chapter 4This is what I`m thinking about

 明け方の船内は静けさと、微かに聞こえる足音が響く。その音をぼんやりと聞きながら、一騎は自分を組み敷いている亜麻色の髪の持ち主の熱がどくりと弾けるのを感じた。
「んっ……」
 ずるりと中を圧迫していたものが引き抜かれ、ひやりとした空気に震える。
 早朝のぼやけた思考の中で、総士が身体を起こしててきぱきと処理をするのを見つめた。今日はスキン越しに出されたからか、身体の負担は少ない。実際、中に出されてそのままにされたのは最初の時だけだ。もっと乱暴にされるのではと思っていたが、彼は紳士的だった。
 引き千切るとまで宣言した鎖は、あの日から二日と経たず取り払われた。どうやら乙姫に相当怒られたらしい。女性に対する扱いじゃないとか、趣味が悪いとか、それはもう普段は優しい妹の剣幕に意気消沈していたと語ったのは甲洋だった。
 まるで何も感じていないように無表情で後始末をしていく総士の背中に手を伸ばす。触れようというのではない。翳すだけだ。こんなに近くにいるけれど、総士の気持ちが一騎にはよく分からなかった。
 達するほどの快感を得ていても、終わった後は一転して寒気を覚える。
 総士はどう思っているのだろう。何を思って、一騎を抱いているのだろう。
 幼い頃の面影が少しずつ美しい彼に塗り替えられていく中、未だ一騎の心に残る暖かな約束に問いかける。
 俺をどうしたいんだ、と。


 ザルヴァートル海賊団の一員として迎え入れられた一騎に、最初に与えられた仕事は料理を作ること、だった。それまで厨房は当番制で、男による男のための料理は非常に大雑把で簡単なものばかり。唯一甲洋が料理に凝ってはいたものの、航海士でもある彼が頻繁に厨房に立てるわけがない。
 確かに食材は世界各国、ありとあらゆる珍しい物が揃っていても、正直なところ宝の持ち腐れ状態だったようだ。
 荒れて手入れのされていないシンクを綺麗に掃除し、四つもある冷蔵庫の中身を確認し整理する。なぜか食器棚は整頓されていた。差がよくわからないが、一通り綺麗にし終えた日は簡単なもので済ませようと大量のスパイスを混ぜたカレーを作ることにした。
 あり合わせのもので作ったにも関わらず、これが予想以上に大好評で一騎は面喰らうことになる。
 この船の幸運は、一騎がとても料理上手であることだった。
「一騎ぃ、今日の夕飯は?」
 三十人は入りそうな大部屋と繋がる厨房に現れたのは、この船の中でも特に一騎に胃袋を掴まれた来主操。ザルヴァートル海賊団の五番隊を任された戦闘員で、皆城一族の分家の一人らしい。容姿は総士と似ているのだが、あの特徴的な長髪のおかげで間違うことはない。
「前にみんなが釣ってくれた鮫を干した出汁で摂ったスープに、肉と野菜を煮込んでみた」
「聞いただけで美味しそう……!」
 頬杖をついてカウンター越しに一騎を眺める姿は、実年齢より遥かに子供っぽく見える。
 それでも戦闘となれば「あいつの身軽さとナイフ捌きはこの船でもトップクラスだ」と総士に言わしめる腕前の持ち主だ。一騎も、これまでに何度か戦闘で助けてもらった。
「一騎が来てくれたおかげで、美味しいご飯が毎日食べられてすごく嬉しいよ。甲洋のもまずくはないんだけど、なんか変な物が入ってそうな気がして……あいてっ」
「ずいぶん失礼な言い草だな、来主」
 こつん、と軽く頭を叩きながら、甲洋が操の横に並んだ。この二人は、戦闘でタッグを組む事が多い。面倒見の良い兄と手間のかかる弟のような関係らしく、操が行方不明になると甲洋に居場所を訊ねるのがこの船では通例だ。
 そんな兄貴分が親指で扉の外を指し、なんだろうと首を傾げる。
「この前寄った街で見繕った服、着てみろってさ」
「乙姫か……」
