and, I loved you

 戦闘が激しさを増す中、ニヒトと共に上空を駆ける。
 アザゼル型は二体。アビエイターと、クローラー。どちらも強力な同化能力と、それぞれスフィンクスA型、プレアデス型を配下に従え、アルタイルを巡る最後の戦いに敵として立ちはだかった。
 竜宮島と、海神島。二つの島が有するコアで、アルタイルを二つに分けそれぞれが対話を試みる。かつて瀬戸内海ミールを三分割して力を分散させた時と同じように。アルヴィスの出した答えに、海神島を新たな故郷とした将軍たちが同意し、フェストゥムと人類は果てなき戦いの一つの終わりを迎えようとしていた。
 眼下には人類軍のファフナーがいくつも生体反応を失い、あるいはなんとか持ちこたえて戦闘を続けている。アザゼル型と互角か、せめて止められる程の力を持つのはザルヴァートルモデルのみ。総士と一騎の、二人だけ。
 呻き声なのか、汽笛のようにも聞こえる奇声をあげて、アビエイターのぎょろりとした一つ目がニヒトを捉えた。
「……!」
 眼前に迫った雷をかろうじて避け、同化ケーブルの二本を突き立てるべく一直線にアビエイターに向け放つ。だが、攻撃は頭上の雷雲の攻撃に阻まれ未遂に終わる。舌打ちし、クローラーと戦う一騎とのクロッシングに意識を傾けると、あちらも苦戦している様が伝わって来た。スピードこそ圧倒的にマークザインが勝るものの、バトルフィールドの広さと凍結による攻撃に阻まれ、コアの破壊にまで至っていない。
 竜宮島では、仲間が多数のフェストゥムの群れと戦い、織姫がアルタイルとの対話を果たせるように守りを固めている。ここは、なんとしてもアザゼル型を破壊しなければいけない。
「一騎…!」
 連携を促そうと叫び、再生させた同化ケーブルのうちの三本でクローラーの凍結能力をなんとか抑止できないかを試みる。片やアビエイターはニヒトに向かって変わらぬ攻撃を仕掛け、左腕を擦る雷撃に眉を寄せた。
「総士ッ!」
 総士と入れ替わるように、一騎がアビエイターにルガーランスを向ける。目が眩むほどの光量がマークザインを覆い、最大出力で放たれた攻撃がアビエイターの胸部へと達した。傷を負ったフェストゥムは、怒りの咆哮を上げて天を仰ぐ。危険だと活性化されたレプタイル脳が警告を鳴らし、一騎に注意を促すべく白亜の姿を探した、その時。
「ぐっ…!」
 ケーブルを伝っていつの間にか腕部まで達していた凍結能力が、ニヒトの機動性を奪う。痛みを訴える感覚を強制的に断ち切ってケーブルを破壊する事で逃れるが、一瞬の隙を狙ったアビエイターがニヒトの胴体を鷲掴みにした。
 総士が搭乗するコクピットが位置する、ちょうど腹部が結晶に包まれる。
 ざわり、と思考防壁を破って心に侵蝕する敵の意志。次いで四肢から這い上がる同化結晶が、一呼吸の間で総士の胴体を覆った。
 終わりなのか。こんなところで、己の役目も果たせず終わってしまうのか。
 ぎり、と奥歯を噛み締めて絶望を払う。終わるわけにはいかない、島を守れずに地平線を超えるわけにはいかない。このまま敵に同化されてしまえば、ニヒトの力ごと相手にくれてやることになる。それだけは避けなくてはいけない。この虚無の力を敵が学習してしまえば、一騎一人ではアザゼル型を止める事は不可能に近くなる。目の前にまで迫っている死を覆すよりも先に、冷静に未来に起こってはならない事を考えれば、自ずと答えは決まっていた。
 クロッシングを通じて感じる一騎の慟哭。いなくなるなと総士を呼び続ける声。かつて北極で、同じ様な想いをさせてしまったのに、また繰り返してしまう。
「…フェンリル、起動」
 せめて無意味な終わりを迎えないようにしなければと、音声で起動する赤いカウントダウンが目の前で時を刻み始めた。
 これを使いたくなど無かった。こんなものに頼るくらいなら、せめて敵の一体でも道連れにしなければ意味が無い。
 絶望と諦観が総士の心を虚ろに侵し始めた。しかし、ザインは総士の思惑とはまったく異なる動きをとった。
「そぉ、し……!」
 ルガーランスが、アビエイターの両腕を切り落とす。ニヒトに気を取られ防御を怠ったアビエイターは、ザインの攻撃を受け大きく仰け反った。
 すかさずザインの手がニヒトの腹部へと伸び、緑に光る機体が同化結晶を消し去る。否、吸収した。一騎へと負担が移るのを肌で感じ、総士は目を見開く。アビエイターの巨体に迷う事無くザインは武器を突き立て、美しい同化結晶が生まれ始めた。
「よせ――」
 一騎が何をしようとしているのかを察し、総士の血の気が下がった顔が、ザインへと向けられた。
 緑の結晶が、シュリーナガルの時のようにバトルフィールドを覆い尽くす。敵味方関係なく、飲み込んで行く。
「一騎、よせ……っ」
 アビエイターが、同化結晶に包まれる。ロードランナーも同じように、足下から這い上がる結晶に徐々に犯され、美しい塊へと姿を変える。一騎の行動の先を否が応でも思い知らせる現象。
「一騎!」
 ザインのコクピットに、総士は姿を現す。赤い色で縁取られた姿が、一騎の眼前で必死に思い止まらせようと声を荒げた。
「総士」
 鮮やかな微笑みが、総士の悲しみを包み込むような眼差しが、ごめんな、と音も無く謝罪を告げる。
 一騎の両手両足から、同化結晶が広がっていく。ゆっくりと、確実に。一騎の命の終わりを、見せつけるかのように。
 透明な赤と、金色の虹彩。同化現象が進みすぎた反応。命の、刻限。

 嘘だ、嘘だ。
 一緒に島に帰ると約束した。
 遠見とだって、約束をしていたではないか。

 一騎の胸元まで同化結晶が広がり、慌てて手を伸ばした。総士のフェストゥムの身体は、いとも簡単に一騎の元に実体を持って現れ、無機質な結晶ごと一騎を抱き締める。
 驚きに目を見張った一騎は、だが頬に感じる総士のぬくもりに、安心したようにふわりと笑って目を閉じた。全身を覆い尽くした結晶が一際美しく輝いた。
 ぱりん、と呆気ない終焉の音が響き、きらきらと命は零れ落ちて行く。
 一騎の身体が砕け散ると同時に、アザゼル型もそのコアを晒し、塵となって青い空へと溶けて消えた。

 嘘だ。

 誰もいないザインのコクピット。瞬く結晶の欠片。
 顔を両手で覆う。先程までの激闘が嘘の様な静けさ。沈黙。クロッシングで心を探しても、総士以外の誰もいない。
 一騎が、いない。

