喉が渇きを覚え、ゆっくりと瞼を押し上げる。
身体が鉛のように重い。枕の下から波飛沫のような音が聞こえてくる他に、やけに低い天井が目の前にあるだけで首を動かす事もできそうになかった。
指先がかろうじてシーツを引っ掻き、声を出そうとすると咳き込んで思う通りにならない。
「あ、一騎。目が覚めた?」
聞き覚えの無い声とともに、これまた見覚えの無い顔が自分を見下ろした。
黒い髪の、女の子。貝殻を模した髪飾りがしゃらりと揺れ、額にひんやりとしたものが添えられる。冷たくて気持ちがいい。
「ぁ、の……けほっ…みず、を」
「起きなくて良いよ。ちょっと待ってね」
一度少女が視界から消え、すぐに傍らで物を動かす音と細い管のようなものを口に当てられた。水差しのようで、吸えば口内に甘い水が広がり潤いが戻ってくる。
何度か繰り返したら、今度は体中が熱くなった。汗をかいているらしく、服がべったりと肌に纏わり付いている。
「熱があるの。まだ寝てて大丈夫だよ」
「そう、なのか……ごめん」
「謝ることなんて無いよ。悪いのは全部総士なんだから」
丁寧に口元を拭って、よしよしと髪を梳く手付きはまるで母親のようだ。そうされる事に安心感を覚え、一騎は再び泥のような眠気に意識を落とした。
――すまない、一騎。
眠る一騎のすぐ近くで、何度も謝罪を口にする人がいる。すまない、早く目を覚ませ、とそんなことを呟きながら、冷たい手で一騎に触れては苦しそうな声に心の中で応えを返す。
(大丈夫、ちゃんとここにいるよ)
手を握り返したくてもまだ身体は動かない。もうちょっと、あと少しだけ眠らせてほしい。ちゃんと答えを返すから。
ぴちゃん、と雫が跳ねる音に唐突に覚醒を促された。ぱちりと瞬いて、ここは天国だろうかと首を左右に動かす。
「ここ、は……」
確か、可愛らしい女の子がいた。あと、低くて優しい声の男の人。夢でなかったら、人間のはずだ。
よく見ると、自分はふかふかのベッドの上に寝かされているようだった。シーツは新しく日向の匂いがして、見たことのない装飾が施されている。手はちゃんと動く。握り締めた感覚は確かなもので、幽霊でなければちゃんと生きている。
(ここ、どこだろう)
現状を把握するべく起き上がる為に腹筋に力を入れた途端、下腹部に走る鈍痛に顔を顰めた。ぴり、と裂けるような痛みが腰を中心に秘所まで続いている。中途半端な体勢のまま固まって痛みをやり過ごすと、もう起き上がる気力は残っていなかった。
ベッドに逆戻りして足を動かすと、違和感を覚えシーツを捲る。目に飛び込んできた己の身体に、ぎょっとする。
足首に嵌められた囚人のような輪。下着一つ纏っておらず、大腿部に散る赤い痕。明らかに『それ』の後だとわかる光景に、ようやく脳裏で『何故』と『誰』が繋がる。
(抱かれたんだ……あの子に)
一騎、と何度も名前を呼ばれた。覆い被さる彼が最初は怖くて、痛くて、けれどだんだん気持ち良くなって、堪らず声を上げた。あんなに高い声が自分から出るなんて知らなかった。
お腹の中にあたたかいものが注がれて、それでも痛みは引かなかった。最後は、ただひたすら中を擦られて腰がびくびくと跳ね悶えた。頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回されて、それでも彼が与えてくれる快感だけは鮮烈に拾って、目の奥がぱちんと弾けたところまでは思い出せる。
「……ぅあ」
ぼん、と頬が熱くなる。名前も知らない男の人に抱かれたというのに、イッてしまった。みっともなく求めてしまったような気もする。
根拠は無いけれど、一騎を抱いたのは間違いなく約束の彼だった。情事の最中、一度だけちゃんと彼の姿を捉えられた時に記憶の中の灰色の瞳が微笑んだ。迎えに来たよ、待っててくれて嬉しい、と熱を穿たれる度に言われている気がした。
啄むような優しいものから、口内を荒々しく暴く激しいものまで、何度もキスをされた。
わずかに舌が痺れるのは、それが理由だろうか。あの海岸で再会を果たした時も、深い口付けに気を失ってしまったのだが。
「――父さんっ」
記憶を遡ってようやく辿り着いたのは、彼に攫われたという事実。
結婚式を控えていた。此処が竜宮島ではないなら、結婚はどうなった。一騎を送り出すことを渋っていた父は。 あれから、何日経っている?
