21.クラン・ドゥイユ 檸檬/跳ねる/視線
「ファーストキスがレモンの味って本当ですか!?」
訴えの声がカウンターの向こうから聞こえて、一騎はレモンティー用のレモンを切っていた手を止めた。
パチリと瞬いて、声の主ーー西尾里奈に視線を送る。その向かいには真矢とカノンが座っていて、後輩の勢いに圧されたのか二人も呆気にとられていた。里奈はちょうど壁の影になって一騎から表情を伺うことはできないが、声の感じからするに持ち前の快活さで先輩二人に迫っているのだろう。
「れ、レモン?」
上擦った声で応じるカノンだが、残念なことに後輩の問いには答えられていない。
「どうしたの、突然」
冷静な真矢が里奈に問い返す。さすが遠見は話上手だなぁと一騎は感心した。
「アーカイブのドラマにあったんですよ、恋愛もので、キスした時にレモンの味がしたって!」
「酸っぱいということだろうか」
「さぁ……?」
「ええ、二人ともキスとかしたことないんですかぁ?」
里奈が不満そうに言う。カノンの頬が瞬間的に赤くなり、真矢も珍しく狼狽えているようだった。
一騎は、女の子の会話は賑やかだなぁとほのぼのとした気分でレモンを切るのを再開する。他に人はいないので、多少大声を出しても問題はなさそうだ。一騎には聞こえてしまっているが。
「ないよぉ」
「わ、私も経験はない」
「えぇー……」
壁の向こうから里奈が顔を出した。その視線はしっかりと一騎を捉え、何故かとても不可解そうな表情を浮かべている。じとり、という効果音さえ聞こえてきそうだ。
「それじゃあ」
今度は一騎には聞こえない声量でコソコソと会話が始まった。真矢とカノンの声も自然と小さくなって、一騎はやれやれと肩を下ろす。蛇睨まれたような気分だった。
ここに暉がいたら、先輩を困らせるなとでも言って里奈を諌めているだろうか。今日は検査の日で、生憎彼はアルヴィスに行っている。
(キスの味、か)
考えたことはないし、経験もないので味なんて知る由もないが、今、一騎の手で薄く切られていくレモンと同じ味がするんだろうかと想像する。
レモンを押さえていた方の指で唇をなぞり、舐めてみたが、とても酸っぱかった。
カラン、と扉が開く音がして一騎は顔を上げた。表には閉店中の看板が出ていたはずだが、ピンと背筋を張って現れた姿に目元を和ませる。
「総士、いらっしゃい」
視力を取り戻した両目は、色彩豊かに総士の存在を一騎に認識させてくれた。
総士は多少緊張した面持ちで中に入り、真矢たちの存在に気付くと足を止めて一騎へ伺うように視線をさまよわせた。
「邪魔でなければ、良いか?」
「邪魔なもんか。カウンター座れよ」
こっち、と一騎がレモンを切る手を止めてカウンターの真ん中の席を指した。ボックス席にいる三人がじっと総士を目で追っているものの、向けられた本人は澄ました顔で堂々とした足取りだ。
カウンター席に腰掛けた総士が、「その檸檬はどうするんだ」と一騎に問う。灰紫色の瞳が、一騎を映した。綺麗な、きらきらとした光みたいなものが舞って、心臓が跳ねる。
「えっと、レモンティー用に、そのままの分と、蜂蜜に漬ける分とに、わけるんだ」
「ほう。随分と凝っているな」
感心したのか、総士の声は楽しそうだ。一騎から視線が逸れ、レモンに向けられる。ちょっと残念に思いつつも、ほっと安堵する。感情の波が忙しい。最近は、総士の存在を感じる度に落ち着かなくなるのだ。
来主操との戦いから一ヶ月は検査と療養とでアルヴィス内で過ごし、ようやく体力が回復して第二種任務に復帰し、外の生活に戻ってこれたのは二ヶ月は経った後。総士も様々な、一騎では到底理解できない複雑な検査と検証を終えて、無事に皆城総士として暮らせている。こうして喫茶楽園を訪れて、一緒にご飯を食べている。そのことが嬉しくて、心があたたかくて、自然と笑みを浮かべることが多くなって。
「一騎?」
どうかしたのかと問いかける視線に、一騎は首を横に振って答えた。
切り終えたレモンの半分をパックに入れて、蜂蜜入りの瓶の蓋を開ける。残りのレモンを瓶に詰めていきながら、ふと思い立って二、三切れを水に浮かべた。マドラーでかき混ぜれば、即席のレモン水だ。総士に手渡すと、仄かな笑みと共に礼を言われて、一騎の心はまた跳ねた。
総士がグラスに口をつける。水が通る度に喉が鳴って、半分ほど飲み干し「檸檬も悪くないな。すっきりていて飲みやすい」とグラスを置いた。
感想を上の空で聞き流している一騎の視線は、水で潤いを帯びた総士の唇に注がれていた。今、総士にキスをしたら、レモンの味がするんだろうかと一騎は想像する。でも水だし、味はしないかもしれない。香りとか、でもそれならレモンの香りより、総士の香りの方が。
「一騎?」
二度目の問いかけ。今度は訝しげに、どこか体調でも悪いのかと心配するような声色が、一騎の意識を引っ張りあげる。
一騎が好きな、総士の綺麗な灰紫色の瞳。一騎だけに注がれる、存在を認識するための視線。
一体何を、と自分の思考に混乱した。
総士とキスをしたことなんてないし、そんなこと考えたことなんてなかった。なのに自然と総士が浮かんで、どんな味だろうと想像していて。
「だ、だいじょうぶ」
びくりと身体を震わせた一騎は真っ赤になって、全速力で走ったのよりもずっと早く脈打つ心臓を抑えるのに必死になった。
「具合が悪いのか?ならすぐに医務室に」
「大丈夫!どこも悪くないから!」
「しかし、顔が赤いぞ。熱があったらどうする」
大丈夫だと言っているのに、総士は引く様子がない。わざわざ立ち上がって、熱を測ろうと手を伸ばしてくる。レモンの残り香がふわりと鼻孔を擽り、触れそうになった指先に動揺が最高値に達しそうになったところで総士が手を止めた。
「僕には言えないことか」
「うっ……」
気を落とした様子に、一騎は言葉に詰まる。だが理由を知られるのは恥ずかしい。
どうすればいいだろうと狼狽えていたら、総士の背後で二人の様子を眺めていたのであろう、真矢と目が合った。助けて欲しいと言いたいわけではなかったが、結果的に縋るような眼差しになってしまったのだろう。
真矢は深く、深く溜息をついて、「皆城くん、一騎くんに何かあったら私が医務室に強制連行するから」と、フォローなのか追い打ちなのか判断が付かない助け舟を出してくれた。