「一騎ぃぃぃぃ――」

01.ご飯を食べる前に

side : Soshi

 夕方の五時。夕ご飯の支度は、毎日この時間から始める。
 冷蔵庫から、じゃがいもと蕪の葉、にんじんを出してカウンターに並べた。鍋に水を入れてガスコンロにかける。しゅぼっ、と間抜けな音を立てて青白い炎が鍋の底に当たる加減を調節してから、蓋を被せた。
 ピーラーを使ってじゃがいもとにんじんの皮を剥き、一口大に切る。蕪の葉は両端を切り落としてから土の汚れが付着していないかを確認し、五等分すれば具の完成だ。
 インスタントの出汁と、味噌は堂間食堂にお裾分けしてもらったものを棚から取り出した。若い人に人気の喫茶楽園と比べて、堂間食堂は大人たち…特にアルヴィスの上層部や戦闘部隊に人気の食堂兼居酒屋だ。一応、大人の仲間入りをした面々は最低月一回のペースで上司やらスタッフやらに連れてこられている。自分もそのうちの一人だ。アルベリヒド機関に酒を好んで嗜む人は少ないので、どちらかと言えば堂間食堂の看板娘がオペレーターを勤めるCDCのメンバーに誘われる機会が多い。
 行けば七割の確率で溝口や将陵が既にできあがっていて、この人達はいつ頃から飲んでいるのだろうと疑念は尽きない。飲んでも一杯だけと決めていて、それは周囲も承知のことであるから、最初のビール一杯が空になれば辞して帰路につく。自分を待っている幼子の元に。

 ともかく、その堂間食堂の味噌は定食を看板メニューに掲げているだけあり、まろやかで香りが良い。最初は、味噌汁を一人で作った事が無い自分を心配した広登が「うちの味噌使ったらどんな味噌汁でも美味しくなります」と豪語して持って来てくれたものだ。それ以来、もう数年に渡って世話になっている。
 沸騰したお湯にじゃがいもとにんじんを入れて、再び沸騰するのを待つ。灰汁を丁寧に掬い取ってから蕪の葉を入れ、火を落としてから出汁を入れる。数分、野菜に火が通るのを待ってから竹串でじゃがいもの状態を確認し、とろ火まで弱めてから味噌を掬った。
 おたまの中でくるくると味噌が溶け、撹拌され、味噌汁になっていく。慣れた作業の合間に、脳裏に浮かぶ面影が鍋の中を覗き込んだ気がした。
『美味しそうな味噌汁だな』
 彼特有のふわりとした笑みと、しっとりと鼓膜を揺らす低音。料理を得意とする彼に、美味しそう、と言ってもらえるのは光栄だ。自分にとってみれば、彼の作る料理の方が何倍も美味しいのだけれど。
「彩りも大切だと、教えてもらったからな」
『うん。味噌汁の定番はじゃがいもとにんじん、あとはたまねぎだけど、そこに緑の葉物があるだけで色合いがぐっと華やかになる。食欲が沸く色ってやつだな』
「そこまで凝るなら、楽園で定食も出せば良かったんじゃないか?」
『定食は堂間食堂の十八番だろ?楽園は喫茶店だから、似合わないよ』
 味噌を溶き終わって数回かき混ぜる。火傷をしないように気をつけながら味見をしてみると、何か足りない気がした。
『葱、入れてみるといいんじゃないか?』
「ああ、それはいいな」
 言われた通り、冷蔵庫から葱を取り出してぶつ切りに刻んだ。
 そう言えば、初めて味噌汁を二人で作った時、葱をみじん切りにして彼に注意されたものだ。輪切り、ぶつ切り、色々な切り方があるが、味噌汁に入れる葱をみじん切りにしたらだいたいは溶けてしまうらしい。なんであえてその切り方なんだ、と文句が苦笑に変わって、仕方ないなぁと切った葱を味噌汁に入れてくれた。
 一騎が作った料理の一端に、自分の成果が加わっている。それだけで嬉しくて、その日の味噌汁はいつもと違った美味しさになった。葱は、半分以上溶けてしまってはいたけれど。
『どうだ?』
「味が引き締まるな」
『だろ?なんか足りないと思ったら、葱なんだよな』
「覚えておこう」
 濡れないように少し遠くに置いておいたレシピノートに、葱のことを書き込んでいく。どこにでもある表紙の、普通のノート。中に書かれているのは、彼がここにいた証。
 書き終えて、火を止めた。できあがった味噌汁の鍋に、蓋を閉める。
 かしゃん、といやに大きな音で響いた鍋の蓋。傍らの気配は、いつの間にかいなくなっていた。


 違う、最初からいなかった。
 その事実を理解しているはずなのに、こうして彼の残滓はいつまでも傍らに現れては、他愛も無い会話をして、満足したのか消えてしまう。
 葱のことが書かれたノート。新しい自分の文字と、インクが少し擦れた彼の筆跡。彼と今、ここで交わした会話は、紛うこと無く記されている。妄想だと嗤われても、確かな彼との言葉のやりとりがあったから、ノートのページが増えた。否定したくなかった。
 そこかしこに残る彼の面影。台所に立てば、楽園の調理カウンターで野菜を刻む彼の姿が在る。誕生日にプレゼントしたサイフォンで珈琲をいれてくれる姿が。食器を拭いて、片付けて、今日の夕飯は何にしようかと悩む姿が。
 瞼の奥に焼き付くなんて、生易しい物じゃない。存在が、いるはずのない彼という形が、まだここにあるのだ。生きているかのように幻に引き込み、残酷に突き放す。その度に、彼はいないのだと落胆して、焼け付く様な傷みを実感し、それでも彼をまだ感じる自分に安堵する。

 忘れていない。忘れる事などできない。
 忘れなくていいと、言ってくれている気がして。

 それはおかしいだろうと別の自分が嘲笑う。彼はもういない。彼が砕け散ったのを見ただろう、と。
 振り払いたい、もう見たくもない夢を何度も何度も何度も繰り返して、やっと辿り着いたのだ。この穏やかな時間に。彼の残像は、その安寧を壊してしまう。だからもう、苦しむくらいなら思い出にしてしまえば良いのに、できない自分の弱さが惨めだった。

 台所の電気を消す。目の前が真っ暗になる。
 外は夕暮れの赤。部屋の中に滲んで、うっとりとするほど美しい。
 ここが海なら、彼の元に連れて行ってくれるのだろうか――

「総士?」

 幼い声が、引き摺られていた意識の端を掴んだ。
 はっとして振り返れば、すぐ後ろで不思議そうに首を傾げる幼子。膝をつき、寝起きで乱れた髪を整えてやる。
「起きたのか。すまない、気が付かなかった」
「ううん。ご飯の支度、手伝えなくてごめん」
「構わない。今日はせっかく僕が作れる日だから」
「でも、一緒に作りたかった」
 固い手を握って、お願い、と請われてしまえば断れるはずもない。
「なら、魚を焼いてくれるか」
「うん、任せて!」
「頼んだ」
 自分の腰くらいの背丈しか無い子供。この世界の真実を知らない、その年齢にも達していない、無垢な子供。慈しみ、愛し、時に憎む程に彼と瓜二つな、心優しい少年。
「明日は何が食べたい、一騎」
「えー、もう明日の事聞くの?」
 まだ考えられないよ、と頬を膨らませる。それもそうだな、と思い直して二人で台所に立った。
 背が足りない彼のために用意した脚立。子供用の危険が少ない包丁。彼であって、彼でない存在のために、用意したもの。

