静かな夜の海。
 薄明かりがぼんやりと水面を照らしながら、蛍に似た小さな光が明滅を繰り返す。海を照らす光源は頭上にそびえる大木だ。
 蒼と緑が角度によって色を変え、透き通った硝子の結晶を思わせる輝き。木は、遠い神話の一つに生命の象徴と記され、万物の循環を司る。大地から生気を吸い取り、末端の細い木の枝から生命を生み出す。目の前の大木も神話になぞらえたように、生命の輝きを宿して鎮座していた。
 海は生命の根源。木は生命の流転。両者の狭間に、一隻の小舟を浮かべ夜空を見上げていた。
 ここを訪れる人は皆、舟を漕いで大木の根元を目指してやってくる。自分が乗っているものと同じような、けれどもっと小さな一人用の舟。
 総士の舟にも櫂はあるけれど、漕ぐ必要が無いのでずっと膝の上に置いたままだ。
 木の根本に留まり、総士はいずれ訪れる、ある人を待っていた。きっと総士が知る誰よりも遅くにここを訪れる人を。
 その人が最後に乗る舟を、ずっと守っている。






最果てに待つ人






 ぼんやりと大木を見上げていたら、遠くから一隻の舟が総士の元にやってきた。
 力強く水をかく音がだんだんと近付いてきて、舟に乗る人物の顔もはっきりとしてくる。総士が知っているのよりも心なしか若い、かつての上司と、その親友。
「真壁司令、溝口さん、お久しぶりです」
「総士君…なるほど、ここが我々が行き着く先ということか」
「死後の世界ってやつか?」
「いえ、ここは島ですよ」
 顔を見合わせて苦笑する二人は、戦時の厳しさを忘れ去ったかのように随分と穏やかな眼差しになっていた。
 総士の言葉に、驚いたように目を見張る。
「ここは、島なのか」
「ええ。生命の循環、その入り口です」
「そうか…最後に、島に還れるのか」
 大きな重荷を脱ぎ捨てた大人たちは、とても安らかに、満たされた心地で総士の言葉を甘受しているようであった。
 幾許かの沈黙の後、溝口が突然頭を下げてきた。今度は総士の方が驚いて、僅かに体を硬直させた。
「すまねぇ、総士。俺たちは、お前に助けられてばかりだったのに、お前にたくさんの苦しみを背負わせちまった」
「僕は、僕のやるべきことを果たしました。それだけです。希望を託す相手もいました」
「俺たちは、俺たちにできる限りで希望を繋いだ。あとは、あいつらに任せれば大丈夫だ」
「ええ、間違いなく」
 自信に満ちた言葉に、頷く。先に命を終えた総士よりも、最後の瞬間まで島を出た人々と共にいた二人の方が、よほど実感を伴っているだろう。
「海神島も、なんとか生活基盤が整って、竜宮島にはまだ遠いが十分に生きられる場所になった。俺たちは、もうお役御免だったってわけだ」
 十分働いたさ、と真壁司令の肩を叩き豪快に笑った。長く親友であり、部下と上司であった二人は、共に竜宮島に帰るほどに多くの時間を共有してきた。羨ましくもあり、総士がかつて理想としていた関係が、二人の間にはあった。
 肩を叩かれていた真壁司令は、静かに総士と溝口の話に耳を傾けていたが、徐に身体ごと総士に向けた。
「総士君…君は、島の勇敢な戦士であり、我々の誇りだ。島を、我々の新たな希望の地を、護ってくれてありがとう」
「その言葉だけで、十分です」
 人の親であり、島を導く人であり、最後まで戦い抜いた大人が、総士に向かって頭を下げるなんて。素直で実直な、優しい人だ。総士の方が、感謝してもしきれないほど、たくさんの甘えを二人に受け入れてもらっていたのに。
 多くの人が彼等によって守られ、希望の光を見出し、未来へと進んだ。奇跡のような可能性を掴みながら、時に損失の痛みと戦い。それでもフェストゥムをただ憎むことなく、共存への道を探し続けた人たち。
 この人たちがいなければ、島はきっと、島として在る事はできなかった。総士が当たり前のように過ごした島の全ては、平和を願った大人たちの願いによって、築き上げられてきたのだから。
 初まりの彼等こそが、誰よりも長く、苦しく絶望に満ちた時間を戦ってきた。その生き様に、手繰り寄せた全てに、総士は敬意と感謝をもって頭を下げる。
「ありがとうございます、真壁司令、溝口さん。僕は、島に生まれ、島のために生きることができた。たとえ強いられた道だったとしても、選んだのは僕です。それに、僕にも信頼できる仲間がいました。彼等に出会って、共に戦い、僕は生き抜くことができた。とても幸せなんです」
 強がりやがって、と溝口さんが顔を歪めて泣きそうに総士の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。髪が乱れるくらいに乱暴なそれに「やめてくださいよ」と抵抗したらあっさりと離れていった。
 三人の間を、ふわり、と風が吹いた。竜宮島の風だ。コアが、皆を見守っている証。
 二人にとって、もう二度と帰ることの叶わなかった故郷が、優しく出迎えていた。
 零れ落ちる光の粒が、だんだんと二人の輪郭を朧気に崩していく。
「そうか…君はまだ往かないのか」
「待っている人が、いますから」
「待っていてやってくれ。あいつも、総士君に逢える日を、ずっと待っているからな」
「はい」
 じゃあまたな、なんて溝口さんが手を挙げて。静かな親愛の眼差しを湛えた真壁司令が、目を閉じて。
 二人は、彼等の願った大切な場所へと還っていった。きらきらと舞う光の粒が、お疲れ様、と労う涙を流していた。