 この船の紅一点だった彼女は、一騎の存在に大層喜びことあるごとに構い倒してくる。未来のお姉さんだもん、と無邪気に好意を寄せられてしまったので、とりあえず決定事項ではないと再三伝えてはいる。あまり聞いてはもらえていないようではあるが。
 ちょうど冷ましておこう思っていたところなので、鍋の火を止めて甲洋に礼を言う。つまみ食いをしないよう操に言い置いて、一騎は乙姫の待つ部屋へと急いだ。
 途中、腰のあたりで違和感を放つ剣帯に顔をしかめ、気にしないように言い聞かせた。


 一騎がザルヴァートル海賊団の一員に名を連ねるようになって、五ヶ月が経つ。あっという間に月日は流れ、気付けば季節は二つ過ぎていたが、世界を旅して回るこの船には季節があってないようなものだ。
 総士は約束の通り、一騎に様々な景色を見せ、異なる国に連れていってくれた。
 海賊という職業柄からあまり好印象を持たれないと思っていたが、国が違えば考え方も違う。良い取引相手でもあるザルヴァートル海賊団を歓迎する国は少なくなかった。
 ただ、全ての海賊がザルヴァートル海賊団と同じわけではないと総士は語った。
 ここはまだマシな方で、中には街を襲い金品を強奪することを生業としている海賊もいる。規模の大きい海賊団ほど古くから存在する秩序を重んじており無用な諍いを嫌うが、新参の海賊団は比較的好き勝手やっているため遭遇すれば戦闘になる。
 この船に乗ってから既に九回の戦闘を経験しているが、一騎が戦うことは無かった。ナイフなんて包丁くらいしか扱ったことがない状態では、戦闘に参加したところで足でまといどころか彼等の集中の妨げになることは充分に承知していた。
 しかしそれは、現状に満足しているかとは、また別の話だ。
 乙姫の部屋で色々と服を試しながらも、一騎の意識はベッドの上で存在を主張する短剣に注がれていて、溜息を一つ。
 クラーケンとの戦いが終わった後、総士から譲り受けた剣。一騎でも持ちやすいように専用の剣帯を誂え、唾の部分を軽く縫い付けてある。せめてもの護身用だが、あれ以来抜かれたことはない。
 甲洋から聞いたところ、この剣は今まで総士の護身用としてずっと彼を守り続けてきたものなのだという。それこそ一騎のように、初めてクラーケンと戦った時もこの剣を使ったと。
 それが一騎の命を助けたことで、一騎の下にあるべきだと判断したのだろう。そう語る甲洋の眼差しは暖かく、余計に一騎の気持ちをざわつかせた。
(俺は……どうしてここにいるんだろう)
 調理場を任されて五ヶ月弱、一騎は『それしか』できていないことに焦燥を感じている。総士の嫁、という立場で接している船員はまだ多いが、一騎をそう揶揄する者はいない。攫われて、本来歩むべきであった生活からかけ離れた、言ってしまえばよほど粗末な生活をしているのに、一騎の心には確かな充実感が芽生え始めており、戸惑った。
 船員たちは、海で暮らす者としてとてもシビアだ。足手まといは切り捨てるくらいのことはするだろう。だからこそ、一騎は自分の立場が不可解でならない。料理も立派な仕事の一つではあるだろうが、この船の一員としてそれに留まっていてはいけないような気がしてならないのだ。
「一騎、上の空だね」
 紫色のリボンを片手に、乙姫が呼びかけた。苦笑と、ほんの少しの悲しさを混ぜた声色。鏡を覗き込みリボンの位置を調節して、できた、と小さく呟いた。
「気になる事があるの?」
「あ、いや……ごめん、せっかく服選んでくれてたのに」
「そんなことは別にいいよ。一騎が不安そうだから、どうしたのかなって思って」
 ベッドに腰掛ける一騎の横に座る乙姫の腰に下げられた、彼女の為の武器。
 生まれた時からザルヴァートル海賊団の一員である乙姫は、戦闘員としてもちろん数えられているし、海の守り神と話ができる特殊な能力を持っている。一騎が総士にもらったペンダントも、海の守り神の加護を与えられた代物だ。それが実際にどのような効力を持っているのかはわからないが、クラーケンに襲われて無事だったというだけでも充分に加護を受けているらしい。
