良は道場着を着慣れてはいるけれど、袴や振り袖となると別だ。おそらく一着くらいはあるだろうが。
それぞれが思い起こしているのを見渡して、総士は紙をめくる。

「アルヴィスで西尾博士に確認したところ、どうやら袴も振り袖も立上の家にあるようだ」
「へ!?」
「あの家、そんなものまで置いてるの?」
「確認済みだ。よって、なるべく全員か、男女に分かれて立上のお宅にお邪魔して貸してもらうよう手配した」
「さすが総士…」

ぱちぱち、と拍手に加え、おー、と軽い声援が飛ぶ。
声を聞きつけてきたのか、「楽しそうだな進んでるか」と甲洋が空いている席に座った。少し遅れて一騎もやってきて、残っている席に必然的に座る事になる。総士と翔子の間だ。

「一騎くん、カレーの良い匂いがするね」
「そうか?」
「うん。美味しそう」

ほのぼのと全く関係のない話が一騎と翔子の間で交わされている中、剣司がふと思いついたように椅子の背を叩いた。

「そういやさ、そもそも成人式って何するもんなんだ?」
「アーカイブによれば、満20歳を迎える男女を大人の仲間入りとするための儀式と、地域によってはお神酒や祝福、親戚を訪ねて挨拶回りなど様々だ」
「儀式って?お偉いさんの話聞くとか?」
「普段から一騎のお父さんの話聞いてるからなぁ」

甲洋の呟きに、それはお前がCDC勤務だからだろと剣司が心の中でツっこむが、「そうね」と咲良も同意した。

「せっかくなら真壁指令だけじゃなくて別の誰かでもいいよね。話短そうな人で」
「溝口さんとかどーかなぁ」
「パパお願い、ってアンタが頼んでみなよ。一発で引き受けてくれるから」

咲良の揶揄に、違いないと周りも苦笑した。溝口が真矢に甘い事は周知の事実であり、真矢もまたそれを利用している節がある。もちろん有事の際は立派な上官と部下なのだが、普段の生活で真矢をお嬢ちゃんと呼ぶ溝口がいかに彼女を溺愛しているかは推して知るべし、というものだ。

「そのまま成人祝いに祝杯だと麦酒片手にやってきそうだな」
「あー有り得る。てかその光景が浮かぶわ」

周囲が盛り上がる中、一騎は話し合いに参加する事無く静かに傍観していた。特に話す事も無いし、自分に矛先が向かったら返事をすればいいだろう。
軽く袖口に鼻先を近づければ、確かにカレーの香りがするなと納得して、横で楽しそうに皆の話に相槌を打っている翔子を見つめた。美味しそう、といつも自分の料理を褒めてくれる翔子の好物がハンバーグであることを一騎は知っていた。
それを知る経緯は少し寂しいものではあったけど、同時に暖かい思い出でもあったからふとした時に浮かぶ。そうか、ハンバーグ好きなんだよな…と考えていたら、出所の分からない衝動が沸き起こって隣の翔子に声を掛けていた。

「作ろうか、ハンバーグ」
「え?」

この人突然何を言っているの、と目を丸くして一騎を見上げる。その反応に、そうか、唐突だったなと今更に気付いた。

「好きだって言ってただろ、ハンバーグ」
「え、えっと…うん」
「いつも、俺のカレーとか、美味しそうって言ってくれるから。翔子の好きなもの、作るよ」
「い、いいの?」
「うん」

ぱあ、と期待に満ちた大きな瞳がきらきらと輝いた。頬を染める、と漫画的に表現できそうな程嬉しそうに双眸が細まって、喜んでくれたかなと一騎まで嬉しくなりそうだ。

「一騎くんのハンバーグ、食べてみたかったの!」
「――ほらそこ、二人だけの世界にならない」

ぺし、と紙束が一騎の頭を叩いてふわふわとした雰囲気から一気に現実に引き戻された。
今は成人式についての話し合いなのである。じと目、といくらかの殺気やら呆れやらが混ざった視線が一騎のみに集まって、なんか理不尽じゃないかと思いつつも一騎は「ごめん」と素直に謝った。
そもそも一騎が一人で想像して話し始めたのだから、理不尽も何も無いのだが。

