Under your Breath


煙草ときみとムーンリバー

 建付けの古い扉を開くと、想像よりもひんやりとした空気が肌を撫でた。安い備え付けの鍵を二つ、後ろ手に閉めて靴を脱ぐ。足の裏にあたる廊下の床は、昨日掃除したばかりだからかキュッキュと小気味の良い音が鳴った。買い物袋を手にキッチンに向かうと、リビングの窓が開いていた。二人暮らしには広さが余るこのマンションは、リビングとキッチン、両側に扉があって部屋は二つ。右が一騎で、左が同居人。リビングにはソファとテレビ、小さめの本棚が置いてあるだけだが、男の二人暮らしならばこんなものだろう。互いに収集癖が無いので、読んだ雑誌は月を跨げば紐で纏めて新聞と一緒に出してしまっている。
 キッチンカウンターに置いた袋からは安売りで買ったネギが六本、居心地の悪そうにバランスを保っていた。冷蔵のものだけは手早く冷蔵庫に納めて、一先ず部屋着に着替えた。部屋を横切ったことで、ようやく窓の向こう、ベランダに腰かける人影を認識する。ギターを手にした彼は、カーテンの向こうでポロポロとメロディーを奏でていた。曲名は思い出せないが、どこかで聞いたことがある曲だった。
 ソファに放り捨てられた薄手の上着からは、たばこの香りがした。苦い、独特の香りが一騎は苦手で、部屋の中で吸うなと共同生活を始めてすぐに一騎から要求したことだ。基本的には守られているが、たまにこうして吸いたくなるらしい。今では、ベランダか、外出した際に他所で吸って匂いを残さないように帰ってくる。
 メロディーは変わらず続いていて、月の明かりに照らされた影が室内を斑に彩った。そよ風に揺れるカーテンの音と、遠くから聞こえる駅のホームの音色、ギターのしっとりとした和音。一騎は吸い寄せられるようにカーテンを開けて、ベランダの彼に笑いかけた。
「……匂い、消えてなかった?」
「消えてたよ。上着はまだだったけど」
 彼の言葉から、どうやら室内でタバコを吸ったか、もしくはベランダで吸っていた煙が部屋に入ってしまったらしいと悟る。一騎に話しかけるためにとまってしまった音色が名残惜しくて、ギターを指で示した。
「弾かないのか?」
「お詫びになる?」
「ああ」
「そう。じゃあ、一曲」
 先程の曲の、おそらく最初からなのだろう、切なくどこか懐かしいメロディーが彼の指から生まれた。どこかからか歌詞が聞こえるような気がする曲を傍で聞きながら、一騎はベランダに肘を付く。秋の夜風。遠くに在る月。光の筋が彼の頬を照らして、長い前髪に隠れた瞳に反射した。
 とても綺麗だった。当たり前のように、特別なことではないように彼は振る舞うけれど、一騎はそれがとても心地よかった。「せっかくだから僕の家に泊まればいい」と申し出てくれた友人の誘いを断って家に帰ってくるのは、彼が生み出すメロディーと彼自身を眺めていたいからだ。
 やがて終わりに近づいたメロディーが、そのまま子守歌のように一騎の心臓に収まった。買い物袋の片付けをするまでは眠れないというのに。
「良い曲だな」
 弦から指を離した彼に感想を伝えれば、彼は肩を竦めて立ち上がった。部屋に戻るようだ。一騎に背を向けて去ろうとする彼は、ふと何かを思い出したかのように足を止めて振り返った。
「曲名は知ってる?」
 首を横に振ると、ふぅん、と特に面白くも無さそうな顔で一騎を見つめた。ギターを持っているのとは反対の手を首当て、呆れたように一つ溜息をついた。
「有名な曲だよ」
「教えてくれるのか?」
 彼は一騎の元まで歩み寄ると、手を伸ばして夜空に浮かぶ月を指した。月、が曲名なのだろうか。確かにそんな気もするが、もっとお洒落な名前だったような気がすると一騎は首を傾げる。
 ちゃんと教えてくれよと抗議に目を細めれば、ふと彼――甲洋が口元に笑みを刻んで、一騎の髪をクシャリと撫でた。


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ホットチョコレートとビターチョコ

 職場の後輩から、小包に入ったチョコレートをもらった。可愛らしいピンク色のラッピングが手の中で異色の輝きを放っていて、突然のことに首を傾げた一騎を見た後輩は、やっぱりなと言わんばかりに苦笑する。
「いつもお世話になってるお礼です」
「そう……なのか?」
「バレンタイン過ぎたんで」
「……いや、悪いだろ」
 ポニーテールを揺らして闊達に笑う彼女には、幼馴染の彼氏がいたはずだ。色恋に疎い一騎だって知っているのは他でもない、本人に聞いたから。
「いいんです、一騎先輩だし」
 それはどういう意味だろう。少なくともバレンタインには関係していないらしい。そんなタイミングで貰っても困るので別に構わないのだが。ちなみにバレンタインは、昨日のことだ。あれだけハートの装飾で賑わっていた近くのコンビニは、一晩明けたら既に次のイベントへの臨戦態勢に入っていた。
「これ、お湯に溶かして飲むんです。甘いの苦手かもしれないんで、ビターチョコにしたんですけど」
「あ、ああ」
「二個セットなんで、誰かと一緒に飲んでくださいね」
 誰かって誰だ。複数人で飲むことを想定して一騎に渡すというのは、いったいどういうシチュエーションだろう。一騎にはさっぱりわからない。こういう時、頭のいい幼馴染や同居人が隣にいてくれれば困らないのに。
 とりあえず頷いて、鞄の中にしまった。後輩は満足そうに「お疲れ様です!」と笑顔を振りまいて帰宅してしまった。

