Blinding

My incantation

 煌びやかな表舞台の裏には、悪魔が身を潜めていると大昔の書物は語る。現代も変わらず、華と黄金に彩られた表舞台と、陰謀渦巻く政争の裏側。主が身を置く人間という面を被った悪魔が跋扈している世界は、書物で綴られている以上に物語のようなものだ。
 一騎は読み物をあまり得意とはしていない。が、古今東西のありとあらゆる伝統、慣習、政治体制に興味を持ち、文学から科学まであらゆる分野の専用の書庫まで作らせるほどの知識欲を有する人物は、主人をおいて他にいないだろう。
 昨晩も遅くまで東の国の難しそうな本を読み耽っていて、さすがに日付を越える前に自室に連行した。集中しすぎると時間を忘れてしまう性格は幼い頃からで、一騎にとって主人の時計となるのは重要な仕事の一つであった。
 大理石が敷き詰められた廊下、西方の国から取り寄せた高級な絨毯、金細工を施された窓枠。そういった、いわゆる権力を誇示するための様々を、必要なことだと理解していても一騎の主人は殊更嫌う。無駄だ、と吐き捨てる程に。彼の意向を反映した自室の内装は、過度な装飾を削ぎ落とした非常にシンプルなものだ。
 一騎に与えられた部屋も同じ。無用に飾り立てる事に意味を見出せないのは同様で、非常にシンプルな部屋を一騎は気に入っている。もちろん、主人に贈られたものだということも大きい。白をベースに、緑のカーテンと木目調の家具は一騎が選んだものだ。
 そんな部屋は、廊下を通らずとも主人の部屋とを繋ぐ一枚の扉を有している。鍵はかかっていない。かけることはできるが、何か異変を感じた時に主人の部屋に急行できないようでは、扉の意味が無いからだ。
 今はだいぶ落ち着いてきたけれど、現王が即位した際に王族の嫡男である主人を敵対する派閥や敵国やらが狙った。現王に対する脅しの意味もあっただろうが、何より有能である主人を妬み恨み、命を奪おうとした。
 毎夜放たれる刺客から主人を守るため、寝ずに部屋の隅で気配を殺していた事もある。
 一騎にとって、主人の命は何に代えても守るべき第一であり、己の身の危険など二の次だ。落ち着きを取り戻してきた後も、何かあればすぐに対処できるようにと隣の部屋を充てがわれ、扉を使う事を許された。
 一年もすれば治世は軌道に乗り、扉が使われる機会は少なくなったかと問われればそうでもない。治世は安定したが、肝心の主人は度重なる襲撃に神経が過敏になり、夜中に寝付けないと本を読む癖ができてしまった。お陰で朝に弱く、政務が滞る事は無いけれどいつも不快な顔で朝食の席については「ちゃんと寝て」と父王や妹姫達に苦言を呈されるようになり。それはそのまま一騎への忠告、いや、無言の圧力へと転換され、いつの間にか「一騎が傍についてあげて一緒に寝てあげれば安心だ」というよくわからない理屈へと発展していた。
 命令されれば拒否権など無い。幼馴染みとはいえ同性同年齢の主人の添い寝という名誉なんだか不名誉なんだか首を傾げる平和な勅命を受けてから、件の扉を使って主人の部屋とを行き来するようになった。
 だいたいは書庫に籠る主人を自室まで送り届け、一旦部屋に戻って寝るのに適した格好に着替える。剣は手に持ったままだが、添い寝を始めた頃に普段の格好でいたら「暑苦しいし逆に不快だ」と散々な言われ様だったので、なるべく軽装で、しかし何かあれば最低限の防御となる服を選んだ。
 着替えが終われば、扉を通ってベッドに既に横になっている主人の枕元に腰を下ろす。手を握れ、と命令されればそうするし、求められれば横になって抱き枕にもなる。主人と従者の関係で、と顔を顰める者もいるだろうが、幼馴染みという間柄だけを考えれば抵抗感など微塵も感じない。一騎に与えられた使命は、主人をちゃんと寝かせる事、だ。その方法の一つに過ぎない。
 ちゃんと寝入ったのを確認してから一騎も自室に戻って休息に入る。たまに一緒になって眠りこけてしまう事もあるが、毎朝必ず同じ時間に起床し、一通り身体を動かしてから主に覚醒を促す。
 たっぷり三十分はかかる目覚めの時間を計算した上で、朝食を廊下で待つメイドに頼む。ぼんやりとした眼のままちゃんと服を着替え始める主の手助けをし、美しい髪を整えればすっかり完璧な王子様の完成だ。
 一騎の主人――名を、皆城総士。この国を統べる皆城家の嫡男で、この国の次代の王となる人物。一騎にとってかけがえのない幼馴染であり、主であり、命を捧げる唯一。
 主人を護ることは、一騎がこの世に生まれ名を与えられた時から課せられた宿命であり、自らの意志で選びとった運命だ。
 総士と共に生きることを決め、契約を交わすことで総士の魂の半分は一騎の一部となった。人智を超えた精霊の力を魂に刻まれている皆城の人間との契約は、一騎自身を精霊に捧げる事と同義。一騎は総士の、ひいては皆城家のために存在し、それ以外を望まず、盾となり矛となり手足となる。
 一騎が選んだ道を、喜びも悲しみもせず総士は感情を押し殺して受け止め、己の騎士として傍に置いてくれている。
 御大層な関係性は表向きに明らかにされてはいない。あくまで一騎は総士付きの騎士であるというだけ。最近の主な仕事は、総士の身辺警護以上に添い寝と起床の手伝い。平和なので、まあ良しとしておこう。
「おはよう、総士」
 今日も今日とて気持ちよさそうに寝息を立てている主人に声をかけて、軽く頬を叩く。一国の王子に対する態度ではない、あくまで幼馴染としてである。
「ほら総士、起きろ」
 目を開ける気配すら無い。形の良いパーツをすべて揃えたような横顔に呆れの視線を送る。総士の整った容姿は、女性からすればずっと見ていても飽きないものだと評されているが、今この時は問答無用でつねってやりたくなるもので。さてどうやって覚醒を促そうかと手を引っ込めかけたところで、パシリと手首を掴まれた。
 ぱちぱちと音がしそうな長い睫毛を上下させて、とろりと灰色の瞳が一騎に注がれる。おはよう、と再度声をかけると総士は眠気眼で身をよじりながら一つ伸びをして、掴んだままだった一騎の手の甲に唇を寄せて柔く噛んだ。ちり、と微かな痛みを覚えるがたいしたことは無い。皮膚の薄いそこはきっと赤い痕が付いてしまっているだろうが、誰に見咎められるものでもないので好きにさせた。
 妹姫たちに至っては「総士は一騎のことが好きだからそれくらいは受け入れてあげて」とお願いしてきている。好きという表現が適切かどうかはさておいて、嫌なことは何も無い。こうやって無防備な姿を見ることを許されている、その事実は一騎にとってむず痒くなるような喜びを抱かせてくれるのだから。
 噛み跡を舐めたり指でなぞったりを繰り返して満足したのか、起き上がった総士に着替えの服を手渡す。
 ようやく、主の低く耳に心地よい声が朝日の差し込む部屋に一日の始まりを告げた。
「おはよう、一騎」