巡る疑問に突き動かされ、ベッドから足を下ろしたが、やはり足腰に力が入らず躓いた。
ドガン、と木材の床に転げ落ち派手な音を立てる。膝頭を強かに打ち付け痛みを堪えていると、階上から足音が降りてきた。
「一騎!?」
慌てた様子で部屋に飛び込んできたのは、左側だけ裾の長い不思議な形をした帽子を被った彼だった。
「大丈夫か、無理に動いては身体に障る」
肩を支えながら抱き起こされるものの、触れた場所から痛みがじわりと広がり思わず身体が震える。彼の手から離れるように身を引いて、両腕を抱いた。
彼は軽く目を見張り、切なそうに細める。一騎が拒絶したのだと思ったようだ。
違う、本当はそうじゃないと言いたいけれど、心に反して身体は震えるばかりで声は掠れた空気にしかならなかった。
「すまない、妹に頼もう。この船の女性は、妹だけなんだ」
もしかして、夢現に現れた女の子のことだろうか。
黒髪と鷲色の髪では気が付かなかったけれど、目の前の顔と比べると確かにそっくりだったように思える。
床に広がる彼の服の裾を、思わず握りしめた。立ち上がりかけた身体がつんのめり、原因を把握した彼は問うような視線を一騎に送ってくる。
触れるのは嫌がっておいて、離れて欲しくないと言わんばかりの行動をとるなんて矛盾している。そう理解していても、明確な答えなど持ち合わせていなくて俯いた。
「……待っていろ」
上着を脱いで、肩にふわりと掛けられる。暖かい。喉の強ばりが少しだけ解れて、うん、と小さく頷いた。
自力でベッドに乗り上げ、シーツに包まる。足下から伸びる鎖はベッドの端に固定されていて、引っ張ってみてもそう簡単には壊れそうにない。
繋ぎ、逃げられないようにしているのは明白だ。そんなことをしそうな人には見えないのに、確かに鎖を嵌めたのは彼だった。一騎の身体を心配したり、触れる手つきは優しくて、ちぐはぐな人だ。矛盾しているという意味では自分も同じだが。
しばらくして再び部屋の扉が開き、姿を現したのは彼の妹と呼ばれた人。ベッドに蹲る一騎に目を見張り、手に持っている包を渡された。
「一騎、この服着てみて。お母さんのだけど、たぶん一騎にはちょっと大きいくらいだと思うから」
「え……」
「身体は痛くない?今朝まで熱があったんだよ」
「なんとなく、覚えてる。看病してくれたんだよな、ありがと」
「ううん。熱が下がって良かった」
ベッドの横にちょこんと座り、足をぷらぷらと揺らす様は小動物が期待に胸を膨らませているのに似ている。
さすがにこのまま全裸のわけにはいかない。包を解き、中の服を一つずつ身に付けていく。
上等な布では無いが、通気性の良い軽くて丈夫な服のようだ。肩と胸元を紐で縛り、腰の部分をベルトで留める。膝上丈のスカートを履くのは数年ぶりのことで、足下が妙に覚束ない。海の上は風が強いから、と最後に足の付根ぎりぎりの長さのズボンを纏う。見えても良いように、という配慮らしい。
「一騎、よく似合うね」
「ちょっと大きいけど、着やすい服だ」
「島に帰ったら、色々揃えようね。お母さん、張り切っちゃうかも」
しま、と呟く。彼女の口ぶりから、それが竜宮島ではない事は明確だ。
「ここ、どこなんだ……?」
「とりあえず海の上、かなぁ。詳しいことは、総士から聞いた方がいいと思う」
「そうし……」
それが、彼の名前なのか。
呼応するように下腹部が鈍い痛みを訴え、背中が丸くなる。途端、不安で胸がいっぱいになった。