 一騎は、もういない。
 でも、ここにいるのは一騎だ。

 現実に、未だ心は追いついていない。

02.ひとりぼっち

side : Kazuki

 戦時下でなければアルヴィスに人気は無く、大体の区画は静まり返っている。意識して足音を立てないようにしながら、明かりの消えた廊下をこっそりと進んだ。そこかしこの監視カメラによって生体反応は把握されているはずだが、見つかったことはない。
 本来この時間は土曜日の補習授業があって、第二種勤務を教師としている大人達はここに来ない。それぞれの表の役目を重視できる時間があるのは幸せなことだ。子供が外を駆け回っている姿、勉学に励んでいる時間、登下校の買い食い、些細な日常を大人達はなんでもないような顔をして見守っている。時折、眩しいものを見るような、悼みに服しているような表情を浮かべながら。
 なぜ自分が土曜日授業に参加していないかというと、その必要が無いからの一言に尽きる。小学校の授業内容はほとんど頭に入っているし、ずっと机にへばりついているくらいなら外に出ていろいろなことを体験したい。そんな理由をつらつらと並べたところでまかり通るはずもないのに、大人たちは自分を自由にした。二人だけちゃんと学校に通えと叱ってくれた。けれど他の大人たちが腫れ物に触るような視線で見てくるのが嫌で、目の届かない場所を探した。
 自分は、他の子供より時間の流れが早いらしい。成長速度が異常に発達している、と保健室の先生は難しい顔をしていた。例えば身長。言葉遣い。自我の確立。およそ五年で達する水準をはるかに超えていて、見た目だけなら実際に生きている年数の約三倍…十五歳ほどにあたるらしい。普通に過ごしているだけなので、そんなことを言われても、とは思う。
 何を語っても『らしい』になるのは仕方ない。自分は自分でしかないし、自分にしかならない。
 唯一異論を唱えるのなら、考え方や喋り方は一緒に暮らしている人の影響であって、自分のせいではないということ。
 自分を育ててくれた、親代わりのような兄のような人。自分と髪の色も目の色も顔立ちも全然違う、赤の他人。でも、抱き締めて「大切だ」と言ってくれる、自分にとっても世界で一番大切な人。結構気難しいし、時々何を考えているのか分からないのが玉に瑕だ。
 彼の名前を、皆城総士という。

 アルヴィスの入り組んだ内部を、ただひとつ知っている道順を辿って目的の場所へ足を運ぶ。
 総士は、自分がここに来ていることを知らない。伝えていないから知らないと思っている。知っていて何も言わないだけかもしれないけれど、咎められていないからきっと知らない。
 彼は優しくて自分のことを慈しんでくれていると思うけれど、時々ぞっとするくらい怖い表情になる。喜怒哀楽が浮かんでいればまだ彼が何を考えているのか分かるのに、まるで感情の全部が抜け落ちた様な、この人は人間なのだろうかと疑いたくなるほど何もかもを捨て去った顔でどこかを見つめるのだ。
 初めて見た時は、ひどく怯えた。
 あれは、半年前の夏のことだ。総士が仕事で忙しくて、一人で留守番をしていた日。
 暇を持て余していたから、島中を探検して海岸の一番端っこに小さな洞窟を見つけた。中に入ると長いトンネルのようになっていて、抜けた先にはかなり広い砂浜が広がっていた。きらきらと緑の貝殻や透明なビー玉みたいな物が散らばっていて、砂の色と青い海と青い空ばかりだった景色に飛び込んだ新しい色。自分専用の空間を見つけた喜びのあまり、気付けば二時間はそこで砂浜探索をしていた。ポケットに入れた綺麗な貝殻や石を総士に見せてあげようと、幼子の様なことを一心不乱にしていた。だいぶ集まったかな、と満足していたところに、ふと海の中に一際輝く何かを見つけた。
 浅瀬を超えて膝が浸かるくらいの深さまで進むと、手のひらから零れるくらい大きい緑の石が水底に沈んでいる。両手に乗せてもらうのを待っているかのようにひっそりと、それでいてはっきりとした存在感で横たわるそれを掴んで夕焼けの光に翳す。
 すごくすごく綺麗で、心奪われる様な美しさだった。
 吸い込まれると錯覚するくらいに、心を鷲掴みにしたその石を、持って帰って総士に見せてあげよう。総士も、きっと「すごいな」と喜んでくれるに違いない。単純で、悪意の欠片も無い想像。
 洞窟を抜け、自分を探しまわっていたらしい総士が海岸沿いの手すりを超えて焦った様子でこちらに駆け寄ってくる。心配をさせてしまったことに「ごめんなさい」と言えば、総士は「なかなか帰ってこないから心配した」と重ねて苦しそうな声で肩を握った。もう一度謝罪をすれば、総士は許してくれた。
 自分の両手が後ろに回っていることを不思議に思ったのか、視線だけで背後を気にする総士に、掌に乗せたそれを差し出した。
 綺麗だろ、と、そう言いたかった。
 エメラルドの結晶みたいな石。太陽の光を浴びて柔らかく輝き、光の加減によっては緑や紫、赤にも煌めく光。総士なら眼鏡をくぃと上げて、良く見つけたな、と褒めてくれると思っていた。
 けれど、言えなかった。
「――…ッ!」
 気付いた時には、手の上にあった筈の結晶は足下にぼとりと落ちて、砂まみれになって。総士に向いていた顔は左頬がじんじんと痛みを訴え何が起こったのかの理解を遅らせる。
「どういうつもりだ…っ」
 頭上で総士が呻いた。左頬に手を当てる。熱を持ったそこに、自分の左手はひんやりと冷たく、総士にぶたれたのかとやっと現実が実感を伴ってやってきた。
 総士に怒られた。何がいけなかったのだろう。何を間違えたのだろう。彼が嫌だと感じることを、自分はしてしまったのだ。
「総士…」
 謝ろうと思って、総士を見上げた。人と話をする時、ちゃんと目を見てしなさいと教わったから。けれど、総士の瞳は、自分を映してはいなかった。
「総士…?」
 感情という感情をごっそりと取り払った、空虚な器のように総士は佇んでいた。得体の知れない何かが総士を覆い尽くして、それなのに青灰色の瞳は自分の奥の奥まで暴く様なぎらぎらとした色を宿しながら、決して自身を映してはいなくて。
 途端に、彼がどこか遠くへいなくなってしまう気がして、ひくりと喉が震えた。目の奥が熱くなって、意図していないのに涙が溢れてくる。
「ふぅ…っ…」
 こんな情けない顔を見せて呆れられてしまったら。無表情のまま、置いてけぼりにされてしまったら。止めたいのに止められない涙を強引に袖口で擦って、嗚咽を噛み殺そうと唇をきつく結ぶ。血が滲んでも構わないくらい強く。
「…ぁ、一騎…」
 慌てたように、総士が膝をついて背に手を当てた。宥めるように撫でられて、「すまない」と呟く声には先程の虚ろは感じられない。でももう一度総士の顔を見る勇気はなくて、隠すように俯いた。
「すまない、お前に痛い思いをさせるつもりでは」
「俺、総士の嫌なこと、するつもりじゃ、なくて」
「ああ、分かってる」
 総士の声は優しい。慰めてくれる手は暖かいのに。
 足元に埋まった緑の石が目に入る。先程まで美しいと感じていた輝きが、突如妖艶で禍々しい煌めきに変わった気がして、ぎゅっと目を瞑った。
 怖い、と本能的に心が忌避する。正しく何が怖いのかも定まらないのに、ただ怖いと、そればかりに思考は埋め尽くされた。
「一騎?」
 怖い、怖い、怖い。
 訝しげに問う総士の声に答えたくても、戦慄く唇からは無意味な音が零れるだけだ。
「落ち着け、一騎…」
 総士も自分も、気が動転していたのだと思う。荒い波に意識を持っていかれそうな自分を総士は抱き締めて留めてくれて、でも総士の腕はかたかたと震えてまるで総士の方がいなくなってしまいそうな悲痛な声で「一騎」を繰り返していた。
 その後どうなったのか詳しくは覚えていない。目を覚ましたら家のソファに横たわっていて、総士に抱き締められたまま気を失ったのだと察したらとても情けない気分になった。この時は、このまま嫌われていたらどうしようとか、そんなことばかりを考えていたような気がする。
 結局それ以来、総士と緑の石の話はしていない。触れてはならない何かを傷つけてしまった罰なのか、総士は時々、緑の石を見た時と同じ虚ろな表情を見せるようになった。その度にそんな顔をさせてしまった自分の言動をひどく後悔しては、原因を考えても思いつくものは無く日々は過ぎていって。
 だんだんと総士と話をする時間が減って、一人の時間が増えたのはこの頃からだ。五年目の誕生日を迎える、少し前。
 総士や総士のお友達に誕生日を祝ってもらったその日の夜、唐突に理解した。流星の瞬きのように一瞬で、当たり前のように過ぎ去った記憶の羅列が降り注いで、自分の中に収まった。
 違和感も足元が覚束無い不安定さもあったのに、何故か不安だけは感じなかった。
 あるべきものがあるべき場所へ戻ったのだという、不思議な安心感の方が強かった。