「誰に講話を頼むかは、遠見と甲洋と羽佐間に一任する。衣装の段取りについては僕の方から立上さんに依頼するとして、あとは会場と当日のタイムスケジュールか」
「はい、提案でーす!」
「なんだ遠見」
「また皆でお泊まり会したいなぁ。場所はうちを提供します!」
「この年齢でお泊まり会かよ」
「いいじゃん、全員揃ってお泊まり会」
「いっそのこと合宿にすればいいのではないか?」
「それじゃ成人式関係ないよカノン!」

お泊まり会なんて、と渋る男性陣にじゃあ女だけでやろうかと成人式に関係ない話が和気あいあいと弾む。
たった30分の話し合いは、その後の総士の手腕によって見事に目的を達成し、成人式の段取りの大枠が決まった。あとはそれぞれに割り振られた役割を果たすのみ。
頭を叩かれた一騎は、結局以降の会話にほとんど口を挟む事無く静かにしていた。隣の総士が脱線しかかる話の流れを元に戻すのが大変そうだなぁと思いつつも、話を振られれば答えるのみ。ちなみに一騎の役割は、成人式後の所謂『飲み会』のおつまみ作りだ。
剣司など「これで酒が飲める!」とやたらにテンションが高く、衛もどこか楽し気だった。女性陣はそれほどお酒に興味がわかないのか、最終的には成人式の振り袖の柄で盛り上がっていた。
とても楽しそうでいいな、と一騎は胸が暖かくなる心地に一人目を瞑る。

皆が楽しそうなのはすごく好きだと一騎は思う。
総士が笑っていて、面倒そうにしつつも受け答えはいつもより義務的ではない。何より、総士も一騎と一緒で、皆が笑っているのが好きだからとても嬉しそうなのだ。それだけで、いいと思う。
そのまま意識の上を走る会話に心地よさを感じていると睡魔が勝って、一騎起きろよと甲洋に背を叩かれて目を覚ました。目を覚ましたという事はやはり寝ていたようだ。呆れ顔で一騎を見下ろす総士はぽんと頭を軽く叩いて席を立つ。

「忙しい時間に邪魔をしたな、甲洋」
「そうでもないよ。むしろもっとゆっくりしてもいいのにさ」
「次に来る時は、もっと時間が取れるように調整する」

またなと見送って、甲洋は後片付けを始めていた一騎に倣ってテーブルの椅子に手をかけた。

「――あれ?」
「どうかしたのか?」
「これ、落としてったみたいだ」

テーブルの下から拾い上げたのは、花の刺繍の入ったハンカチ。明らかに女性物と分かるそれは、おそらく誰かが膝にでも敷いてそのまま落としてしまったのだろう。

「今なら間に合うだろ?甲洋、行ってきていいぞ」
「悪い、すぐ戻るよ」

後で個々に聞くより、まだ遠くへ行っていないであろう皆を追いかけた方が早いだろう。
片付けはやっておくと送り出してくれた一騎に礼を言って、甲洋は駆け足で坂を下った。

