微睡の背中
じとりと汗ばむ二の腕の感触が、てのひらに吸い付くように馴染んで、甲洋は眉を寄せた。
小刻みに奏でる呼吸の音と、体内の臓腑が蠢く音が、どくどくと内側から響く。実際には甲洋の身体が発する音なのかもしれないが、交わってそれなりに時間が経っている現在の自分たちに、明確な境は存在していない。
『こういう行為』をすると、互いの存在を強く感じるだとか、深く溶け合って混ざり合いたいだとか、そんなロマンチックな感情に浸る人もいるだろう。
愛し合うための行為という定義に否を唱えるつもりは無いが、それが自分たちに当て嵌まるかと問われると、数秒の思考の末に首を傾げざるを得ない。少なくとも甲洋は、『そういう意味』を含んでいるつもりはなかった。
ならばなぜ、生殖とは無縁の自分たちが夜中に身体を重ね合っているのか。
「……ぅ、んっ……ぁ、はぁ……っ」
組み敷いた細い身体が、ぶるりと震える。
粘着質な音が股の間から腹を伝い、シーツに垂れ、緩い絶頂を甘受する彼が仰け反った。
背中に回った手が、縋る様に爪を立てる。痛くはないし、傷も残らないけれど、耐える仕草にしてはどこか遠慮がちであった。
「ちょっと、腰上げるよ」
一応気遣いも含めて声をかける。ハの字に寄った眉間が徐々に解かれて、熱の籠った瞳が潤いを増した。
「そんなゆっくり、しなくても」
微かに上擦った声は、収まらない熱の余韻に、あるいは只中に、彼がいることを表していて、訴える声に力はない。
ゆっくり、という言葉が示すのは、行為が彼にとってひどく物足りないのか。足り過ぎていて早く終わらせてほしいのか。
背徳的な感覚は僅かな加虐心を針で突き、弾けてしまえと囁いていた。だが、今日はなにも意地悪で自分のペースを押し付けているわけではない。
「たまには良いでしょ、こういうのも」
「だって、も……しんど……」
「随分感じているから、悪くないと思って。それに……」
「……ひッ、ぁ」
腕から腰へと回した手で彼の下半身を支え、奥深くに納める。じわじわと馴染むのを待って、音を立てないくらいゆっくりと引き抜き、再びナカを侵食すると、彼は首を横に振って快感を散らそうとした。けれどうまくいかないのだろう、喉の奥から絞り出すような喘鳴に、甲洋は覆い被さったまま上体を倒した。
甘く痺れるような締め付けが、生殖機能のない自分たちには無用のはずの快感を刺激し、どこまでも深く底のない沼のように沈んでいく。
もちろん、その気になればすぐにでも止められてしまう行為でも。
「ぁ、あ……こ、よぉ……」
耳元で聞こえる彼の、苦しみの中にただひとつ縋るものを見つけた哀しみの声。
抱き寄せた身体を支え、心臓の位置に落とした口付けの後、静かに息を整えた。
「……何をされたのか覚えてないくらい、がいい?」
問いかけに、頷くよりも先に中の締め付けが答える。分かりやすい。
――彼にはどうしても甘いのだと、濡れた額に張り付いた前髪を分けてやりながら、苦笑した。
***
衣擦れの音がして、一騎は薄らと目を開いた。
無機質な部屋の景色は、目を閉じる前とさして変わらない。机の上の光源は落とされ、天井のライトがうすぼんやりと部屋の中を照らしているが、眠っている間に闇に慣れた瞳はくっきりと家具やシーツの波の形を認識する。
ここが誰の部屋で、なにをしていたのかも、よく思い出せた。
瞼を開いた先には、先程まで床を共にしていたのであろう人の後ろ姿が在った。
肩にかかった白いタオルが、濡れた髪から滴る雫を受け止めて、滲む。上半身には何も纏わず、下は部屋着を穿いていた。どうやら、既にシャワーを浴びた後のようだった。
淡くぼやける視界で彼の背を眺めながら、爪の先でシーツの波を辿る。それはまるで傷跡のようにも思えた。
ただ、一騎の身体にも言えることだが、人間の模造である自分たちの身体にとって傷とは痕が残るものではない。
戦闘で直接肌に触れるような怪我をすることは、ほとんどの場合死に直結するのだから、傷を負って帰るということは極稀だ。
であるからして、普段の生活の中で、何気ない傷を負うことの方が多いのだろう。例えば料理をしている時、不意に包丁で指を切ってしまうとか……それくらいしか、一騎には思い当たらなかった。