「っていう事があったんだ」
 風呂上りに鞄の中からピンクの包み紙を取り出して、キッチンに置く。物の少ない部屋で浮いているとしか言えない色合いが、妙な存在感を放った。
「……で、飲むの?」
「飲まないと悪いかなって」
「一騎がいいなら好きにすれば良いけど……待って、まさか俺に付き合えって言うつもりじゃないよね?」
「あ、わかるか?」
「わかるって……男二人でホットチョコとか背筋が寒くなる」
 一騎の目が期待に輝いたことを見抜いて甲洋の目が据わる。ひどい裏切りにあったような気分で、一騎は渋々と包みから一つ分のチョコレートを抜き取った。
 チョコレートには細い木の棒が刺さっていて、どうやら溶けたチョコレートを掻き混ぜるための道具のようだった。お湯二百ミリリットル、という注意書きを無視して適当に沸騰したてのお湯を注ぐと、コポコポと気泡を吹きながらチョコレートがどろりと溶けだす。美味しそうかと問われると、どうにも首を傾げたくなった。
「どうだ?」
「甲洋も気になるなら飲めばいいだろ」
「興味が無いことはないよ。俺が貰ったのは、普通のチョコばっかりだから」
 そう言って部屋の隅に重ねられた箱と袋のタワーは、昨日のバレンタインで甲洋が持たされた、もとい、頂いたたくさんのチョコレート。両手に下げて持ち帰った甲洋に一騎が思ったことと言えば、冬で良かったな、というしょっぱさに満ちた感想だ。
 チョコレート色に染まったお湯を、一口含む。思わず顔をしかめ、なんとも形容しづらい顔をした一騎に、甲洋は唯一開いたチョコレートの箱から幸せそうに一粒、摘まんだ。


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みかんと炬燵とソファベッド

 深々と降る雪の合間を縫うようにして、甲洋は帰り道を急いだ。帰宅先に何が待っているわけでもないのだが、単純に寒いからということ、そして手に持った袋の中身が大きな理由だ。毎年冬には箱買いしたくなるその品が袋の中で歩調に合わせてガサガサと音を立てる。ちなみに近所の八百屋のものが、安くて美味しい。
 道路に積もる程の強さではない降雪も、一晩経てば薄らとコンクリートを彩るだろうか。白い漣を思わせるその景色は寒さの象徴だが、嫌いではない。どちらにせよ、積もるとなれば現実的に害を被るのは交通機関なので、明日は出掛けないでおこうと決めた。明日が休日なのが幸いだ。
 古すぎず、しかし新しくもないアパートは今どき姿を消しつつあるシリンダー式。特有の金属が擦れ合う音を響かせ解錠すると、開いた扉の向こうからほわりと暖かな空気が頬を撫で抜けた。
「あ、おかえり」
 ちょうどキッチンでお湯を沸かしていたらしい同居人が、カップを手に甲洋に笑いかける。
「外寒かっただろ」
「結構な」
 手に持っていた袋を同居人に手渡し、甲洋はさっさと自室へと向かう。背後から「ありがとな」と声がかけられるのに手をひらひらとさせた。
 甲洋の部屋はひんやりとしたままで、リビングのぬくもりは残念ながら届いていなかった。一瞬温まった頬が再び冷たい空気に震え、手早く服を着替える。部屋に置いていた服も冷たい。
 着ていたコートを軽く整えしまおうとハンガーにかけたところで、帰り際に貰った名刺がかさりとポケットの中で音を立てた。そう言えば、と白い紙を取り出す。駅で声をかけられたのだ。お兄さんかっこいいですね、インタビューしてるんですけど。そう媚びるように隣に並んだ女性に渡された。イヤホンしてるんだけど強気だなぁと思いつつ、女性を無下にするのも躊躇われて、一応手に取ったものの、ぺこりと頭を下げた。すまなそうな薄い笑顔を貼り付けておけば強い拒絶も緩和する。甲洋は、自分の顔の使い方をよく理解していた。
「いらないな……」
 四つに畳んでゴミ箱に投げ捨てる。今は早く、暖かい部屋でぬくぬくと過ごしたい。顔も覚えていない女性のことより、一騎がいれてくれるお茶の方が恋しく感じた。
 リビングに戻ると、ちょうどお茶を手に持った一騎が炬燵に脚を入れているところだ。二人で使いやすい長方形のテーブルに、今年新調した大手家具メーカーのどこにでもあるような炬燵布団。模様は鹿と雪化粧があしらわれた可愛らしい暖色で、見た目から暖かさが伝わってくるようで気に入っている。
 マグカップからほかほかと湯気が立っていて、 和む光景だ。とはいえ、一騎の格好は外から帰ってきたばかりの甲洋には寒々しく見える。せめてフリースを着て欲しい。
「薄着じゃない?」
「そうでもないよ。家の中暖かいし」
「俺も早く暖まりたい……」
「お茶、普通に緑茶だけど」
「いいね。みかんに合う」
 それに一騎がいれる緑茶は美味しい。苦過ぎず、熱過ぎず。身体の芯から温まりそうだ。早速炬燵に脚を入れ、じんわりと熱が肌に浸透するのを堪能する。最初は少し熱い。チリチリと肌にぶつかるような感触が痛い。それが広がって、均されて、やがてぬくもりが馴染む。はぁぁと長い溜息をつくと、一騎がくすりと笑った。
 腕ごとすっぽり布団に収まっている一騎は、まるで猫のようだ。性格なら犬っぽさの方が強いのに。
「寒いならフリース着なよ」
「着ると暑すぎて」
 頑なにフリースは着ないらしい。「あったまる……」と呟く声には寒さが滲んでいるように思えるのだが、何を我慢しているのだろうか。どことなく彼の父親に似ていた。フリースじゃなくて袢纏以外着ようとしないところとか。
「あ、みかんとって」
 籠の中に積み上げられたみかんから、一番上の小玉を一騎が手に取る。指先で転がしながら、あらぬ方向に曲がるみかんを器用に方向修正しつつ、甲洋の目の前で止めた。
「知ってるか?  みかんって揉むと甘くなるんだって」
「知ってる。一騎のはどこ情報?」
「西尾のばーちゃん」
「じゃあ俺と一緒だな」
 親指がするすると薄めの皮を剥いていく。山が崩れ、一口大を口に含む。皮ごと噛むと甘い汁が口に広がった。
「うまいなこれ」
 一騎も満足そうに二個目のみかんを籠から確保した。
「あ、俺ももう一個食べる」
 二個目を一騎が手渡してくれる。籠の中は残り四つになった。
「これ明日に無くなるんじゃない?」
「かもな。次一騎買ってきてよ」
「ええ、甲洋行ってくれよ」
 しん、と二人の間で微妙な間が流れる。もくもくとみかんを咀嚼する音。二個目を向く音。あっという間に食べ終え、緑茶を一啜り。
「……じゃんけんだな」
「……じゃんけんかな」
 ばちんと二人の目線が火花を散らす。炬燵の上で仁義なき戦いが始まった。