 この島のこと。総士たちのこと。アルヴィスのこと。
 ファフナーのこと。
 なぜ総士が、緑の石にあんな反応を示したのか。

 真壁一騎という、英雄のこと。






 ごうごうと機械の音が鳴り響く中を抜け、巨大な扉の前に立つ。鍵穴みたいな複雑な模様に沿って赤い光が走り、静かに道を開いた。
 中に入り、だだっ広い空間の中央にそびえる装置の近くまで歩み寄る。見上げた先には、小指ほどの大きさの塊が赤い水の中を漂って迎えてくれた。
「こんにちは」
 挨拶をすれば、小さな命がとくんと嬉しそうに心音を跳ねさせた。保健の教科書に載っている胎児の形をそのままに、自分がここに来たことを歓迎してくれていて自然と笑みが浮かぶ。
 本来なら、ここに来るためには特別なセキュリティコードだとか認証権限だとかが必要で。許可どころか存在すら知らないはずの自分がアルヴィスの監視の一切を逃れているのも、もしかするとコアがシステムを操作しているのかもしれない。
 竜宮島のコア。島の神様。もっと直接的に言えば、自分に島の真実を教えてくれた、ミールを宿す存在。
「今日はなんで呼んだんだ?」
 ここに来られるのは、コアに呼ばれた時だけだ。いつでもというわけじゃない。タイミングは色々で、だいたいは総士が仕事で家にいない日や、アルヴィスに人がいない時。
 総士はアルヴィスで仕事をしていて、でも表向きは『小説家』だ。総士が書いた本を何冊か読んだけど、さすがに難しすぎてよく分からなかった。小説というより、評論みたいな感じだった。
 総士は小説家で、それが自分が知っているべき本当。たとえ原稿執筆に外出している先がアルヴィスであったとしても、自分はそれを知らないのが正しい。だから、逆に自分がアルヴィスにいるなんて総士は思いもしない。騙しているみたいで申し訳ない気もするけれど、お互い様だ。
 目の前のコアの声は聞こえない。ヒトの言葉を話すというよりも感覚的なやりとりが多く、自分が一方的にお喋りをするだけだ。なにも口下手な自分を選ばなくてもいいのに、独り言ばかりが得意になってしまいそうだった。
 人工装置に手を置く。ふわり、と身体を通って何かが降り立った。振り返れば、久しぶりに見える姿に胸の奥がつんと針でつつかれたみたいになる。
 透明な微笑みを湛えた黒髪の青年。人間の形をしているけれど、金色の瞳が人とは思えない美しさと禍々しさを孕んで、あの緑の石みたいだと何度も拒否反応を示しそうになる人。
 どこか懐かしさを感じる笑み。れっきとした男性なのに、女性らしさを感じる仕草は性別という概念を超える力が働いているのかと錯覚する。
『来てくれてありがとな』
「…うん」
 自分はこうあるべきなのだと、鏡を見ているかのように彼は自分とそっくりだ。彼の幼い頃そのままなんじゃないかと思う。総士が辛そうに誰かと自分を重ねて見ることがあってから、漠然と感じていた。総士の友達も、誰かと自分を比べるような言動を昔からしていたから、尚更。
『コアと話をしてやってくれ』
 彼は、出てくる度にコアとの対話を望む。いつもやっているから断ることは無いけれど、なんでわざわざ姿を現すのだろうか。しかも、気まぐれに。薄い紫がかった輪郭は朧げで、出てきたりこなかったりと幽霊みたいな存在だ。
 頷いて、でも何を話そうかといつも迷う。コアと二人きりなら、ご飯の話とか、よく遊びに行く喫茶店の話とか、会えなかった空白の時間を話題にするけれど、彼がいるとすこしばかり緊張するのでなんでもとはいかない。
「…」
 邪魔にならないようにか、距離をとってこちらを柔らかな眼差しで見つめてくる。それでも十分に存在感はあって、気にし始めたら抑えられそうになかった。それに、コアとの対話ばかりを望む彼に、聞いてみたいことがあった。
「…なぁ」
 コアではなく、彼に声をかける。
「聞いても、いいか?」
『何を?』
「お前のこと」
『俺のこと?』
「そう……真壁一騎の、こと」
 彼は、息を呑んだ。
 真壁一騎のことは、総士には聞けない事柄の一つだ。
 本来なら知っていてはいけない事。コアが最初に教えてくれた名前だ。ずっと心に引っかかり、彼が自分の前に現れるようになってからは、細い糸で繋がって引き離せない何かを感じていた。
「お前が、真壁一騎なのは知ってる。俺は、お前から生まれたことも」
『…コアとの共鳴か』
「なあ、なんで俺は生まれたんだ?どうして、お前はみんなに会いに行かないんだ」
 彼は押し黙って、言葉を探しているようだった。問いに対する答えなのか、それともまったく別のことなのか判断はつかないけれど、じっと待つ。
 コアのいる部屋は赤い光が灯っているのに、彼の周りは薄暗い緑が霧のように立ちこめていた。その色に、記憶を刺激される。
 緑の石。それは、同化結晶と呼ばれるとても綺麗な未知の物体。フェストゥムが、人を理解するための手段。実物をこの目で見た事は無いけれど、コアが教えてくれた。総士がたくさん見て来て、かつて総士から命を奪ったもの。けれど、総士を再び構成したものでもある。存在と未存在の、媒介の様な物体だ。
 砂浜で掌に乗せた緑の石は、同化結晶にとてもよく似ていた。総士は、嫌がったのではない。怖かったのだ。同化結晶は、総士から、真壁一騎を奪ったものでもあるから。
「総士に…会いに行かないのか」