 それから幾ばくか時間が開いた。総士は相変わらず舟を漕ぐことはせず、大木を見上げたり水面に指をつけたりしながら、次の来訪者を待ち続けていた。
 途中、小楯さんと遠見先生が舟を漕いでやってきた。総士を見るなり泣き崩れる遠見先生を宥めながら、小楯さんは衛とよく似た目尻を下げて穏やかに笑う。お疲れ様、と口少なに別れの抱擁を交わしていると、やっと遠見先生が泣きはらした顔を上げてくれた。ありがとうと何度も総士の手を握って、最後に強く抱きしめてくれた。微かに残っている母親の記憶と、似ている気がした。
 二人が還ってどれくらい経ったか分からない頃、一粒の光から生まれた金色の輪っかが、総士の目の前でことりと音を立てた。
「…剣司」
 輪を中心に、形作られた人。近藤剣司。思っていたよりも早い来訪に、ふうと溜息をつく。
「無理をしたか?咲良に怒られただろう」
「なんで見た様な口ぶりなんだよ、お前」
 後ろ頭を掻く姿は、総士が知る二十歳の頃のままだ。実際は年齢を重ねているのだろう。しげしげと自分の身体を眺めて、納得がいったのか落ち着いて腰を下ろした。
「ここ、島のミールか」
「知っているのか?」
「何回か来た。ま、そこともなんとなく違う気もするけどさ。キールブロックのゴルディアス結晶に似てるなって」
 そっかぁ、なんて暢気に大木を仰ぐ。反動で舟が揺れて、波飛沫が立った。
「帰る場所があるってのは、やっぱり嬉しいもんだな」
「そうだな。同感だ」
「…なあ、総士」
「なんだ」
「俺さ、ずっとお前に謝りたかったんだ」
 突然何を言い出すのだろう、と総士は首を傾げる。
 謝られるようなことに覚えは無い。むしろ総士の方が謝るべき事が多すぎて、剣司には頭が上がらないというのに。
 組んだ両手の指先が、微かに震えていた。釣られて、切り出した声にも絞り出したような切な響きが籠っていた。
「あの…アトランティスのコアとの、最後の戦い。お前にあいつを止めてくれって頼んだこと、ずっと謝りたかった」
 青天の霹靂とは、まさにこのことだ。
 マークレゾンとの戦闘の最中、一旦戦線を離脱して地上で体勢を整えたところのことだったと記憶している。
 あれは、剣司の指示通り、最善の方法だった。総士以外にベイグラントと戦える者は一騎しかいなかったし、その一騎はマークレゾンと交戦中でそれどころではなかった。だから、剣司の判断は正しかった。何一つ、謝ることなどない。
「アショーカの根元でニヒトが倒れてるのを見た時、俺は、お前を死なせちまったと思った。あの時、ベイグランドをお前が止めてくれなかったら全部が無駄になるってわかってるのに、俺の指示が原因でお前がいなくなったことが、ずっと、悔しくて」
「…剣司」
「悪い…ごめん、総士」
「剣司、謝る必要などない。いや、謝らないでほしい」
 顔を覆った剣司の掌から、顎へ、腕へと涙が伝ってぽたぽたと音を立てながら舟に染みを作っていた。
 こんな風に彼が泣く姿を見た事がない。総士が知らない時間にはもしかしたらあったのかもしれないが、後悔に満ちた涙をこの場所で流して欲しくはなかった。
 それに、剣司は勘違いをしている。
「剣司、最後に僕と共有した思考を覚えているか」
 涙に濡れた顔を上げて、剣司はほんの少し考えた後、はっとして目を見開いた。拍子にまた一筋の涙が流れる。
 あの時の総士にとって、重要なのは敵と戦うことではなかった。刻一刻と訪れる、己の祝福を果たす瞬間。それまで無為に死ぬことなどできない。敵は強く、いざその瞬間には皆が帰る場所を守り抜く事しか考えていなかったけれど、確かに総士の両手は震えていた。いなくなりたくない、と叫びたがる自分がいた。
 それでも、あれだけの窮地に立たされてなお、前を向き続け己の運命と向き合える理由があった。
「仲間に背を預けて戦う事ができた。希望を託し、未来へ繋いでくれる確信があった。僕がいなくなった後も、続いて行く生を見守ってくれる人たちがいた。僕はそれが、嬉しかったんだ」
 剣司の指示は、確かにきっかけだった。きっと、あそこは最後の分岐点だった。
 選んだのは総士だ。可能性はいくつも手を差し伸べてくれてはいたけれど、あの結末を、命の使い道を選んだのは、総士自身の意志だった。
 彼自身が下した決断が剣司を苛んでいたのなら、最後くらいはそうではないのだと安心してほしかった。
「ありがとう、剣司。お前は、お前たちは、僕にとっての光にも等しい。お前がお前なりの生を全うしてくれたなら、それで、僕は十分だ」
 ぽたり、ぽたりと落ちる雫は止まらない。
 剣司の心が総士に流れ込んでくるみたいに、鼻の奥が痛くなった。刺激に涙が滲みそうになるのをぐっと堪えて、総士が思い浮かべたのは剣司との思い出。
 二人で同化現象の治療に携わった。研究結果が芳しくなく落ち込む総士を奮い立たせてくれたのは剣司だった。研究室に籠りがちだったのを楽園に連れ出して、ちゃんと食事を摂って日光を浴びろと怒られた。その場に居た一騎と遠見がくすりと笑う様にバツが悪くて、けれど心配してくれているのだと思うと無下にもできず首を縦に振っていた。それ以来、どれだけ時間がまばらでも楽園に食事をしに来るようになった。一騎が喜んでいたと教えてくれたのも、剣司だった。
 医師の資格を取りたいのだと猛勉強に励む彼に、深夜まで付き合ったこともあった。問題集を手に頭を抱えながらも、決して諦めない姿勢が何度眩しく総士の心に光を差し込んだだろう。
 咲良の同化現象が目に見えて軽減されたのに対して、まったく進行がとまらない一騎のデータを見ては目元を苦し気に抑える姿。
 仲間想いの彼が、傷付い倒れそうな仲間の姿に苦しみながらも、自らも同化現象と戦わなくてはいけないのに、決して前を向く事をやめなかった。
 それが、どれほどの支えになったか計り知れない。
「お前がいてくれたから、僕は仲間を想う強さを知った。お前にしかできなかった」
「…へへ、総士からそんなこと言われるなんてな」
「散々言葉にしろと口うるさく言ってきたのはお前たちだろう」
「そうだな。なにしろお前等が、心底その方が良いって思わせるんだよ。散々はらはらさせやがって」
「それは僕ではなく、一騎に言うべきじゃないのか」
「どっちもどっちだよ」
 剣司が、にかりと笑って涙を拭いた。海野球で勝った時の様な、晴れやかであどけない笑顔だった。
「総士、俺、お前らと一緒にいれてすげー嬉しかった。島に還っても、いつかまた、会えるといいな」
「ああ。僕も、そう思う」
「お前も一騎も、色々背負いすぎなんだ。次はさ、もうちょっと俺らに相談しろよ」
「十分頼りにさせてもらったさ。特に剣司、お前には」

 剣司から、光の粒が溢れ始めた。
 徐々に輪郭を失ってきて、大木に吸い込まれるように螺旋の軌跡を描く。青白い輝きが剣司の命を貰ってさらに成長したように感じた。
「…咲良を、待たなくていいのか?」
 消えかけた姿に何を、と思いつつも、気になっていたことがするりと言葉になった。剣司は、あっけらかんとしながら肩を竦める。
「いいさ。あいつと一緒に待ってるって、約束したからな」
「そうか」
「じゃ、先に往ってるな」
 その言葉を最後に、剣司は島へと還っていった。
 剣司が座っていた場所に、金色の輪っかを残して。
「……」
 それを拾い上げ、決して落とさないように胸のポケットにしまった。
 大切なものを託してもらった。必ず送り届けよう。
 もう声が届かない戦友に、胸の内で誓った。






 次の訪れは、剣司とあまり間隔を置かないでやってきた。
 ふわりと花びらが舞い、その隣で金色の輪っかが浮いている。
 二つを中心に、それぞれの姿が形作られる。やはり、総士の知っている二十歳頃の姿。
「総士…なの?」
「皆城くん…!」
「咲良、遠見、久しぶりだな」
 両手で口元を覆った遠見は、信じられないとばかりに目を見開き、咲良は一瞬の驚きの後、目尻に涙が浮かび始めた。
 こんな二人を見るのは、いつくらいぶりだろうか。総士が知る限り、最後の最後まで二人は気丈に振るまい、後輩たちを鼓舞し続けていた。歴戦の先輩パイロットとして、仲間と支え合う強さをその身で体現していた。
 特に遠見は、長い遠征のせいで彼女の生来の明るさが深い闇に囚われていた。総士が最後に言葉を交わした時、どこか上の空で、どうか自分がいなくなった後でもいい、彼女に救いがもたらされる事を祈った。
 それにしても、二人一緒とは、少々意外な組み合わせだ。
 二人で生を終えることができたのか、それとも終えざるを得ない事態になったのか。どちらにせよ、二人はそれぞれの生を生き抜いてここに辿り着いたのだろう。
「総士、あんた、ずっとここに?」
「ああ。…そうだ、これを剣司から預かっている」
 懐かしさのあまり失念する前に、渡しておいた方が良いだろうとポケットから金の輪を取り出して咲良に渡した。
 ニーベルングの指輪と接続するのには邪魔になってしまうからと、二人ともネックレスにして身につけていた結婚指輪。咲良の顔が赤くなったり総士を睨みつけたりと忙しく変化して、最後は深い溜息をついて唸った。
「…なんであんたが預かってんのよ」
「僕に聞かれてもな。勝手に置いて行ったんだ、本人に聞いてみてくれ」
 あいつと待っている、と剣司は言っていた。
 総士に指輪を託せば、おそらく咲良も同じように総士の元を訪れるだろうから、彼女の手に渡る確率が高い。
 導の意味を込めたのだろう。咲良が、剣司と衛の待つどこかへ、無事に辿り着けるように。
 まったく、と咲良は呆れ顔で指輪を掲げて、とても穏やかな顔でそれを指に嵌めた。
 初めて見る、咲良の顔だった。愛しいものを慈しみ、大切に想う心を暖かく包み込む様な笑み。
 彼女は母親になったのか、となんの疑いもなく察した。母親が、子を、伴侶を愛する顔。総士がここに来てからどれほどの時間が経っているのかわからないけれど、咲良の表情は総士の知らない時間の流れを感じさせた。
 それを齎すことができたのなら、世界は少しでも希望に近付いたのだろうか。
「…皆城くん、あの時のままだね」
 遠見の声は、咲良とは対照的にひどく悲しみに満ちて響いた。
 少し肩を丸めた様子が、いつかの戦いで泣いていた姿と重なる。
「僕は、僕の生を終えた瞬間のままだ。君たちは、そうではなさそうだが」
「うん…そっか、じゃあ今の私は、皆城くんにはどう見える?」
「僕が知る限り、成人式の時のままだ」
「成人式…かぁ…もう、ずいぶん遠くまできっちゃったんだなぁ」
 視線を舟底に落とし、やはり咲良とはまるで正反対の後悔を滲ませた声色。そんな遠見の背を撫で、あやすようにしてから、咲良が総士に向き直った。
「ごめんね、総士。あんたが想像してくれてる未来よりも、今はちょっと状況が悪いのよ」
「君たちが二人でここに来たのも、それが原因か?」
「察しが早くて助かるわ…ま、人間同士の戦争ってやつ」
 頭を打ち抜かれるような衝撃に襲われる。最も危惧していた未来の一つが実際に起こってしまったのなら、今を生きている人々は。
 総士の次の命の宿主は。
 …一騎は。
 よほど悲愴感を漂わせていたのだろう、総士を見遣って咲良は「早まんないで」と苦く笑った。
「島が戦ってるわけじゃない。世界情勢が、どうしても戦いに傾いてるのよ」
「…人間同士、戦う事がいかに愚かか、分かっているはずだ」
「それでも、実際に戦いは世界各地で起こって、敵意を向けるフェストゥムとの戦いは続いてる。あたしと真矢はね、島を出て新国連との会談に臨んでたのよ」
「新国連…?っ、まさか、そこで…?」
「そう。気付いたらここにいたから、私たちの事を好く思ってない奴がいたってことなんでしょうけど」
 淡々と話を進める咲良に強烈な違和感を感じつつも、総士は次から次へと明らかになる世界の現状に、泥濁を飲む様な気持ちで重く息を吐いた。
 奥歯を強く噛みすぎたせいか、じくりとこめかみに痛みが走り、左手で顔を覆う。
「でもね、皆城くん。私たちは、戦うために行ったんじゃないの。平和を、希望を一緒に育てようって。そのために、行ったんだよ」
「だから私たちの希望を繋いでくれる人は絶対にいる。総士、あんたが一騎に希望を託したのと同じよ」
 だから安心なさい、とまるで学校の担任が生徒を安心させるように、総士を嗜めた。
 ふと、先程の違和感の正体が掴めた気がした。咲良の、あの荒れ狂う波に抗う苛烈な意思が、どこにも存在していないのだ。起こってしまったことを受け入れ、その上で何が残りどうすべきかを、客観的に見つめるようになっている。海が、凪いでいた。
 それは、剣司に似た強さだった。
 咲良と剣司は、確かに二人だけの絆を育み、互いに影響しあい、愛し合ったのだろう。見ていたかった、と少しだけ残念に思った。
 突如、咲良の身体が淡く光を放ち始めた。もう時間なのだろうかと焦り手を伸ばそうとしたが、遠見には消える寸前の気配がない。
「なーに、あたしだけもう往けって?」
 不満そうに腰に手を当てる仕草は、かつての咲良の面影が残っていた。容姿は変わらないのでおかしな話ではあるが、成長した咲良の雰囲気があまりにも総士が知っていた頃と比べて違っていたので、一瞬別人のようにも思える。
 輪郭を朧げにしながらも、咲良は、剣司のそれととてもよく似た笑顔で総士に笑いかけた。
「ね、総士。私の初恋があんただって、知ってた?」
「…初耳だな。剣司が聞いたら怒るんじゃないか?」
「怒んないわよ。だってあいつは、私の夫なんだから」
 惚気を聞かされた。なんなんだと思いながらも、この闊達な明るさの裏に激しく荒れ狂う海を治めた強さがあるからこそ、咲良はこんなにも明るく自らの命の終わりを受け止めているのだろう。
 終わりがたとえ不本意なものだったとしても、彼女なりに見出す何かがあった。
 続く未来へと、希望を託す存在が、きっと。
「あんた、一騎のこと待ってるんでしょ?せいぜい出迎えてやんなさい」
「ああ。いつまでも、あいつを待っているつもりだ」
「熱烈ねぇ。ま、あたしは先に往くけど、さっさと一騎連れて還って来なさいよ。そんで、あんたと一緒にできなかった二十歳の祝い酒、やるわよ」
「想像だが…咲良は強そうだな」
「潰してやるから覚悟してなさい。勝手にいなくなったあんたに、きついの飲ませてやるってずっと楽しみにしてたんだから」
「受けて立とう。…ありがとう、咲良。楽しみにしている」
「それはこっちの台詞だっての。ありがと、総士」
 もうほとんど輪郭も朧げな中、とびきりの笑顔が、解けて木へと還っていった。