 きっちり三十分後、総士をダイニングまで連れて行くと、先客がいた。
「おはよう、総士」
「おはよう、織姫。立上も」
「おはようございます」
 美しい黒髪を緩く束ねた少女が二人。総士の妹である皆城織姫。そして、彼女を主と戴く立上芹。柔らかに微笑み礼をとる芹の傍ら、朝食の席についていた織姫は一瞥するだけで再び自分の食事に戻った。
 顔を上げた芹の胸元に輝く徽章は、彼女が一騎と同じく王族を主とする騎士であることを示している。翼を広げた竜がエメラルドの結晶を護る様子を模した構図は、皆城家をエメラルド、一騎達騎士を竜に見立てた物だ。
 また、徽章だけでなく腰に下げた鞘のデザインも地位によって異なる。芹のそれは一騎の物とよく似ているが、細部の宝石の色が異なっていた。
 一騎は紫。総士が纏う色。
 芹は金と赤。総士の妹である双子の姫、乙姫と織姫の色。
 彼女は、織姫と乙姫の二人を主としている。二心があるのではと勘繰る者もいるが、芹にとって乙姫も織姫も優劣など付けられないほど大切な存在であることは一騎も総士も、もちろん当の本人達も十分に理解していて。父王に息子娘が揃って芹を認めるようにと直談判しに行ったのは記憶に新しい。
 一騎は幼馴染という関係と、そもそも皆城家を護るための血筋であることが強く影響し王族付き騎士という立場は定められたものだった。芹は、偶然騎士団の稽古に訪れた城で乙姫と織姫を助けた事が始まりだった。何の縁か、三年の月日をかけて親衛隊まで異例のスピード出世を果たし、つい数ヶ月前に王族付き騎士の称号を得たばかり。まだ城での生活も慣れておらず、総士や一騎を見る度に畏まるのでそろそろ気軽に話しかけて欲しいというのが一騎の目下の懸念だ。
「織姫だけか。乙姫はどうした?」
「先に衣装合わせをするそうよ」
「朝食を食べ損ねるぞ……まったく。立上、すまないが呼んできてくれ」
「えっ……」
「構わないわ、一騎もいるし。行ってきて頂戴、芹」
「は、はい!」
 すみません、と恐縮しきって頭を下げる芹を見送り、席に着いた総士の横にあるサイフォンの用意を始める。フィルターから器具の細部にまで違和感が無いかを確認し、最後に特殊な紙に包まれた珈琲を一嘗。一般的に毒味と称される行為にはきちんとした毒味係がついているが、珈琲だけは一騎がその役を担う。総士の希望で、珈琲についての一切を一騎が任されているからだ。
 最初は毒味などしなくていいと渋い顔をしていたが、そういうわけにもいかないとそれだけは譲らないでいる。
「一騎、私も珈琲が欲しいわ。ミルクたっぷりのものね」
「わかった」
 給仕にホットミルクを頼んで、手元のサイフォンに抽出が終わった珈琲をカップに注いだ。総士の前にほんのりと湯気の立つカップを置く。澄んだ黒が僅かに波打ち、飲んでもらうのを待っているかのように静まった。
 有名な彫刻家の作品と見間違うほどに滑らかな指が、ソーサーを持ち上げる。ハンドル部分に指を添え、カップの端が口元で傾きブラックの香りを楽しんで口に含む。一口目が喉を通り、ほっと息をついて二口目。この一連の流れがあまりにも美しくて、毎日見蕩れてしまう。
 自然と浮かぶ安心しきった笑みが、一騎は一等お気に入りだ。自分の作ったものを口にして、総士が心底嬉しそうにしてくれる。
 一騎の珈琲は、同じ豆を使っているというのに城内の誰もが格別に旨いと噂する程の味だ。誰が言い始めたのか(おそらく騎士団の筆頭を勤める溝口だろうが)総士にだけ振る舞われる一騎の珈琲の香りがとても良いと評判になった。こぞって試飲に訪れる騎士団の面々に、総士が「一騎の珈琲は、僕と僕の妹達のためにある」と助け舟を出してくれた。
 とてもありがたかったので感謝すれば、乙姫と織姫が呆れた顔で「総士は一騎を独り占めしたいんだよね」「それを嫉妬と言うのよ」と呟いていた。珈琲一つで嫉妬なんて大袈裟だが、少々バツの悪そうな総士の顔には思わず吹き出してしまった。
 織姫のために暖めたミルクを軽く撹拌する。珈琲に半々の容量で丁寧にミルクを注ぎ珈琲ミルクの完成だ。総士と同じように織姫の前にカップを置けば、いただきます、と丁寧な挨拶と同時にカップを両手で持ち上げた。
 いつも微笑みを絶やさない乙姫に比べ、織姫は感情表現に乏しい。そのあたりは総士とよく似ていて、もっと笑った方が可愛いといつも思っている。だから珈琲を一口飲んで「美味しい」と微笑む姿を見る度に、一騎は嬉しくなった。こんなところまで良く似ている、優しい兄妹だな、とほんわかとした。



 わざわざ乙姫も朝食の席に呼んだのには、理由がある。
 優雅な朝の光景に浸ってはいるものの、今日の夜は皆城家の一大イベント、乙姫と織姫の社交界デビューなのだ。それはもう父王が張り切って準備を進め、二人に似合うドレスやらアクセサリーやらを半年も前から作らせていた。もちろん総士も、可愛い妹の為に選定の議論には欠かさず加わっている。
 芹に伴われた乙姫が朝食を終え、ダイニングは食後の団欒とは裏腹の緊張感に満ちている。重苦しくはないが、主人達の一歩後ろで騎士二人は一瞬だけ視線を合わせ、場で最も威圧感を放っている総士の言葉を待った。
「社交界に足を踏み入れれば、護られるばかりではいられない」
 総士が危惧することを、乙姫も織姫もちゃんと理解していた。まだ十五を迎えたばかりの妹二人を前に、本来ならこんなことを言いたくないだろうに。苦々しい思いでいるのが手に取るようにわかる。
 一騎の立場からでは軽率な発言はできないし、基本的に口下手なのは承知しているので余計な口出しはしない。だが、妹の社交界デビューを心から祝福できず辛そうに眉を寄せる総士を見ているのは辛かった。
「わかってるよ、総士」
「私達も身の振り方を考えなければいけない。もう子供ではいられないもの」
 実年齢以上に達観した物言いと冷徹さを秘めた同じ色の瞳で、妹姫は総士を見上げる。
 その中を探るように泳いだ総士が、ふぅと一つ溜息をついて意を決した声で告げた。
「今日のパーティーに乗じて不穏な輩が紛れ込む可能性がある。事前の招待客は他国の賓客ばかりだが、同伴者に不審者がいないとも限らない」
「警備は、いつもの倍以上いるのでしょう?」
「ああ。騎士団もその任に当たる。今は立上もいるし、直接的な企みはさほど問題ではない。問題は、手引きされて内部に侵入され、間接的に狙われた場合だ」
「毒とか、家具になにか仕掛けられたりとか、ね」
 織姫の指摘に、総士が口の端を歪めた。客観的な視点を頼もしいと思いつつも、どこまで現実を理解しているのか測りかねている顔だ。
「握手を求められたり、近づく者は多いだろう。なるべく身体的な接触は控えて、相手をよく観察しろ。その点については君がしっかりと見ていてくれ」
「はい……!」
 急に水を向けられて、芹の背がピンと伸びる。
 初めての公務に近い行事が主の社交界デビューとは、ずいぶんと重い任務になりそうだ。可能な限りフォローをするべきだろうが、これを乗り切れば芹にとっては良い経験となる。
 緊張の面持ちを崩さないでいる芹が、どこまでパーティーの場を理解しているかは知る由も無いが、来客は曲者から良識在る知者まで様々だ。ただ、大体は欲と権力が蔓延り、隙を見ては手を伸ばしてくる。
 一騎は、総士自身がそうした輩への対処法を備えているため、言葉ではなく物理的に護る方に重きを置ける。乙姫と織姫はどうだろうか。二人は聡明で、人の本質を見極める事に長けている。その点、他者を見る目に疑いを持つ必要は無いだろうが、相手から強引に迫られればやはり芹の出番になってくる。主を護る事ができなければ、騎士に騎士足る意味はないのだから。
 総士が芹を頼るのなら、十分護りきれると踏んだということだ。自分がとやかく言う事ではないと、主の決定に従う事にした。