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向かいの部屋の窓辺と猫の話

 二棟並ぶアパートの東側、端の部屋。甲洋と同居人が暮らす部屋だ。その向かいに、西側のアパートが建つ。飾り気のない窓と最低限のベランダ。防犯なんて特に気にしていない造り。所々に張り付いた冷暖房器具は、錆び付いているが最低限の手入れはされている。
 ギターを片手に窓辺に腰かけ、書きかけの楽譜を膝の上に広げる。病床の友人からもらった曲は、どこか寂しいメロディと透き通る空のような爽やかさを交互に感じる旋律だ。完成させられるかわからない、と肩を下げた彼女を見ていられなくて、少しばかり強引に曲を貰えないかと願い出た。俺が弾くから完成させてと請うた自分を、彼女はどう思っただろう。ありがとう、と応えた声は、僅かに震えていた。
 未完成の旋律を、夜の空に滲ませる。同居人は部屋の中で、珍しく読み物をしていた。先ほどまで点いていたテレビの音は消えて、静かな夜に甲洋の指が奏でる音が細やかな波となった。
 にゃあ、とどこからか猫の声が聞こえて、甲洋は弦を弾く手を止めた。声の場所まではさすがにわからないが、猫は甲洋たちの部屋の向かい、つまり隣の棟の窓辺に座り、青空の色の目を甲洋に向けている。夜に溶けるような真っ黒の毛並みは、肉眼で輪郭を捉えられない程に艶やかに整っているようであった。
 にゃあ。もう一度、今度は催促するように鳴いた。オーディエンスは、意外なところにいるものだ。たいして上手いとも思っていないが、彼女に聞かせる前の良い練習になるかもしれない。
 彼女の髪も、猫の毛のように真っ黒で綺麗だ。同居人の髪も黒で、さらさらとしているのに無造作に跳ねているのはセットが面倒臭いからだと本人がぼやいていた。猫は、どうだろう。手入れをしてくれる飼い主がいるのだろうか。
 楽譜の初めからなぞった音は、数分もしないうちに途切れた。続きはまだない。
 中途半端に途切れた旋律に、猫はじっと甲洋を見つめると、軽い足取りで夜の闇に消えてしまった。
「あ……」
 思わず声に出して呼び止めようとして、いったい何を考えているのかと自問する。答えはないけれど、なんとなく寂しくなった。
「どうかしたか?」
 同居人が、ひょこりと顔を出す。早々に本は飽きたのかもしれないが、途切れた音を疑問に思っただけかもしれない。
「……なんでもない」
「ふぅん。あ、羊羹食べるか?」
「もらおうかな」
 珈琲準備するな、と言われて、そこは緑茶だろと返す。一応は夜中なのだ、夜食にしては珈琲と羊羹の組み合わせはいただけない。
 甲洋はギターを下ろすと、振り返って猫がいた窓辺に目を凝らした。猫の姿は見えなかったけれど、どこかで、また来るよ、と鳴いている声が聞こえた気がした。


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カメラと彼の旅路の話

 春が来る前に、雪が積もった。一年で一番寒い時期と、少しずつ暖かくなる季節の境は天気が不安定で、昨日の晴れが今日の雪になることも珍しくない。予報では雨の確率が三十パーセント、とどう信じればいいのか判断に困る数値を示していたのに、蓋を開ければ積もるような雪になっていた。
 交通機関の麻痺は今のところ通知されていなくて、起動した天気アプリを閉じる。あと数時間もすれば陽が落ちて夜になる時間帯は、ただ寒さの底へと空気を冷やしていくだけだろう。首に巻いていたマフラーを口元に引き上げて、アパートへ向かう足取りは自然と速くなった。
 部屋の扉に鍵を差し込む頃には手がかじかんで、錠の冷たさが染みる。肩に積もった雪を見るに、おそらく頭の上にも細かな氷が乗っている。軽く叩いて部屋の中に入ったが、残念なことに同居人はまだ帰宅していなかった。寒々しい室内の空気に少しばかりがっかりして、エアコンのスイッチを入れた。
 無難な機械音がシュコシュコと音を立てながら、冷えた空気を入れ替える。部屋の電気を点けて手に持っていた夕飯の具材をテーブルに置くと、そこには一枚の紙片が無造作に置かれていた。適当にメモをちぎったようで、走り書きの文字は斜めに曲がっている。