なにもかも、訳がわからなくて自分の手のひらに視線を落とす。結婚をして家に帰ることはないと覚悟していたけれど、まさかこんな風に長年想いを傾けてきた彼に連れ去られるなんて思いもしなかった。枷が嵌めてある時点で、家に返すなんて選択肢は存在しないのだろう。海の上、というならそう簡単に逃げられるとも思えない。
「あのね、一騎」
思考の淵に囚われた一騎の手に、彼女の手が触れた。
「総士を助けてくれてありがとう」
静かな、染み渡る声に顔を上げる。
「だから、あんなことして本当に酷いお兄ちゃんなんだけど、お話を聞いてあげて欲しいな」
「……」
「ずっとずっと、総士は、一騎に会いたくてしかたなかったの」
それはあくまで彼女の側から見た理屈だが、不思議と素直に頷いていた。相手のことを知ってから自分の感情に名をつけなさい、というのが亡き母の教えだ。
「きみの、名前は?」
「乙姫。皆城乙姫だよ、一騎……――きゃっ!」
乙姫の穏やかな声に突然の轟音が被さる。頭上でバリバリと何かが裂ける音と、怒号が飛び交っているのがくぐもって聞こえてきた。
「な、なにが……」
「クラーケンだ。海域に入っちゃったのね」
バランスを崩した乙姫を受け止めた拍子に、彼女の胸元が垣間見える。光る青い珠。一騎の持つそれと同じ輝きが、揺れた。
「それ、もしかして」
「一騎が持ってるのと一緒だよ」
乙姫は素早く身体を起こし、腕に何か武器のようなものを装着していく。
「皆城家に伝わるお守りなの。これを異性に渡すっていうのは、結婚してくださいっていうのと同じ意味なんだ」
ぱちりと肩目を閉じた乙姫に、恥ずかしさと驚きと、一つの想いが固まった。
よく父に言われた。お前は良くも悪くも、受け入れることに長けていると。
「乙姫、この枷外せるか」
「え?」
「俺も行く」
望まぬ結婚をするくらいなら、ここで彼のことを知ろう。
その上で、どうするか考えればいい。
甲板の上はひどいものだった。
散乱する木片や食料と思しき樽と箱。かろうじて帆は折り畳まれているものの、尋常ではない揺れに空を仰ぐなんて数秒も保たない。
「な、んだ、あれ……!?」
巨大なイカ、いや、タコだろうか。てらてらと黒光りする触手のような物が船の淵を掴み、離すまいとしがみついているように見えた。
「クラーケン。海の化物さ、総士のお嫁さん」
波しぶきの轟音の合間を縫って、妙に気障な声が一騎の問いに答えた。
声の方には、茶髪をターバンで纏めた美丈夫がロープに捕まって長い銛を手にしている。
「ま、あれでも小さい方だけどね」
伸びてくる触手をいなしながら、男は乙姫の元に降り立ち二人を庇うように前に出る。総士と同じくらいか、もう少し背が高いかもしれない。
海の男というと、昔は母に連れられて船乗りだったという父やその親友の屈強な体格を想像していたのだが、この船の船員は見渡す限り若くて綺麗な人ばかりだ。。
「甲洋、総士は?」
「たぶんあっち――総士!」
海軍の船の半分ほどの大きさしかないため、一通り見渡してすぐさま声を張り上げれば端から端まで届くのはそう難しいことじゃないようで。
甲洋の呼びかけに顔をこちらに向けた総士が、驚きに目を見張る。
「一騎!?何故ここにいるっ」
揺れ動く船内でも危なげなく走ってきた総士が、信じられないとばかりに怒鳴りつける。
「こんな状況で、部屋でじっとしてられるわけないだろ」
「だからと言って……!ああもうっ、しかたがない」
腰から鞘を抜き取り、一騎に手渡す。重すぎず、短すぎずの長さのそれはよく手入れされているのか磨きあげられた刀身が美しく光った。
彼が今手にしている長剣の代わり、おそらく護身用なのだろう。
いいのか、と視線で問えば苦々しく顔をしかめた。
