19.「椅子」「拳銃/ピストル」「平穏」 - 別バージョン
薄暗いCDCに佇む甲洋の手の中には、一丁の拳銃があった。
スタンバイ状態になった機器類と扉の上部で煌々と役割を果たしている非常灯以外に、光源はない。非戦闘時には施錠されているはずの部屋に甲洋の存在は異物であり、すぐにでも根付いたミールによって不審者と判断されるはずだった。しかし今、船の中にある竜宮島のミールの残滓が甲洋の存在を認め、ボレアリオスミールが生まれたての島を護っている。第三アルヴィス、改め海神島の新たなミールはまだ力が弱すぎて、ミールとして成長しなければ何もできない赤子に過ぎない。生まれたばかりで、自我の認識すらできていない状態なのだ。その赤子に、敵と交戦しろなど酷である。
それに、護られなければならないのは、フェストゥムからだけではなかった。
ミールは、人間からも狙われた。もちろん竜宮島の人間ではない。共に苦難を乗り越えたはずのシュリーナガルの人々、あるいは錯乱した元人類軍の兵士たちから、である。
甲洋はこの時、初めて人が人に殺される瞬間を見た。血飛沫をあげ、頭を撃ち抜かれた人間が事切れる様を見た。肉体を保ったまま命が途切れる瞬間を目の当たりにした。
撃ったのは死んだ人類軍兵士の仲間であったはずの人たちだった。過酷な旅を共に乗り越えて辿り着いた筈の新天地で、彼らは自らの手で仲間を殺した。本当に殺さなければならなかったのかという問いは、泥濁のような気持ち悪さと共に飲み込まざるを得なかった。彼らを糾弾するの簡単だったけれど、殺したくて殺したわけがないだろうと誰もがわかっていたから。ただ、そうやって手を下さなければならない状況が酷く苦しく悲しかった。
人間だから話し合って、というのは竜宮島の願いであり、人間と戦ってきたおとなたちの願いだった。それがいかに困難であるかを、目の当たりにした。きっと一騎たちはもっと多くの死を見てきたのだろう。
今、甲洋の手の中には拳銃がある。人を殺すことのできる武器、これを使えば人は簡単に死ぬ。
「こんなところで何をしているのかね?」
静けさに広がる固い声が、甲洋を咎めた。
振り向いて、甲洋は声の主に目元を和らげる。厳しい顔を向ける人は、だが甲洋を厭ってそうしているわけではない。彼の声に滲むぬくもりが、甲洋は好きだった。
「真壁のおじさんこそ、身体に触るよ」
甲洋は手に持っていた拳銃を、卓上に置く。ゴトリと鈍い鉄の音に、史彦は顔を顰めた。
「言ったはずだ。おまえたちに人間を撃てと命じることはない」
「うん。覚えてる」
第四次蒼穹作戦で人間と戦うと宣言した一騎を、そして甲洋たちパイロットを窘めた時の言葉だ。
史彦の言葉は、綺麗事だ。絶対に違えないという意志の宿った、綺麗事だった。けれど、だからこそ人間の心を取り戻しつつあった甲洋に響いた。史彦の願いを受け取った時、心に灯る火が在った。彼が、いや、おとなたちが、これほどまでに自分たちを愛し心配し、信頼してくれているのだと実感した。それを素直に受け取ることができようになった。
「撃とうと思ったわけじゃない。ただ、こんなところに隠していたから、何故かと思って」
彼の想いに違おうとしたわけじゃないけれど、今やこの島において絶対に欠けてはならない人物が、司令の椅子に拳銃を忍ばせているのは穏やかではない。それを知ったのも、史彦の思考を読んでしまったが故なのだが。
「すみません」
「……構わない。きみがそれを使うような事態にならないようにすることが、私の役目だからね」