***

坂を下りた曲がり角では、ちょうどアルヴィスに向かう総士とカノンが別れを告げているところだった。

「ごめん!これ誰か落としていったみたいなんだけど」

突然の声に皆驚いて甲洋を見上げ、手に持ったハンカチにあっと声を上げたのは翔子だった。

「それ私のなの。春日井君、ごめんね。届けてもらって」
「そっか。渡せて良かったよ」

折り畳まれたハンカチを丁寧な手つきで翔子に渡し、甲洋はそれじゃ戻るなと踵を返した。
その後ろ姿に、翔子がか細い声をできる限り張り上げて、笑う。

「ありがとう!」

甲洋はそれは嬉しそうに顔を綻ばせて、ああ、と手を振った。

「ねぇ、皆城君」
「なんだ」
「春日井君と翔子が一緒にいるのを見るとね、なんだか嬉しいのと悲しいのが同時に来るの。なんでだろうね」
「…そうだな」

総士の曖昧な返事に、真矢は応えを期待していなかったのか少しばかり驚いたように彼を振り返った後、僅かに微笑みを口元に乗せた。
その笑みは決して歓喜の意味では無かった。だが、何かを悟った達観の色を滲ませていた。酷く複雑で、総士にはその笑みの本当の意味を理解する事はできないと感じた。
気の利いた事を言える性格じゃない事などとうの昔に分かっているのだけれど、もっと人の感情に機敏で在ればその笑みの意味を察する事ができていたのかもしれない。

「…ううん、ごめんね。変なこと言った」
「遠見」

咄嗟に名を呼んだ。真矢は首を傾げて総士の、灰と紫を混ぜた瞳を見上げた。

「一騎は、きっと知らない。いや、知らないのではなく、その発想がない」

途端に視線が鋭くなった。第三者には分からないであろう、総士を射抜くように目を細める。
探るようなそれに晒されてなお、総士は真矢をじっと見据えた。

「…嫌味にしか聞こえないよ、皆城君」

真矢の瞳が揺れたことに、総士は思いの外動揺と後ろめたさを覚えた。
真矢の後ろでは、翔子と剣司がどうしたのかと二人を待っていた。正確には、真矢を。
おそらく総士の後ろにはカノンが同じ様に待っているのだろう。真矢、と翔子が呼ぶ声が大きく響いて、ふるりと頭を一振りした。

「すまない、君を不快にするつもりではなかった」
「知ってる。翔子が待ってるから、行くね」

じゃあね、とどこか突き放した様な声を伴って真矢は総士に背を向けた。
是を返す間も無く走り出した背中が翔子の隣に収まるのを見送って、総士もまたカノンに並んだ。
話を振ったのが自分とはいえ、一騎の鈍感さが原因かと思うと理不尽な気がしないでもなかった。

***

店に戻ってきた甲洋は、渡せたよと笑ってテーブル拭きを再開する。17時開店までまだ時間はあるのだが、今日はデザートセットという試みがあるためメニューの書き換えと看板の用意が必要だ。デザートがあるなら珈琲や紅茶も追加で注文がある可能性が高い。カップをいつもより余分に棚に並べておいた方が良さそうだ。
デザートの数に限りがあることを考えると、数量限定の文言、あと普通のセットの価格の記載をしておけば混乱が無いだろう。一騎はここ最近調子が良いので体調面で問題は無さそうだが、今日が17時開店になった理由を考慮すれば、21時まで厨房に一騎を立たせ続ける事に少しだけ懸念はあった。

「一騎、お前、体調は大丈夫なのか?」
「今は平気だよ。今日の検査も、念のためってことらしいし」
「俺以外には」
「剣司は知ってる」
「主治医みたいなものだしな。あとは総士か?」
「今日の事は伝えてないよ。まあ、もしかしたら知っているかもしれないけど」

おそらく知らないだろうな、と甲洋は心の中で一騎の言葉を否定した。
急な検査があることを知っていれば、先程一騎が話し合いの最後に寝てしまった時、総士の顔はもっと強張っていただろう。以前は何を考えているか分からない奴だったが、今は本当に表情豊かになった。
フェストゥムの側から帰ってきたお陰というのは可笑しな表現だが、張りつめた空気が解けて、誰とでも気軽に話をする程に社交的になったのだ。
それでも一騎が総士にとって特別な存在であることに変わりは無く、仕事終わりの甲洋に「今日の一騎の様子はどうだった」と電話がかかってきた時には「自分で聞け!」と切ってしまったものだ。懐かしい。
つまりは、一騎に何らかの異常があるかもしれない今の状況で、総士が平然と意識を失った一騎の頭を叩くような真似はしない。だから、知らない。

「…ま、後で伝えておけよ?」
「うん」

本当に分かっているんだろうなこいつ、という視線を受けながら一騎は皿洗いに没頭していた。
時刻は12時前。開店前の5時間、まず御門屋さんに顔を出しておくかと行動の順序を決めながら手にしたチョークで『本日のメニュー』を書き進めた。