「ただし戦うな。素人がかなう化物じゃない。万が一のために渡すだけだ」
「これで、お前のこと刺すかもしれない」
「お前はそんなことをしない」
自信満々に断言されて、一騎の方が言葉に詰まる。
確かにそんなつもりは毛頭ないのだけれど。
「いいか、僕の側を離れるな。甲洋、乙姫のことを頼む」
「了解」
ぐわり、と船体が大きく揺れる。慣れない不規則な波の振動に足を取られそうになりながら、腕を掴んでいてくれる総士の後を必死に追いかけた。
ある程度見晴らしのある甲板の上に辿り着くと、剣を鞘におさめ転がり落ちていた弓らしき道具を構えた。
「あいつの弱点は、目だ。小さいがな」
「って、小さすぎだろ……!」
正直、肉眼ではまったく認識できない。苔と突起物に覆われた肌がぬるぬると蠢き、おそらくその中のどれかが目に当たる。
ひゅ、と隣で総士が小さく息を吸った。彼の纏う空気が、一瞬にして張り詰めたものへと変わる。弦にかけた鋭利な刃先。引き絞った十字の弓と、細まる瞳が確実に化物を仕留めるべく爆音の中で静かに狙いを定めた。
一騎が目を奪われている数秒の後、荒れ狂う海原に化物の絶叫が響いた。
総士が放った矢は違うことなく化物の目を射抜いたようだ。怯んだ隙に、船員達が触手を切り落とし船の主導権を取り返していく。
「すごい……」
思わず呟いて、風に髪を靡かせる彼を見つめた。不安定な足場をものともしない一撃は、一騎が知る誰よりも腕が立つことを意味している。
「弱点は他にも、赤い突起物が身体の至るところにあるらしいが、それこそ肉眼で判別するのは難しい」
クラーケンの姿は海の中に消え、その姿は無惨にも切り落とされた足のみが残っていた。
おそらく、それが終わりだと誰もが思っていた。
「そう――えっ?」
あまりにも自然に呼び掛けようとして、しかし次の瞬間には何故か青空と船が反転して目の前に広がった。軋む体と圧迫された肺に、気管が詰まる。
「一騎ぃ――!!」
総士の叫びが頭上から響き、浮遊感が収まった。
海からのそりと化物が顔を出し、ひ、と悲鳴をあげそうになる。胴体にはクラーケンの触手が巻きついていて、服に吸い付く吸盤がとても気持ち悪い。
せっかく乙姫が母親の服だと貸してくれたのに、このままでは破けてしまう。
「一騎ッ無事か!?」
船の先端、クラーケンに一番近い場所から、総士がものすごい形相で一騎の無事を確認してくるのに頷く。波飛沫の音がひどく、自分が声を張り上げたところで届きそうにない。
目を潰した報復なのか、触手が暴れまわり再度船へと手を伸ばした。本来ならさっさとこの海域から離脱するべきなのだろうに、一騎が捕まっているから助けようとしてくれている。矢を番える光景を目の端で捉えるものの、触手に阻まれこちらまで届く様子はない。
宙を振り回されながら、どうにか打開策は無いかと身を捩る。
一騎の手にあるのは、落とさずにいた総士の短剣一本。何メートルも離れた場所から投擲するには、リスクが高すぎる。ならば。
剣を抜き、申し訳ないが鞘は海へと投げ捨てる。両手でしっかりと柄を掴んで、その時を待った。
「くそ……!」
揺れる視界で、総士が矢を番えクラーケンの隙を狙っている。暴れ回る巨体はそれだけで暴風雨の要のようだ。
自分を捕らえている触手の先端に、総士が言う通り赤い突起物が姿を見せていた。一騎にしてみれば、こちらの方が『らしい』弱点だ。ひたすら赤い突起が近くまで来るのを待ち、滑り落としそうになる剣の柄を何度も握り直す。
そして手が届く位置にそれが動いた一瞬を見計らい、剣を持ちうる全力で振り下ろした。
「うわっ……!」