 ちりん、と扉の奥でベルが鳴る。そろそろ午前の政務の開始時刻だ。
 夜に、と別れて退出する女性三人の後ろ姿が扉の向こうに消える。気配が離れた事を確認すると総士が「一騎」と近くまで来るよう促した。
 逆らうことなく傍らに膝をつき、手渡された二枚の紙にざっと目を通す。
「入り込まれる可能性がある。おそらく、祝辞のタイミングまでに何か仕掛けてくるだろう」
 そこには、三人の男の名前と容姿、そして国籍が書かれていた。要注意を意味する赤の印が、歓迎できない人物であることを示している。
 先程妹達に向けた、覚悟を見定めるような冷たい瞳ではなく、本当に冷徹な、相手の存在すら許さないと語る光を宿した灰紫が細められた。組み直した足の上で、右手を握り締める。
「騒ぎが起こる前に捕まえろ。殺しはするな。乙姫と織姫だけでなく賓客になにかあってからでは厄介だ」
「騎士団に任せないのか」
 一騎にこれを託すということはすなわち、一時でも総士の側を離れて捕縛に当たれということだ。安易には復唱できない。
「彼等では大袈裟になる。サポートが必要なら神殿に頼んで遠見をつけよう」
「……いや、いい。俺だけで動く」
 遠見の名に、一瞬傾きかけた気持ちを奮い起こす。
 精霊との誓約を結んだ皆城家と、精霊を信仰しエスペラントと呼ばれる能力者を擁する神殿は、深い繋がりがある。その中でも、現代最高の能力を有するエスペラントの叔母に当たる遠見真矢は、一騎や総士にとって信頼できる人物だ。一騎が総士の騎士ならば、真矢は神殿の騎士のようなもの。彼女自身の能力値も高く、剣の扱いもそこらの騎士と同等かそれ以上。サポートをしてもらえればこの上なく頼りにはなるが、それこそ話が大きくなりそうな予感に首を横に振った。
「お前の護衛はどうするんだ」
「甲洋をつけよう。それならお前も満足だろう?」
 甲洋は一騎と総士の幼馴染みであり、親衛隊の一員だ。彼も真矢と同じく、とても優秀な人物である。頭の回転が速く、総士はそちらの面でも甲洋を重用していて、確かに頼もしいがなんとなく面白くなかった。
「……こっちを甲洋に預ければいいだろ」
「確実に仕留めるには、お前以上の適任はいない。僕が最も信頼するのはお前だからな」
 その言い方はずるい。断れないではないか。
 二の句が告げず、一騎は俯いた。大切な妹姫を護るために自らの騎士を外すなんて。しかもそれが、一騎を心底信頼しているから、だなんて。反抗心がしゅんと形を潜め、一騎の心を燻らせた。
 総士に誂えてもらった鞘を左手で握りしめ、長い逡巡のあと、一騎は首を縦に振る。
「……わかった。でも、ずっとは駄目だ。騎士団の警備網にこいつらが引っ掛かったら、俺が行って捕まえる」
「……僕の話を聞いていたか」
「俺は総士の騎士だ。お前の隣を離れるのは嫌だ。総士に何かあったら、俺は俺を許せない」
 こんな感情論で総士の納得を得られるなど思ってはいなかったけれど、一騎の言葉のどこに心打たれたのか、総士が僅かに眉を上げて口元を手で覆った。頬に僅かに朱が差す。
 しばらくして、まったく、と折れたのは総士の方だった。
「それで他意が無いんだからな、お前は」
「……どういう意味だ?」
「お前が言ったとおりの意味だ……わかった、こいつらの手配は騎士団の一部と、甲洋や操にも知らせておこう。存在を確認次第、お前が確保に向かえ。その時は、甲洋が僕の護衛にあたる」
「……わかった」
 最大限の譲歩だということは察せられたので、大人しく是を返す。
 ふと芹には伝えていないのだろうかと疑問に思い、問う前に総士が切り出した。
「立上にはもちろん知らせるが、あいつはあいつで限界があるだろう。今回は騎士であるあいつのお披露目の面も兼ねているからな」
「甘くないか」
「極めて公平な判断だが」
「立上は、騎士になった。二人を護ることが、あいつのすべきことだ。そう決めたんだから、あいつは一番の責任を負う。知らなかったなんて言い訳にならないし、そんなことじゃ騎士なんて務まらない」
 いやに大きく響いた一騎の声。総士は、珍しく語気の荒い一騎に目を丸くした。普段は温厚で口数の少ない一騎の何を刺激したのかまではわかっていないようだったが、宥めるように髪に指を差し込んで撫でる。荒んだ心があっという間に鎮まり、我ながら現金なものだと内心苦笑した。総士の指が、掌が、何度か往復した頃にはすっかり落ち着きを取り戻した。犬みたいだ、と自分でも思う。
 ただほだされかけたとしても、先ほどの言葉は偽らざる一騎の本心だ。乙姫も織姫も護るべき人であるし、大切ではあるけれど、総士に比べたら如何程にも及ばない。芹にとっても、乙姫と織姫はそうでなくてはいけない。
「お前は時々、核心をつく」
 そう言いながら、総士は立ち上がった。触れていた手が離れていくのを残念に思いつつ、彼の後に付き従う。
「立上にはお前から伝えておけ」
「え、なんで」
「お前が言い出したことだろう」
「状況説明とか、俺じゃ間違って伝えるかもしれないだろ。総士がやった方がいい」
「やる前から諦めるんじゃない」
「でも」
「僕に対して偉そうな口を利くなら、それくらいはできてもらわないとな」
 ぐっと顎を引く。正論だ。一騎ではそれ以上言い返すことはできない。
 明らかに不満そうなのが可笑しいのか、振り返った総士が指を顎に添えくすぐった。今度は猫か、と顔を背ければ、くすくすと笑い声を立てて首筋を撫でる指先がやけに艶めかしく、ざわりと鳥肌が立った。