***

「あれ、一騎?どうしたの?」

海原に気持ちのよい風が吹く13時、堤防に座って剣司と咲良が言い合うのを眺めていた衛は、視界の端に一騎の姿を捉えて声をかけた。
声をかけられた一騎は一瞬驚いたように瞬いて、穏やかに笑う。

「これから検査なんだけど、海を見てから行こうと思って」
「検査って…同化現象の?大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。遠見先生や父さんが心配してくれてるけど、最近は調子が良いから」
「咲良や甲洋も検査が頻繁にあるみたいだけど、一騎が一番ファフナーに乗ったんだ。無理したら駄目だよ」
「無理はしてない。ありがとう、衛」

隣いいかと訊ねた一騎に、もちろんと答えて衛は少しだけ右に寄った。
咲良と剣司は、まだ波打ち際だ。

「衛は、どうしてここに?」
「本当は帰るつもりだったんだけど、二人の背中を見てたら名残惜しい感じがしてさぁ」

だからもう別れてはきたんだ、と肩を竦めて苦笑いする衛の声は思いの外悪びれていなかった。確かにこの距離なら、二人がこちらを見ない限り気付かれないだろうと一騎はそっと衛の隣に腰掛ける。
衛は背が伸びて、一騎と同じくらいになった。14歳の時は誰よりも背が低かったのに、今は一騎と並んでいる。だから、目線も同じになって、この堤防から見る景色も似通っているように感じていた。いや、感じたかったのかもしれない。

「咲良と剣司がああやってるのを見ると、僕は二人の親友で本当に良かったって思うんだ」
「…俺は自分のことばっかだから、衛や翔子みたいに他人の事を一生懸命考えてやれるって、すごいと思うよ」
「そうかなぁ。僕も自分の事ばかりだと思うけど」

でもさ、と衛が目を細める。

「僕には僕ができることがあって、一騎には一騎にしかできないことがある。それを僕に気付かせてくれたのは、一騎なんだよ?」
「俺?」
「昔は、一騎はなんだってできてそれこそ英雄みたいだと思ってた。もちろん今だって一騎はすごいと思う。尊敬してるよ。でも、咲良や甲洋が倒れて、総士も居なくなって、今にも崩れそうな一騎を見ていることしかできなくて…僕にできることはなんだろうって思ったんだ。僕がこの島の為に、生きている人達のために、仲間のために、一騎のためにできることはなんだろうって」

二人の間を風が通り抜ける。
島の大気であるミールが、心を溶かすように促している風。衛は視線を海に向けて、どこかの過去を想起していた。
立ち止まっても考え続ける事ができる強さを、衛は持っていた。
それこそ尊敬に値すると、彼の話を聞きながら一騎は彼と同じように海を見つめる。

「二人がああやって笑っていてくれるだけで僕は嬉しい。ゴウバインを継いでくれる後輩が無事に戻ってくる姿を見せてくれると嬉しい。一騎と総士が楽園で一緒にご飯を食べてるんだと思うと嬉しい。嬉しい事を考えてたら、たくさん嬉しい事が僕にはあって、それを守るためにできることをしようって思うから」
「…嬉しいこと、か」
「うん。一騎にもあるでしょ?」

嬉しいことはなんだろう。
さっきみたいに楽園で、皆が平和を享受している姿を見てとても嬉しかった。
父さんと溝口さんが、戦闘以外の話で談笑している姿を見ると嬉しいと思う。
総士が一騎を呼ぶ声を近くで聞けるだけで嬉しい。楽園で他愛も無い話をして、総士の所へ持っていく出前の約束をして、甲洋と一緒に次のメニューを考えて、仕込みの用意をしていたら真矢やカノンが味見をしに来て。それら全てが愛おしく、命に代えても守りたいと願う光景だ。

