16.カナフ 白紙/空/内側
机の上に、一冊の本が置かれていた。
甲洋は椅子を引いて、座る。本はそれなりに分厚く、辞書のように重厚感のある表紙でありながら、手に持つと不思議と軽かった。
アルヴィスの制服を着て、何もない空間で本と相対している状況に、甲洋はこれが夢の中であることを理解した。
上を見ても、下を見ても、此処は真っ白な空間だ。白紙のように、何も描かれていない。何も綴られていない。こんな夢は、初めてだった。力を使い眠った時に見る夢は、大概が海の底でひたすら目覚めの時を待つか、眠っていることすら認識しない意識下に在る。
過ったのは、これがフェストゥムによる心因の攻撃ではないかということだ。甲洋の意識に干渉して、何らかの変化を起こそうとしているか。あるいはこの夢らしき場所に甲洋を閉じ込め、機体を奪おうとしているか。様々な可能性を瞬時に計算したが、もしフェストゥムによる攻撃であれば一騎や操が助けに来るだろうと判断した。それは信頼というよりも当たり前に『そうである』という感覚であり、助けるという認識ですらないかもしれない。甲洋や操が一騎にそうするように、一騎や操も、甲洋の身に何かあればすぐに駆け付けるだろう。
一先ずこれはただの夢であるとして、甲洋は椅子に座ったまま本を見下ろした。本を開けば、この世界に変化があるのかもしれない。そうすべきであり、そうすべきでないようにも思えた。
しばらくどうしようかと悩んで、甲洋は表紙を捲った。タイトルのない本は、中身も存在していなかった。捲った先は白紙。文字も、絵も、綴られるものはない。まっさらで、まっしろであった。
どういうことだろうと、甲洋は紙面をなぞる。文字が浮かび上がるようなことはない。
だが、目の前に広がる景色が変わった。
――青空
見上げた空は、一面の青。雲一つない、天高く突き抜けるような澄み渡空。
来主が好きそうだな、と真っ先に思い浮かんだのは能天気な笑顔だ。彼はだいたいどんな空でも綺麗だと言うけれど、青空は一等好きなのだという。それはかつての来主操の思考から受け継がれたものであり、それを綺麗だと感じる現在の来主操の心でもある。
甲洋は頁をめくり、再び紙面を指で撫でた。
景色が変わる。薄黒い靄のようなものに視界が覆われたが、すぐに風が吹き飛ばし開けた場所に出る。
ミーンミーンと蝉が鳴き、見知った外装の建物の前に立っていた。
――楽園
甲洋の生まれ育った場所は、記憶の中に在る形そのままで目の前に在った。
扉の先、窓から見える店の内側には両親がいて、父は厨房に、母はレジの前で面倒くさそうに仕事をしていた。
店の中には客がいるが、特に目を合わせようともしない。注文通りのものを作って、並べて、テーブルに置く。その繰り返し。
不思議と、その光景に懐かしさを覚えることは無かった。ただ、子どもの頃の狭い視界では見えない何かが、そこに在ることはわかった。
「甲洋!後で公園に集合だからな!」
道の先で子どもの声がした。あちこちに跳ねさせた黒髪と、それに負けないくらいピョンピョンと跳ねている元気な姿。その子どもが両手を振って、店の前まで歩いてきた子どもに向かって叫んでいる。
「一騎……」
黒髪の子どもは一騎だ。そして、一騎の声に「わかった!」と大声で返して店の中に入っていくのは、自分。幼い頃の春日井甲洋。
店の中では、おそらく「ただいま」と声をかけたのであろう自分を母親が一瞥した。おかえり、と言っているようだが、その後にも何かを続けていた。おそらく、テストの点はどうだったとか、宿題を終わらせなさいとか、そんなことだろう。父親は、何も言わないし甲洋を見もしない。それが普通だった。
「こんな人たちでも、愛してほしかったんだな」
甲洋は独り言ちる。両親の喜ぶ顔が見たいと言葉を連ねている、幼い頃の自分があの窓の向こうにいる。
外から見れば、それがどれだけ滑稽で無意味なことか理解する。けれどあの時の甲洋にとって、狭い世界の中で得られると信じた愛情の一つだった。
頁をめくる。景色は流れる。白紙に塗り潰されるように、世界は白く染まっていく。
指でなぞれば甲洋の中に在る記憶の欠片が映される。とある一瞬、とある時間、とある場所。どれだけ頁をめくっても、眠りは覚めない。やがて最後の一頁となって、甲洋は本を閉じた。
白紙だったはず本は、ずしりと重くなっていた。
「それは必要?」
相対するように現れた甲洋が、甲洋の持つ本を指した。たくさんの記憶が、この白紙の中に詰まっている。甲洋がかつて抱いた想いが、感情が、ある日の光景が、此処に在る。
「必要だと思う」
人間だから。人でありたいから。けれど。
「俺は、俺が守るべき人を守りたいから」
だから、これでいい。
甲洋は手にした記憶を手放す。本は、まるで海の底に沈むかのように水しぶきを立てて落ちていった。
見下ろした足元には、美しい蒼穹が広がっていた。
「甲洋」
穏やかな声が、耳朶を打つ。ゆっくりと目を開けて、此処がボレアリオスの内部であること認識する。
アルヴィスの制服を纏う一騎は正面に立ち、甲洋を見つめてほっと息を吐いた。
「おはよう」
甲洋は手を伸ばした。何かを探すように彷徨う手を、一騎が掴む。じわりと滲む体温が、甲洋の掌に人の温もりを伝える。
「……おはよう。結構寝てた?」
「三日くらい」
ボレアリオスの中は薄暗く、外界と遮断された空間だ。だからこそ眠るのに最適ではあるが、三日も眠っていたとなると、先の戦闘での消耗はかなりのものであったのだ。甲洋を構成する何らかに影響があってもおかしくはないが、今のところ不調は感じられなかった。
「店は?」
「来主が張り切ってた。店長代理だって言って」
一抹の不安が過った。一騎が代われよ、と思ったら、思考を読んだらしい一騎が苦笑した。
「体調は大丈夫か?」
「ああ。島に戻ろうか」
「うん……甲洋」
手を離しかけたら、一騎がそれを拒んだ。繋いだままの指先から、心が伝わる。一騎の懸念、心配、訊ねようとしていること。
ふ、と甲洋は微笑んだ。目を細め、離した手を拳にして、一騎の胸を軽く叩く。酷い男だ。そして同じくらい、真っ直ぐで嘘がつけない奴だ。甲洋はそのことをよく知っている。
「まだ、忘れてないよ」
大丈夫だと言い聞かせたのは、一騎に対してだけではなかったのかもしれない。