 舟が、ぎしりと音を立てる。
 遠見が一人、総士の向かいに残されて組んだ手に視線を落とした。
 先程までとはまったく異なる、互いの呼吸すら聞こえてきそうな沈黙。ざぱん、と遠くから別の舟がやってきては、乗り手は木へと還っていくのを眺めていた。
 総士が生を終えてから、いったいどれほどの人がここに命を還しに来たのだろう。数えてはいなかったが、決して少なくはない。それだけ過酷な状況を生き、後世を遺し、去っていく人がいたのだ。
 竜宮島へ還ることを望んでいた人々。決して叶わず、その生を終えた人々。遠見もまた、そのうちの一人。
 やがて、じわりと遠見の指先が霞み始めた。じっとそれを捉えた後、大木を仰ぐ。
 瞳に、きらきらと命の輝きが映り込んでとても美しいと総士は感じた。
「なにか見えるか?」
 遠見が纏う寂寞とした雰囲気。
 木の向こうにもう帰らぬ誰かを探しているような、顔。
「ううん。ただ、見えたらいいなって」
「咲良と同じように、君が還る場所でもある。先に島に還った人たちは、君を待っているだろう。戸惑う必要は無い」
「私、戸惑ってるのかな…なんだかよくわかんないや」
 上げていた顔を下ろして、指先を水面につける。細くて、けれど多くの引き金を引いてきた指。
 水面に映る自身の顔に対して、まるで責めるかのように眉を寄せた。
「私、たくさん人を殺したから、人の手で死ぬんだろうなって、思ってた」
「…君は、決して望んで人を殺めたわけではないだろう」
「わかってる。でも、本当は、怖かった」
 遠見は、その時その場にいるべき自分を理解し、仮面を被る。悪い意味ではない。むしろ尊敬すべき点だ。感情に流されないように己を保ちながらも、自らの役割、人の思想、そこから導き出される言葉の数々は、相手に自分を理解していると強い印象を植え付ける。遠見の天才症候群が為せる、人の気持ちに寄り添いながら、人とは別の自分を当たり前に形作れる、とても希有な精神の持ち主なのだ。
 彼女は弱音を吐かない。自分の弱さを曝け出すことで、他人を失望させたくない。誰かと一緒にいることを尊ぶ彼女にとって、誰かに必要とされることは生きる事と同義だった。
 だからこそ、生という呪縛から解き放たれ零れ落ちた本音を、掬い取らねばならないと、総士は遠見の手を取った。後悔とは異なる、悔恨とでも言うべき、彼女の奥に溜まった淀みを。
 自ら働きかけるのは、初めてのことだった。
「生きるのは、辛かったか」
 問いに、ぼんやりと総士を見上げた遠見は、首をゆっくりと横に振った。
 今は亡き黄昏を懐かしむ、憧憬の眼差しが総士を通して遠見の心に何かを映し出している。
「ううん、辛くなかった。たいへんだったけど、楽しい事も、嬉しい事も、いっぱいあったよ」
「そうか。アショーカは、コアは、ちゃんと皆を守ってくれているか?」
「一騎君と春日井君と、美羽ちゃんも。みんな、頑張ってる。もう私はファフナーに乗れないけど、できることをやろうってパイロットもやったし、一騎君と楽園も始めたんだよ」
「それは、すごいな」
 あの荒廃した土地に、街が生まれ、生活を築いた。たとえアショーカの力があったとしても、あれはまだ幼い。ミールの加護が無い中、それでも尚、生きる意志が折れなかった事を意味していて。
 溝口さんや真壁司令が託したものが、ちゃんと受け継がれている。
「珈琲もね、一騎君ほどじゃないけどうまく淹れれるようになったし、食事も、みんな、美味しいって、食べてくれて…」
「遠見」
 掴んでいた手を、できるだけ優しく引いて、頭を撫でた。
 総士の手に導かれるまま、なんの抵抗もなく腕の中に遠見が収まる。ぽんとひとつ、背を叩いた。
 総士がこうする資格はないのかもしれない。遠見が抱き締めて欲しいと思っているのは、総士ではなく一騎だ。
 けれど、あの頃想い続けた人に、最期くらいは、泣いて悲しい事を全部涙と共に押し流して欲しかった。
「遠見は、頑張った。僕は、お前が一騎と共にいてくれて、本当に良かったと思っている」
「そ、んな…そんなの、あたしだって…!」
 どん、と胸を叩かれた。
 声は嗚咽混じりになり、膝に二粒の涙がにじんで肌がじわりと暖かくなる。
「…悔しい、よ…まだ、できることも、やりたいこともあったのに。一騎くんに、全部、遺して、きちゃったんだよ…」
「あいつは、それを重荷になど思わないだろう。あいつは遠見を、信じているからな」
 遠見から託されたものなら、一騎は喜んで受け取るだろう。大丈夫だと、遠見に頼りにされたなら頑張らなくっちゃな、なんて腕まくりまでしそうだ。
「泣いていいんだ、遠見。あいつの前で泣けないのなら、せめて僕の前でくらい、涙を流してくれ」
「なにそれ…おかしい。皆城くんに、そんなこと言われるなんて」
「僕は至って真面目に遠見のことを考えている」
「そういうとこは、全然変わんないね。懐かしい」
 総士の胸に手を置いて顔を上げた。腕一つ分の距離が再び二人の間に敷かれて、幾筋もの涙の跡に胸を痛める。
「そんな顔しなくていいよ」
 どんな顔をしているのだろうかと考えていたら、ぐりぐりと眉間を親指で押された。そこそこ力が入っていて、痛い。そういう顔だよ、と言われて、眉間に皺が寄るくらい厳しい顔をしているのだと気付く。
 遠見はおかしそうに笑ってから、甘く滑らかな声で、あのね、と切り出した。
「私、一騎くんのこと好きなの」
「…知っている」
「でもね、それと同じくらい、皆城くんと一騎くんが一緒にいるのを見るのが、好きだったの」
 遠見との間には、いつも一騎の存在があった。
 初めて一騎がファフナーに乗った時も、一騎が島を出た時も、総士が北極で存在を失った時も、島に帰ってきてからも、ずっと。
 遠見の言葉を借りるなら、総士は、一騎と遠見が楽園で出迎えてくれる瞬間が好きだった。そこにあるのは平和だ。総士が心から望んだ平和の形を体現してくれている二人と共に在ることが、とても幸せだった。
「なんだかここにいると、あそこを思い出すなぁ」
「あそこ?」
「一騎くんと、皆城くんと、私と。希望を探しに島を出た時、夜の湖で、三人でお話した場所だよ」
「ああ…」
 夜の星空と、月明かりだけが照らす湖の畔。
 長い旅路のほんの僅かな憩いの時間ではあったけれど、総士にとっても忘れる事はない時間だった。
「私も一騎くんも、皆城くんの言ってること、全然分からなくて。ちょっと拗ねてたよね」
「…そんなことは」
「無理しなくていいよ?面白かったけど」
「からかうのはよしてくれ、遠見」
 本気でからかうつもりは無いのだろう、くすりと笑って頬の涙を拭った。
 指先だけでなく、腕全体が、既にきらきらと結晶の欠片になり始めていた。
 果たしてあの旅が無かったら、島は変わらず世界から隠れて平和を保ち続けていただろうか。それは誰にもわからない。仮定は無意味で、けれど考えずにはいられない。
 たくさんの死と、戦いと向き合い、癒えぬ傷を抱えた者も多い。現に遠見は心に深い傷を負い、一騎は人としての生をやめた。
 それでもあの旅があったからこそ、世界を知った。島が帰る場所であり続けることを、心から嬉しく思った。
 総士が、総士としての生を終える契機となったあの旅は、決して辛い事ばかりではなかったのだ。長く苦しい旅路であっても、島に帰ることを忘れずにいてくれた遠見の存在が、総士と一騎を救ってくれた。
 故郷を、竜宮島を。帰る場所があるのだと。
「…遠見は、僕らの地平線だ。忘れかけたものを、いつでも思い出させてくれる」
「なに、急に」
「あの時の、僕の言葉だ。一騎にとっても、僕にとっても、遠見の存在は無くてはならない、導のようなものだ」
「褒めてくれてるの?」
「言っただろう。褒めてるんだ」
 視線が合った。こんなに穏やかな気持ちで真正面から交わるのは、初めてだ。悲しみも憂いも気後れもない、黒橡の瞳が総士を映して、おかしい、と笑った。二人の間に甘さなんてない。それがとても心地よかった。
 ふわり、と遠見の髪が舞う。透け始めた身体越しに向こうの景色が見え隠れして、もう時間なのかと寂しさに胸が詰まった。
「皆城くんは、一騎くんのこと、待ってるんでしょ?」
「君も一緒に待つか?」
「ううん、いいの。そうしちゃいけない気がする。私は、先に往ってるよ。みんなと、二人を待ってる」
 胸に両手を当てて、遠見は目を瞑った。
 溶けて消えゆく自らの命を感じ入るかのように、鼓動に耳を傾けている。
「皆城くん、私、すごく幸せなの。島に生まれて、一騎くんや翔子と友達になって、たくさん思い出が詰まってる。悲しいことも、つらいこともたくさんあったけど、みんなと一緒にお泊まり会したこととか、訓練したり、遊んだり。優しくて嬉しい思い出が、こんなにたくさん、私の中に在る。それってすごく、幸せなことだと思う」
「遠見の言う通りだ。僕も、君と出会えたことで、たくさんのものをもらった。想いを言葉にすることの大切さを、僕はずっと、忘れたことは無い。相手に理解してもらうために、まずは自分から気持ちを伝える事も」
「そっか…。ありがとう、皆城くん」
「僕の方こそ。ありがとう、遠見」
「また、三人でお話しようね。一騎くんに珈琲淹れてもらって」
「必ず」
 花びらが、ひとつ、ふたつと遠見の形をさらっては、元の形に戻って行く。散ったはずの花弁が、一輪の花となって、遠見が座っていた場所に遺された。
 壊れてしまわないか、また散ってしまわないか。不安ではあったが、ゆっくりと拾い上げる。紫の、掌に収まるくらいの、小さな花。遠見が総士に託した、一騎への想いの結晶。最後まで、大好きな人のことを。守りたいと願った大切な人を。
「…一騎、お前は、遠見の涙を知らないだろう?」
 花に向かって語りかける。
 いつも泣かれるのは総士の方だった。遠見が総士にしか見せなかった表情。感情。一騎には決して吐かなかった弱音をぶつけてくれた、それだけでもう満足な気がした。
 どうか、優しい彼女がもう心を痛めることが無いように。
 島のミールの元で、仲間たちとの再会を喜んでいますように。