「あるよ、たくさん」
「ほら、一騎も僕も同じだよ。自分の事ばっかりで、他人の事ばっかり」

僕たち似た者同士だね、と衛が柔らかく笑うものだから、一騎もつられて頬が緩む。目の奥が少しだけ熱くて、でもそれは海風のせいにしておくことにした。

「…やっぱり、衛はすごいな」
「えぇ…?そうかな、一騎が僕のこと買い被りすぎてるんじゃなくて?」
「俺がそう思うから、かな」
「じゃあ僕にとっても、一騎はすごい人だよ!」

おあいこだ、と右手を一騎に向かって突き出した。同じようにすればいいのかな、と一騎も手を差し出したら、パン、と軽い音が二人の手の間で響いて、海の音に混じった。
剣司と咲良の姿はだいぶ小さい。どうやら二人は、後方の衛達に気付く事無く歩き進んでいるようだった。

「衛は教官、辛くないか?」
「辛くはないよ。僕が選んだ道だし…まぁ、大変は大変だけど」
「そうか」
「一騎は?って言っても、僕はついさっき一騎の美味しいご飯食べたばかりだけど」
「楽しい…と思う。甲洋が難しい事はやってくれてるし、俺も料理は嫌いじゃないから」
「そっか、良かったね」

こくり、と頷いて一騎はそっと手の平を水面に掲げる。きらきらと光る中、ニーベルングの指輪の痕がくっきりと浮かんでいた。

「僕は教官、剣司は医師、咲良は学校の先生。翔子はオペレーター、カノンは技師、遠見はパイロット、甲洋はCDC兼喫茶楽園のマスター。一騎は調理師で、総士は研究ーあれ?総士のって職業?」
「それ、俺も思った。研究者って一応職業…になるんだよな」
「あはは。なんか総士って昔から研究とかやってるイメージあるから、今更職業って感じもしないよね」

実際は昔から研究をやっていたはずは無いのだが、総士と言えば研究者、は誰もが思い描いた彼の姿にぴったりで、それ以外の適正職業を挙げよと問われたらかなりの時間首を傾げることになるだろう。
それぞれが選んだ道は5年前からは想像できないものでもあり、また、なるべくしてそうなったと納得のいくものでもあった。一騎にしてみれば、正直なところ、自分の職業が自分にとって誰よりも意外だった。台所に立つ事に抵抗はなかったけれど、まさか調理師になるとは。それも、甲洋と一緒に店を経営するなど天地がひっくり返っても無いと思っていたのに。

本当は。
本当は、こうやって衛と穏やかな時間を過ごすことも無いまま、居なくなってしまうと一騎は思っていたから。

「…そろそろ行くな」
「うん。気をつけてね」
「ああ」

立ち上がり、堤防の上で少しだけ胸を張る。ひょいと軽い足取りで1メートル近い段差を飛び降りて、衛がまたねと声をかけてくれるのに頷いた。

「総士に言っておきなよ?」
「…甲洋にも言われた」
「総士は一騎の事が大好きだからねぇ」
「そうかな」
「うん。誰に聞いても、そう言うよ」

そんなものだろうか。
でも、悪い気はしなかった。

「衛」

優しい目が、一騎に注がれた。
尊敬できる、誰よりも強い心をもった人。

「ありがとな」

伝えたい言葉を、やっと届けることができた気がした。

***

幸福で満たされた世界に在ってなお、限界が訪れた。
それは夢であれ、現実であれ、決して覆す事のできない未来なのだと、告げられたのだ。
だから受け入れよう。
一騎はカルテに記された一桁の数字に、これ以上無い喜びと切なさを覚えた。

***

――アルヴィスで制服を着ていないと落ち着かない。

いつだったか、一騎がそんな事を言った。
無意識のうちに溢れたようだったので、特に言及もしなかったが、ひどくぼんやりとしていたからさっさと医務室に連れて行こうと歩調を早めたような覚えがある。
初めてアルヴィスで一騎達を迎えたとき、真矢と翔子を除いた面々は制服の着用を躊躇った。
違う自分になる感覚。今までとは全く異なる環境と大人達の態度。子供が大人にならざるを得なかったという事実。全てを受け入れていた一騎は、実は誰よりも何一つ受け入れていなかった。
ただ『総士が言うから』、それだけが一騎の根本だった。その結果が、アルヴィスの制服であり、ファフナーパイロットであり、マークザインを生み出した意思と心の確立だ。