 ちょっとでかけてくる

 思い立った言葉をそのまま綴っただけのシンプルなそれを読んで、甲洋はひとまずテーブルからサイドボードにピンで固定した。どこに、いつまで、など必要な事が何一つ書かれていない一言は、なにも今回が初めてのことではない。同居してから十一回目となる彼の旅の始まりは、いつもこんなものだ。よく見ずとも、棚の中から黒ずんだカメラが消えていた。二人でお金を出しあって買った一眼レフは中古品とはいえそれなりに値が張った贅沢な品物で、主に同居人が使用する確率が高い。例えばそう、こうやって突然いなくなった時は、何か写真に収めたいものや景色が見つかって、飛び出して行ってしまうのだ。
 よく彼の職場は、彼を好きにさせていると思う。年間二十日の有給が溜まったのを見たことがないが、こうして突発的な旅以外に消化する術が無いのだから理に適ってはいるのだろう。そもそも彼は、風邪をひかない。
 手早く冷蔵庫の中に買ってきた食材を詰め込んで、いつもなら同居人が用意する珈琲を自ら淹れる。棚の中に挽いてある豆が仕込んであるあたり、謝罪のつもりだろうか。
 夜の帳が降り始めた窓の外は、藍色の闇に月がぽつんと浮かんでいる。舞う雪とベランダを薄らと彩る白は、明日になれば爪の高さくらいにはなるだろうか。古いアパートに寒さは堪えるので、できることなら日付を越す前にやんでもらいたいものだった。
 さて目下甲洋の課題は、どうやって買い込んできた食料を消費するか、になる。当たり前だが二人分用意していたので、単純に一人で食べきるには倍の量があるということだ。同居人ならば適当なレシピでも思いつくだろうが、甲洋の料理に対するスペックの高さも引き出しの多さも、大したものではない。
 スーパーの安さを基準に購入した品々はそのほとんどが根菜と葉っぱ類で、後者は早めに消費した方がいい。凝った料理などできないので、ここは同居人が教えてくれたレシピ、『全部煮る』を採用するのが手っ取り早いだろう。要は一人鍋である。
 キューブの出汁を、水を張った鍋に放り込んで、野菜を適当な大きさに刻む。特売百グラム五十八円で買ってきた鶏肉からを皮ごと煮立った出汁に浸けて、根菜を隙間にねじ込んだ。あとは好みに味付け、葉っぱを入れて余ったら雑炊。明日の昼も食べられる。
 寒い日にはうってつけの料理への満足感と、ぐつぐつと煮える熱気が寒い夜の胃に沁みそうな予感。音のない寂しさを紛らわせるためにポータブルプレイヤーから好きなミュージシャンの音楽を選び、部屋の中は甲洋の城に早変わりした。
 いただきます、と箸を持って、鶏肉を掴む。

「ただいま」
 廊下の先から、扉の軋む音と帰ってくると思っていなかった声が甲洋の耳に飛び込んだ。
「あれ、一騎、どこか行くって書いてあったけど」
「雪降ってきたからやめた。帰れなくなると嫌だし」
「なんだ」
 一人分だけ用意されていた器と箸を、同居人の分も棚から取り出す。コートを脱いで手を洗って席に着く頃には、鍋の中で具材が早く食べてくれと言わんばかりに音を立てた。
「あ、鍋だ」
「おまえが帰ってこないと思ったから、食材ほとんど突っ込んだよ」
「それいいな、美味しそうだ」
 向かい合わせに座って、手を合わせる。 二人分の「いただきます」が、湯気と一緒に空気に溶けた。