 触れるか触れないかの、僅かな口付けを落として、花に願った。






 枯れない花と夜の海をぼんやりと眺めていたら、突然、がたん、と大きな音を立てて現れた人体の重量に舟が大きく揺れた。
 唐突すぎる登場の仕方をした人物は、なんとも呑気な悲鳴を上げて椅子から後ろに倒れる。慌てて腕を引っ張ってやれば、さらに驚いて目を真ん丸に見開き総士を凝視した。
「総士先輩?え?ここどこ?」
「お前は変わらないな、西尾。もう少し落ち着けないのか」
「あ、今馬鹿にしましたよね?てか、意識失って突然こんなところ来たらびっくりしますって誰だって」
 言いながら落ち着いて来たのか、よっこらしょ、と掛け声と共に椅子にきちんと座り直した。なかなか西尾らしい掛け声に、思わず声を出して笑うと、睨まれてしまった。
「すごい…綺麗な場所ですね。それに、なんか懐かしい」
 他の皆と同じように大木を見上げて、裏表の無い賞賛の声が上がる。
「その感覚は間違っていない。ここは竜宮島だからな」
「…え、島?私、島に帰ってきたんですか?」
 頷けば、二度瞬きをして、「竜宮島」と三回ほど呟いた。
 少しずつ島に還ってくるという意味を実感したのか、元気に跳ねていた語尾が落ち着いた懐旧の情へと変わった。
「絶対帰るんだって思ってましたけど、ちゃんと帰ってこれたんだ」
「苦労を掛けたな。僕がいなくなった後、海神島への移住が成功したと皆に聞いた」
「ほんと、みんな勝手にいなくなって、人の気も知らないで……いまさらっとみんなって言いましたけど、もしかして剣司先輩とか遠見先輩ですか?」
「ああ、あと咲良や司令たちもな。皆、君たちなら、きっと成し遂げてくれるだろうと信じていた」
「それが勝手だって言ってるんですよ!残された人がどれだけ悲しかったか、先輩だって分かってるでしょ?」
「反論の余地もないな」
 お手上げだとばかりに両手を顔の横に持ってくれば、腕を組んで、まったく、と芝居がかった憤りで頬を膨らす。
 横顔は、既に大木へと還っているであろう弟のものとよく似ていて、やはり旅の頃を思い出した。「不公平ですよね」と本気で一騎をライバル視していた、おそらく島唯一の存在。誰もが一騎を英雄扱いして、かと思えばもうファフナーに乗るなと彼を燻らせていた中、暉だけは面と向かって一騎に「負けませんから」と宣言をしていた。適当にあしらっていたようだし、一騎が内心とても喜んでいたことを総士は知っている。
 暉は遠見への恋心を隠しもしていなかったのに、一騎は純粋にファフナーパイロットとしての向上心からくる宣戦布告だと思っていたようだ。どんなボールを打っても打ち返されてしまうような憤りを感じていたに違いない。今思い出しても暉には同情を禁じ得なかった。
 そんな暉とよく似た双子の姉は、やはり同じ口調、同じ顔で不満を露わにする。
 誰にでも分け隔てなく接する彼女は、とても気持ちがよかった。素直すぎて嗜めることもあったが、誰の目から見ても実直で素直な性格を嫌う人などいなかった。特に総士の世代は、パイロットの死に直面する機会が多すぎて、誰かがいなくなることを覚悟してしまっている節があった分、なおさら。
「もぉ…ね、先輩。私、頑張ったんです。海神島のことも、みんなで生きようって、前を向かなきゃだめだって」
「ああ」
「遠見先輩、褒めてくれると思いますか?」
「もちろんだ。遠見だけじゃない、剣司も、咲良も、暉や広登も、お前を誇りに思っている。もちろん、僕もだ」
「なんで暉まで」
「違うのか?」
「…そうですよね、あいつがいなかった分、私すっごく頑張ったんですから。ちょっとくらい褒めてくれたって全然いいですよね!」
 ガッツポーズで力説する西尾の目が少しばかり潤んでいたが、決して涙を零すことの無い気丈さに感嘆した。
 窮地に立った時も、きっと彼女の前向きで明るく、仲間を想う気持ちに多くの人が救われたことだろう。彼女の想いを受け継いだ誰かが、続いていく未来で他の誰かの支えとなれば、それは希望に満ちた未来になる。
 