 シャンデリアの光を受けて輝く鷲色の髪を一つに束ね、ゆったりとしたローブの下には彼の妹がプレゼントしてくれたのだと自慢していた服。豪華絢爛な会場の奥、上座の椅子はシンプルで装飾こそ派手ではないが、彼の雰囲気を支えるにはそれくらいの方がちょうどいい。
 いつ見ても美しい主が神経を尖らせて乙姫と織姫に近付く年頃の男性を一蹴する。つまり、ブラコンっぷりを発揮している。
 他国の賓客であるにも関わらず、二人に取り入ろう、あわよくば関係を作って嫁にといった打算が見え隠れする者は一切合切総士が対応しているのだ。徹底されすぎていて呆れを通り越して寒気がした。
 そもそも、気をつけろと注意していたのは総士の方だというのに、あれなら不審者が近寄る前に総士を突破しなければいけない状態だ。後ろでひたすら総士の変わり様に驚いている芹には気の毒だが、これもまた慣れてもらうしかない。
『まだやってんのか、あいつ』
 頭に直接響く声。少しくぐもって聞こえるが、会話に支障はない。音を出しての会話ではなく、思考を共有する会話だ。
 水渡りの共鳴、通称クロッシング。水の精霊と契約した総士が駆使する力の一つで、総士の血を混ぜた水を体内に取り込み感覚を共有する、というものらしい。詳しい原理は知らないが、総士がやる事なので特に心配も問題も無いと判断している。
 総士と契約を交わした一騎はこの力を借りて、パーティーを警護し件の不審人物を見張っている甲洋と感覚を繋いでいた。
 甲洋の見るもの、考えることが一騎に。一騎の視界、思考が甲洋に流れ、常に二人の意識を宿しているようなものだ。過度な共有は無意味なので、必要な時以外は共有する感覚、例えば声だけであったり、視界だけであったり、を絞ってはいる。契約の大元となる総士には、一騎と甲洋の両方の思考、つまり三人分の意識を一つの身体に宿しているような状態に在る。普通そんなことをしていたら精神がおかしくなってしまいそうだが、並列思考と呼ばれる、総士の特殊な意識の切り分け能力が無ければ成立しない力の使い方だ。
『ずっと二人に付きっきりだ。ま、その方が護衛はしやすいけど』
『そうか……そんなお前に残念な知らせだ』
 ピリ、と神経が逆立つ。この状況で残念な知らせなど、一つしか思いつかない。
『当たりだ……いる』
 視界の感覚野を広げ、甲洋のものとクロッシングする。会場の後方出口から渡り廊下の先、本城との間できょろきょろとあたりを見回す男が二人。三人目は見当たらないが、カツラや化粧でごましきれていない顔はリストに載っている人物とほぼ同一だ。
 思考を共有する総士にも、同じ光景が見えているだろう。賓客を相手にしながら、僅かな隙で目配せをされた。
 小さく頷き、甲洋に入れ替わるように伝え一度視界を戻す。気付かれないように気配を殺して廊下へ出ると、ちょうど甲洋が会場に入ってきた。
 無茶するなよ、と視線で制されるのにこちらも目だけで応じて、ひっそりと静まりかえった廊下を目的の人物を探し歩き始める。夜の闇を縫って、足音一つ立てずに進んだ。
 大して会場から遠くもない、喧騒を離れた城の一角にそいつらはいた。
 腰に下げた剣帯を撫で、鍔に親指を掛ける。
「そんなところで何をしてる」
 ここで道化のように明るく気取られず近付けるような腹芸ができれば御の字だが、自分には無理な話だと割り切っている。努めて低く抑えた声で男達に問えば、突如現れた一騎の存在に驚愕を隠せず、大袈裟なほど慌てて後ろ手に何かを隠した。
「姫様への贈り物なら、預かる。あなた達の主の名を教えてくれ」
 無意識のとんだ皮肉だ、と総士が聞いていれば呆れただろう。一騎が手を差し出すと、男達は顔を見合わせ、贈り物ではなく一振りの剣を抜いた。城内で剣を抜く、ということは逃げ出すつもりか騒ぎを起こして会場をパニックに陥れるか。いずれにせよ相手から尻尾を出してくれたお陰で確認の手間は省けた。
 一騎も、自らの剣をすらりと引き抜き切っ先を相手に向ける。無駄の一切が削ぎ落とされた、片刃の剣。東の国の伝統技法によって生み出された刀は、この国で一般的なレイピアを意味する剣とは全く異なり、切ること、そしてその強度に主眼を置いた武器である。
「そ、その剣は……!」
 驚愕し、たじろいだ男達は己が誰と刃を交えようとしているのかをようやく理解したようだった。
 当代最高峰の武人を冠する騎士、真壁一騎。皆城総士と対になる名前、そして対となるべく育てられた、皆城を守護する家系の末裔。
 独特の構えを男達が視認した瞬間には、既に眼前から一騎の姿は消えていた。
 動きを肉眼で捉える事ができれば、それは剣舞とも評される優雅さを備えた美しい一閃。腰を低くして懐に忍び込み、三歩目を踏み込んで下から上に薙ぎ払う。返しで浅く横腹を切り裂き、動きを止める事無く二人目の腕を斬りつけた。カラン、と手放した剣が床に落ちる前に、両足の動きを封じるべく切り下ろす。
 最初に攻撃を受けた男がかろうじて反撃の体勢に入ったものの、弾かれた剣を拾う寸前で足が縺れた。切り裂いた脇腹の傷を柄で強く叩き、あまりの痛みに目を白黒させた男が膝を折ったところを蹴り飛ばし背中から壁に打ち付ける。二人目の剣も同じく手の届かないところまで蹴り転がして、喉元に刀を突き付けた。
 気絶した一人に舌打ちしたもう一人が隠し持っていたナイフで突撃を試みるも、一騎にしてみれば子供のおままごとにしかならない。芸の無い攻撃を軽く受け流し、背後から斬り付けこれ以上の動きを封じた。仰向けに倒れ臥し、痙攣を繰り返す身体を見下ろす。
「皆城の……犬が……っ!」
 吐き捨てた台詞は聞き慣れたもので。やがて完全に意識を失った相手のこめかみを刀の腹で軽く叩き、それがどうしたと嗤った。その程度の罵倒など数え切れないほど浴びてきた。一騎にしてみれば賞賛にも近い他者の侮蔑は、この上なく満足感を与えてくれる。総士の手足となることが、一騎がここに存在している意味なのだから。
 さて、どんな手練かと警戒していたが随分と呆気ないものだ。リストに載っていたもう一人さえ見つかれば、とりあえずは安心できるだろう。
 倒れた男の懐を探り、隠していた小さな袋を回収する。親指程の大きさの小瓶の中で少量の液体が揺れた。一騎では中身を見分ける事はできないが、おそらく毒薬か何か。
「総士の言った通り、か」
 できれば現実になって欲しくなかったが、総士達を殺めようとする何者かがいるのは明らかになった。前もって知らされている三人以外にも、不審な輩がいないとは限らない。
 騎士団を待って一旦会場に戻るべきか、それとも三人目を探すか。どちらにせよ、一度総士の指示を仰ぐべきだ。クロッシングを戻そうと剣を下ろし、警戒が一瞬薄れたところに、羽音のような耳鳴りが遠くから飛来した。
「……ッ」
 振り向き様に刀を唸らせ、軽い何かが触れる感触が手に伝わる。音が響いたのはさらに後で、ガキン、と金属が外れるような不穏な音色と共に右手首から頬にかけて激痛が走った。
 鼻孔を嫌な匂いが刺激する。鏃が宙を舞い足下で乾いた音を立てる頃には、柱に背を置いて影に踞った。ずるずると壁伝いに座り込み細く息を吐いていると、甲洋の視界がぼんやりと一騎の視界に重なって見える。どうやら総士が傍に居るらしい。醜態を晒してしまう事になるのがひどく悔しくはあったが、じわじわと痛みを増してくる右半身にそうも言っていられなくなった。
「……油断した」
 ゆっくりと右手を確認すると、液体が肌に触れ爛れになっている。総士が朝付けた甲の傷も潰されていた。服は所どころ溶けており、自分では見えないが頬にもかかったのだろう、引きつるような痛みに悪態をつく。剣を握るのに支障はないが、嗅いだ覚えのある独特の臭気にくらりと目眩に襲われた。
「……毒か」
 なるほど、矢に毒を仕込んでいた。飛来するそれを切り落とすだけの技量が一騎にあると踏んで、あえて毒薬を仕込んだ矢を切らせた衝撃で飛び散るようにしていたらしい。敵ながら意外と頭が回るものだ。
 これで、回収した小瓶の中身も何らかの毒物である可能性は高くなった。一騎が浴びた物と同じならば、例えば飲み物に仕込んで内蔵を灼く事もできる。こんなもので乙姫と織姫を苦しませようとしたのか。ひいては、総士を。一騎の中で静かな怒りが沸き起こり、ぎり、と大理石の床に爪を立てた。
 第二矢は放たれていない。ということは、この柱の影は相手から死角になるようだ。遠距離からの攻撃は、一騎ひとりではどうしようもない。大人しく応援を待つべきかと自分の手で捕まえる事は諦めて、クロッシングの感覚野を広めた。甲洋や総士なら、これくらいの情報で十分に対処できる。
『……一騎』
 あまりにも悲痛な声で名前を呼ぶものだから、感情を押し殺しすぎて蒼白になった総士の顔が浮かんだ。申し訳ない気持ちになりながらじくりと痛む傷口に目を閉じる。
『ごめん、しくじった』
『いや、十分だ。三人目は操が捕縛に向かっている。そこにもじきに騎士団が到着する』
『頼む……』
『一騎。しっかりしろ』
 しっかりしろ、と言われればそれに応えるのが騎士の役目ではあるが、あいにく痛みが酷くなって返事をすることすら億劫になってきた。即効性のある毒は苦痛を与える事を目的とする場合が多い。こんな痛み、三人が負わなくて良かったと心底安堵した。総士にはクロッシングで少しばかり共有されているのが不満ではあったが、せめて気にしないでいて欲しい。散漫になりつつある意識の淵でそんなことを考えていたが、苛む痛みについに視界が白くなり始めた。
『一騎……!』
 総士の声が遠い。大丈夫だよ、別に死にはしないから。そう伝えたくても怠さに喉を動かす事もできず身体が傾いていく。血液が沸騰して体中を這い回っているような熱さに、息もできず胸元を握り締めた。
 倒れ伏す寸前、暖かな何かに包み込まれ浮遊感に身を任せると、ぶつりと意識が途切れた。