あとは、そう。ほんの少し時間を巻き戻して、この部屋に辿り着いてから眠りにつくまでの間、自分たちの行為の最中に、相手の背中にしがみついて爪を立ててしまったり。
そんな、些細なことで傷を負う。原因はその程度のものだ。
彼の背中には、そのような痕が残っているようには見えなかった。
結構派手に付けたような気もするが、前後不覚の中ではまともな意識など保てていないので、一騎としては彼が気にしていないのならばそれでいい、と判断することにしていた。前にも似たようなことを問いかけて、「別に」と無感情な声を返されている。
彼は、一騎が目覚めたことに気付いているのだろうか。背を向けたまま髪を乱雑に拭きつつ、手元の端末を眺めている。
髪が長いから、早く拭かないと水滴が落ちて肌を滑って寒そうだ。風邪を引かないように、とまで思考が至ったところで、自分たちは風邪を引かないのだと苦笑した。人間らしい思考が、まだ残っていたことへの、自嘲でもあった。
腕を使って上半身を持ち上げると、じんわりと腰のあたりに違和感を覚える。深く息を吐いた。肺に溜まったそれの代わりに新鮮な空気を取り込むと、眠気が勝っていた意識に少しばかりの覚醒が訪れた。
起きたのか、と彼が一騎に振り向いた。端末の電源を落としたことで、闇の色に沈み濃くなった榛色が細まる。
一騎の肩に椅子にかかっていたシャツを羽織らせ、ベッドの端に腰を下ろした。どうやら一騎の方が、何も身に着けていない状態だった。
それにしても、シャワーを浴びる時に一度起き上がっているはずなのに、その時は気付かず寝入っていたらしい。
激しく体力を消耗した、というよりも、精神的に安定を求めていたところにそれを与えられて、気が緩んだのだろうか。いずれにせよ、彼の手が一騎の頬を滑るのを甘受している時点で、一騎自身がこの刹那の交わりに意味を見出していることは確かだった。
辛くないか、と問いかける声は、冷たくて優しい。
それに「大丈夫」と返すのもなんとなく違う気がして、首を横に振るにとどめた。代わりに、ベッドに腰かけたことで視線の高さが同じになった彼へと笑いかける。
ゆっくりと双眸を瞬かせた彼の、深い海の底を覗きこむような色に、闇へと沈んでいった”彼人”を想った。
何度でも思い出せる、離れ落ちていく彼へと伸ばした手。いつか忘れ往くぬくもりだけでも留めていたい、人間らしい思考回路なのかもしれなかった。
シャワーを浴びようと立ち上がりかけた肩から、シャツが滑り落ちる。一騎より上背も肩幅もある彼のシャツは、一騎には大きすぎた。
手にとって差し出し、ありがとう、と礼を言う。何もないのだからゆっくりしていけば良いのに、と気遣う彼の声が、触れた手から伝わってきた。
彼はずっと、優しい。
孤独を分け合うように、一騎を引き留めるように、決して過干渉にならない程度に、柔らかな声で名前を呼ぶ。
ここにいるのだと、言い聞かせるように。
幼い頃、狭い世界の中で心を許していた頃とも違う。お互いの嫌な部分をむき出しにしていた時期を経て、力を手にした今、ずっと冷静に互いを認めている。
そんな彼に甘えていると言われれば、その通りなのだろう。
否定はできないけれど、なにも彼だって一騎との甘い関係を望んでいるわけではないのだから、互いの間にあるのは、何かを埋め合わせようとする独り善がりな執着のようなものに違いない。
――あなたは、そこにいますか
かつて何度も耳にしたあの言葉を、今は誰が問うのだろうか。
目の前の彼か、一騎か、あるいは新たに生まれた生命か。
敵に向けられたこの言葉を、今、自分自身に向けているのは。
しっとりと汗ばんだ彼の素肌に掌を当てる。心臓の位置に、鼓動は聞こえなかった。
それは自分も同じなのであると、一騎は目を閉じて聞こえもしない命の音に耳を傾けた。
あるいは彼に望んでいるのは、その命の鼓動を感じたいがためなのかと、人間であった一騎の心が海の底に沈んでしまった魂と共鳴したのかもしれなかった。
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