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あめとあめだま

 傘を家に忘れた。
 雨粒を地上に叩き付ける重黒い雲を見上げて、甲洋は溜息をつく。朝出掛ける前に天気予報を確認したはずだったが、無意識のうちに梅雨を侮っていたらしい。電車に乗る前は薄く空を覆うだけだった雲は、電車に乗って帰路についている間に厚みを増して、ポツポツと雨粒が車窓に当たる程度だった段階から一息に土砂降りだ。
 さすがにこの中を走って帰るのは避けたいと、もう一度重く息を吐いた。果敢にも通勤鞄を傘代わりにして雨の滝に挑戦する人がいるものの、無謀にも程があった。駅の一階に隣接するスーパーに駆け込む羽目になっている。足元の状態が悪く、コンクリートなのにぬかるんで見えるくらいに濡れた路面は、それだけで危険なのだ。
 甲洋が住むマンションは走って五分、歩いて八分。途中の信号に捕まればさらにかかるし、もっと言うなら信号待ちの時に雨宿りをする場所が無い。これはもう、おとなしく雨が止むのを待つしかなさそうだった。
 甲洋はスマホのアプリで雨雲レーダーを起動させながら、先程下ってきたばかりの階段を登り、駅舎の中へと引き返した。
 電車を降りる際にステアレザーの鞄にしまった音楽プレイヤーを取り出して、コードレスイヤホンの電源を入れる。軽快な音楽と深みのある歌詞を気に入っているインディ―ズのナンバーが、鬱陶しい雨の音を遮断して、幾分か気分が良くなった。ノイズキャンセリング機能は、こういうところでも役に立つ。
 だが、雨雲があと三十分程この場所に居座ると示すアプリの画面に、肩を落とさずにはいられなかった。特段、早く帰る必要も無ければ急ぐ用事も無いのだが。なんとなく、一日の終わりに近づいた時間に、こうして無為な足止めを食らっているのは、無駄を過ごしているような気になる。
 とはいえ、雨の中を走る選択肢をとらなかったのは甲洋の判断だ。鞄の中に時間を潰せるような物は入っておらず、財布と仕事用のスマホ、あとはオフィスで後輩にもらった喉飴が一つ。だが幸い、駅の中には小さな本屋があるので、そこに立ち寄ることにした。
 雑誌コーナーの約七割の面積を占める女性誌の棚の奥に、図鑑や辞書、画集など雑多に並べられた本の中から、一冊、目に留まったものを引き抜く。背表紙に『犬コミュニケーション辞典・改』、表紙の写真は可愛らしい日本犬。こういう本はだいたいがポメラニアンなど洋種の小型犬だが、珍しく日本犬の、それも雑種が表紙を飾っていた。実家を出る際に友人宅に引き取ってもらった飼い犬に似ていた。
 暇つぶしにはちょうど良さそうだと、適当に気になった個所を斜め読みする。甲洋は本を読むのが早い方で、同居人の一騎には『速読の達人』というよくわからない異名を付けられたことがあった。中学一年生の時だ。きっと彼は、覚えていないだろうが。ちなみに一騎は自他共に認める、本をおとなしく読んでいられないタイプだ。
 彼のお墨付きの速読でもって、本の内容をほぼ完ぺきに頭の中に記憶した甲洋は、スマホの時計と雨雲の様子を天秤にかけて、もう一冊本を抜き取った。あまり長居するのも店員に睨まれそうだが、甲洋以外にも、いかにも雨宿りをしていますと言わんばかりの客がちらほらいるので、そちらに比べればまだマシだろうか。
 次の本は、世界のお菓子図鑑。文章より写真が多い紙面を適当に捲って、これはあまり興味が無いなぁと本を閉じる。お菓子の造形やデコレーションに興味を持っている人なら面白く読めるのかもしれないが、あいにく甲洋は作るより食べる派である。作ろうと思えば作れるが、悔しいことに一騎の手作り料理がかなり美味しいので、食べる派を甘んじて受け入れていた。
 元あった場所に本を戻して、甲洋は本屋を後にした。駅舎の窓に叩きつける雨は先程よりは弱まっていた。これなら走って帰れるだろうと、もう一度階段を降りて雨の具合を確かめるべく手を伸ばす。
「あっ。甲洋」
 正面のスーパーの扉が開いたら、なんと思いもよらない人物が出てきた。タタ、と水しぶきを飛ばしながら、甲洋の方へと駆け足でやってくる。
「一騎? なんで?」
「スーパーに買い物に来てたんだよ。雨降ったから、やむの待ってた」
 スーパーから出てきたのだから言われなくてもわかる、と甲洋は頷いたものの、一騎の腕には傘が一本かかっている。別に雨宿りをする必要などないだろうに。
「傘持ってるだろ」
「持ってきたけど、あの雨の中を帰る気にはならなかった」
 なるほど。さすがの一騎も、諦めが勝ったようだ。
 一騎は、やみそうで良かったよ、と笑ってビニール傘を広げた。左半分を甲洋の頭上に掲げる。
「このくらいの雨なら、速足で帰ればそんなに濡れなくて済むな」
「俺、走って帰るよ?」
「せっかく傘あるんだし、わざわざ濡れる方選ばなくてもいいだろ」
「そ。じゃ、遠慮なく」
 まだしとしとと降り注ぐ雨の中を、揃って歩き出した。夜道を照らす街灯はいつもより光が届いていないのに、ギラギラと雨を反射して目に痛いような気がする。体感温度を涼しくしてくれる雨ならばよいのに、梅雨と夏の始まりが組み合わさって、少しむわっとする空気になっていた。
 大きめの傘とはいえ、男二人が分けるにはやはり狭い。自然と肩がぶつかったり、たまに傘から落ちる雫が腕を濡らす。蒸し暑いのでできればくっ付いていたくない、というのが正直なところであった。
「もうちょっと寄る?」
「あんまくっつくと暑いだろ」
「今更だろ、それ」
 そんなことを言い合っているうちにアパートに辿り着いて、甲洋は家の鍵を開けるべく鞄を開けた。
 手を突っ込んだポケットから、キーケースと、同じポケットに入っていたプラスチックの袋を掴む。飴玉の袋だった。
「一騎」
 呼びかけて、飴玉を一騎に向かって放り投げる。放物線を描いたそれを一騎は難なくキャッチして、掌を開けると首を傾げた。
「どうしたんだ、これ」
「傘に入れてくれたお礼」
「いらないんだけど……」
 心底いらないと目でも訴えてくる一騎に、甲洋は声をあげて笑って、二人が暮らす部屋に「ただいま」を告げた。


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映画とキスとポップコーン

 吐き出した息が白く烟り、口元を覆うマフラーの位置を右手でずらした。
 曇った眼鏡が徐々に視界を取り戻していく先、世間は月末に迫るクリスマスが待ちきれないとばかりに木や建物やらに装飾を施している。綺麗だとは思うが、興味を引かれる対象でなかった。スマホの画面に表示された時刻の方が、今は重要だ。
 二十時四十四分五十一秒。待ち合わせの時刻の五分近い遅れ。待ち合わせをしている相手は、同居人。
 電車が遅れている、と連絡が来たのは十分前のことで、わかったとすぐに返したが既読が付いただけでそれ以降は沈黙。電車の運行情報を調べると、確かにあいつが乗っているであろう路線は遅延していた。五分の遅れ、と出ているということは、おおよそ倍は見ていた方がいい。
 このまま外で待つか、寒さを凌ぐために建物の中に入るか。選択肢を天秤にかけ、後者に傾きかけた時、人の波を掻き分けるようにしてこちらを目指す存在が目にとまった。
「一騎」
「お、お待たせ……」
 全速力で走ってきた割に息があがっていないが、焦っているのは表情から読み取れる。
「……早くないか?」
「走った」
 見ればわかる、とは言わず、確かにこいつなら普通なら五分はかかる道程を半分の時間で走れきれるなと思い直した。
「待たせて悪い」
「ちゃんと連絡くれたんだし、たいして待ってないよ。行こう」
 促せば、軽い足取りで隣に並んだ。
 横を歩く一騎の耳が赤い。つめたそうだ。さすがにこの寒さで走れば、体は暖かくても末端は冷えているだろう。
 暖めてやろうかと手を伸ばしかけて、一騎はめっぽう耳が弱いことを思い出した。さすがに人前で腰砕けにさせるのは、いろいろ悪い気がする。
 手は代わりに鼻をつまんで、目を丸くするとどこか幼く見える彼に、「真っ赤」とからかい混じりに言ってやった。