My precious

 夜が耽る前にお開きとなったパーティーの喧騒が、穏やかな夜の闇に姿を変えて二時間。
 一連の出来事を父王に報告し、騎士団から一通りの事後処理を終えた旨を受けて総士は自室に戻ることを許された。
 事前に調査が行われ、警備を敷いていたにも関わらず城内に入り込まれたのは騎士団の落ち度だ。本来ならば王族の護衛に徹する親衛隊の甲洋や操が動いた事で、何をやっていたのだという批判を受けるのは仕方のないことであった。宰相やお偉方は頭を下げた騎士団長に腹の虫が治まらぬようではあったが、王が許すと言えば許されるのが王制。大々的に騎士団が動いて事を大きくするリスクを考えれば、姫の社交界デビューという華々しい催しに水を差すのは避けたかったと説明する総士の言葉を呑む形となった。
 自室に戻った総士は、上着をばさりと椅子に掛けて腰に下げていた剣を鞘ごとベッドに放り投げる。そのまま、部屋の隅に在るもう一つの扉から隣室へと足を踏み入れた。
 月明かりだけが灯る部屋。ベッドに落ちる影と、微かに残る消毒液の匂い。右頬の傷には大きなガーゼが被さっていて見る事は叶わないが、毒を浴びた手の甲は赤く腫れてその痛々しさは胸の奥が重くなるほど。さいわい痕の残る外傷は無さそうだが、クロッシングで共有された肌の焼ける感触は思い出しても身震いするほどだ。
 眠る一騎の側で足を止め、パチリと指先を鳴らすと横たわる身体からじわりと汗のように水が滲み始めた。総士の掌に収束していく水の塊が、やがて拳ほどの大きさとなって水晶玉にも似た輝きを放つ。中心に凝固する禍々しい色をした物質は、一騎を侵していた毒だ。
 水の精霊と契約した総士は、こうして水に関わるあらゆる物質を自在に操ることができる。そのためには物質の構成要素を正しく理解し、分解、構築するだけの知識が必要だが、総士にしてみればさほどの問題にもならなかった。知識を貯え、理解し、己のものとすることに才在る身であった。
 これが一騎を苦しめていたものかと思うと、顔を顰めずにはいられない。水の塊を叩き割ってしまいたい気持ちをなんとか抑えて、サイドテーブルに置く。
 毒は解析に回す必要がある。未知のものならば、解毒薬や抗体を作らなければならない。一騎が回収した小瓶も研究室で調べが行われており、一日もすれば成分や解毒剤の開発が始まる。医療に関する技術力は、他国と比べて高い水準を誇っているからこそ可能な業だ。
「……起きろ、一騎」
 病人に向ける命令ではないとはわかっていたが、今は一騎の穏やかな琥珀色が自分を映す様を見たかった。生きていると、ちゃんと総士の声に応えることを確かめたかった。自分の焦燥を癒すためだけに、一騎を欲した。
 一つ声をかけただけで、一騎の瞼がふるりと震える。ぼんやりと周囲を見回し、傍らに立つ総士の存在を捉えてふわりと微笑んだ。
 先程までの動悸が嘘のように凪いでいく。色の戻った頬を軽く撫で、ベッドに腰掛けた。
「……総士……パーティーは……」
「無事終わった。賓客たちに事の次第は漏れていない。よくやった、一騎」
 幼子にするように頭を撫でれば、本当に幼子のように目を細めて喜色をあらわにする。珍しく甘えるような仕草は、毒のせいで少しばかり弱っているからだろうか。悪い気はしない。
 一騎の髪を梳く音と、シーツが擦れる音が夜の静寂に滲む。どれほどそうしていたか、突然一騎が僅かに目を瞠って、利き腕とは逆の腕で胸元を押さえた。
「身体、ちょっと楽になった……総士が……?」
「ああ、毒は取り除いた。後は体力が戻るのを待て」
「ん……ありがとな」
「礼を言うのは僕の方だ」
 一騎ならば必ず成し遂げると信じて命じた。結果的に毒を受けたのは一騎のミスではあるが、等しく総士の考えが至らなかったということでもある。一騎の知名度は、今や他国に知れ渡るほど。総士のように人外の力を操るのでなければ、近距離戦を得意とする相手に長距離からの攻撃を仕掛けるのは常套の手段。対策は講じるべきだった。
 クロッシングを通じて、一騎が戦う様子は把握していた。総士の力を借りている状態の一騎と甲洋は、一方の感覚が閉ざされればもう一方が開く術は無い。だが力の大元である総士は常時一騎と甲洋の感覚を共有している。一騎がクロッシングを切ったとしても、総士には全て筒抜けなのだ。だから、戦いに身を置く一騎に表面上は毅然と命令を下していても、内心は不安で仕方が無かった。
 共に戦えるならそうしたい。しかし総士には総士の立場と役割があり、乙姫と織姫のエスコートをするのは兄である総士の役目。二人の社交界デビューに乗じて皆城家に取り入ろうとする輩を見極める必要もあった。逆に益となる者を見定める事も重要だった。芹を騎士としてくれたお陰で護衛の面での心配は小さくなったものの、彼女はまだ乙姫とも織姫とも魂の契約を交わしていない。それではいざという時に、本当の意味で二人を護る事はできない。いや、護るという言葉ですら表し足りない。露骨で直接的な表現をするなら、『代わりになる』ことを求められるのが王族付きの騎士なのだ。

 魂の契約――そもそもこの制度と手法が編み出されるには、皆城家の特殊性が関係している。皆城家は、この世界に存在する精霊のいずれかと契約を交わすことができる。皆城の血筋に生まれれば必ず精霊との契約を試みる儀式を行い、契約が成立すれば成人。しなければ廃嫡。古から脈々と受け継がれてきた血筋を尊ぶ家であり、全ては声なき者との共存を目指した初代から始まった。
 皆城の性を持つ者は、精霊との契約を果たしたということ。総士と織姫は水、乙姫は風。それぞれ契約した精霊の力を借り、人外の能力を振るう事ができる。クロッシングも、先程一騎から毒を抜いたのも、全ては精霊の力。
 精霊は契約を結んだ人間を、自らの言葉を理解する者としてとても大切にする。もし契約者が老衰といった寿命以外の理由で死へと近付いた時、その代わりとなる人間を求めるのだ。それが、魂の契約を交わした王族付きの騎士。総士の魂を半分預かり、万が一総士が瀕死にでもなれば一騎が身代わりとなる。精霊が、一騎の中に在る綺麗なままの総士の魂と、傷付いてしまった魂を入れ替えるのだ。
 つまり一騎は、総士の身を苛むすべてを肩代わりする存在として、生きている。
 真壁家に生まれた一騎の宿命。総士と契約を交わし、総士のために生き、そして先に死ぬこと。生まれながらにその事実を知らされながら、幼馴染みとして共に育ち同じ時を過ごした。一騎より多くの事を知っている筈の総士が唯一、一騎より後に知ったこと。
 それを一騎は、「お前の生きる道を俺も生きる」とその一言だけで全てを受け入れていた。契約を交わした日、一片の曇りも無く総士を射抜いた琥珀色の瞳を忘れたことはない。
 普通ならば、相手に強いてしまった運命を嘆くかもしれない。契約を取り消して、身代わりになどさせないと拒絶するのかもしれない。だが総士は、全てが終わった後に明かされた事実に歓喜した。これで一騎を手放すことは無い、一騎を一生自分の傍に囲っておける。
 背中を任せるのも、命を預けるのも、全て一騎ならば許せた。許して、縛って、総士から離れられない口実を作れた事が、嬉しくてたまらなかった。
 歪んだ愛情と言われようと、総士は構わない。自分のせいで一騎が死ぬ事の無いように、周りを利用したっていい。幼い頃から求めていた存在が唯一無二だと定められた。ならば、一騎がいなくなってしまわないように得た力と権力を行使することに躊躇いは無かった。
 こんなにも激しい感情が自分の中にあるなんど終ぞ思いもしなかったが、一騎を前にすると彼の全てが欲しくなる。彼と共に生きたいと――ただひたむきに、願う。

