1.プリンシピオ 走る/明け方/神様
――いのちの生まれる音がした。
一騎は閉じていた瞳に世界を映す。明け方の空。滲む太陽の光。夜明けの境界線。ファフナーを介した視界に映る世界が、一騎の脳を夢から現実へと戻す。
最近は、常にザインの中で眠っていた。パイロットの安全が、ファフナーの中であれば守られるからだ。人間とフェストゥムの両方に命を狙われ、同化の危険性が高いファフナーに乗る方が身の安全が保障されているなど、とんだ皮肉だった。
だが今は耳に届いた音が気になって、ファフナーを自ら降りる。どうやら総士も気付いたようで、ニヒトのハッチが開きパイロットスーツに包まれた姿が外に出てきていた。
ファフナーに乗って、常時聴覚が鋭くなるわけではない。コード形成率は可能な限り下げているし、基本的には眠りについているのだから意識しなければ外界の音は遮断される。今は状況が状況なだけに、少しの物音でも反応してしまうのだ。
危険だから外に出るなと注意されるかと思ったが、総士は何も言わずに一騎が傍に来るのを待った。顔を見合わせて、一般人が寝泊まりする区画にある医療テントへ向かう。中ではなにやら物々しい音がしつつも、不穏な空気は漂っていなかったのでひとまず安心した。
「どうした、おまえら?」
医療テントの隣から、溝口が顔を出す。無精髭と眠たげな目を見るに、夜通しの見回りにあたっていたのだろう。おはようございます、と礼儀正しい子どもたちの挨拶を受け、よう、と片手を上げた。
「あの、このテントの中って」
視線でテントの方を伺う一騎に、溝口は後ろ頭をかく。
「あー、さっき結構大きな声出してたもんな。起こしちまったか? 」
「いえ、ただ少し気になったので」
テントの中は慌ただしく、入るのはさすがに躊躇われた。言葉を濁した総士に、溝口はからりと笑ってみせる。
ひとつ何か明るい話題があれば、それは周囲に伝播しこの辛い行路での支えになる。捉え方によっては足枷にもなるが、この子どもたちは決してそのように認識することはないと知っている。
「無事に生まれたってよ。女の子だそうだ」
その言葉に、一騎はほっと肩の力を抜いた。総士も微笑み、握り締めていた拳を解いて一騎の背に添える。
「一応、立ち入り禁止になってるから、入らない方がいいな」
「わかりました。戻ろう」
新たな命の誕生。この辛く厳しい旅路の中で、僅かでも生きる希望になるといい。願う一騎と総士を、溝口が「ほら、まだ移動まで二時間はあるんだから寝てろ」と促した。
「良かったな」
「ああ」
踵を返しかけた一騎は、最後にテントの方を振り返る。そこに、ちょうど幕の中から男性がふらりと姿を現した。
男性は一騎を目にして、ひどく驚いたように戦慄き近付いた。
「も、もしかして竜宮島の……!」
咄嗟に、総士が一騎の前に出る。一騎の表情にも緊張が走り、溝口は二人を庇うように男性との間に立った。
「どうかしたか?」
溝口が問いかけるのに、男性は目を見開くと涙を流して膝をついた。一騎に、竜宮島のパイロットに、まるで祈るように両手を握って頭を垂れる。
ぎょっとして後ずさったが、男性は気にすることなく途切れ途切れに言葉を発した。
「ありがとう、ありがとう」
すすり泣きに混じる涙声で、感謝の言葉を告げる。何度も額を地面に擦り付けるようにして、尊い存在を崇めるように。
「妻が、この旅の中ではもう無理だと思っていたのに、無事に子を……生まれた……ありがとう」
「……」
「もう、本当に諦めなくてはいけないかと覚悟していたんだ……でも、元気で、妻も無事で、なんと、なんと礼を言えばいいのか」
顔を覆う男性から敵意は感じられない。感極まった様子は興奮しているが、害を為すようなものではなさそうだと、溝口が腕を下した。
「無事に生まれて、良かったです」
一騎の声は穏やかで、滲むのは喜びと安堵。総士は微笑む一騎の横顔を一瞥して、今度こそと背中を押す。
「一騎、行くぞ」
「ああ」
総士の腕に抱えられるようにして、一騎はその場を後にした。山岳の稜線を太陽が照らし、まるで光の筋のように美しく世界に朝を告げる。
「神よ……感謝します……」
背後で絞り出すように囁いた男性の声が、やけに大きく一騎の中で響いた。
総士と別れて再びザインに乗り込むが、接続はせずに狭いコクピットの天井を一騎は仰いだ。こんなに長くザインの中にいるのは初めてだ。まさに一心同体の機体というに相応しい。
「……神様、か」
静寂に包まれた胎内で、膝を抱える。最後に男性が呟いた言葉。その響きに、淡く笑みを浮かべる。
まだファフナーに乗り始めたばかり頃、総士のことを神様みたいに思っていた。戦いの中で、冗談交じりにそう己を喩えた総士に是を応えたが、一騎にしてみればそうとしか言いようがなかった。
一騎にとっての絶対的な存在で、彼は己の在り方の導でもあった。今でも、そう思っているところはある。できることなら、総士と同じ道を往きたい。
でも、昔とは少し違う。手を伸ばせば握り返せるくらい近くに、隣にいてくれるから、その手を離さないでいたい。離れたとしても、全速力で走って追いかけて、掴んで、何度だって繋ぎ直す。
総士がそうしてくれるように。
「総士」
一騎の神様の名前を紡ぐ。祈るように、忘れぬように、刻むように。
無機質で無慈悲な警報が鳴り響いた。
ニーベルングの指輪に、指を通す。起動するコクピットはいちはやく敵の個体を捕捉し、マークザインと一騎は一つになった。
『一騎、先に行け』
「ああ」
総士の指示に従い、走り出すために脚部に力を込める。飛べば敵の個体に接触する。戦闘が始まり、敵を倒しきるまで終わらない。彼らを、新しい命を守らなければ。
――希望のために命を使い切ったとしても、きっと一騎のことは神様が迎えに来てくれる。
今日も総士の隣でファフナーに乗り続けられる。まだ、生きることを諦めないでいられる。
戦いの先には希望が在ることを信じて、一騎は、マークザインは、明け方の空に一筋の軌跡を描いた。