 徐々に西尾の身体が細かい欠片へと転じ、大木に還り始めた。
 透けていく彼女の胸元に下げられた金色の筒に見覚えがあって問うと、遠征から帰ってきた暉が肌身離さずつけていたものだという。結晶となって砕け散ったコクピットの中で、見つけたのだそうだ。そういえば、あの旅路で出会った少女に、願い事を納めるお守りをもらっていた。
「何が書いてあったのか、見たのか?」
「はい。だから私、暉の分まで頑張れたんですよ」
 お守りをそっと握り締めた西尾の前に、ふわりと二つの影が降り立った。
 総士から顔は見えないけれど、後ろ姿だけでそれが誰かは分かる。人と在ることを望んだミールの、島のコアの、ささやかで暖かな贈りものだった。
「広登…暉ぁ…」
 堪えていた涙が次々と零れ落ちた。我慢を重ね、人一倍皆で守りあうことを是としてきた彼女が、守れなかった大切な家族と友人に迎えられて、島に還るのだ。
 ミールに感謝した。人の心を、優しさを、辛さを分かち合い癒すことを学んでくれたミールに。
「先輩」
 暉が、姉の手をとって振り向いた。
「俺たち、先輩が還ってくるの、待ってます。だから一騎先輩と早く来てください」
「俺ももっとたくさん、先輩たちと話したいです。あと、ぜひ先輩たちのインタビューを!」
「なんの話だよ、なんの」
 気負いのない心を許しあった会話に、胸が鷲掴みにされるほど切なくなった。同じくらい、尊さと安堵が訪れる。終いには、総士の方がもらい泣きをしてしまいそうなほど、嬉しい。
「また会いましょう、先輩」
「総士先輩」
「ああ…ありがとう、三人とも」
 総士の心からの応えに満足そうに笑った三人は、共に混ざりあい一つとなって大木へと還っていった。
 胸に残った灯火が、一人待ち続ける心を優しく照らし包んでくれていた。






 しばらくして、水面に波紋が生じた。
 凛とした、涼やかな気配が降り立った時、知っているよりも幾分か成長したように見える少年が面を上げる。
「総士先輩…」
「御門か。久しぶりだな」
「ええ、お久しぶりです」
 不思議そうに辺りを見回しても、動揺は感じられない。彼は武術を嗜んでいたが、いっそう磨きがかかったのかと思わせるほど精悍な顔つきになっていた。
 今まで総士の舟を訪れた人々は、総士が記憶している姿のままであることの方が多かった。記憶が反映されているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。どのようなからくりかは分からないが、総士の認識よりも本人の心が見せたい姿を総士に見せているのだろう。
「ここは、竜宮島のミールとの境界線だ。皆、ゴルディアス結晶に似ていると言っていたな」
「そうですか…懐かしいです。俺、結局、竜宮島にいた時間よりも、海神島で暮らした時間の方が長かったですから」
「そうなるのか」
「でも、俺たちの故郷が竜宮島であることに変わりありません。だから、ここに帰ってこられて、本当に良かった」
 現実の世界でどれほどの時間が経過しているか、総士には知る由も無い。
 遠見や咲良の話から、幾年が経っているのだろうか。世界は今どうなっているのか。彼等の新たな故郷は、情勢は、竜宮島に還ることを決意した人々は、どれほど残ってその夢を繋いでいるのだろうか。
 …一騎は、どうしているだろう。
「総士先輩は、一騎さんを待ってるんですよね」
 一騎のことを考えていた矢先に話題を振られ、考えを見透かされた様な気になり思わず口籠る。
 御門のこうした察しの良さと、物事の本質を見失わない冷静な思考。ファフナー搭乗時は変成意識により攻撃性が増すが、かつての一騎のように一人だけが突出した強さを持つ世代ではなかったから、とてもバランス感覚がいい。
 御門の真っ直ぐな眼差しに、背筋が伸びた。
「あいつに希望を託した僕が、先にミールの元へ還るわけにはいかない。それに、約束したからな。あいつが祝福を果たした時、必ず会おうと」
 存在と無の地平線。
 死と生の境界線。
 総士を追いかけようとする一騎を制して、一方的に別れを告げたという自覚はある。それでも一騎は、総士の願いを受け取ってくれた。泣きそうに歪む顔に罪悪感を覚えながらも、自分がすべきことをやりきった充足感は今でも忘れられない。
 そんな総士の何かを見定めるかのように、御門は視線を外さない。
「一騎さんは、本当にすごいです。今でもずっと島を守ってくれてます。強くて、いつだって俺の憧れでした」
「一騎は、まだ戦っているのか」
「はい。たぶん、これからも」
 一片の揺らぎも無い口調が、総士の言葉を肯定する。
 戦いは終わっていない。たとえ一騎だけになってしまっても、彼は戦い続けるだろう。己の祝福を果たすまで。
「総士先輩。二つ、お願いがあります」
 呼応するように、水音が二つ、二人の間を跳ねる。
「なんだ?」
「まず、一騎さんがここに来たら、抱き締めてあげてください」
「…とりあえず、続きを聞こうか」
 御門はこんな状況で冗談を言う人間ではないと、思わず崩れ落ちそうになる思考を持ち直した。真剣な眼差しが、食い入るように総士へと注がれる。
「人のぬくもりって、大事なんです。誰かと触れ合うから、自分は生きているんだって実感できる。手を繋ぐだけでも、言葉を交わすだけでも良い。けど今の一騎さんに、それを本当の意味で与えてあげられる人が…教えてあげられる人がいない。だから、一騎さんが祝福を果たしたら、絶対に、抱き締めてあげてください」
「御門」
「恥ずかしいとか、そんな外聞捨ててください。総士先輩だけなんです。総士先輩がやらなかったら、意味なんてない」
「…」
「俺が頼むのは筋違いかもしれません。でも…やっぱり、総士先輩なんです。他の誰でも、駄目なんです」
 実感が伴う言葉に、純粋に一騎を心配しているだけなのか、それとも一騎の身に何かがあったのか。ここにいて何ができるわけでもないけれど、何かが無ければこのようなことを御門が言うとも思えなかった。
 喚き荒れそうな心を落ち着かせて、ゆっくりと首肯した。
「約束しよう」
「男と男の約束です。絶対に守ってください」
「わかった」
「…聞かないんですね、一騎さんのこと」
 心動かされる誘惑だ。
 知りたい。本当は、知りたいと思う。それでなにか助けになれば、いくらだって手を伸ばしたい。けれど、総士はもう地平線を超えてしまった。総士にできることは、もうなにもないのだ。
 不思議と、身を切る様な辛さは感じない。二年にも渡ってフェストゥムの側から一騎とクロッシングをしていた時の方が、なんとしても戻らなければと苦しかったのに。
「あいつのことは、僕が一番よく知っているからな」
 きっと一騎は諦めない。投げ出したりしない。それがわかっているから、だから。
 きょとり、と初めて年相応の驚きが顔に表れる御門に対して、総士は空を仰いだ。
 いずれ一騎がここを訪れたら、二人一緒に命をやり直して、今度こそ片時も離れずにいたい。その時がひどく待ち遠しく、早く一騎が、皆が導いた世界で生きてみたかった。
 御門が何を見て、総士に一騎のことを抱き締めろと言ったのかは分からない。だが、彼が言うのなら、ちゃんと覚えておこうと総士は胸に刻む。
「そう言えば、もう一つの願い事はなんだ?」
「もう一つは…俺も、美三香と彗を、待ちたいんです」
「水鏡と、鏑木を?」
「二人がここに来たら…一緒に、竜宮島に、帰りたい」
 大木を見上げ淡く笑む御門に、眩しいものを見た気がした。総士が一騎と共に、と願う気持ちと似ていて、総士も自然と微笑んだ。
 もちろん、と返す。
「僕の舟でよければ、好きなだけいるといい」
「ありがとうございます」
 生真面目に頭を下げる姿に、できればもっと彼と話をしてみたかったと、総士は初めて未練のようなものを感じた。