「そう、し……?」
 おそるおそる服の端を引っ張られて、蕩けるような声色にはたと我に返った。よく見ればうとうとと一騎の瞼が下がりかけていて、無理矢理起こしてしまったことへの罪悪感を今更ながらに覚える。手触りの良い髪に指を絡め額にキスを落とせば、顔を傾けたことでかかる総士の髪がくすぐったいのか身を捩った。
 へへ、と双眸を崩してへにゃりと笑った一騎が、握っていた服を離す。
「総士……なんか、優しいな」
 それはまるで、いつも優しくないみたいじゃないか。
 喉元までせり上がった反論を腹まで押し戻して渋い顔をする。大きく一つ息をついて、今にも落ちそうな瞼をなぞった。
「もう少し休め。明日は僕が起こしてやる」
「うそだぁ……総士より、ぜったい、俺が先に起きる……」
「言ったな」
 毎日一騎の起こしてもらっている身では説得力が無いことは承知しているものの、ずいぶんと前に見たきりである一騎の寝顔を久しぶりに堪能したい。
 いっそのこと朝まで起きているという手もあるが、色々と気を遣った一日だったのでさすがに疲労は溜まっていた。このまま一騎の横で、と首をもたげた誘惑を振り払って腰を上げる。シーツを綺麗に均して、最後にもう一度、頬に唇を添えた。
「おやすみ、一騎。良い夢を」
「おやすみ、そうし……」
 最後の方は音にならず、寝息が一秒と経たずに聞こえてきた。
 いつもならこんな無防備な姿を見せることの無い一騎だが、寝言で「そうし」と囁く様に頬が緩まずにはいられない。もう一度顔を寄せ、目一杯一騎を視界に収めてからかさついた唇に己のそれで触れた。
 図らずも寝顔が見ることができた。寝顔は大人になっても子供っぽいと聞くが、一騎のそれも昔に見たままで、愛おしさが胸を満たす。
 一騎が大切だ。率直に、好きだと言ってもいい。それほど想いを捧げる人がいることを、総士は幸福だと思っている。どろどろとした独占欲にまみれずに済むのは、一騎のどこまでも真っ直ぐとした心根のおかげだ。決して総士を裏切る事は無いと安心しているから、こんなにも心穏やかでいられる。
 縛ってしまいたいのは一騎の自由ではなく、彼の存在。一騎は一騎の意志を持って総士に仕え、どんな命令でもこなす。今回のように不服な命令には絶対に賛成しないという臣下としてはあるまじき頑固な面もある。が、なんでも言う事を聞く人形であることを一騎に求めてはいない。
 総士の剣として、盾として、支える存在である一方、一騎にはいつまでも親友として対等で在ってほしい。贅沢な願いだ。それでも一騎は違わず理解して、接してくれる。
「お前の全ては、僕のために。そうだろう、一騎?」
 寝ている筈の一騎が、そうだと言わんばかりに笑みを浮かべた。本当に聞こえているのか、偶然なのかはわからない。
 だが、意識的であろうと無意識であろうと、総士の声に応えた。
 それが、総士にとっての全てだった。


 微睡の間をするりと抜けて、鼓膜を揺らすいつもの声。起きろ総士、と耳に馴染んだ起床の合図を受けてもくっついて離れない瞼をなんとか抉じ開ける。焦点の合わない視界には、朝日を受けてレースのカーテンが水面のように揺れていた。
 昨晩は、部屋に戻って休んだ。久しぶりに一騎がいない夜ではあったが、自分が思っていたよりも体は休息を求めていたらしく泥のように沈み込んだベッドの中で、数分と経たず意識を失った。
 ベッドの端に何かが乗り上げたような、僅かな傾きとシーツが手繰り寄せられる感覚。瞬きを一つしてみると、視界の端に黒髪がちらりと垣間見えて寝返りを打った。一騎だ、とぼんやりとした頭がやっと存在を捉えて、次いでがばりと身を起こす。
 何故、一騎がここにいる。
「あ、やっと起きたな、総士」
 いつもと変わらぬ声。頬の大きめのガーゼのせいか幼く見える微笑み。琥珀色の瞳が太陽の光を反射して、普段より明るく見える虹彩がきらきらと輝いた。
 普通の朝だ。そう、いつも通りの朝。
「……なぜ起きている、一騎」
 せっかくの清々しい朝だというのに、総士から発せられたのは這う様な低い声だ。情けなさと至らなさを抱きつつ逸らしてしまった視線は、昨晩の宣言を完璧に忘れ去って熟睡していたことへの精一杯の反発だ。総士の抵抗を歯牙にもかけず、一騎は「いつものことだろ」と無邪気な言葉で総士の横面を殴った。
「やっぱり俺の方が早かった」
「……言っておくが、僕は本気だったんだぞ」
「うん」
 知ってるよ、と頷いて総士の髪を両手で撫で始めた。指を丁寧に通しながら、寝癖で跳ねている毛先を解していく。総士の意識が完全に覚醒するまでの間、一騎がいつもしていることだ。心地良さに肩の力が抜けていくが、ふと袖から覗く白い包帯を見咎めて手首を掴んだ。
「熱は」
「無いよ。身体の怠さも無い」
「傷はどうだ。まだ痛むか」
「そこまででもないかな。赤くはなったけど、時間が経てば皮膚は治ると思う」
 腕の上下が可能ということは、筋肉に大きな損傷は無いと判断して問題ない。顔色も悪く無いし、毒によって急激に奪われた体力がある程度回復する頃には剣を握るのにも支障はなくなるだろう。
 それにしても、だ。
「相変わらず頑丈だな、お前は」
「そうかな。まあ、人より体力はあるとは思うけど……」
「お前のそれは常人の倍はある。普通、毒を受けて一日でここまで回復しない」
 左頬に手を添えて、さらりと落ちる髪を耳に掛けた。途端、一騎の身体がびくりと跳ね上がって目をきゅっと瞑る。ひぁ、と情けない声をあげて必死に総士の手を離そうと試みるが、耳朶を親指と人差し指で摘まんで擦れば、背を逸らして総士の服に縋りついた。
 一騎は耳が弱い。こうやって少し悪戯に手を添えるだけでも、腰砕けになってしまう。
 くるりと身体を反転させて、一騎の身体を仰向けに押し倒す。二人寝ても十分な広さの上質なベッドは、男二人の体重など軽々と支えて軋む音一つ鳴らすことは無い。
 耳の裏を擽って、淵をなぞる。総士の身体を両手で押し返そうとするが、大した力は入っていない。両手首をしっかりとベッドに縫いとめて、耳元で囁いた。
「一騎、僕はすごく心配したんだ」
「ひっ……わ、わかった、からぁ……耳は、だめ……」
「今回の件、お前が怪我を負ったのは僕にも非がある。だが、最後のは完全な油断だった。あんなこと、二度目は許さない」
「ふっ……ぅ」
「わかったか、一騎」
 こくこくと激しく頷いて、上気した頬をシーツに擦りつけながら一騎は小さく「わかった」と呟く。本当に聞こえていたかは怪しいところだ。だが、指一つで一騎をここまで従順にさせるのは、総士の決して小さくは無い支配欲を満たしてくれた。
 身体を離して見下ろすと、潤んだ瞳と涙が滲む眦がまるで誘っているかのように総士をキッと睨みつける。残念な事に、迫力は皆無。起床の早さで負けてしまった憂さ晴らしをしたかったわけでは無いが、溜飲が下がる心地に大層満足した。
 起き上がれない最愛の騎士の腰を抱いて、口の端に笑みを浮かべる。悔しそうな表情を宥めるため、まずは朝の挨拶をやり直すところから始めることにした。
「おはよう、一騎」
 おはよう、とたっぷり間をおいて返ってきた挨拶に起きるのかと思ったが、今度は一騎が総士を引き倒した。二人してベッドに寝転がり、顔を見合わせる。
 幼い頃のような懐かしさに胸が熱くなる。こつりと額を寄せ、笑い合った。

