17.カルディアー 唇/窓/閉じる



眠りに落ちていた甲洋の耳を風の囁きが撫で、ゆっくりと持ち上げた瞼に薄明かりが跳ねた。
覚醒したばかりにしては冴えた意識が、部屋の色に沈んだシーツと外の光に照らされたカーテンを視界に捉える。朝の光の色だ。今日は平日か、休日か。ベッドサイドのデジタル時計に記された文字は惰眠を貪ることを許してくれる印で、甲洋は腹の下までずり落ちたシーツを掴もうと手を伸ばした。
そこでようやく、同じベッドに眠っている人物を認識する。狭いシングルベッドをシェアするにはガタイの良い相手は、すやすやと寝息を立てていた。
なるほど、窓が開いていないのに聞こえた風の音は、彼の寝息のようだ。うっすらと開いた唇から漏れる健やかな眠りの音色が、一定の間隔を刻んで深い眠りを享受している。
寝ている間が暑かったのか、彼の身体にはシーツがかかっていなかった。かろうじて足に絡まっていて、それに甲洋のシーツも引き摺られたようだ。
意識すると肩が寒い気がして、ぞんざいに彼の脚を退かしシーツを手繰り寄せた。

明かりに慣れてきた目が、部屋の中を一巡する。窓に反射する太陽の光はまだ控えめだった。
今日は晴れか曇りか、昨晩テレビで放送していた天気予報を思い出す。夏を間近に控えた朝の気温は二十一度、快晴。最高気温は二十九度。梅雨明けに景気の良い温度はそろそろクーラーの必要性を訴えているのだが、まだもう少し大丈夫だろうとずるずると引き伸ばしにしている。そもそも稼働前にクーラーの掃除をするべきなのだが、面倒臭がってやっていない。
ついでに夜の出来事を思い出す。こういう時、記憶力が良すぎるのも考えものだ。別に忘れてもいいことを忘れられないでいる。
昨晩は、同郷の後輩に誘われて久しぶりに馴染みのある顔で集まった。幼馴染といっても過言ではない友人たちと、可愛がっていた後輩が成人を迎えた祝いだと酒を奢って、気付けば日付が変わるくらいまで飲んでいた。今は普通に寝ている彼が、珍しく赤くなるくらいまで飲んでいたので、随分と楽しんでいたのだと思う。
集まった後輩のうち、昔バイトをしていた喫茶店で一緒に働いていた二人の後輩に囲まれて言葉を交わしていた。案外面倒見の良い男だし、下の後輩なんてそれはもう昔は崇拝の域だった。さすがに大人になって幼さは容貌から抜けたけれど、ふとした時に彼に向ける表情は好意と尊敬に満ちていた。傍から見ている方が、慕っているんだなと微笑ましい気持ちになってしまうくらいだ。
そんなこんなでお開きになった飲み会の後、酔った彼を家まで運んでベッドに転がし、甲洋はシャワーを浴びた。酔いも覚めぬままに「俺も入る」と風呂場の扉を無遠慮に開けた酔っ払いを退け、水を飲ませ、外着のままだったのを引っぺがし、ようやく一息付けたのは二時を回っていただろうか。
かなりの迷惑をかけられていたのだと思い出すにつれ、甲洋は気持ちよさそうに眠る彼にじわりじわりと苛立ちを覚えた。
別に本気で怒っているわけじゃない。呑気に眠っている上に、甲洋の覚醒を促した音の元凶にちょっとした加虐心が疼いただけだ。
「……一騎」
一度名前を呼んで、目が覚めないことを確認する。
眠りは深い方ではないはずだが、さすがに睡眠時間が四時間弱では夢の中から出てくる気配はない。
しばらく寝顔を眺めてから、時折鼻を摘まんでみたり、潰してみたりと遊んでみる。ぷひゅ、と間抜けな音が口元から洩れて、甲洋は噴き出した。
「どっからそんな音出してるんだよ」
ぷすぅ、と答えるかのように、空気の抜けた風船のような音をたてる一騎の口元をじっと見つめる。何度か空気の通り抜ける音は続いて、胸がゆったりと上下した。
甲洋は屈んで顔を寄せると、そっと空気の隙間を覆うように彼の口を塞いだ。唇同士を触れ合わせ、密着させ、窓を閉じるように中と外とを遮る。
思ったより柔らかなそれに特段感動も恋慕も湧かないが、数秒そのままでいると一騎が身じろぐ。うぅ、と唸りが塞がった喉の奥で振動し、空気の抜け道を失った自分の口を塞ぐ何かへの違和感に気付いたのか、ようやく薄らと目を開けた。
「ん……」
「おはよ」
何事も起こらなかったかのように口を離して、甲洋は笑いかける。頬杖をついたことで甲洋の前髪が一騎のこめかみを伝い、シーツの上に流れ落ちた。
「……おはよう、こうよう」
酔いが残っているわけではないらしく、単なる寝不足に目を擦る一騎の髪を撫でる。晒された額を親指でなぞると、くすぐったいのかペチリと手を払われた。
窓から漏れる光はこの数分で随分と明るくなり、また眠りに入るのにはすっかり頭が覚醒してしまった。甲洋は起き上がり、窓を開けるべく立ち上がる。
「……」
一騎も起き上がり、自身の唇に指先を触れさせた。ベッドの上で何処かを見つめ、沈黙している。
「一騎、どうかした?」
「……なんでもない」
立ち上がった一騎は床に落ちていた甲洋のシャツを羽織ると、洗面所へと消えていった。