 鏑木と水鏡が舟を訪れたのは、それから僅かばかり後の事。二人一緒だ。いつかの咲良と遠見を思い出す。
「美三香、彗!」
「零央ちゃん?総士先輩も?」
「ここは…」
 三人が一気に動いたことで平衡感覚を無くして揺れる船体を保つために、とりあえず座れと促した。狼狽えてはいたものの、おとなしく向かい合う形で腰を下ろす。
 一通り説明を終えた御門に、二人は他の皆と同様、懐かしさを込めた眼差しで大木を仰ぐ。
 ゴルディアス結晶の恩恵を受け、新たな同化現象に苦しみながらも戦い抜いた戦士たちだ。彼等がいなければ総士たちが派遣部隊と合流する前に島は沈んでいたかもしれない。
 彼等もまた、島が選んだ希望だった。
 御門、鏑木、水鏡。彼等もまた、彼等の命を懸命に生きた。

 虹色に輝く結晶が三人を包んで、輪郭を攫っていく。碌に話もしていないが、ここでミールの元へ還るのならば、総士としては送り出してやるだけだ。
「あの、先輩」
「なんだ、鏑木」
「えっと…俺、先輩とチェスがしたいです!」
「あ、美三香は先輩と一緒に走りたいです!」
「水鏡は却下だ」
「えぇー」
 彗ちゃんだけずるい、とぼやく水鏡には悪いが、彼女と対等に走れるのはかつての一騎くらいなのだ。とてもじゃないが安請け合いはできない。
 目を輝かせてチェスを申し込んだ鏑木の特技は、戦略ゲームなどの類だったとパイロット選出時のデータで読んだ。
「チェスは…得意だったか?」
「それなりに。先輩がチェスを趣味にしてたって聞きました。ぜひ一度、勝負してください」
「じゃあ美三香は、そんな二人に零央ちゃんが作ったお茶菓子を出します!」
「俺が?まあいいけどさ」
 わいわいとまるで明日の予定を決めるかのように、総士を巻き込んで一日のプランが立てられていく。午前中は楽園で作戦会議、午後からチェス大会で総士と彗の一騎打ち、それを中継する広登たち。終わったらやはり楽園で一騎が用意してくれた夕飯を食べて、せっかくだからみんなでお酒を飲めたらいい。
 総士がやりたくても叶わなかったいくつもの『普通のこと』を、三人は当たり前のように「やりましょう」と背中を押してくれた。
「先輩、絶対ですよ!」
「一騎さんのこと、お願いします」
「お二人が来るの、待ってますからね」
 音もなく三人は風に乗って、大木へと還っていった。
 ありがとう、と心の中で伝えた感謝が、届いてくれることを祈った。






 それから、随分と長い間、一人で大木の下に漂っていた。
 最初は頻繁に訪れていた舟も、今はぽつりぽつりとやってきては大木の元へ漕いでいつしか消えて見えなくなった。
 何隻も見送っているうちに、もう竜宮島が姿を見せる時、故郷に帰りたいと思っていた人は生きてはいないのだと気付いた。竜宮島の海を、森を、階段を、並木道を、知っている人はいなくなって。いつか誰の記憶からも消え去って、遠い過去として忘れ去られていく。
 とても寂しい。同時に、一騎を時の流れに取り残して来たのだという事実に、初めて戦慄を覚えた。今更ではあったけれど、一騎に強いた道はあまりにも酷だ。彼を知らない人ばかりの世界を、守り続けるなんて。
 放り投げてしまうような奴じゃない。わかっている。彼は彼の役割を果たすまで、世界を見届けるだろう。
 理屈では分かっていても、感情は遅れて総士を責め立て、一騎が独りであることを悔やんだ。傍にいきたい。御門が言っていたのはこのことだったのだ。抱き締めて、ちゃんとここにいるのだと安心させてやりたい。
 一騎はまだ祝福を果たさないのだろうか。
 一度膨らんだ不安はじりじりと這い上がって、たまらず目を瞑る。振り払おうと頭を振った時、柔らかな声が総士の名を呼んだ。
「やっぱり待っていたんだね。本来はミールに還るべき存在が、無との狭間を漂っているなんて…しかも、こんなに長い時間を」
 顔を上げた先に座っていたのは、甲洋だった。思い出の中の笑顔が、優しく総士に向けられる。
「甲洋…」
「ただいま、総士」
「…おかえり」
 甲洋もまた、先に命の循環へと旅立った仲間たちが待つ故郷へと帰って来た。フェストゥムに同化され、個を取り戻し、人間とフェストゥムの融合体としての己の生を全うして。
 穏やかな眼差しは、総士が知る最後の戦闘の頃と比べても人間味を帯びているように思えた。
「お前とは、碌な話ができていなかったな」
「そうかもしれない。ベイグラントとの戦いで、俺はまだ人間としての意識を育み始めたばかりだったから、ただ仲間を守ることだけが存在意義だった。けれど、今は一騎と一緒に島と、希望を守るために戦ってる…いた、よ。総士が託してくれた、希望の先を見届けるために」
「未来は、明るいだろうか?」
「ここに来てしまった俺では、もうわからない。世界は一つの大きな転換点に在る…きっと、一騎ももうすぐ、還ってくるよ」
 どくんと、心臓が一つ音を立てた。
 ひたすら待ち続けた存在を、やっと迎えることができる。
 地平線を超える瞬間まで、焦がれるほどに想い続けた人を。
「…礼を、言っていなかった。あの時、一騎を止めてくれてありがとう」
 何を指しているのかわからなかったのか、数秒ほど逸らされた視線はすぐに戻って来た。
「俺もそうするべきだと思ったから。一騎の存在があそこで絶えてしまったら、きっと希望を導くことはできなかった」
「あいつは、一度僕を失っている。同じことをする可能性はあったし、一度目の時も、甲洋が僕らを存在へと導いてくれた」
「総士、一騎のことばっかだな」
 慈愛を感じさせる声の柔らかさに、総士の目元が僅かに赤く染まった。口を引き結んで答えに窮していると、俺さ、と特に気にした様子もなく続ける。
「総士がニヒトと最後に交わしてた言葉、聞こえてたんだ」
 今度は総士の方が意味を飲み込めず、瞬く。
「…いなくなるのは、怖い」
 甲洋の言葉に、ツンと目の奥が痛くなった。
 今まで触れてこなかった、見て見ぬ振りをしてきた総士の繊細な部分が、引きずり出されようとしていた。心が無意識にざわりと波立って抵抗を試みるけれど、総士はあえてそれを抑え付けた。
 ニーベルングの指輪に接続された腕から、足から、結晶化して痛みすら感じない恐怖。次第に焦点が定まらなくなって、全てが見えなくなる前に自分から目を閉じた。
 織姫がミールの元へ還ったのを感じた時、自分もまた同じように還らなければと、ただそれだけの思考が残っていて、最後まで一緒に戦い続けてくれた機体といなくなる瞬間を共にした。
「怖いのは、当たり前だ。俺も同じだった。ここにいたい、まだいたいのに。そう思っているのに、同じくらい、もうここにはいられないことを受け入れてる自分がいた」
 怖かった。
 そう、怖かったのだ。
 いなくなる恐怖と、責務を果たした安堵。
 相反する感情に揺れ動きながらも、ひどく冷静に地平線を超えた。感情とは切り離された、在るべき場所へと向かう歩みに躊躇いはなかった。
 切り離した感情こそが、甲洋が引きずり出し、総士が曝け出すことを躊躇っていた、『怖さ』に他ならない。