 あの時、結晶が、自分の手から生えたように見えたのだ。真壁一騎と同じである自分が、また総士の前から消えてしまうのだと恐怖した。怒りを露わにした。それくらい、総士にとって真壁一騎の存在は掛け替えの無いものだった。総士のことが好きな自分より、はるかに強い絆で結ばれていた。
 それなのに、真壁一騎はここにいるのに、きっと総士はそのことを知らない。
『…俺の姿は、もう見えないから』
「そんなの、気合いでなんとかならないのか」
『気合いって…お前、俺と違って面白いよ。それに、優しいな』
 苦笑する姿はヒトなのに、どこか人間味を欠く達観した色が注がれる。
 距離を詰めてきた彼と一緒に、コアの前に二人並んだ。五年しか生きていない十五歳の自分と、おそらく総士と同じ年齢である二十歳前後の彼。奇妙な組み合わせが当たり前だと思うくらいには、彼も自分もヒトではなかった。
『俺は今、海神島のコアと同化した存在だ。俺は俺であって、俺じゃない。本来は竜宮島のコアの近くにいるべき存在でもない』
「じゃあ、どうして」
『コア同士が反発しない程度なら、ヒトとしての心が残っている間は故郷にいた方がいいって、言ってくれた子がいたんだ』
「その子に願えば良い。会いたい人がいるんだって」
『もう十分、叶えてもらってるよ』
 これ以上負担はかけられない、と寂しそうに微笑んだ。浮かんだ感情は、ヒトと何一つ変わらない。総士に会いたいのだと嘘をつけない顔が語っている。細い右手を宙に掲げてその先の何かに目を凝らし、諦めたように頭を振った。
『…あの時、俺は世界を祝福することを選んだ。総士がそれを望んでいなかったのは知ってるけど、俺にできることをしたかった。だから、お前に頼みたい』
 支離滅裂だ。でも、彼が何を言いたいのか分かってしまうのは、自分と彼の繋がりに依るものなんだろう。
 真壁一騎は世界を祝福した。そして、いなくなった。親を、親友を、仲間を、総士を置いて。彼の生を望む人達全員が生きる未来の為に、彼がヒトとしての生を終える選択をした。
 もう終わってしまった事に自分が口出しできるわけはないけれど、憤らずにはいられない。結局、総士に残されたのは自分だ。真壁一騎であり、異なる自分。まったく別の人格の、見た目だけがそっくりな子供。残されたところで、どう想いを昇華しろというのか。総士の真壁一騎に対する気持ちを、自分が受け止めろというのか。
 あまりにも身勝手で、横暴だ。総士の気持ちを考えろと詰りたい。
 それなのに、この人の気持ちも分かってしまう。大切な人が消える瞬間を知っている彼が、せめてできることとして自分を残したのは、全ては総士のためなのだと。
 真壁一騎は此処にいる。竜宮島にいるのに、自分以外の誰からも認識されない。
『もう戻った方が良い』
 彼の声に、顔を上げる。とくりとくりと鼓動を刻むコアが、何かを伝えようとしていた。けれど、読み取る時間は無さそうだ。そろそろ戻らなければ、総士が姿が見えないと探すかもしれない。過保護だと思うけれど、総士にしてみれば自分はまだ五年しか生きていない幼子に過ぎない。こうしてアルヴィスの地下に出入りしていると知る日が来た時、総士はどんな反応を示すだろうか。
 せめてその時がくるまで、真壁一騎にはいて欲しかった。もしも術があるのなら、彼と総士を会わせてあげたい。彼のためというよりも、総士のために。
『総士を、よろしくな』
 手を振って、振り返して、コアと真壁一騎の姿が見えなくなるまで口を閉じていく扉の前に佇んだ。
 下ろした手に滲んだ汗を服で拭いて、来た道を戻る。たくさんの曲がり角がある中の、一本道。逸れたら、戻り方は分からない。今の自分の生は、地上へと続く一本の道に近い。目指すべき何かがあって、その過程にはたくさんの分岐が有るけれど、きっと選ぶべき一つは決まっている。違わず選ぶことで、道は繋がる。
 生まれた意味を知りたい。
 生きる意味を知りたい。
 それが総士のためだというなら、喜んで総士に捧げる。厭う事など何も無かった。

 夕暮れ近くに日が沈んだ丘を下っていたら、道の先に総士がいた。どうして此処にいると分かったのだろう。アルヴィスの扉を潜るところを見られはしなかったけれど、ちょっと困ってしまって足が止まった。いつもは見上げた先にある総士の髪が、眼下で風にそよいでさらさらと揺れている。夕焼けの色を受けて一筋一筋が光り、綺麗だ。
 自分の姿を認めて、安心からか総士は眉を下げた。
「なかなか帰ってこないから心配した」
「ごめん。丘の上が気持ちよかったんだ。勉強は、帰ったらちゃんとする」
「お前は頭がいいから、それ以上勉強をする必要は無いんだがな…」
 少し駆け足で総士の隣まで下りると、二人並んで家路についた。真壁一騎の隣よりも、ずっと暖かくて心地良い。
 大切な、大好きな人。幸せになって欲しいと願う人。その幸せを与えられるたった一人の、現身が自分だ。どうすれば道を違わないだろう。何をすれば、総士の中の恐怖を取り除くきっかけになるだろう。
「総士、明日はお仕事お休み?」
「ああ」
「じゃあ、一緒にいられる?」
「そうだな…」
 差し伸べられた手に、自分の手を重ねる。大きな、細くて綺麗な手。握りしめたら折れてしまいそうで、守ってくれているのに、守ってあげたくなる。
 過去が本当に過去になってしまう前に、自分には何ができるのだろうかと、考え続けた。