 乙姫だけじゃない。自分より年下の船員はたくさんいる。彼等もまた、その全員が戦闘員だ。一騎だけが、一人守られる立場にある。
「……なんでもないよ」
 だがこの不安を誰かに打ち明けることはできなかった。
 一度だけ総士に、剣を教えて欲しいと頼んだ。抱かれている最中に途切れ途切れの言葉で伝えたら、綺麗な顔を歪めて何の答えも返してくれなかった。痛いくらいに脚を持ち上げる指に力が籠って、苛立ちをそのまま身体に刻むような抱かれ方をした。あんなのは初めてで、以降その話題は一騎の中で燻り続けている。
 音にはしない拒絶がいっそう一騎の心を抉る。こんなの娼婦みたいじゃないか、と思う。ただ慰めの為にいるのだったら、そんなの一騎じゃなくたっていいはずだ。いくら幼い頃の約束とはいえ、容姿も能力も本当は総士にはもっと釣り合う人がいるに違いないのに。
 そう思うようになってから、行為は痛みを伴うようになった。気持良いと感じてしまうのが、辛くなった。
 ぎゅう、と胸が嫌な音を立てて涙が出そうになる。
「一騎。辛い事があるなら、ちゃんと言ってね」
「……うん」
 乙姫の好意に、甘えるのは簡単だ。でも、彼女は総士の妹だ。彼と身体を重ねています、でも総士が何を考えているのかわからなくて辛い、なんて口が裂けても言えそうにない。
 頷くに留まって、服の礼を言い厨房に戻った。
 腰に下がる剣が、ひどく重く感じられた。

 その日の夜、海の怪物と言われるヒュドラの子供と遭遇した。子供といっても、船を越す首の長さは十分な脅威で、見晴し台の鐘が美しい夜空を途端に不穏な空気へと変えた。
 無理に戦う必要が無いならば、さっさと離脱してしまうに限る。北西に向かって最大速度で進路を取るよう船長が指示している傍らで一騎はじっとヒュドラを目に焼き付けていた。
 見るもおぞましい怪物だったクラーケンと違い、ヒュドラは蛇のような身体に竜の顔をした不可思議な生物だ。人魚と共に生きるという迷信も存在している。
 初めて見るその姿に、少しばかり興味があった。船長の近くならば安全だと判断して、前方で弓を構える総士には内緒で部屋を出てきたのだ。
 それが、過ちだった。
 ぐん、と船底に妙な振動が響き渡る。尾が触れたのか、はたまた別の生き物とぶつかったのか。竜骨がやられてしまっては船が沈んでしまう、と焦る周囲の隙を縫って、側面から這い上がってきた海蛇が一騎の足を捕えた。
「は、えっ?」
 暗闇に包まれた夜の海。光源が松明のみでは、忍び寄って来た海蛇を知覚する頃には目の前に大きな顎が迫っていて。
 やられる、と咄嗟に手をかけた剣が、鞘から抜けることはない。当たり前だ、抜けないようにしているのだから。
 目を瞑る、その一瞬の間に、様々な事が起こった。
 首を絞めたような獣の短い悲鳴。頭を包み込む総士の香り。波飛沫が甲板を叩く音。
 そして、ぽたりと頬にかかる生暖かい液体。
「……ぇ…」
 閉じていた目を開ける。液体の正体を確かめようとしたが、闇の中ではそれが黒い何かということしかわからない。
 ただ、総士から零れ落ちる、鉄のような匂いは。
「……っ一騎……無事か?」
 総士の顔が意味するのは。痛い、苦しい、と、そう語ってはいないか。
 どうして、と聞くよりも彼の左腕が目に入った。一騎を襲う蛇の顎を止めるべく、差し出された腕。そこから滴り落ちる液体。右手は剣を深々と蛇の喉に突き刺して、ぴくりとも動かない細身がすでに絶命しているのだと伺える。
「そ……し……?」
 ずる、と海蛇が倒れ臥すと同時に、総士がだらりと左腕を落とした。咄嗟に身体を支え、晒された惨状に喉が震える。
「どう、して」
「それは、こちらの、台詞だ……部屋にいろと、言っただろう……」
「ご、ごめんなさい……」
「まあ……無事なら、良い」
 素っ気ない言い草は一騎に余計な心配をかけさせまいとしている。駆け寄って来た剣司に左腕を差し出し、清潔な布で血を拭って傷口を確認した。