 怖かった。
 死んでしまうことが。
 いなくなってしまうことが。
 もう島に帰れないことが。
 辿り着いた平和に自分がいないことが。
 怖くて、そして、悲しかった。
 仲間たちに、見守ってくれた大人たちに、もう会えないことが。
 一騎と同じ時を歩めなくなってしまったことが。
 あまりにも辛くて、舟の底に沈めてしまっていた。
 顔を出すなと、己の弱さを直視しないようにと。
「お礼を言うのは、俺たちの方なんだ。竜宮島を、俺たちを守ってくれて、ありがとう。総士の命を、世界のために使ってくれて。希望を繋いでくれて、ありがとう、総士」
 それなのに、甲洋の言葉が奥底に沈めていた想いをぽろぽろと剥がしていく。瞼の裏に熱いものが込み上げて、視界が滲んだ。
「来世なんてものがあったら、皆で普通に学校に通って、勉強して、目一杯遊んでさ。俺と総士に、宿題見せろって剣司が泣きついてくるんだ。部活に入ったらきっと一騎は運動部に引っ張りだこだろうな。島を出る奴もいれば、出ない奴もいる。でも皆の故郷は竜宮島だから、年に一回とか集まって、わいわいやってさ」
「…意外に、ロマンチストだな」
「案外悪くないよ。総士は、きっと島を出て高校に通うんだろうな。モテて彼女とか連れて来そうだ。翔子と遠見はずっと島にいて、俺たちが帰ってくるのを待ってる気がする。剣司と咲良も、かな。衛は、それこそ突然旅に出るってリュック背負ってそうかも」
「お前は?」
「俺?そうだな…やっぱり、島を出たと思う」
 古い記憶を懐かしむように、甲洋は目を細めた。
「それで、今度こそ翔子にプロポーズするんだ」
 おそらく、総士が見た甲洋の笑顔の中で一番、晴れ渡った青空のような透き通る笑みだった。羽佐間が飛翔していた空とよく似ていて、やっと彼は、彼の求めるものに辿り着いたのだと、すっきりするような心地に瞼の裏から熱が引いた。

 甲洋の全身が淡く輝いた。ほろほろと両手から金色の欠片が剥がれ落ちていく。
「残念。もう、往くみたいだ」
「僕もそう遠くない未来に、還ることになる。そしたら、また話そう」
「だな」
 甲洋の、暖かな日差しを思わせる金色が、大木へと徐々に消えて行く。
 名残惜しい気持ちを抱えたまま、総士は見送った。またな、と最後の欠片に約束した。






 静まり返る空間に、総士以外の舟はもう存在していなかった。
 総士がここに来てからずっと変わることの無かった大木が、初めて微かな鼓動を刻んだのを感じて、息を呑む。
 よくよく目を凝らせば、淡い緑に彩られていた結晶の大木が、徐々に内から赤く染まり始めていた。

「アルタイルが目覚めようとしている。言葉を交わし、やがて限りある命と交わることを求めて」

 声は、唐突に総士の耳朶を震わせた。

「対話の道は敷かれた。けれど、強すぎる力はやがて一方を蝕んで、共存へは遠退くばかりだ」

 大木に向けられていた頭を、ぎしりと音を立てそうな程ぎこちなく、総士は正面へ戻す。

「島のミールが調和を齎す。生と死の循環によって命が巡り、存在することに強すぎる力は必要ないのだと理解してもらうために、俺はここに来た…総士」

 待ち続けていた。
 彼が祝福を果たし、竜宮島のミールの元に還ってくる日を。

「かず、き」
 在りし日の姿のまま、一騎は総士の前に座っていた。琥珀を深く染めた色の瞳も、総士が切り揃えた髪の長さも、彼の母によく似た微笑みも、そのままに。
 喉を奮い立たせてやっと発した名前は、みっともないほど掠れていて。
「待っててくれたんだな、俺のこと」
「約束しただろう。祝福の果てで会おう、と」
「うん」
 一騎は、徐に手を伸ばして、総士の膝の上から櫂を取り上げた。
 総士には少し重いが、一騎の力では楽々と片手で持ち上がるようで特に苦もなく一騎の膝の上に移る。
 なんとなく身体が軽くなった気がして、妙な損失感に唇を湿らせた。
「…ここは、静かだ。静かで、みんながいた場所で、俺たちの故郷だ」
「ああ。僕等は地平線を超えても、必ずここに帰ってくる。僕たちが望んだ平和が、やがて訪れることを願って」
「みんな、此処に来たのか?」
「僕が知っている限り、立上だけがまだ、だな」
「…たぶん、あいつは、まだ戦ってる」
 膝の上の櫂に視線を落として、一騎は持ち手に指を滑らせながら謡うように言葉を紡ぐ。僅かな違和感を明確な言葉として表すことはできず、あえかな仕草が見ていられなくて膝を撫でた。
「立上が、織姫を守るべく島と共に眠りについたことは知っていた。目覚めたのか」
「竜宮島が、浮上を始めた。そこに、立上もいたから」
「戦いは、まだ続いているんだな」
「ミールの奪い合いが絶えることはなかったから、ずっと俺と甲洋が戦い続けてた。竜宮島でなければ、ミールの力が無ければ、ファフナーは動かない。本当に戦えるのは、三人だけだったから」
「三人…もう一人は、来主か」
「あいつも、永遠は無かった。何度か生まれ変わっては、海神島を訪れて助けてくれたよ」
 こんな風に一騎と会話をするのは初めてかもしれない。
 いつだって総士の方が先を歩いていたから、総士が一騎自身の事以外を質問したことは無かった。
 一騎と一緒に野山を駆け回った幼い頃。総士が総士であることを取り戻した日のこと。一騎から感じる視線を心地良いと歪んだ執着を抱いていた日々。本当の意味で理解しあって、不器用な会話を交わした時。夕陽が沈む海岸を、二人きりで散歩した時間。
 総士の脳裏に浮かんでは消える光景が、泡のようにするりと抜け落ちていく。三度目の違和感に、やっと己に起きている現象に気付いた。
「…なっ…!」
 身体の内側から、総士を構成する何かが徐々に大木に吸い込まれていく。抗い様のない充足感へと、心が安らぎを求めて手を伸ばしていた。
 それなのに、一騎に変わった様子はなかった。
 驚き慌てる総士を愛おしむように見つめて、それでいいのだと語っていた。
「お前は…っ!」
「総士、さよならだ。俺は島と一つになる」
 総士が一番聞きたくなった言葉が、よりにもよって一騎から突き付けられた。
 愕然と目を見張る総士に笑いかける一騎の顔が、かつて総士が地平線を超える瞬間に浮かべたものと同じであると、気付くことなどできるはずもなく、腰を浮かせる。
 置いていくのはいつも総士の方なのに、今回ばかりは、置いていかれると心が悲鳴を上げた。どうにか、せめて一騎も一緒にと無意味な抵抗を試みても、はらはらと舞い散る欠片が二人の別離を物語っていた。
「一騎、何故…」
「総士、俺、お前の願ったとおりにできたかな。俺なりに希望を導いて、何度も生まれ変わるお前と何度も出会って。その度に幸せで、別れの度に辛くて、でもまたお前は生まれてきてくれた」
「っ、今度は、二人一緒だ。僕の身勝手な願いが、ずっとお前を苦しませていたのなら、謝らせてくれ」
「総士が謝ることなんてない。これは、俺が選んだ結果だ。島と一つになって、世界を、祝福する」
「まさ、か…」
 一騎の祝福は、果たされていないということなのか。
 島と一つになることで、一騎の祝福が果たされるとでも言うのか。
 一騎は自分の存在すら捧げて、命の循環から外れてしまう事を選んだのか。
 どうして、どうしてそんなにも。
「お前が、お前を犠牲にする必要なんて、ないんだ」
「犠牲…そうなのかな。俺は、そう思わないよ」
 ぎしり、と舟底が軋んだ。総士の足先はもう消えかかっていたけれど、立ち上がって一騎の身体を抱え込む。
 抱き締めると御門と約束したのに、もう、一騎のぬくもりを感じない。ただ、生きている鼓動だけが伝わってきた。
「総士、あったかいな」
「…感じるのか?」
「なんとなくだけど、安心する。ずっと、誰かにこうしてもらいたかったのかもしれない」
「…すまない、一騎」
「だから謝るなってば」
 しょうがない奴、と苦笑して、一騎も総士の背に腕を回した。視覚的にそう捉えただけで、何かが触った様な感覚一つないけれど、せめて一騎が安らぎを享受できるように、そっと髪を掻きあげた。
 かずき、と縋る声が無意識に何度も漏れて、その度に一騎は答えてくれた。総士が満足するまで、ずっとそうしているのだと言わんばかりに。
「俺、ずっと待ってるから」
 今回は逆だな、とおどけたように言って、一騎は顔を上げた。
 もう朧気な頬に手を置いて、今にも泣き喚いて離れたくないと縋ってしまいそうな総士を、優しく包み込む。
「だから、今度はお前が会いに来てくれ」
「…あぁっ…必ず…必ず、お前を迎えに来る。どれほどかかっても、僕一人でだって」
「総士は一人じゃない。お前を愛する人も、お前を想ってくれる人も、たくさんいる。それなのに、俺の我が侭でお前を縛ってしまうのは、本当はいけないんだと思う」
「そんなことはない。僕は、もう、お前と離れたくないんだ、一騎」
 島のために生きた。
 仲間のために生きた。
 そして誰よりも――一騎の存在があったからこそ、生きた。いなくなることも、耐えられた。
「一騎がいてくれたから、僕は」
「俺もだよ。総士がいてくれたから、俺は俺で在ることを願い続けた」
 一緒にいられた時間は、あまりにも短く、そして様々な感情に満ち溢れていた。
 痛みも、悲しみも、優しさも、弱さも、強さも、皆城総士を形作る感情の全てが一騎からの祝福だ。
 一騎が総士の隣にいてくれたから、総士は己の生に感謝したいと思えた。