Moment of love

 目の前に総士がいた。前を歩く彼の輝く鷲色の髪には、普段は身に付けることの無い髪留めが飾られている。彼が一歩踏み出す度に揺れる華奢な金細工が、ここまで漏れ聞こえる弦楽器の旋律と交互にシャラリと音を立てた。
 宵闇に華を添える音色からだんだんと離れていく総士の背を追いながら、一騎は二度の瞬きの末にこれが夢である事を認識する。
 確か、油断して毒を浴び、気を失った。目が覚めた時には総士がいて、ひどく憔悴した顔を宥めたのだ。ありがとう、と礼を言えばやっと安心してくれたのか、きつく寄せられていた眉間の皺が徐々に解れていった。その後、また気を失って……こうして、夢を見ている。
 今日のパーティーに記憶を刺激され、どうやら総士が社交界に足を踏み入れた時の事が再現されているようだ。我ながら良い記憶力をしているものだと自分を褒めたくなった。総士に関連した記憶に限った事かもしれないが。
 足を止め、振り向いた総士の顔立ちはまだ幼かった。二人の目線の高さも、今よりずっと低い。当たり前だ、もう五年近く前の事になる。月明かりに照らされた顔の彫りの深さも、物憂げに目を細める姿も、この頃の総士はまだ兼ね備えていない。今、一騎と相対しているのは、多くの積み重ねによって今の総士へと形作られていく、出発点にいる総士。
「……僕は、いずれこの国を背負う立場に在る」
 一騎の至高の主。皆城総士という存在に出会えたことを、いるかもわからない神様に感謝しても良いくらい、大切な人。
 もうたくさんのことを背負っている彼は、それでも前を見据える事をやめない。いかなる時も伸ばされた背筋は気高く、反面、脆い美しさがあった。
「ついてきて、くれるか」
 何を今更、と思いながらも、総士があえて一騎の意志を問う理由がわかる気がした。
 優しいだけの、護られるだけの世界は終わった。人脈を広げ、見識を広め、他国を相手にするだけのものを、これから総士は培っていかなければならない。不確かなばかりの関係性と上辺の付き合いに塗れているこの世界で、総士は確かなモノを求めている。それを、一騎が与えてくれるのだと期待して。
 この人のために生きよう、と一騎は改めて決心した。総士が進む道を、一騎も一騎のやり方で進んでいく。総士が不安なら、総士と共に生きることが一騎にとっての当たり前であると、何度だって伝えて安心させてあげたい。
「お前の行く道を護るのは、俺だ。そして、お前の隣に居るのも、俺だけだ」
 灰色の瞳が、一瞬金色に光った。おそらく月の光が差し込んだだけだろうが、あまりの神々しさに息を飲む。
「……魂の契約で、僕達はある意味で普通の関係では無くなった。だが、想いは契約があろうと無かろうと変わらない。僕はお前を離さないし、お前が僕のものだ。それを、違えるな」
 珍しく声が震えていて、総士はそれを気取らせたくないようだったから黙っていることにした。ああ、そんな辛そうな顔をしないでほしい。総士の想いが変わらないように、一騎の想いだって変わっていないのだから無用の心配だ。
 胸に手を当てる。今、一騎の中には総士の魂が半分、存在している。大切にしまっておいて、取り出すことなく生を終えれば、それはきっと幸せに満ちた人生だったと言えるだろう。一騎も総士も、その未来を求めている。争いのない平和な世界が恒久的ではないと知っていても、目指すことは諦めずに。
 普通の関係と総士は言うが、一騎にとってはこれが最善であり最高の関係だ。本当は総士だってそう思っているのに、回りくどくわかりにくい言い回しで気持ちを伝えてくるところは本当に不器用だと思う。一騎は少しばかりの呆れを含めた笑みを浮かべ、「誓うよ」と頭を垂れた。左手を掬って手の甲に口付ける。流れる様な一連の動作に目を細めた総士は、一騎の胸に手を置いて同じことを視線だけで求めてきた。求められているとわかるようになったのが、なんとなく誇らしい。
 総士の左胸に手を置く。流れる血流と心臓の音こそが、彼が生きている証。
「お前の命は、僕のものだ」
「うん」
「僕の命は、お前のものだ」
「……うん」
「……一騎」
 それ以上の言葉が出てこないのか、絞り出すような声に胸が締め付けられる。うん、と頷いて続きを促すと、ほんの目と鼻の先にまで近付いた総士の顔が、視界いっぱいに広がった。
 吸い込まれると思った時、一騎は誰に言われた訳でもないのに、目を閉じてその瞬間が来るのを待った。
 とん、と軽く押されて柱に背を預ける。月明かりの死角となり、二人の影が重なった。






 ふわりと肌を撫でる涼やかな風に覚醒を促されて、一騎はベッドから身を起こした。自分の手をぼんやりと見つめて、これは夢ではないと判断する。カーテンの隙間から差し込む光は、朝の太陽の色をしていた。
 騎士服は駄目にしてしまったから、予備のものをタンスから引っ張り出して着込んでいく。随分と懐かしい夢を見たものだ。鏡を見ながら服を整え、総士の部屋に続く扉に手をかけた。
(そう言えば、起こすって言ってたっけ)
 やっぱり無理だった、と笑いを噛み殺して部屋に入れば、案の定ベッドの中で就寝中の主は一騎の気配に気付く様子も無い。夢の中の総士が、今の総士へと繋がっていく。あの頃から立場や立ち居振る舞いは変わっても、根本の部分は何一つ変わっていない。
 まばゆいばかりの存在に、一騎はいつも通り、朝の挨拶を告げた。

Memory in you

「私はどっちでしょう?」
 この質問をすると、だいたいの人は間違えてはいけないと緊張に顔を強ばらせる。皆城の娘であることは、王制のこの国において尊ぶべき血脈であるということ。無礼があってはならないから、と。
 探り探り様子を伺って、躊躇いがちに名前を口にする。間違えたら処刑でもされると勘違いしているのだろうか。おおよそ当てずっぽうに絞り出した名前が合っていても間違っていても、「そうだよ」と言ってその場はお開きだ。
 趣味の悪いゲームかもしれない。でも、これくらいの意趣返しはしても許されるんじゃないかと思う。

 双子というのはなかなかに厄介なもので、別人格だというのに必ず二人で一つとして扱われる。服も同じ物、起床も就寝も同じ時間、座る時は隣同士。挙げれば限りがないくらい、幼い頃から同じであることを当たり前のように強いられてきた。
 いや、強いられているのとは違う。なぜなら、周囲はそれが至極普通のことであると思っているから。双子だから好みも趣味も全部同じだろう、という想像から、同じに違いないと決めつけておいて、いざ違う部分を見つけると「双子なのにねぇ」と失望やら関心を抱く。
 双子は、どこの国でも特殊な扱いをされる場合が多いのだと総士は言う。二人一緒に母の中で命を育むことから、一つの魂を二人で分かち合い死ぬまで繋がりが残っているだとか。ある国では、悪魔が一つのはずだった魂を二つに割いて不完全な形にしたとか。
 神聖な存在として扱われるならまだしも、どちらか一方を殺してしまう国に生を受けてしまう可能性だってあった。この国で良かった、と頭を撫でてくれた総士の慈しみに溢れた表情は乙姫の中に刻み込まれている。
 いつも難しい顔をしているため、誤解されやすい総士の中にある優しさ。本当は総士の内側に、たくさんの感情が溢れているというのに、総士はそれを見せることをひどく厭う。王子としての責任感から、他人に自身を曝け出すことに抵抗を覚えるのだと、総士ではなく一騎が言っていた。
 一騎は、人を上辺だけで捉えようとしない。自分が相対するのはどんな人か、ちゃんと理解しようとしてくれる。だから総士は、一騎に深く傾倒しているのだ。一騎に自分をわかってもらいたくて。その気持ちが、乙姫には、とても良くわかった。
 一騎は、総士以外に乙姫と織姫を絶対に見間違えない唯一の人だったから。