 治療は部屋で行った方が良いと促され、甲板を後にする背中を目で追う事はできなかった。
 不意に明るくなった手元。頬に指先を当てる。ぬるりと這う液体の色は、赤。
 呆然と、手についた色を眺める。
「一騎」
 甲洋の優しい声に、肩に添えられた手に、ふるりと頭を振った。
 甲洋は労ってくれようとしている。一騎のせいじゃないと、油断していただけだと言ってくれる。それならいっそ、殴られた方がずっとマシだと思う。
「総士……総士のとこ、行く」
 立ち上がって、傾いた身体が柱にぶつかった。貧血になったみたいに頭がくらくらとして、思い浮かぶのは総士のことばかりだ。
 庇われた、何もできなかった、怪我を負わせた、自分のせいで、全部全部、一騎が悪いのに。「無事なら良い」だなんて、こんな役立たずを。
「一騎、顔が青い。休んだ方が良いよ」
「いい。総士のとこ、行くから」
 何ができるんだろう。何をすればいいんだろう。
 このところずっと一騎を悩ませていた自問が、がぱりと口を開けて一騎を飲み込もうとしている。
 総士の役に立つには? この船にいる資格は?
 足元がぐらぐらして、どろどろとした気持ちに黒く塗りつぶされていく。
 鉄のような重さを感じながら、一騎は総士の部屋の扉を開いた。

+++ +++

 認めよう。油断していた。
 ヒュドラと言っても幼体。大した力は無いし、これまでの経験上遅れをとるような自分たちではない。いつも通り追い払ってしまうことなど造作もないと侮っていた。
 海に生きる者として、本来の海の覇者である海洋生物を舐めてかかることへの罰。それは、強者ではなく、最も弱いものへと降りかかる。
 一騎を夜の海に引きずり込もうとする触手と、首ごと噛み切らんばかりに広がった顎。息を止めるほど驚いたのは、初めてだった。
 番えていた矢を放り投げ、自身ですら驚くべき速さで彼女と化物の間に身を滑らせていた。右手で抜いた剣が硬い鱗を突き破る感触と、左腕に牙が食い込み肉が裂ける音は同時だった。
 間に合った、と抱え込んだ一騎に傷一つ付いていないことに安堵した。この程度の怪我など、過去に何度も負っている。だから剣司も、慣れた様子で簡易止血を施して部屋に行くよう促してきた。
 一騎も連れて行こうと思ったが、あまり血の匂いに彼女を晒したくない。そういうところが過保護なのだと周囲には窘められるが、総士にとって一騎は清らかで澄んだ水のような存在だ。まだ何色にも染まっておらず、総士が生きるために必要な命の水。
 いつか自分の色に染まってくれる日を願いながらも、そうならないことが彼女の本質なのではないかと思うほど、透明な流れを保ったままの存在。
 毎日のように組み敷いて彼女を女として扱っているのに、倒錯的な矛盾だ。
 自室に連れられ、大人しく手当を受けている間も頭の中にあるのは彼女のことばかりだ。怪我は無かったと安心したが、本当に無事だったのだろうか。ひどく怯えていたようにも見えた。一人置いてきてしまって大丈夫だったのだろうか、と。
「そんなにあいつのことが心配か?」
 包帯を巻きながら、やけに真剣な顔で剣司が訪ねた。何を今更な、という質問だ。
「悪いか」
「……ちょっと過保護すぎやしねえかなって思うんだわ、俺」
「彼女は海の生活を初めて一年も経っていない。気を遣うのは当然だ。それに、この船の役割という意味では充分にその任を果たしていると思うが」
「一騎が作るご飯がうまいってのは重々承知してるさ」
 結び終えた包帯を確認しながら、ベッドの上に散乱していた脱脂綿や傷薬を箱にしまっていく。凪いだ声色で総士に諭そうとするとき、剣司はいつも総士には見えていない何かを感じている。それは総士の焦燥を駆り立てることもあれば、ぽっと思いも寄らない視点を生み出すこともある。
「あいつは……俺達が思ってるより、ずっとしっかりしてる。陸と海じゃ生活環境が全く違うのに、弱音一つ吐かない」