 抱き締めていた腕がついに形をなくして、ふわりと溶けるような感覚に身を委ねた。
 今まで見送って来た皆と同じように、総士の命もまた、ミールの元へと還っていく。

 ありがとう、と一騎の声が聞こえた。ぬくもりが一瞬だけ総士の心に触れて。
 皆城総士が感じた、最後の命の灯火だった。



 総士の身体が消える。きらきらと輝いた命の欠片が、巡る命の流転へと。少しの間それを眺めた後、遺された一騎は、櫂を漕いで木のすぐ傍まで進んだ。赤く輝く、いつかのゴルディアス結晶と同じ巨体へ。
 竜宮島のミールと、海神島のミールを繋ぐことで、島に還った命を海神島に根付かせる。そうしなければ、アルタイルの力が大きすぎて、きっと儚い命は消滅してしまうだろう。
 カノンが、翔子が、示してくれた道が、終わってしまうのだ。
 それは避けなければいけない。一騎が、守らなければ。
 木に両手をつく。意識が遠退き、別の何かに満たされていく。

「還ろう、俺たちが還る場所へ」

 これが、世界へ贈る、島の祝福だ。
 一騎を介して、アルタイルに意志を伝えるために。
 この地球で人間だけが可能な、話し合い相手を理解しあうことを、教えるために。
 真壁一騎は、永遠に存在し続ける。
 約束したから。島で、総士を待ち続けると。
 本当は、命が続く間もずっと総士に会いたかった。総士と一緒にいたかった。けれど一騎の祝福が果たされるということは、島と一つになることだと知ったから。
 だから、ここで総士の帰りを待とうと思った。もう一騎は一騎でなくなってしまうけれど、きっと総士なら見つけてくれると信じているから。
 だから。

「…そうし」

 幼子が親を求めるように、一騎の手が伸ばされた。
 そこに見える筈の無い総士の幻影が、笑いかけてくれた気がした。
 最後に残った、嬉しいという感情が、頬を伝って溢れ出す。

「会いたい、なぁ」
 もう、一騎は一騎ではなくなり始めた。
 このままだと、いずれ来る時に、総士を認識できなくなっているかもしれない。
 でもどんな一騎であっても、総士を理解しようとするだろう。
 総士と同じ道をゆき、共に在りたいと願うだろう。

「今度は、優しくて、お前が、笑っていられる、せかい、で」

 木から流れ込む膨大な力は一騎のほとんどを満たしていて、どこまでが自分でどこからがそうでないのか、もう曖昧になりつつあった。
 真壁一騎という存在が、それだけではなくなる前に。

「いっしょに、いたい」

 お前とここに、いたい。
 竜宮島に。故郷に


「待ってるよ、総士――」






「たとえこの身が朽ち果てようと、お前を待ち続けると約束したから」






 鮮やかな緑の山々、青く透明な空。浜辺には鳥が群れを作り、穏やかな風が髪を撫でる。
 浅瀬に乗り上げると、船内から固定用ロープを携えた剣司と衛が出てきて、総士も共に白い砂浜に降り立った。
 島の空気を肺一杯に吸い込む。潮風のはずなのに、桜の花弁に似た甘い香りがした。エンジンを止めて、甲洋や咲良、遠見と翔子が甲板から顔を出したので、大丈夫そうだと声を張った。
 防波堤と思しきコンクリート。苔に覆われた街灯や信号機。木造建築は朽ち果て、崩れ落ちた看板や標識があちこちで道を塞ぐ中、総士は地図を手に険しい道のりを睨みあげる。
 一人で行くのかと問う甲洋に、一人で行きたいのだと返す。友人たちは、総士が何を考え、何を思ってこの島を目指したのか知っている。だからこそ、総士の意思が固いことを理解していた。
 迎えに行くのは、総士の役目だ。総士が、人生を賭けてやらなければならないことなのだ。
 渋々と言った体で了承してくれた友人たちに、せめて居場所くらいは把握させろと請われたので携帯のGPSを付けた。定期的な連絡を約束して、一人、島の中枢を目指す。
 一歩足を踏み入れるごとに、台風の荒波のような記憶の洪水が総士の全身を駆け巡った。島で生きた日々を。一番最初の総士が『皆城総士』の魂を持って生れ落ちた瞬間のことを。

 皆城総士は、海神島に生まれ、育った。
 両親と妹。仲の良い学友。いずれ島を導く立場にありながら、恵まれた環境で健やかに育ち、来年には成人式を迎える。ただ、たった一つ、何か大事なものが欠けているような気がかりだけが、幼い頃から巣食っている。
 海神島と対を為すと言われる、竜宮島と呼ばれる島が昔から伝承として残っている。竜宮島が世界から隠れて生きていた、本当の意味を知ったのは、総士が中学を卒業したときだった。
 その場には、総士の友人である面々も揃っていて、島に一つしかない体育館で父から厳かに伝えられた。
「竜宮島は、我々の祖先を導いてくれたコアだけではなく、世界を救った英雄が眠っている。どこにいるかも分からないが、彼は、世界を、我々を見守ってくれている。かつて地球に訪れたアルタイルと対話し、人との共存の道を選ばせた、本物の英雄。彼の名を」
「一騎、くん?」

 ざわめきが場を一瞬で駆け抜けた。総士の後ろで、顔を真っ白にして口元を抑えた遠見が、信じられないと首を振った。
「一騎」
 総士もまた、閃いた名に唇を震わせた。
 会いたい、一騎に会いたい。
 会いにいくと、約束した。
「総士…思い出したよ」
 剣司が、甲洋が、咲良が、羽佐間が、衛が、いつの間にか総士の元に集まっていた。肩越しに、蔵前が神妙な顔でこちらを見つめているのに、頷く。
「…一騎を、迎えに行く」

 真壁一騎。
 求めていた欠片の在処が、やっと掴めた瞬間だった。


 荒れ果てた島ではあったけれど、道らしきものはそのまま残っていて、迷うことなく総士は一一番と描かれた扉を潜った。入り組んだ構造でも、総士の記憶は正しく目指す場所への道のりを示してくれた。
 やがて、見上げる程大きな扉の前までたどり着いた総士を待っていたのは、長い黒髪を揺らした少女。
「来たんですね」
 待っていました、と少女は総士の元まで歩み寄って赤い瞳を細める。
「一騎先輩なら、中に居ますよ」
「君が、ずっと見守ってくれていたのか」
「正確には、島のコアが、ですけれど。私ももう、人としての生は終えました。今までも、これからも、竜宮島のコアと共にいることが、私の願いですから」
「そうか。残念だが…それが、君の望みなら。立上」
 命の循環を超えた存在となった立上芹は、優雅な微笑みを湛えて道を開けた。もう、総士を遮るものはなかった。


 暗く、静寂に満ちた広い空間。転々と燈る赤い光が頭上で瞬き、足元は青白く寒々しい色の光で覆われている。一本の橋の向こう、部屋の中央に、その人はいた。
 赤い水を内包した機械に凭れ掛かって、瞼を閉じている。人工子宮。ワルキューレの岩戸。『皆城総士』の知識は違うことなくそれが何かを認識させて、ずっと島が自分たちの帰りを待っていてくれたように思えた。
 彼の隣に膝を着く。気配を感じたのか、瞼がゆっくりと持ち上がった。唐突な来訪者に驚くことはせず、微かに身動ぎをして総士に問いかけた。
「だれ?」
 一騎の中に、もう総士の存在は無かった。可能性に思い至っていたからショックは小さかったけれど、やはり寂しさはある。
 島と一つになり、アルタイルを受け入れ、痛みと存在を調和する者。一騎は、そういう存在になったのだ。
 総士が知っている真壁一騎はもういない。
 けれど、ここにいる。
「僕の名前は、皆城総士」
 もう一度、ここから始めよう。
 真壁一騎と皆城総士が出会って、新しい命を紡ごう。
 かつて二人が為し得なかったたくさんのことを。仲間と共に歩み、人として生きる新しい人生を。
「俺は、自分が誰かなんてわからない。ただ誰かと、待っていると、そう、約束しただけで」
「ああ。ありがとう、一騎。僕を待っていてくれて。僕の希望を、未来に繋いでくれて」
 手を取って、命の鼓動を刻もう。
 もう二度と、一騎を置いてなどいかない。
 もう一生、一騎を手放してなどやれない。

「ただいま」

 本当の意味で、この言葉を贈る日をずっと待っていた。


2016.3.13 published