***

 甲洋から映画を見ようと誘われたのは、一緒に暮らすようになって初めてのことだった。理由とか、そういう前置きはなくて、ただ突然「映画、見に行かない?」と。
 断る理由が無ければ承諾する理由も特になかったけど、「うん」と返していた。聞いた当の本人がちょっとびっくりしたような顔をするから、誘ったのはそっちだろ、いや、と煮え切らない会話になる。
「来週の土曜日空いてる?」
 甲洋はそう聞いたけど、きっと仕事のシフトとか二人の予定を全部確認した上で、意思を問われているのだと知っていた。来週の土曜日。俺の仕事が、休みの日。
 手際よく決められていく待ち合わせ場所とか時間に頷いてたら、わざわざスケジュールを記したメッセージまでスマホに送られてきた。そんなにすぐ忘れないのに。
 そんなこんなで当日になり、仕事に行く直前の甲洋と夜の待ち合わせを確認すると、なんだかソワソワした。結果的に電車が遅れて甲洋を外で待たせてしまったのが申し訳なくて、謝罪の意味も込めて二人分の珈琲を買って渡したら「別に良いのに」と苦笑していた。カップは、ちゃんと受け取ってくれた。
 ポップコーンの味は適当に、塩とキャラメルを選ぶ。甲洋は割とこういうのが好きで、「映画を見るならポップコーン」みたいなのを楽しんでいるようだから、かわいいところもあるんだよなとしみじみした。
 こういう、変にかっこつけないところは良いなと思う。自然体でいてくれる。たまに雑なところも、クールなところも、甲洋の一面で、たぶんそんなに知っている人はいない。
「映画、レイトショーなんだな」
 今更ながらに気付く。チケットに記された終わりの時間は二十三時に近かった。タイトルも監督も知らない、そしておそらく、邦画ではないのだろう。なんの前知識もなく見る方が面白いよという甲洋の勧めに従ったが、途中で寝ないか少し心配になった。
 甲洋は肩を竦めて、寝ても良いよと先回りする。
「寝ない」
「どうだかな」
 そう言い合っているうちに、映画は始まった。見ているのは、俺たちを合わせて十一人しかいなかった。

 右腕が無い青年と、彼と一緒にバイクで旅をする青年の話。付け加えるなら、とても静かで叙情的な映画。
 主人公たちの会話は多いという程でもなく、旅をする間に出会った人達とも根無し草以上の交わりを築かず、ただ二人であてのない旅をする。
 何故、そうするのかとか。
 二人の関係性とか。
 語られない側面の多さこそが、この映画の余韻なのだと納得できる、そんな物語。
 帰る場所を見つけない彼らの旅は、面白いかと問われると一騎にはよくわからなかった。けれど。
――帰る場所を見つけたら、俺たちはどこに行くんだろうな
 片腕の青年が旅の途中で呟いた一言が、頭から離れなかった。

***

 帰りの道中、一騎は始終無言のままで、帰宅してからも妙に口数が少なかった。
 冷蔵庫から取り出した牛乳を電子レンジで温めながら、風呂に入っている一騎のことを考える。時計の針が指し示す、二十四時まであと八分。電子レンジの残り時間は、一分一秒。
 映画のシーンのどこかが、一騎の琴線に触れたのであろうことは想像がついた。別に、映画の感想を言い合おうなんてことを一騎に求めていたわけではないが、ああも思い詰めたような表情をされてしまうと、さすがに気になるわけでーーそうだ、無言の一騎の瞳は、深夜に瞬く星よりも微かな光をその中心に灯し、「どこか」を探しているようだった。あてなく旅をするあの映画の主人公たちよりも、帰り道を探す迷子のような様子で。
 電子レンジから取り出した牛乳に口をつける。生温さと、舌を包むまろみ。変哲もない牛乳の味。
「甲洋、風呂上がったよ」
 風呂場から顔を出した一騎が、タオルを肩にかけてキッチンまでやってきた。
 瞳の中に、星はない。
「……ほら」
 温めたばかりの牛乳を一騎に手渡す。好きに飲んでいい、と言うつもりで開いた唇。だが声は発されず、代わりに一騎の両腕が行く手を塞いだ。
「一騎?」
 一騎は無表情だった。ただ瞳だけが俺を見上げて、見つめて。嗚呼、何となくわかってしまったような気がした。
 帰る場所はここだと言ってやれば、一騎は安心するだろうか。でも、生憎そんなに優しくはなれない。
 こいつが何を考えているのか、触れるだけでわかればーーそう考えて、非現実的な想像だとやめた。
 あるがままを受け入れるこいつが、それを恐れる。そういう存在が俺なのかもしれない。
 なにもせず、ただ待った。拒絶も、受容も、置き去りにしないように。
「甲洋」
「うん」
「……いいか?」
 何を、とは聞かずに首を傾けて、笑うだけに留めた。
 たぶん、嫌だと言わない時点で答えは出ているのだ。
 キッチンのカウンターに寄りかかった俺の頬に、一騎が手を伸ばす。少し背伸びをした足元で、スリッパがペシッと間抜けな音を立てて床を叩いた。
 牛乳とキャラメル味が混ざりあって、甘ったるい香りが広がった。