「……そうだな」
「お前、一騎に何か頼まれたり請われたりしたことあるか?」
 問われ、頭に浮かんだのは数ヶ月前に「剣を教えて欲しい」と頼まれた事だった。それに自分はなんと答えただろうか。一騎が剣を扱う必要などないと思ったのは覚えている。ただ、あの日も、彼女の姿態に煽られていて、碌な返事はしていなかった。
「誰かに頼ったり望んだりって、一種の甘えとか気を許してるとか、そんな風に俺は思う」
「……あいつが、まだ僕たちに気を許していないと、言いたいのか」
「そりゃそうだろ。どこに気を許すことがあったよ?」
 皮肉を込めた笑みで肩を竦めた剣司は、部屋の外をちらりと見遣る。
「お前があいつを抱くのは、お前の責任だ。それをとやかく言うつもりはないけど、もうちょっと話してやれよ。お前がどう思ってるか、一騎にどう在ってほしいのか、さ」
「僕は」
「おっと、それ以上は俺に言ってもしかたない」
 コンコン、と部屋の扉がやけに重苦しい音を立てて来訪者を告げた。だいたいの船員は、部屋の外から声をかけて入室する。扉をノックするなど、一騎くらいしかいない。
「じゃ、俺は席外すわ。あんま激しい動きするなよ?」
 わざとらしい軽い口調。今後の展開をからかうような言い草に、思わず眉間を寄せた。
 扉を開け、中に入ってくる一騎と入れ替わりに剣司の姿が消える。一騎は、ひどく落ち込んだ様子で部屋に入ったきり動こうとしなかった。
「一騎、そんなところに立っていないで、こちらに来い」
 手招くと、俯いていた顔が僅かに面をのぞかせ、そろそろと総士の前までやってくる。
 合わそうとしない目線に、ちくりと胸が痛む。こちらを見ろ、と言いそうになるのを堪えて手を取った。
「そんな顔をするな。お前に非はない」
「……非がない、わけ、ないだろ…!」
 突然胸元が力強く引っ張り上げられ、一騎の顔が近くなる。彼女の眦に浮かぶ大粒の涙が、あと少しで零れ落ちそうに震えていた。
 頬に残る血の跡が総士のものであるのは一目瞭然だ。掬い上げ、指先が赤と水に濡れる。
「なんで庇ったんだよ……俺なんて!」
「お前だからだ」
 他にどんな理由があるというのだ。一騎だから庇った。怪我をしてほしくなかった。血を流してほしくなかったから。
「お前に傷ついてほしくない……」
「どう、して……」
 胸倉を掴んだままの一騎の手を解く。
 そのまま身体を引き寄せ、噛み付くようにキスをした。口内をいっそ乱暴なまでに荒らし、唾液が撹拌される音にじわりと汗が滲む。
 きつく閉じた瞼を盗み見て、適当なところで離した。総士に向かい合うような形で膝の間に座り込んだ一騎の頭を撫でると、なぜか傷付いたような瞳で総士を見上げた。
 予想もしていなかった色に、狼狽える。なぜそんな顔をするのかわからず、手を引いた。
「一騎、いったいどうし」
 言いかけたところで、腹の当たりに飛びついてきた身体に押されベッドに沈む。いつもと逆の体勢に、混乱が増した。
 もぞもぞと腹部で怪しい動きを見せる一騎を見下ろすと、拙い手付きで総士のズボンを脱がしにかかっている光景に咽せかける。一騎、と叫び慌てて身体を押し退けようとするが、既に手はズボンの淵にかかっている。
「やめろ!!」
 総士の叩き付けるような怒鳴り声に、一騎がびくりと身を震わせる。怪我をしている左手を庇いながら、なんとか腹筋で起き上がり一騎の両手を剥がした。
「何をしているんだ!!」
「だっ……て……」
 勢いを無くした声が、肩と共に落ちていく。
 数十秒か、数分の間がやけにうるさく鳴り響いた。
「俺ができるの……こういうこと、だけだと、思って」
「は……?」
 彼女は今何を言ったのだ、と理解に苦しむ脳がぐるぐると目の前で項垂れた頭上を空回りする。時折こうした突拍子もない思考をしているとは思っていたが、またどうして総士に対して『そういうこと』をする結論に至ったのかが全く見えない。