それから一騎は変わった。自ら変わることを意識することなく、変わっていった。いや、慣れていっただけかもしれない。
だが一騎が総士と同じ目線を目指さなくなった時、総士はとても安堵したのだ。
自分達は一つではなく、別個として互いを支え、己を確立して他者の存在に寄り添える。その当たり前であり二人にはとてつもなく難しかったところまでやってきて、「また明日な」と笑いあえる幸せが訪れたのだから。

「…で、僕の記憶が正しければ、あと2時間もすれば『楽園』の開店時間になると思うが」
「ああ、これから行くよ」

総士の声が低くなっている状態に気付いているのかいないのか、19歳男子とは思えない幼さを含んだ瞳をぱちりと瞬かせた一騎の頭の上には「どうかしたのか」と疑問符が浮かんでいた。
私服姿でアルヴィス内を通行しているのだから、これから店に向かうというのは嘘ではないのだろう。
だが、そもそも何故此処に居るかという疑問の解決にはなっていない。

「お前が此処に来るということは、メディカルチェックでもあったのか」
「あれ、総士には伝わってなかったのか」

そっちに驚いたと続けて、微笑む。

「遠見先生が、気になる事があるって言うからさ。この前の検査結果を聞くついでに、CTのチェックをやったんだ」
「体調に問題でもあったのか」
「自覚できるところに変わりは無いんだけどな」

俺もう行かなきゃだから、と離れようとする一騎を反射的に追いかけ共に自動歩行機に乗る。

「ついていく」
「え、いいよ」
「僕がそうしたい。それに、最近あまりお前と話をしていない」
「…ははっ」
「何故そこで笑うんだ」

顰め面になっている自覚はあったが、総士は可笑しそうに目元を拭う一騎を睨みつけた。怒っていないのに怒っているふりをしていると咲良に指摘された事のある顔だ。

「お前ほんと、律儀というか不器用っていうか」
「お前に言われる筋合いは無い」
「嬉しいよ」

不意に一騎はそんな事を言った。
最初何を言われたのか分からないくらい、穏やかで自然に。総士を真っ直ぐに見つめ、決して満面の笑みでは無かったけれど、仄かな柔らかさを双眸に宿して。
総士は呆気にとられた。一騎の口からそのような言葉が出てくると思わなかった。
だが次に襲ってきたのは、漠然とした恐怖だった。

「嬉しい。お前がそんな風に思ってくれることも、そうやって伝えてくれることも」
「一騎、お前」
「嬉しい事が多すぎて、なんか変な感じだ」
「一騎」

自動歩行機は終わりを告げ、二人して廊下の真ん中で立ち止まった。
一騎は淡い笑みを浮かべたまま。総士は一騎の腕を掴んで、相対する。
息苦しさすら感じると、総士の渇いた唇が音をたてた。

「何を遠見先生と話したんだ」
「……」
「僕には、言えないことか」
「……」
「僕では相談するには値しないか」
「それは違う!」

顔を先に歪ませたのは、一騎の方であった。
静かな否定は、再び二人の間に沈黙を生んだ。けれど、一騎はそっと総士の腕を取った。
否定の意味ではなく、受け入れて欲しいと願いを込めたつもりだった。

――ああ、衛。やっぱりお前は凄いな。俺にできることは何だろうって今すごく考えてる。

「遠見先生と話したのは、俺の」

総士は黙って一騎の手を握り返した。
俯き加減の顔はそれでも笑みを絶やさなくて、でも震える肩が俯いていく一騎の心情を何より表していて。縋るように額が総士の胸に押し付けられた。

「俺の寿命のこと」

ただ抱き締めるしかできない己に、総士は心の中で自問する。

――一騎のために、何ができる?

