6.トリクル・トリクル 紫陽花/宝石/歩く



竜宮島の子どもたちは、西坂と東坂で事あるごとに張り合っていた。
どんな便利な施設がどちらに多いか。学校までの道に立っている電信柱の数。美味しいレストランがある方が勝ち、いや、学校から海までの距離が近い方が勝ち。そんな、何を基準としているのかわからない対戦は結局いずれにも軍配を上げることなく、年を重ねるにつれ忘れ去られていくものである。
一騎や総士たちの年代がそうだったのか、それとも今も変わらず、張り合いが小学校の中では繰り広げられているのか。「何も知らなかった」幼少時代を過ごした一騎たちと、メモリージングの開放によってある程度は世界情勢の知識を持って育った後輩たちとでは、娯楽の考え方も異なるだろう。だが、もし今も変わらず対決が続いているのなら、それはそれで平和の証だ。
梅雨の湿気を全身に浴び、一騎はそんなことを考えながら東坂の道をのんびりと移動していた。
出前用に溝口が購入したカブを走らせて向かうのは、東坂にあるアルヴィスの関連施設だ。西坂にある喫茶楽園から全速力で走らせても十五分はかかるその場所は、ファフナーの武器を製造する軍事工場になる。入り口はそうとわからない、少しばかり錆びれた一軒家の様相ではあるが、中には入ればいくつもの階段と認証キーを必要とする扉が目白押しだ。一騎も一度だけ入室したことがあるが、もれなく迷子になりかけたので出前の配達は入り口までにしてもらっていた。
きっちりラップをかけた出前用の食器とトレイを、カブの背面に取り付けた岡持ちから取り出す。玄関先のチャイムは、総士の家の呼び鈴と同じ音色だ。幼い頃によく聞いていたそれは、フェストゥムの攻撃によって無くなってしまっていた。
インターホンで喫茶楽園の出前であることを告げると、程なくして整備員兼研究員の人が笑顔で扉を開けた。今日もありがとうね、と礼を言われると悪い気はしない。
「もう帰るのかい?」
「はい」
「もし時間があるなら、来た道を戻る途中に紫陽花坂があるから行ってみると良い」
「紫陽花坂?」
「東坂の名物だぞ。梅雨の時期には、道路脇にたくさんの紫陽花が咲くんだ」
東坂の自慢らしいとは知らなかった。幼い頃は紫陽花なんて地味だと言って記憶にも残らなかったんだろう。
「ありがとうございます、行ってみます」
「おう、ぜひそうしてくれ」
お仕事頑張ってくださいと頭を下げ、一騎はカブにのって来た道を引き換えす。空に浮かぶ雲は厚く、雨が降るか降らないかの微妙なところだ。紫陽花を見て帰るなら早い方が良いだろうと、急いで走らせた。
帰る途中、確かに紫陽花坂と書かれた看板が左折を促す交差点に差し掛かり、一騎は矢印の方向に従う。坂は予想より近くに在ったが、細い路地になっているようでカブでは通れなさそうだ。手摺を真ん中に、階段とかろうじて自転車を滑らせることができるスロープがあるが、しかたがないのでカブを路肩に停めて階段を上っていく。
「……」
確かに、紫陽花坂と名が付くだけあり、階段の両脇をこれでもかと色とりどりの紫陽花が咲き誇っていた。それも、坂の上から濃い紫、半ばで薄めの紫や青が混ざり、下に行くにつれてピンク色や緑色と、見事なグラデーションになっている。
「すごい」
口から出たのは純粋な感激の言葉。一騎は紫陽花に目を奪われながら、一歩ずつ階段を上った。医者から無理な運動はやめろと口酸っぱく忠告されているが、さすがに階段を上るくらいは造作もない。少々息が上がる程度で登り切った一騎は、坂の上から見下ろす景色に目を細めた。
雨粒がところどころ花の上に転がり、太陽の光を浴びることで輝いている。宝石のようだった。雫が、幾粒もの宝石のように瞬いて、紫陽花の道に眩さを咥えている。カブに乗っていては気付けなかった新鮮な景色を、手すりに腰を下ろして眺めた。
「一騎?」
ふと、後ろから声をかけてきたのは何故かこんな場所にいる総士だった。
「どうしたんだ、こんなところで」
「総士こそ」
「僕はただの息抜きに来ただけなんだが……おまえはこの場所を知っていたのか?」
「さっき出前行ったとこの人に教えてもらったんだ。総士こそ、意外だけど」
花好きだったっけ、と問うと、総士は意外とは何だと眼鏡のブリッジを直して咳ばらいを一つした。
「……蔵前が好んでいた場所だ」
「……そっか」
それなら頷けた。彼女のことは詳しく知らないけれど、確かに花が似合う女性だと一騎も思った。
そろそろ雨が降り出すだろうか。海の湿気を含んだ生暖かい風が前髪を抜け、総士の長い髪を重たく揺らす。
「どうせなら、一緒に降りないか? 下にカブ停めてあるんだ」
「それは、僕に歩いてもう一度上れと」
「いいだろ、運動不足っぽいし」
「そんなことはない」
手すりから降りて、ゆっくりと階段を下っていく。歩く速度は、今までの一騎の速度に比べればあまりにも遅い。総士は自然と隣に並び、一騎の手を取って「紫陽花に気をとられて転ばないようにな」と微笑んだ。
久しぶりに間近で見た総士の瞳は、紫陽花に輝く宝石のように綺麗な色の中に、一騎を映していた。