「一騎、最初から話せ」
 強引にベッドに座らせて、隣り合うような形で背を擦る。念のために手早く前は整えて、続けた。
「まず、最近悩んでいるようなそぶりを見せていたが、何が不安だ? もしくは、不満でもあるのか」
「ちがう、不満なんてない」
「なら不安か?」
 口を噤む様は肯定を表しており、こんな部分はわかり易い。可愛らしいと思う。
 話し合え、と言った剣司の言葉が今更ながらに心を揺する。言われた通りだ。やはりあいつは人を良く見ている。
「……俺、ずっと足手まといだと思って、この船に居て良いのかわからなくて。ただ守られてるだけ自分が嫌なんだ。俺だって、この船の役に立ちたい」
「なにを……お前は十分、この船の一員としてやっている。皆が褒めていたぞ、お前の料理は美味しいと」
「総士は、どう思ってるんだ」
 琥珀色の瞳が、夜の帳の中で色濃く総士を映し出した。鏡のような瞳に映る自分を見て、顔を引き締める。
「僕がどう思っているかだと?」
「……ただ、そういうことをするためだけにいるのかなって……」
「なっ……」
 何を馬鹿なことをと言いかけ、先程の行動に繋がるのかと苦々しい気分になった。盛大な勘違いが一騎の中に根付いている。
 純粋に好意を寄せているつもりだったが、どうやら彼女は違う意味に置き換えてしまったのだ。今それを突き付けられることになろうとは、思いもしなかった。
「いいか。僕は、お前を娼婦としてこの船に置いているのではない」
「……そうなのか」
「そうだ。僕はお前が好きだから、ここにいてほしいんだ」
「好き……」
 ぽつりと呟く一騎は実感が無いのか、二度瞬いて膝の上で拳を握った。
「初めのうちは、お前が本気で嫌がるなら帰そうと思っていた。だがここまできたら、お前が泣こうが喚こうが、もうお前を手放すことなどできない」
 拳を両手で包み込む。怪我をした方の手が触れた途端、一騎の拳が逃げるようにすり抜けるがそれを許すはずもない。
 手首ごと掴んで、引き寄せ、抱きしめた。
「大切で、大事にしたい。だから、お前が戦う必要はないと思っている」
「でも、ここにいる皆、戦える。乙姫だってそうだ。俺はこの船の役に立ちたい、総士!」
「だから充分に役に立っていると言っているだろう?」
「そんなこと、ない……!」
 やけに強情だ。こんなに我を通そうとするのは初めてではないだろうか。
 基本的に何事にも従順で、順応性の高い女性だと思っていたが、こうと決めたら譲らない性質の持ち主のようだ。
 五ヶ月間共に生活をしただけでは、一騎の中に秘められたうちのたった一片しか見せてもらえていない。ならば、総士の想いのどれほどを一騎がわかっているだろう。
 周囲からは、一騎がクラーケンを倒した時のことを考えれば、充分に戦闘要員足りうる度胸を有していると判断されている。身のこなし、判断能力から言っても、鍛えれば確実に戦力となりうる素養はあった。
 わかっていても一騎を戦いに巻き込みたくないのは、総士のエゴだ。やっと手に入れた、失いたくない大切な人だからこそ。
「なあ総士、俺も戦いたい。守られるだけじゃなくて、守れるようになりたい」
「一騎……聞き分けろ。海賊だからと言って、必ずしも戦いに長けている必要はない」
「……っ」
 軽い衝撃に弾かれ、一騎の腕一本分、距離が開いた。
 眦に溜まった涙が不安定に揺れ、唇を寄せて涙を掬えば、いやだ、と明確な拒絶の言葉が放たれる。だが総士はやめることなく、舐め取って小さく囁いた。
「愛している」
「ぁ……」
「僕に、お前を守らせてくれ」
 夜の海が奏でる波の音が、二つの心を一つにしてしまえればいいのにと思った。
 涙が止まるまで一騎の頬を撫でていたら、気付けば二人して吐息を混ぜ合うくらい近くで寝入っていた。

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