03.ここにある楽園

side : Kazuki

 喫茶楽園。竜宮島で数少ない外食ができる場所。
 平日は昼間も満席の人気店は、何故かマスターの気まぐれで日曜定休だ。普通なら売り上げのために平日を休みにするだろうに、マスターが言うには「この店は日常を大切にするからな」ということらしい。その意味を、自分はまだよく分かっていない。
 一騎、とカウンターの奥から呼ばれたのでそちらに向かえば、甲洋からメロンフロートを手渡された。
「それ、カノンに渡して来てくれるか?」
「うん」
 落とさないように、両手で慎重に硝子のコップを支えて、カノンが座るテーブルに運ぶ。席で談笑をしていたカノンは、メロンフロートを手にやってくる姿を見て慌てて立ち上がった。
「す、すまない」
「いいよ。はい、メロンフロート」
「…ありがとう、一騎」
 コップを受け取ったカノンは目尻を下げて、固い声でお礼を言った。そこに宿る切なさの様な感情を読み取って、いたたまれない気持ちになる。この人は、少し苦手だ。
「お、立派に喫茶楽園の店員か?」
「剣司も注文してくれたら、甲洋が喜ぶと思うけど」
「いっちょまえに言うようになったな…じゃあ一騎、アイスコーヒーひとつ」
「はいはい」
 ぞんざいに扱っても、剣司は本気じゃない顔で「愛想悪いぞ?」と茶化す。剣司は、まだ大丈夫。普通に言葉を交わす事ができるし、なにより自分に誰かを重ねて見たりしない。
 カウンターの席に戻ってアイスコーヒーを頼んだ。柔和な笑みで「承りました」と準備を始める手元を見つめていると、背後から総士の優しい声が聞こえてちょっとだけ胸が軋む音がする。自分には絶対に発されることのない、気心知れた友人に対する暖かさに溢れた声色。
 日曜日の喫茶楽園は閉店の文字を掲げているけれど、こうやって総士や総士の友達が店に足を運ぶ。ここのマスターは溝口というアルヴィスの人で(もちろん自分にとっては楽園のマスターという肩書きのみが正しい知識だ)、従業員はこの店の二階に住む春日井甲洋だ。彼と、総士と、総士の友達は同級生で、全員ファフナーパイロットの経験者。苦楽を共にして、戦場で背中を預けあった仲間。コアが教えてくれた、かつての記憶の内のひとつ。
 もうひとつは、春日井甲洋のこと。彼は、人間じゃない。見た目は人間そのものだけれど、ヒトじゃない。何か別のモノがヒトの形を模しているだけ。けれど普通に人間として生きているから、総士のお友達、として自分も彼に接する。心を読む事ができるから、きっとこうやってカウンターで近くに座っているだけで考えていることは筒抜けなのだろう。でも甲洋は、絶対に口にしないと不思議と確信が持てて、特別何かを話した事は無かった。そういうのも含めて、たぶん甲洋は全部配慮してくれている。
 知っていることを口に出さないようにすれば必然的に言葉数は少なくなっていった。昔は好んで同席していたけれど、今は会話も聞こえないようになるべく対局に位置するカウンター席で手元の本の文字を追う。それでもどうしたって気になって、一向にページは進まない。
 目の前で甲洋が、硝子のコップに冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを注いだ。氷が中でからからと澄んだ音を立てる。慣れた手つきでストローを指し、終了だ。また頼まれるだろうかと顔を上げたが、甲洋はアイスコーヒーとお菓子をお盆に乗せて自ら皆の元に向かった。
 いくらか言葉を交わす様子を目の端でちらりと捉え、また背を向けてカウンターに両肘をつく。穏やかな時間の流れ。自分だけが異分子だ。だから、本当は此処にいる必要なんて無いのに、ここにいる。
 足をぶらぶらさせながら、目を閉じた。店内のざわめきを意識的に遮断して、内に浸る。
 真壁一騎がここにいたら、きっと総士は喜ぶんだろう。あんな風に皆と交じって、仕事がどうだとか今度はどうするとか、自分では絶対にできない会話にたくさんの表情を見せてあげるのだろう。胸がさらに痛んだ。今在る当たり前の時間に、本当に必要とされる真壁一騎がいない。自分では代わりになれないなら、ここにいる意味はあるのだろうか。
 真壁一騎の真似をしてみようか。そうしたら、少しでも自分に意識を向けてくれるだろうか。思いついても、すぐに乾いた笑みが浮かんだ。総士にあげたいのは真壁一騎との幸せなのに、もっと自分を見て欲しいだなんて酷い矛盾だ。これじゃあ、真似をしたところで不快な思いをさせてしまうに違いない。
(俺は、どうすればいいのかな)
 この身の置き所が定まらない。目を閉じているせいもあって方向感覚が定まらず、身体がふわふわと浮かんでいるみたいに軽くなった。
(あったかい)
 太陽の光だろうか。温もりに包まれて、ちょうどいい場所に収まるように身じろぎをした。心地良い微睡みに、瞼を押し上げようにもぴたりとくっついてしまって開きそうにない。
「一騎くん、寝ちゃったんだぁ」
「ああ、そのようだ」
 総士の声と、真矢の声が頭上から聞こえた。どうしてこんなに近いのだろう。疑問に思いつつも、微睡みは意識を離してくれはしなかった。
「可愛いなぁ。昔の一騎くんそっくりだね」
「見た目はそのまんまだな。ま、性格は誰かさんに似たみたいだけど」
「…」
「…総士、あんたもいい加減割り切り無さいよ」
 この声は、咲良だ。剣司の恋人。
 総士を責める様な声色に、なんでそんな言い方をするのかと反抗心が沸いた。総士は、何も悪い事なんてしていない。
「この一騎は、一騎じゃないのよ」
「…分かっている」
「その台詞、もう何回も聞いたけど、いまいち信用できないのはその顔のせいね」
「随分だな」
 肩に何かが触れた。たぶん、総士の掌だ。何度か擦って、抱き込まれる力が強くなる。
 こんなに安心できるのは、総士の腕の中だからだ。脈絡もなく納得し、いつもなら恥ずかしさで離れるのに、今はなんとなく傍にいたくてさらに密着してみた。むずがったと思われたのか、総士の掌が、ぽんとお腹の辺りを叩く。
「…一騎はもういない。あいつが砕け散るのを、僕はこの目で見た」
「総士」
 甲洋が総士の言葉を遮った。無理に言うな、と咎めも心配もしている声だ。
 砕け散ること。いなくなること。コアの知識が、敵に同化されるか、同化現象によって迎える末路であると教えてくれる。『真壁一騎』が辿った道の、一番最後がそれだった。
 総士は、大切な人が目の前で跡形も無く消えてしまうのを見た。感慨も痛みも感じず、淡々とその事実に思い至って、理解した。たぶん、眠かったのだと思う。
 その後は、プールに入っているみたいにふよふよと音が木霊して、総士の言葉の意味はよくわからないけど子守唄を聞いているみたいだった。
 もうちょっと聞いていたいな、とずるずると眠気に身を任せていたら、ぴったりとくっついていた瞼がようやく開いた。ぼんやりと総士の亜麻色の髪が視界に入って、ん、と小さく唸る。息を大きく吸うと、総士の香りが微かに漂って身体の力が抜けた。
「そうし…?」
「一騎、起きたのか」
 とびきり甘い声と手が、背を支える。総士は、自分が目を覚ます瞬間に溶けそうなくらい甘くて優しい声をかけてくれる。目を開いて総士の姿を写す様が、心底嬉しいのだと双眸が語っていて、その顔が向けられる瞬間が一等好きだ。総士が、真壁一騎ではない自分を見てくれている気がしていたから。
 けれど、いつもと同じ色なのに、そこには自分を介して遠い誰かを見つめるように焦点が合わない。
 やはりここに、自分の存在意義は無い。
 すとんと胸に落ちた現実に、唐突に胸の奥が苦しくなった。
「…ぅ、ぐ…」
 身体を丸めて痛みに耐えようとしても、内側から這い出て破裂しそうな何かががんがんと脳内で警鐘を鳴らす。
「一騎ッ!」
 焦った声。肩を掴まれ覗き込まれるのが気配で分かる。他の面々も、尋常ではない様子に立ち上がった。
 剣司が携帯端末を取り出してどこかに連絡をする声を遠くにかろうじて拾いながら、あまりの痛みに手を彷徨わせた。
(いたい、痛い、痛い)
 胸が、背中が、焼け付く様な痛みに縋る物を探す。呼吸をしたいのに、酸素が肺に入ってこない。苦しい、と顔が歪む。
「かずき、僕の声が聞こえるか、かずき」
 差し出された総士の指と絡まって、躊躇う事無く握り締める。
「……そ、し…」
 かずき、と繰り返す総士の声。呼ばれているのは自分だろうか。それとも、真壁一騎だろうか。
 本当に総士が心配しているのは、いったい誰なのか。