「ねえ一騎。私も剣を使えるようになりたいな」
 夏も終わりに近づく午後の庭園。つい先日、誕生日を迎えたばかりの乙姫に呼ばれ、一騎は城の端に備えられた緑豊かな道を歩いていた。
 散歩一つとっても、王族ならば護衛が必要だ。まだ乙姫には王族付きの騎士がおらず、時折兄である総士の騎士(つまり一騎のことだ)が貸し出されていた。
「どうしたんだ、突然」
 畏まった口調ではなく、親友の妹にするように一騎は乙姫に接する。
 それがどれほど嬉しいことか、きっと一騎は想像すらしていないのだろう。
「一騎が剣を使う時、とても綺麗でかっこいいって思うの」
「そうかな」
「うん。それに、剣が使えれば誰かを守れるでしょう?」
「乙姫には、もう守るための力があるだろ」
「精霊の力は、巨大な力の一端を借りているだけ。私自身の力じゃないよ」
「それでも、乙姫にしか使えない、立派な力だ」
 穏やかな声には力強い肯定の想いが宿り、乙姫の背中を押してくれる。なんのお世辞も贔屓も、子供だからと侮ることもない、真っ直ぐな言葉。
 小さい頃から総士の騎士として城に出入りしていた一騎は、乙姫にとってもう一人のお兄ちゃんのような人だ。織姫は勉強の方が好きで総士とよく本を読んでいるけれど、乙姫はかけっこをしたり木に登ってみたりと体を動かす方を好んだ。外の空気を浴びて、自然と一つになる感覚こそが自分らしいと思えた。けれど、城に同年代の子供が織姫の他におらず、ましてや姫という身分では木登りを「好きに遊びなさい」と手放しに許されるわけもない。娘には心底甘い父王がなんとか希望を叶えてあげられないかと白羽の矢が立ったのが、一騎だ。身体能力が高く物腰や和からで、乙姫と面識があり護衛もできる。これ以上ない人材だった。
 いくら親友の妹とはいえ相手は年頃の女の子。一騎も最初、乙姫とどのように接すればいいのか戸惑っていたけれど、少しずつ言葉を交わすことにも慣れ最近では二人きりなることもある。例えば今、織姫が総士に精霊の力の使い方を教えてもらっている時だ。
 総士と織姫は、同じ水の精霊と契約を交わし人外の力を操る。何も乙姫だけ仲間はずれというわけではない(むしろ二人は乙姫も一緒にと望んでいるが、精霊が違えば力の扱い方は異なるものなのだ)。乙姫の契約した風の精霊は、とても気まぐれで気分屋だ。今日はあまり乗り気ではないらしく、乙姫の声には応えてくれない。
「一騎、お話って難しいね」
「精霊のことか?」
「うん。今日はご機嫌ななめみたい」
 それともあたしが何かダメなのかなぁ、と軽く呟いてみたものの、心には曇天が広がって自然と顔は俯いていった。
 風の精霊は、歴代の皆城の一族で契約を交わした人がとても少ない精霊だ。選ばれる人間が稀なのだという。
 精霊との契約は、人間の側から精霊を選べるものではない。人間が選ばれる側であるため、力を制御する見込みがあり、相性が良ければ契約へと至る。だから、応えてくれないのには理由があるはずで。その理由が、わからずにいた。
 総士は勤勉だから、たくさん勉強して精霊の力を正しく使う様に努力している。織姫は、そんな総士に教えを請えばいい。乙姫だってたくさん勉強しているつもりで、それでは足りないのだろうか。
 でも、自分のことは自分でなんとかしなければいけない。誰にも頼れない。乙姫の力は、乙姫自身が術を見つけていかなければならない。
 覚悟はあるはずなのに、一人ぼっちで取り残されて、後ろも前も道が見えないことが、とてもとても不安で、悲しくて、情けなくて、怖い。
「……乙姫」
 ふわ、と暖かな何かが頭を撫でて、乙姫は顔を上げた。すぐ目の前には一騎の顔があって、しゃがんでいるのか目線の高さが同じだ。
 頭をゆっくりと梳く手は、剣を握る男の人の、強くて硬い手だ。それなのに、儚い記憶の先にいる母親のぬくもりに似ている気がした。
「一騎……」
「俺じゃ、精霊とお話をするのがどれくらい大変なのかはわからないけど。乙姫がそんな暗い顔して、できないって思ってたら、たぶん他の誰にもできない」
「そう、かな」
「ああ。お話するのが難しい精霊だから、話して相手を理解しようとする乙姫のことを選んだんだと思うよ」
 お話をすること。乙姫は、誰かと話をすることも、聞くことも好きだ。どんな些細なことでも、その人の言葉で、声で聞きたいと願う。
 自然と触れ合うのも同じだ。実際に見てみることと、本の中だけで知ったふうになってしまうのは全く異なる。どれだけ美しい明け方の虹も、嵐の中の風と飛沫も、見て体験して全身で受け止めて初めて自分の一つになる。そのものを理解し表現に足りうるようになる。
「だから、そんなに思い詰めなくていい」
 よしよしと、まるで赤子を相手にしたような慰め方だ。それがことのほか胸を暖かくして、鼻の奥がツンとする。乙姫は一騎に手を伸ばして、ぎゅう、と首に抱き着くと、後頭部から背中へと移った掌が心臓の鼓動に合わせたリズムを刻んだ。
「なあ、乙姫。ずっと前に、俺と総士が喧嘩したときの乙姫の言葉、今でも覚えてるんだ」
「私の?」
「ああ。総士は話が上手じゃないから、俺から聞いて伝えてあげてって。そしたら総士も、一生懸命わかろうとしてくれるって言ってくれた」
 覚えているかと問われ、首を縦に振った。よく覚えている。総士が珍しく落ち込んでいて、理由を尋ねたら「一騎と喧嘩をしたが一騎が何に怒ったのかわからない」と泣きそうだった。一騎に同じことを聞いたら、それこそ同じ返答で困り果てていて、「たぶん俺が悪い」と思い込んでいた。二人の言い分を聞いて、乙姫はまず一騎にお願いした。総士の話を聞いてあげて、と。
 大人は、態度でわかるとか言葉にしなくてもなんて格好をつけているけど、本当にわかっている人はごく一部に過ぎなくて。たくさんお話した仲じゃないと、お話しなくてもわかるようにはならない。その前に諦めてしまったり、面倒だと思ってしまったら、聞いたふりをしているだけになってしまう。二人にはそうなって欲しくなかった。だから、まず一騎に総士の話を聞くことを諦めないで欲しかった。総士はちょっと気難しいから、一騎から働きかけた方が効果的だと乙姫は踏んだのだ。だって総士は一騎のことが、大好きだから。
「乙姫がそう言ってくれたから、俺は総士ともっと仲良くなれたよ」
「そっか」
「だから、乙姫も諦めないでたくさん試してみればいいと思う。ま、乙姫の受け売りだけど」
 ちょっと気まずそうに頬を掻いた一騎に、ふふと声をあげて笑った。最後にもう一度、強く抱きついて離れる。
「ありがとう、一騎」
「どういたしまして」
 なんだか世界が明るくなった気がして目を閉じると、びゅうと一陣の風が二人の間を駆け抜けた。長い黒髪が風を纏い、はらはらと空で波打つ。
「ほら、きっと風の精霊も乙姫のお話を待ってる」
「そうだね……うん、私もそう思うよ」
 いっぱいお話ししよう。今日の事、昨日の事、明日の事。話すことはたくさんある。少しずつ互いを理解できれば、きっと精霊も乙姫の声に応えてくれる。今は素直にそう思う事ができた。

「乙姫、一騎」
 中庭の入り口に、総士と織姫が並んでいた。どうやら総士直々の授業は終わったようだ。
 乙姫の変化に気付いたのか、総士が不思議そうに首を傾げて一騎を見遣った。説明しろ、と言いたいらしい。一騎は肩を竦めて、乙姫に微笑みかけるだけだ。
 総士が居ない間に仲睦まじい二人に、苦い物を食べた様な顰め面を浮かべる。こういう所は嫉妬深いというか、心が狭い兄だ。乙姫はちょいちょいと総士を手招いて、一騎には聞こえないくらいの小さな声で総士の耳元に囁いた。
 そう言えば、総士からの誕生日プレゼントはまだだったはずだ。
「ねえ総士、私に一騎をちょうだい?」
 途端、目を丸くしてぎょっと身を引いた総士があまりに必死の形相で乙姫を見下ろすものだから、お腹を抱えて笑ってしまった。これは早く安心させてあげないと、後が大変そうだ。
「冗談だよ、総士」
「……お前は」
 どっと疲れたような、嫌いな物をやっと飲みこんだ顔で総士が肩を下す。冗談だという言葉に安心したのかと思ったが、渋面を張り付けたまま乙姫の言葉の真意を伺っている。それほどまでに衝撃だったということか。
 つい先日、一騎と総士は魂の契約を交わし、それ以来総士は思いつめるような表情をすることが多くなった。一騎がいてくれて嬉しい、それなのにどう接して良いかわからない。近過ぎるほど近くに一騎はいるのに、己の中の感情を持て余しているようだった。もっと素直に甘えてしまえればいいのに、そうしてはいけないのではと自分を戒めるのは総士らしいと言えばらしい。一騎も気を使っているのか距離を図りかねていて、見ていてどうにももどかしいと織姫と話していたところだ。ちょっとくらい炊きつけても罰は当たらないはず。
「……一騎は、駄目だ。いくらお前の望みでも、渡せない」
「わかってる。もう、総士ったら焦り過ぎだよ」
 総士の手を取って、一騎と織姫の元に戻った。一気に老け込んだ表情の総士を一騎は気遣っていたが、理由には思い至らないらしい。一騎の肩にぽふりと頭を乗せ、主の突然の行動は騎士を慌てさせていた。
「なぁに、あれ」
「なんだろうね」
 織姫と顔を見合わせて、総士は一騎が大好きでしょう、と告げれば織姫も察しがついたようだ。
 双子の姉妹。言葉が足らなくても伝わるものがある、二人だけの秘密の会話が始まった。

 やがて双子の騎士となる立上芹と出会うのは、もう少し後の話。