巨大な大木を無理やり引きちぎったような呻き声が空を劈くように上がり、触手が苦しそうに蠢く。縦横無尽に振り回され、さすがに己の死を覚悟した一騎に、不思議とはっきりと聞こえる声があった。
「一騎――――!!」
総士の声だ。こちらに飛び移ろうとしているのか、淵に足をかけてずっと一騎を目で追っている。と、風を切る音と共にずぐん、という鼓動がクラーケンから聞こえてきた。心臓の音のような、まるで断末魔の悲鳴のような、不穏に満ちた音。
突然の事態にももがいていた手を止める。触手の力が弱まったかと思うと、海の中へと放り投げられた。
「わっ……ぁああ!!」
なんとも色気のない叫び声が迸るが、気にする余裕もない。ごぷ、と水音に包まれ、息ができなくなった。口を開けば水が入ってくる。水流が激しすぎて目を開けることもままならない。
(たすけて……っ)
苦しい。泳ぐのは得意なはずだが手足がまったく動かない。経験したことのない水圧に手も足も出ず、次第に意識が朦朧としてきた。
(やだっ……父さん、母さん……!)
こんなところで、死にたくない。
(――……総士っ)
幼い頃の可愛らしい彼ではなく、大人になった彼に手を伸ばす。指先が触れた衣の感触と、ぐっと引き寄せる腕が一騎の身体をどこかへ引き寄せた。
彼の腕だ。怖くて、強くて、でも優しくて。ずっとずっと想い続けたひとが、そこにいる。
手を背中に回したところで一騎の意識は闇の底へと沈んだ。
なんだかとても暖かい。昔、ザインに包まって寝ていたのに似ている。
陽だまりに乾したシーツと、ゆっくりと刻まれる心臓の音。導かれるように目を開いた。
「ん……」
目と鼻の先に、ふわふわの毛先と木の香り。ザインの毛にしては茶色味がかっていて、いやそもそもザインはもういないのだと考え直す。懐かしい記憶が被って見えているだけ。
よく見ると、それは誰かの髪の毛のようだ。触ったら気持ち良いだろうかと手を伸ばして、指を絡めてみる。思ったよりすべすべはしていなかったけれど、光沢があって手触りは良い。手入れすればもっと綺麗になるだろうに。
ここ、どこだろうと身体を起こそうとして、何かの上に座っているのだと気付く。しかも人の腕らしきものにがっちりと抱かれて、もたれ掛かっているような状態で。
目の焦点がようやく全体に行き渡って、ぼやけるくらい近くに彼の顔が在った。
「……ッ!」
悲鳴をあげずに済んだのは、彼がゆるりゆるりと背を撫でていてくれたからだろうか。あまりにも優しい手つきが一騎の心を解し、無意識のうちに口から滑り出ていたのは彼の名前だった。
「総士……?」
一騎の呼び掛けに、総士は閉じていた瞼を持ち上げた。その瞳いっぱいに一騎の顔を映し出す。
双眸が穏やかに細められ、骨張った指先が一騎の頬を這うと、触れたところが熱を持った。
「良かった……目を覚まさないんじゃないかと思った」
「海に……あの、化物は?」
「もう海域からは離脱した。お前が隙を作ってくれたおかげだ」
「俺、必死で……海に落ちたとこまでは覚えてるんだけど」
「ああ……お前がクラーケンに捕まった時は肝が冷えた」
無事で良かった、と項に顔を寄せて身体がさらに密着した。深い安堵に満たされた彼の吐息に心配をかけたのだと察するも、やはり慣れない接触に身体は強張る。
そもそも、この体勢はいったい。
「あ、あの……」
「ん?」
首元をくすぐる毛先に身体を離そうと試みるが、瞬き一つのうちに顎を持ち上げられ唇に彼のものが触れる。撫でられた首筋に背がピンと伸びて、胸を彼に押し付けてしまう。先端が服に擦れ、感じたことない痺れに目を閉じた。