***

毎年恒例のお盆祭りに、今年は成人式が加わった。
祝われる対象にかつて島を救ったファフナーパイロットが含まれているのだから、後輩達の気の入り様は例年の比ではない。
また本人達も、自ら企画した成人式を滞り無く迎えたのだから、楽しくないわけがない、とノンアルコールビールを手にした剣司が一騎に絡んでいた。
一人を除いて皆、袴や振り袖姿である。

「一騎!袴着ろって言っただろ!!」
「もぉ、一騎君空気読めてないよ!」
「ご、ごめん…でも着る暇が無くて」
「甲洋は着てるじゃないのさ」
「一騎君、この後のご飯の用意が大変だったんだよね…?」
「昨日のうちに仕込みは済ませてあると甲洋は言っていた」

なんで俺こんなに責められるんだろう、と困り果てた顔で一騎は皆を見渡した。甲洋と総士だけ何故か一歩離れたところで様子を眺めているから、助けろよと一騎は必死の視線を送る。
総士は酷く綺麗に鼻で笑った。無性に腹が立ったので、甲洋だけが頼りだと強い信頼の眼差しで見つめてみる。

「まぁまぁ皆。一騎、あっちで立上さんが待っててくれるから着替えてこいよ」
「ありがとう甲洋」

心の底から礼を言う一騎はそそくさと輪を離れて、甲洋が指差した方向に向かって駆け出した。
総士は無言で、その後を追う。彼の背に甲洋は何も言わず、誰も引き止めること無く見送って。

「総士の後ろ姿…一見すると女だよな」
「それ本人の前で言うと怒られるよ剣司」

ひそひそ声の剣司と衛に、ぺしりと甲洋が二人の頭を叩いた。

***

「一騎、着替えは終わったか?」
「ああ、お待たせ」

ぴんと伸ばされた背と見事な袴姿で、襖の奥から出てきた一騎は疲れたと眉を下げた。

「袴って思ったより面倒なんだな」
「これで面倒などと言っていたら、女性の振り袖は想像を絶するな」
「確かに」

草履で石畳を歩くというのは、思ったよりも難しい。足の裏にあたるごつごつとした感触が子供の頃素足で河原を走った感覚に似ていて、一騎は不思議と気持ちがふわふわしていくのを感じた。
総士は、そんな一騎に苦笑して、転ぶなよと声をかける。一騎が転ぶなど想像もできないけれど、どんなことでも気にかかってしまうのはもう仕方が無いのだと首を振った。

「転ばないよ」

案の定、一騎も分かっているよと顔に書いてある。
総士は一騎の手を取った。皆の所に戻る前までなら、許されるだろうと言い訳をして。

「僕は諦めない、一騎」

視線の向こうでは、美羽が剣司達に何か提案をしているようだった。ぴょんぴょんと飛び跳ねてカメラを頭上で揺らしている。

「僕と共に生きてくれるか」

それは告白ではなかった。
総士にとって告白など意味の無いものだ。一騎に対する侮辱だとすら思っていた。
想いは同じであること、信じる未来は変わらないこと、共に未来を歩むこと。
一騎と総士が二人でなければ辿り着くことのできない約束の地を目指すことの、確認だ。

「ああ」

短い返答に、想いは全て伝わったのだと総士は二人を繋ぐ手に力を込めた。
一騎もまた、総士が分かっていてくれることに安堵と罪悪感と、幸せを感じていた。

ありがとう、と音にならない感謝が、総士に向けられていた。
一騎からであり、また、島のミールからも。

「おにいちゃーん!お兄ちゃんたちの写真、美羽が撮るから、はやくー!」

美羽の両手に収まりきれないほど大きなカメラ。満面の笑顔でこちらに手を振って、二人を促している。
真矢が、カノンが、甲洋が、翔子が、剣司が、咲良が、衛が。
二人が来るのを待っている。
総士が一騎の手を引いて、今行く、と声を張り上げた。

「ああ…」

幸福が、夢が、誰一人欠けることの無い未来が。
目の前に、広がっていた。

――そして目が覚めた時、大空を駆けた一騎の目の前に広がった蒼穹は、今まで見てきたどんな青空よりも澄んで見えた。