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下弦の月と二人の時間

 しゅうしゅうと煙がケトルから噴き出す音色のすぐ後に、カチンと機械音が鳴った。
 静かな部屋に、やけに大きく響いた音は、眠りの淵に腰掛けていた意識を浮上させるのには十分だ。一騎は立ち上がり、時計を見る。夜も更けて、特にすることもない休日が終わりを迎える時間帯。視界を一度閉ざし、眠気を追い出すようにぐっと背伸びをして、キッチンに向かった。
 ひたりと裸足の裏に貼り着いた冷気が、漣のように腰のあたりまで這い上る。暦の上では初夏を迎えたものの、季節外れの寒気は部屋をどこか肌寒くて物寂しい雰囲気に浸していた。
 緑茶の茶葉を一人分、パックに移してコップに入れる。そこにお湯を注ぎ、箸でクルクルと掻き混ぜてパックを取り出し、熱々の緑茶をゆっくりと口に含んだ。緑茶は微温湯の方が渋みが無いとか、急須でいれた方が香りがいいとか、こだわればこだわるだけ美味しいのはわかっている。が、そういう細やかな気配りが面倒になることもある。そういう時は、即席緑茶パックを作って適当に沸かしたてのお湯に放り込んで、指先をカップに添え暖めるのも悪くはない。
 ベランダから外に出てみると、下弦の月が隣のアパートの屋根の向こうに在った。仄かに夜空を照らしていて、目を凝らすと星も控えめに瞬いている。見上げながらズズと緑茶を啜る音が、やけに大きく響いた。
 この部屋のもう一人の住人である甲洋は、先月から海外出張に行っていた。互いに別々の仕事をしている身だが、一緒に暮らすようになってからこんなに長く顔を見ないのは初めてのことだった。だからと言って特に寂しいとも思わないし、いちいちメールで安否を確認するほど気にかけているわけでもない。ただ、無意識に何かをしようとする時に、「甲洋」と呼びかけようとしている自分がいることに驚いた。故郷にいる父親にも幼馴染たちにも感じたことの無い、不思議な感覚だった。
 手摺を背にすると、薄暗い部屋の中ではカーテンが揺れていた。ガラス窓に反射した月の光が、一騎の表情を照らす。半分に減った緑茶に視線を落としながら、いつだったか、ベランダで甲洋がギターを弾いてくれた時のことを思い出した。
 音色は、正直に言うとあまり記憶に残っていない。聞いたことのある曲で、月に関する曲名だったことはかろうじて覚えているが、むしろ滑らかに弦を弾く指先と月明りに照らされた横顔の方が、瞼に焼き付いていた。
 甲洋が座っていた手摺に、一騎も腰かけてみる。ちょっとだけ床から足が浮いて、後方に傾いた上半身が咄嗟にバランスをとった。甲洋はこんなことをしなくても足が届いていた。思い出して、ムッとする。
「……明日か」
 この静寂が埋まる。冷たい月の光が、ほんのり暖かくなるような心地。
 やっぱり、不思議だ。
「夕飯、何が良いかな」
 冷蔵庫の中に大した食材はない。あるのは、一応用意していた一つだけ。野菜や肉や魚は、仕事帰りに買ってこなければ。やはり、海外帰りだと和食が良いだろうか。一騎はもう一度、月を見上げた。
 冷たくなった緑茶の残りを飲み干しても、寒さは感じなかった。

***

 高速道路を降りて、タクシーは夜の町を走る。見慣れた繁華街を通り、人気の少ない道をゆっくりと走って、ウィンカーを三度鳴らした先で運転手に声をかけた。
 空港から約二時間の道程は深夜のタクシー代としてはかなりの額で、領収書をきっちりともらったのを確認して車を降りる。三週間近い出張にしては少ない荷物とお土産の袋を持って、帰ってきたアパートを見上げた。
「……部屋の電気、点いてるんだけど」
 腕時計は深夜の四時を指して――いや、この時間なら明け方というべきか。太陽が昇るにはさすがにまだ早い時刻だが、商店街の店にはちらほら明かりが灯っていた。
 なるべく音を立てないように階段を登って、辿り着いた先の部屋の鍵穴に鍵を差し込み回した。がちゃん、と錠が外れて扉が開く。ほう、と小さく息が漏れて、
「甲洋?」
 驚いた顔の一騎が、上半身だけ変な角度で身体を傾けていた。
「……なんで、起きてるんだよ」
「今日、朝早いから……甲洋は、帰るの夕方だって言ってなかったか?」
 なるほど、と甲洋は納得した。仕事のシフトが朝ならば、この時間から支度をしていてもおかしくはない。
「向こうが台風来るって予報で、飛行機を早めたんだ。こんな時間だし、連絡しなかった」
「そっか」
 一騎の頭がもぐら叩きの頭みたいに引っ込んだ。
 玄関に取り残されたような気持ちになったが、ここは甲洋の住む家なのだからそんなわけもなくて、ひとまず大きい荷物は置いたままお土産の袋だけを手にリビングに入る。
「これ、お土産だから」
「そうなのか? 悪いな」
「一騎が帰ってきたら食べよう」
「それ、夕方になるけど」
「夕食代わりになるよ」
 ほら、と見せたのは向こうの空港に売っていた乾麺の袋だ。書いてある文字はまったく読めない。
「和食が良いって言うのかと思った」
 夕飯の話だろう。「読みが外れた」とぼやく一騎に冷蔵庫の中身を問うと、買ってくるつもりだったと返ってきたので胸を撫で下ろす。食材を無駄にするわけじゃないらしい。夕飯の予定があるのならそれを優先すればいい話ではあるが。
「じゃ、俺はもう行く。すれ違いになって悪いな」
「いいよ。気を付けて。いってらっしゃい」
「うん……あ、そうだ。おかえり、甲洋」
 帰ってきたら出掛けて、入れ違いのせいで謎の挨拶の応酬だ。ただいまと甲洋が返したら、微笑んだ一騎はすぐに行ってしまった。それにしても、「あ、そうだ」とはずいぶんなものだ。甲洋は苦笑交じりに上着を脱いで、荷物の片付けを始めることにした。しようとしたが、玄関の扉が開いた。
「甲洋、誕生日おめでとう!」
 それだけ言い残して、一騎は甲洋の反応を待つことなくすぐにいなくなった。バタン、と再び玄関の扉が閉まる音が間の抜けた効果音となって、甲洋は呆気にとられる。もっとゆっくり、時間のある時ならば、ありがとうを言えたというのに。あまりにもあっさりしていたのと、自分の誕生日のことなど出張もあってすっかり忘れていたので、感慨も特別感も薄い。
「……いそがしい奴」
 帰宅して早々のやりとりだ。普段大した会話は無いのに数週間を開けると妙な楽しさがあって、不思議なものだなと口元が緩む。
 そして不意に目に入った壁掛けカレンダーの、今日の日付に記された謎のマークに、じわじわと形容し難い羞恥心のようなものが込み上げて、甲洋は「はぁぁ」と項垂れた。