「ふっあ……や、待って……」
彼の手が胸に触れ、明らかな快感に変わりそうなところで、突然真横から明るい声が割り込んだ。
『おーい総士、嫁さん無事か?』
「……剣司、絞めるぞ」
『タイミング最悪だな!?悪い、せめて包帯の替えくらいさせてくれよ』
「持ってこい、僕がやる」
『その意気は買うけど、まず巻けるようになってからな』
息の合ったテンポの会話は、どうやら管のような筒越しに行われているようで。船の中で効率的に連絡を取り合う手段なのだろう。ラッパの先端にも似た筒が五つ天井から壁伝いにぶら下がって、うち四つは蓋が閉ざされている。
まったく、と呆れた口調ではあるものの、声の主を信頼しているのは感じられた。
抱き直された身体が宙に浮き、ふわりと肩に羽織がかけられる。そこで、初めて自分の上半身が裸であり、腰のあたり一帯が包帯で覆われていることに気付いた。
「なっ……なっ……」
「あまり動くと身体に響くぞ。クラーケンに締め付けられたところが赤く腫れていたから、念のために剣司に治療してもらったんだ」
「そ……うなんですか」
身体に響くとわかっていながら襲おうとしていた男の台詞とは思えない。
「あの……あなたは」
「総士だ。さっきも呼んでくれていただろう」
「……総士は、その、十年前の」
ぴくりと総士の眉が跳ね、ぎゅっと寄った。端正なぶん、怒ったような顔が少し怖い。
「これのことなら」
胸元のペンダントを懐かしむように指先で触れ、総士は微笑んだ。
「確かに僕が渡したものだ」
「それじゃ、乙姫言ってた結婚がどうって」
「ああ。渡した当時は知らなかったが、今は本気だ」
軽く肩を押される。総士の膝の上からシーツの海に身体が埋まり、顔の両側についた腕が視界を覆った。
「でも俺、結婚する人が」
「本気で、顔も知らない男と結婚したいのか」
今度は本当に怒りを顕にして、総士が喉元に噛み付くように歯を立てる。痛い、反射的に声をあげても、やめてくれそうになかった。
かちゃん、と足首に嵌められた鎖が唾液のぴちゃぴちゃと響く音に混ざって、逃げ場を求めた手が止まる。怖い、と思うのに、甘い震えのせいか無意識に彼の手に縋っていた。
「許さない。お前は、僕のものだ」
「あっ……アッ」
「十年間、お前が欲しくてたまらなかった。やっと手に入れたんだ」
「あ、んぅ」
「逃すものか……っ!」
どうしてそんなに苦しそうなのか、と思う。名前も知らないまま事に及び、初めてを奪われたのに、一騎の中にあるのは彼を案ずる気持ちだった。
今だって無理矢理に近い形で自由を妨げられているのに、彼に対する忌避や嫌悪はない。鎖骨の下に何度も吸い付いてくる様は、なんとなく赤ん坊にすら思えてくる。
だが赤ん坊相手に濡れるわけもない。やめてくれそうにないなぁ、と思っているととてつもなく痛そうな殴音と共に刺激が止まった。
「怪我人を襲うなんて、君がそこまで節操なしだとは思わなかったよ」
「甲洋……」
恨めしげに唸った総士が見上げた先、仁王立ちで拳を振り上げたままの男の人が、総士を見下ろしている。その後ろでは、呆れ過ぎて笑いを噛み殺しているらしい人が手に箱を持って一騎と総士の間に割って入った。
「ほら、包帯変えるから」
「だから僕がやると」
「はいはい、総士はちょっと離れて待ってようね?」
後頭部を押さえた総士を一騎の上から退けると、代わりに奥にいた男性が一騎の身体をゆっくりと起こしてくれた。胸元が見えないようにきちんと腕を通した上着の前を留めて腹を捲り、包帯をするすると解いていく。
