19.リーヴァ 白波/星/手首
甲板は、長閑な星空の下に在った。
美しく彩られた船内に流れる優雅な音色と歓談の声は、海の上とは思えない静かな夜に仄かな賑わいを齎している。一騎は、自らに誂えられた深い翠のドレスをその身に纏い、喧騒から離れたテラスに腰を落ち着けていた。
眼下では、船の軌跡を示す白い線が水面に波打ち、そして消えていく。進んできた道の長さの分、例えば飛行機雲のように空に白線を描くことができたら、一騎は泳いででも帰りたい場所があった。
こんなドレスではなく身軽で動きやすい服装で起床し、父のために朝ご飯を作って、丘の上の学校に通う。友達と授業を受け、放課後は目一杯遊び、家に帰って宿題をして、夕飯を作る。そんな当たり前の日常がとてつもなく恋しい。
だが、一騎が今この船に乗っているのにはちゃんとした理由がある。父のため、そして故郷で待つ幼馴染たちのためにも。
一騎が生まれ育った島は、数十年前から外界との交流を断絶している閉鎖的な土地だった。そのことを知ったのはつい最近だ。外界の船が突然島を訪れたことで明るみになり、幼馴染たちのうちの一人の父親が、島の真実を教えた。本来ならば、もっとおとなになってから知る筈だったこと。島のおとなたちは、せめて一騎たちが子どもの間だけでも平和な時間を過ごしてほしいと伏せていたことだった。
その理由はこの上なく簡単だ。おとなになるということは、島のために命を捧げることと同義だった。
島が外界から隠れ暮らしていたのは、島の人間が持つ特殊な遺伝子と技術が故であった。かつて『ファフナー』と呼ばれる兵器が人類の存亡をかけて宇宙からの侵略者と戦っていた時代に、島の祖先は染色体を変異させ『ファフナー』に乗っていた。『ファフナー』の技術は未だ島に残っているが、染色体をどう変異させていたのかの丈夫は失われていた。しかし、一騎たちの遺伝子にはその兵器に乗るための情報がまだ宿っているとされ、既に古代兵器と化している『ファフナー』を起動させるための重要な手掛かりとされている。
そんなお伽噺のような話を聞かされていったい何が真実なのかと困惑していた一騎がさらに衝撃を受けたのは、一騎の祖先が世界を救ったファフナー乗りであり、その遺伝子こそが古代兵器を蘇らせる手がかりであると告げられたことだった。
なんの間違いだと突っぱねても、一騎を捕らえた外界の人間たちは一騎の身柄を要求し、代わりに島の事を見逃すとおとなたちに突き付けた。それは、一騎が外界の人間たちと共に行くという選択肢のみが許された、脅迫でしかなかった。
一騎は、外界の船に乗ることを決めた。幼馴染たちや父は最後まで反対してくれていたけれど、一騎一人の決断で島が無用な脅威から逃れられるのならばそれで良かった。どのみち一騎には、それしか選ぶことが許されていなかったように思えたから。
だが、いざ一人になると心細さが先立つのも事実だ。
誰一人見知った顔のいない船の上で、逃げるように自室に引き籠って食事だけはきっちり収めてはいるものの、毎夜繰り広げられる贅沢なパーティーに顔を出す気にはなれない。この場所の営みは、島の生活とはあまりにもかけ離れてた。
与えられた部屋のテラスは、不用心にも柵が一つついているだけだ。ここで一騎が海に落ちたらどうなるだろう。彼等に一泡吹かせてやることもできるが、結局この船は再び島に引き返して、他の子どもたちを要求するに違いない。『ファフナー』に乗るための遺伝子を持っているのは、一騎だけではないのだ。
自分に待ち受ける未知の恐怖に、一騎は身体を縮こませて父の名を囁いた。
「――見つけたよ、一騎」
軽やかでいてどこか甘い、耳朶を擽る声が一騎に呼び掛けた。
一騎は顔を上げると、隣の部屋のテラスに立つ人物に目を奪われる。柔らかな褐色の髪が星明かりを受けて仄かに色味を帯び、夜風に靡いて揺れる青年はまるでどこぞのお伽噺の貴族のようだ。服装はこの船に乗る外界の人間たちと同じであるのに、纏う空気は何故か懐かしさのようなものを感じさせた。
その人物は一騎に微笑みかけると、徐に柵に足をかけあっという間に一騎がいるテラスに飛び移ってしまった。
「全然部屋から出てきていないんだね。船の中を探し回ったのに、姿を見かけないから」
「あ、あなたは……?」
長い前髪の奥の相貌が一騎を見下ろす。吸い込まれるような、深淵を覗き込むような不思議な感覚だった。悠久の時を過ごした老人のような瞳は、毒のようにじわじわと一騎を侵食していく。
青年は一騎の手を取ると、するりと手首へ滑らせて緩やかに持ち上げた。脈打つそこへ唇を寄せ、反対側の手は腰へと回り一騎の身体を抱き締めた。
「迎えに来たよ。おまえがいる場所は此処じゃない」
「え……」
青年の瞳が、金色に染まる。
一騎は、直接脳に響く青年の声に目を見開き、仰け反った。
「あ……」
手首が熱い。景色が歪む。満天の星空が迫り来る錯覚と、力が抜け崩れ落ちる身体を抱き留める優しい腕の感覚に、一騎の意識は遠退く。
一騎は、この腕の持ち主の事を知っていた。身体が、魂が、まるで枷が外れたかのように一騎の記憶を再構築していく。白亜の機体、漆黒の機体、傍らに立つ理解者たちの存在を。
「甲洋」
衝動的に口にした音が是であると答えるように、一騎を包み込む腕が強さを増し、星空は暗闇へと一転した。
*設定:フェストゥムと戦っていた時代からさらに遠い未来、ファフナーが伝説となっている世界。