 いやだ、くるしい、たすけて。
 いなくなりたくないよ。ここに、いたい。

 この声は誰のものだろう。
 泣きながら訴えてくる。ここにいたい、いる意味を与えて、と。
 両手から焼け付く様な痛みが生まれ、目の奥が熱くなる。唾液が口の端から顎に伝い、溢れる涙と混ざって服に染みを作った。

 痛い。

 鮮烈な、たったひとつの感情が思考を振り切って意識の全てを奪い尽くす。
 そのまま、どぷりと暗いどこかへ深く落ちていった。





 故郷。
 帰る場所。
 一緒に帰ろう、と真壁一騎は約束した。
 その約束を果たせないまま、彼は存在のすべてを未来のために使った。命の使い道を決めた。もう会えないと知りながら。二度と言葉を交わすことができないと理解しながら。
 たぶん、その覚悟は尊いものなのだと思う。大切な人を守るために、自らの命を捧げる。自分もそう在れたらと思うくらいには、羨ましい。
 でも、生まれ直すなんてことを望むなら、どうして総士のために心を残していかなかった。こんな中途半端な自分を生み出して、結局誰も彼もが真壁一騎を求めていると知ら占めるだけではないか。
 何が世界の祝福だ。自己満足も大概にしろ。総士に必要なのは、真壁一騎なんだ。
 自分と真壁一騎との境界線があまりにもはっきりしていて、彼になれない自分はいっそのこと喰われて存在ごと真壁一騎に譲り渡せてしまえればいいのにと思った。そうすれば、総士は幸せになれる。この世界で一番幸せになって欲しい、総士が。
「一騎は、いなくなってしまいたいの?」
 ふいに、高く幼い声がした。発信源に顔を向ければ、同じくらいの背丈の子供がにこりと微笑んでいる。総士と同じ灰紫色の瞳がとても綺麗に瞬いた。
「いなくなりたいのなら、私と一緒になろう」
 差し伸べられた手は小さく、自分よりも幼いというのに、彼女になら全てを預けてしまってもいいのではと心の暗い部分が引き寄せられる。自分自身どう扱っていいのか分からない、不明瞭な黒い塊が、歓喜に震えて彼女を望む。一緒になりたいと訴えてくる。
「もう痛い思いをする必要なんてないんだよ」
 痛い。そう、ずっと痛かった。総士が名前を呼ぶ度に、お前は真壁一騎ではないのだと糾弾されているようで、心は痛みに涙を流していた。総士が好きだという想いを抱いたまま、ずっとずっと傷が生まれていた。総士の心に触れたくとも触れられないのは、これ以上の痛みに耐えられないからだった。
 彼女の手に自分のものを重ねる。丸みを帯びた手。しっかりと握り返されて、触れた箇所から緑色の結晶がじわりじわりと生まれる。こめかみに引きつる様な痛みが走って、すぐに消えた。それがフェストゥムの同化と同じ現象であると、気付く事はできなかった。
「私なら一騎にそんな思いをさせない。一騎は、一騎だもの」
 つんと鼻の奥が痛くなって、視界が滲んだ。誰かにそう言ってもらいたかった。自分が真壁一騎と同じであると知ってから、自分の存在はどこか不安定で、総士の腕の中でしか安心できなくて、でもそれすらも虚像ではないかと疑って。虚ろな目で見下ろされる度に、総士は自分にどうなって欲しいのか聞きたいけど、聞けなかった。自分なんていらない、と言われたら、絶対に立ち直れない。
「どうすれば、俺は真壁一騎になれるかな」
 少女は心底不思議そうに首を傾げた。
「どうして彼になる必要があるの?」
「総士が望むのは、真壁一騎だから」
「あなたも、皆城総士のことばかりね」
「…」
「真壁一騎は、私と同化してなお、皆城総士の事を想っていた。彼の事を案じてあなたを竜宮島に残したのに、そのあなたが彼と同じ存在になりたいなんて」
 そういうのを皮肉って言うのね、と少女は手を離す。緑の結晶が反動で砕け散った。一瞬、腕も一緒に砕け散ったのではないかと錯覚したが、右手はまだそこに在った。真壁一騎の身体は、命の証一つ残さずバラバラになってしまっていたのに。
「彼の身体は、すでに同化現象の末期症状だった。アザゼル型二体を同化して、人の形を留めていられるわけがないけれど、彼は選んだの。そうやって命を使う事を。彼の決断は、故郷である竜宮島と、延いては海神島のミールを護る事に繋がった」
 竜宮島に帰れぬ身となることよりも、真壁一騎には大事なことがあった。
「真壁一騎は私の一人でもあるから、彼の意志はこれでも尊重したいの」
 だから、あなたとは一緒になれないな、と残念そうに少女は一歩下がった。
 どうして、と無意識に手を伸ばす。彼女と一つになれば、総士を煩わせる自分はいなくなる。その方が、よっぽど大事なのに。
「それは逃げよ、一騎。あなたたちのミールは、対話を尊び他者を理解したいと願った。だから、逃げては駄目」
 少女の手が、頬に伸ばされた。慈しみを湛えた瞳は総士とそっくりで、ひどく恋しい。
「総士が好きなのでしょう?」
「…うん」
「なら、どうすればいいか分かるわよね」
「うん」
 優しく諭す声はするりと心に入り込んで、総士とは違う安心感に満たされる。でも、欲しいのは総士が作ってくれるご飯や、夕暮れに手を繋いで歩く時間だ。手放したくないと願ってしまう、毎日の些細な会話だ。
「話すよ、総士と。ちゃんと総士に聞く」
「それだけじゃ駄目だよ。一騎もたくさんお話して、総士にいっぱい聞いてもらわなきゃ」
「…美羽みたいなこと、言うんだな」
 竜宮島で唯一ミールと話ができる日野美羽。彼女を彷彿とさせる、お話、という言い方が引っかかって問えば、少し目を見張った少女は、切な気に目を細めた。
「美羽は、私のうちの一人の大切な人。私を救ってくれた人だから」
 あまりに真に迫った声に、ああこの人もなのか、と少女が急に近しい人に思えた。こんなにも大切に名前を呼ぶ相手が、決して手の届かない所にいるのに、それを悲しいとは思っていない。逆だ。出会えた事、傍にいられた時間があった過去を、宝物みたいに柔らかな布で包んで大事に仕舞っている。思い出すだけで幸福になれる、縁として。
 真壁一騎が総士の名を口にするときと同じなのだ。だから彼は、総士から姿を見つけてもらえないと分かっていても、竜宮島に帰ってきたのだろう。せめて人としての心が残っている内は、と言っていた。いずれいなくなるということだ。その前に、総士との思い出が残る地で、宝物を一つずつ噛み締めて飲み込んで。
「…分かった」
 やることが、決まった。やらなければいけないことが、できた。
 しっかりと地に両足をつける心地で、同様に両手を握り締める。少女は、海神島のコアは、祈るように、目を伏せた。
 眩む程の明るさの先に、総士がいる。泣きそうな顔で呼んでいる。総士のそんな顔を、初めて見た。