溜息をついて、杖をつきながら史彦は司令の座る椅子を挟んで甲洋と相対した。二人の間に置かれた拳銃は、仄かな非常灯の青の中で黒い錆色を沈ませる。かつて非情な音を鳴らしたのであろう、鉄の塊はひどく静かに何かを待っているようにも思えた。
「これで、人を殺したことが?」
甲洋の問いに、史彦は過去を遮断するように瞼を閉じた。
「ああ」
短い返答だった。あまりに重い、悔恨に満ちた肯定だった。
そこには、だが強く暖かな意志を甲洋は感じた。後悔をたくさんしても、史彦は決してその重圧に潰されなかった。それは、願いを託したい未来を抱けたからだ。守り育てた存在が、決して人と戦わず生き抜く未来を。
「あなたは本当に……変わらない」
甲洋の意図を察せなかったのだろう、怪訝な顔で返した史彦に、甲洋は微笑む。
「俺はずっと羨ましかった。あなたのような父親がいる一騎が」
子どもの頃、父親とご飯を食べにくる一騎は、いつも真っ直ぐな愛情を注がれていた。甲洋は、夕飯に何を食べたいかなど、親に聞かれたことがなかった。
「俺は嬉しかった。フェストゥムである俺へ向けてくれた信頼が」
一度は敵と見做された。けれど、甲洋が竜宮島に戻ってきた時、史彦は疑うことなく甲洋を甲洋だと認めてくれた。人間であろうとなかろうと、甲洋の心を信じ任せてくれた。
「島のコアも、あなたをとても信頼していた。あなたに託すことを躊躇わなかった。それはとてつもない重責で、恐ろしい。けれどあなたは逃げない。あなたがいなければ、きっと未来は描けない」
「そんな馬鹿な話はないさ」
史彦は首を横に振った。こどもの間違いを正すように、ゆっくりと甲洋に言い聞かせる。
「私がいなくなったとしても、意志は繋がる」
「そうであっても、命は平等じゃない」
「いや、平等だ。私の命も、きみの命も」
多くの皺が寄った、太く大きな掌が、銃身をなぞった。彼の手に馴染んだグリップの形は、彼にとって辛い記憶に他ならないだろうに。
「この拳銃で奪った命も――すべて、等しく生きるべき命だった」
愚かしい優しさだった。
甲洋が悲しみを覚えるくらい、切ない声色だった。
引き締めた唇は、彼を慰めるような言葉を持ちえない。見てきた世界も、生きてきた時代も、想いを抱いてきた年月も、まったく敵わない。だから、甲洋がかける言葉など慰めにならず、彼を癒すことなどない。
わかっている。だから、甲洋が伝えられることは、ひとつだけだった。
「あなたは死んではいけない」
この拳銃に殺されてはいけない。
死ぬことを選択してはいけない。
這い蹲ってでも生きて、島のコアの元へ、希望を導かなければならない。それは竜宮島を故郷と呼ぶ全ての人が背負った責務だ。命が平等だというのなら、その責務もまた平等なのだ。
「あなたは、いなくなってはいけない」
「きみも同じだ、甲洋くん」
「俺はミールの祝福を受けたから、いなくなったりは」
「それは違う」
力強く遮られ、甲洋は口を噤んだ。否定の言葉に対して、眼差しは慈愛に満ちていた。小さく身体が震える。人生において一度だって、そんな目を向けられたことが無かった。
「息子の友人を心配する、親のお節介だと思ってもらいたい」
ああ、この人は。偽りのない想いが心を串刺しにする。
かつて息子を殺したいくらい憎んだ相手にまで、そんな言葉をかけるのか。
知らないはずがないだろうに。上っ面の友人関係を続けてきただけの浅ましさを。嫉妬と対抗心に突き動かされた愚かしさを。
それでもこの人は。
「……はい」
頷くだけで精一杯の甲洋に、史彦は銃を懐にしまうと「もう寝なさい」とだけ告げて踵を返した。
遠ざかっていく背中に、ありがとうございます、とは言えなかった。