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ホットワインとマグカップ

 三連休の初日に、突然荷物が届いた。
 一騎宛のそれは、片手で抱えられる大きさの段ボール一箱。押し入れから引っ張り出したばかりの炬燵の上で開封する一騎の後ろで、昼食の後片付けを終えた甲洋が訊ねた。
「史彦さん?」
「うん」
 がさごそと炬燵机の上に広げられていく袋の中身は、主に海産物の乾物と佃煮、御門屋の和菓子、島にんにく。あとは、二重の包装が施された円柱の筒。最後に、電話横のメモ用紙を折り畳んだような薄黄色の紙が置かれ、一騎は黙々と段ボールを解体していった。
 数か月に一度、故郷に住む実父の史彦から一騎宛に仕送りが届く。中身は日持ちするものがほとんどで、たまに果物が入っていることもある。野菜類を送ってきてくれたこともあったらしいが、自分で選んだ方が良いと一騎から断ったそうだ。
 手紙には、簡潔に一騎の体調を労う言葉が記されていた。風邪を引かないように、で締めくくられた達筆は甲洋も何度か見たことがあった。
「後でお礼の電話しておきなよ」
「別にいいって言ってるのに……」
 郵送費をかけて送ってもらうこと自体に今でも抵抗があるようで、一騎は荷物が届く度に、次はもういいから、と断っていた。だが、故郷を離れて暮らす息子に何かしてやりたいという親心だろうか。仕送りが止まることはなく、故郷に帰らずとも懐かしい味が、送られてきた食材を使って一騎の手で生み出されている。
 一つずつ目を通していた一騎が最後に手に取ったのは、細長い筒。厳重な包装を解いて取り出された中身は、これまで一度も送られてきたことが無い種類の仕送りだった。
「ワイン?」
 ゴトン、と重い音を立てる黒色の瓶を二人で囲む。まだ青みが残るみかんの入った籠の隣に、ワインボトル。ちぐはぐで、なのに妙に合っているようにも感じた。
「ナレインさんから貰ったみたいだ」
 一騎の指が、もう一枚、折り畳まれた紙切れを広げる。ナレインは一騎の父である史彦の仕事相手だ。インド出身で、世界中を飛び回る商社マンらしい。故郷にいるときに、一度だけ見たことがある。自衛隊員のような体躯で優しい眼差しの人だ。
「それしか書いてない」
「なにそれ」
 苦笑して、ボトルを手に取った。ラベルはドイツ語と英語が併記されていて、ドイツ産の五年物だということがわかる。銘の知名度まではさすがにわからなかったが、懇意にしているナレインからの貰い物なら質の良いワインなんだろう。
「史彦さんって、ワイン飲まなかったっけ?」
「さあ……ビールと日本酒なら家にあったけど」
「溝口さんと飲んだりとか」
「想像つかない」
 即答され、その答えをもっともだと思った。二人の間で響くワイングラスの音色を想像して、思わず口角が上がる。揶揄いたいわけでも馬鹿にしているわけでもないのだが、形容しがたい面白さを感じてしまった。
「俺もワインは飲まないし……甲洋は?」
「んー……」
 アルコールはそれなりに強い自負はあるが、一人で飲むワインは味気ない。
 一騎は、どうしよう、総士なら飲むかな、と腕を組んで頭を悩ませている。ボトルごと渡す様子だが、総士は一人でワイン一本を開けるような酒好きというわけでもないし、逆に困らせてしまうのではないだろうか。それに、普段は飲まない種類のお酒だ。口にせずというのも勿体ない気がする。
 ふと最近SNSで見かけた投稿が脳裏をよぎった。
「……試してみたいことがあるんだけど」
 首を傾げた一騎に、ドアの方を親指で指し示した。
「買い物、行こう」

***

 シナモン、クローブ、生姜スライス、砂糖。果物は林檎。オレンジの代わりにみかんはどうだろう。
 皮のまま輪切りにし、ワインと一緒にすべてを鍋に混ぜ入れて火にかける。最初は中火。気泡ができはじめたら、弱火に。煮立つ前に火を止めて、果物はすべて取り出した。レードルをゆっくり揺り動かし、鍋の中を掻き混ぜて粗熱をとっていく。
 一騎は部屋で何かをしていたようだが、頃合いを見計らったのかリビングに顔を出した。
「もうできるよ」
 声をかけると、ああ、と軽い返事が飛ぶ。出したばかりの炬燵に半身を入れ、じっと甲洋を見つめた。観察している視線より、興味と期待だろうか。少し背がかゆい。
 いつも珈琲を飲んでいるマグカップに、作ったばかりのホットワインを注ぐ。琥珀色ではなく濃赤色の液体から、煮詰めたフルーツとシナモンのツンとした香りが湯気と共に燻る。跳ねた液体がカップの縁に垂れ、指先で拭った。
 手渡したカップを両手で受け取った一騎が、ゆっくりと口を付ける姿をソファに座り眺める。
「? アルコール入ってるか?」
「加熱してるから、度数は下がってると思うよ」
 ふぅん、と気の抜けた声が返る。
「おいしい」
「そう?」
「おいしいって」
「ありがとう」
 念を押されて苦笑する。別に、嘘だと思ったわけじゃないのに。
 口に含むと、甘さよりもスパイスの方が効いていた。入れすぎただろうか。けれど、身体は温まる。
「飲みやすいよ。あんまり砂糖入ってないよな?」
「そうだね。思ってたよりイケるな、この飲み方」
「これなら父さんも……」
 呟いた一騎が想像しているのは、袢纏を着た史彦がホットワインを持っている場景だろうか。ワイングラスよりは違和感が無いかもしれないが、やはりどうにも失笑に吹き出してしまいそうで腹に力を入れた。
「帰ったら作ってあげな。レシピは簡単だから教えるし」
「……飲むかな……?」
 そう言っている間にも、一騎のカップの中身は減っている。どうやら気に入ったようだ。作ってみて良かった。
「甲洋」
「なに?」
「おかわり」
「はいはい」
期待に満ちた目を向けられて、やれやれと立ち上がった。


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