ものの数分で替え終わると、ほい、と暖かなカップを手渡された。
木製でできたそれの中身を一口含むと、仄かな苦味と滑らかなミルクのコクとが胃に染み渡る。
「コーヒー……」
「うまいだろ?うち、食事に関しては拘ってるから結構良い豆使ってるんだ。空きっ腹だからミルクたっぷりの珈琲牛乳ってやつだけどな」
「美味しい。初めて飲んだよ、こんな香りの珈琲」
「口に合ったなら良かった。総士のお嫁さんに美味しいって言ってもらえたなら、俺の腕も捨てたもんじゃないな」
先程総士に一発落とした彼が、柔和な笑みでベッドの反対側に腰掛ける。甲板でも乙姫と話をしていた。たしか名前は。
「甲洋、だったっけ」
「あ、覚えててくれてありがとう」
「なんだお前、抜け駆けすんなよな。俺は剣司、船医やってんだ」
「まだ見習いだがな」
二人を押し退けて割って入った総士が、一騎の包帯の具合を確かめてベッドサイドの椅子に座ると足を組む。尊大な態度は彼によく似合っていて、スーツを着たら随分と様になるような気がした。この部屋にいる男性三人は、誰もそれなりのイケメンだ。島の女性にさぞモテることだろう。
「いいだろ、お前の嫁さん的には立派な船医ってことで」
「俺はコック兼総士の右腕だから。総士のことで困ったらなんでも相談してくれよ?」
「どういう意味だ」
なんでも、という言葉に、ここに来てから気になっていることが思い浮かんだ。聞こうと思っていたものの、次から次へと事が起こってそれどころではなかったのだ。
「あの」
一騎が自発的に声を出したことで、一瞬にして三人の注目が集まる。三対の瞳にたじろぐも、意を決して口を開いた。
「その『総士のお嫁さん』って、なんだ?」
「え、言葉通りだけど」
「……まさか総士、お前」
何かを察したらしい甲洋が眦を釣り上げて、総士を睨みつけた。
目を閉じて澄ました顔が、どうやら甲洋の想像を肯定しているようだと、次いで発された呆れの溜息で一騎もなんとなく理解した。
「何も告げずにまず抱くとか、獣かお前は……」
「すまないとは思っている」
だから一騎が最初に目を覚ました時、乙姫を呼ぼうと言ったのか。周りが見えているようで暴走すると止まらないタイプなのか、と少し意外な一面だと思った。
「つまり、俺たちにとっては君が『総士が長年思い続けてきてやっと手に入れたお嫁さん』っていう認識なんだ」
「なんとなくわかった」
「嫌じゃないのか?」
「……本当は、ちょっと怖いけど」
総士がぐっと詰まり、バツの悪そうな顔をした。
「ここが海賊船で、俺は攫われたってことなんだろ?」
「ま、そういうことになるかな」
「帰してって言ったら、帰してくれるのか?」
「それはうちの隊長次第かなぁ」
ちらりと二人が総士に視線を送るが、肯定しそうな雰囲気ではない。それじゃあ、と一騎は微かに笑った。
「俺も、結婚は嫌だった。総士にもう一度会えるのを待ってた。だから……ここで、総士のことを知ってから考えるよ」
「……いいのか」
不安そうに聞いてくる総士が、やはり子供みたいでかわいいなぁとくすぐったい気持ちになる。すでに絆されている時点で、手遅れなのだ。
「嫌になったら、泳いででも、こんな鎖引き千切ってでも、逃げるから」
「……」
絶句した甲洋と剣司を他所に、総士が感極まった様子で一騎を掻き抱いた。
ありがとう、と礼を言われるとそれにはどうも違和感が勝って、でも一つだけ、と言うと身体を離して、なんだと視線だけで問われた。
「総士のお嫁さん、は嫌だ。ちゃんと一騎って呼んでくれ」
真っ当な要求に、今度は総士が絶句して甲洋と剣司の爆笑の嵐に部屋は包まれた。