 なあ総士、いっぱい伝えたい事がある。本当は知っていることを話しても、驚かないで聞いてほしい。
 そして、真壁一騎のことを教えてほしい。彼に伝えられなかったこと、伝えたかったことを、決して溜め込んでしまわないで。

 ここにいる意味が、わかったんだ。

04.伝えたかったこと

side : Soshi

 久々に、パイロット同士の交流と称して同世代の全員が集まった。楽園の定休日には必ず誰かしらが顔を出すが、全員が集まるようなことは稀だ。それぞれの忙しさは時間を常に示し合わせることなどできず、たまたま仕事が共に休みになった遠見とカノンから連絡を受けて赴いた。
 フェストゥムの世界から戻って来た甲洋を含めて、既にパイロットを引退し第二種任務を生業とする六人。それぞれの近況を聞いているだけでも、あっという間に時間は過ぎていく。
 連れて来た一騎は、だがその輪に加わる事無く一人カウンターで本を開いていた。静かに読書をする彼の姿はなかなかに新鮮だ。以前は本を開くなど勉強の時以外見た事がなかったのに。
 苦笑して、自分の思考の愚かさに愕然とした。今、何を考えた。誰と、誰を比べた。もういない一騎と、今ここにいる一騎を比較し、違いを見つけては安堵と悲哀が混ざる感情に襲われる。
一騎はいないんだ、と言い聞かせて目元を抑えた。
「皆城君、疲れてる…?」
 遠見に覗き込まれ否を返す。
「問題ない。睡眠時間は十分取れている」
「そういうのじゃないよ。一騎君のこと考えてたんでしょ?」
 図星を付かれ、黙る。咲良が「難儀ねぇ」と頬杖を付いた。
「あの子、クラスでもかなり浮いてるわよ。一応高学年クラスの授業受けさせてるけど、他の子にしてみれば、五年であの成長はね」
 奇妙に映るのは想像に難くない。実際、思考や記憶力、人との接し方まで含め、あまりの飲み込みの早さに戸惑いを隠せない部分はある。なるべく一騎には見せないようにしているが、最近は自分との距離に一線を引くようになったりと、単なる成長による反抗期ではなく自身を取り巻く状況の変化に反応している可能性は高い。
 十五歳の頃の一騎を思い出す。自分はフェストゥムの側へ、一騎は治療用カプセルで眠り続けていた。意識と無意識、存在と無の間を彷徨いながら、来主操によって護られ、かろうじて生を掴み取る前のことだ。思い出す程の記憶は存在していなかった。クロッシングをするほど自我を確立できたのはその後で、一騎の精神は酷く荒れ日に日に細くなっていた。
 遠見を見遣る。自分がいない時間、ずっと一騎を支えてくれた。いや、支えたというよりも、留めてくれた、の方が正しい。一騎がこちら側に足を踏み入れかければ、必ず届く声で一騎を引き止めてくれた。そちらではない、と常に気にかけてくれていた。
「遠見は…一騎のことを、どう思っている」
「どうって…大切だなって思うよ」
 大切。その通りだ。自分も同じように思っている。あの幼子を育て慈しむことが、己の責務だと。
「皆城君は?」
「僕は…」
 けれど、遠見のように躊躇いも無く「大切だ」と言えない。言葉はつっかえ、音にならずに消えていく。
 カウンターに座る一騎の背に暖かな日差しが降り注いで、ふらりと頭が舟を漕いだ。うつらうつらとしているのが後ろ姿からでも察せられ、あのままでは傾いて椅子から落ちてしまう。立ち上がり、起こさないように足音をなるべく立てずに近寄った。
 案の定、目は閉じて顎を支えていた筈の肘から顔が落ちて今にも崩れそうだ。子供特有のあどけない寝顔に、頬が緩む。
 膝裏に手を差し込み、上半身を支えて横抱きにする。細い身体だ。危な気なく抱え上げ、席に戻った。座るなり、ちょうどいい位置を探して腕の中でもぞもぞと動く姿に微笑する。
 寝顔は、ほんの五歳の子供そのものだ。こんなにも愛おしく、可愛らしい。
「一騎君、寝ちゃったんだぁ」
 ほっぺつついてもいいかな、と人差し指を出した遠見を止める暇も無く、一騎の柔らかい頬がふにふにと形を変えた。起きる気配は無い。
「可愛いなぁ。昔の一騎くんそっくりだね」
「見た目はそのまんまだな。ま、性格は誰かさんに似たみたいだけど」
 剣司がからかうようににまりと笑って、むっとなった。共に暮らしているのだから少しくらい性格が似てもおかしくないし、この一騎はかつての一騎とは違うのだから、容姿はともかく性格まで瓜二つにはならない。人間は良くも悪くも環境に適応することで変容するのだから、かつての一騎を育てた環境と全く異なる現在、性格まで同じになれば、それは成長ではなく複製だ。
 一騎の見た目は十五歳程。そして、精神の成熟度も十年は超えている。五年目の誕生日を過ぎた今、早すぎる成長が精神にどのような影響を与えているのか。日野美羽の場合と違って、無理に成長を促されたわけではない。まるで、『真壁一騎』に追いつかなくてはと焦る様な速度に不安は募る。大きくなればなるほどかつての一騎を彷彿とさせ、心境は複雑さを増すばかりだ。
 膝の上で寝息を立てる幼子の瞼にかかった前髪を慎重に指先で払い、右肩に手を置く。擦り寄ってくる体躯に胸が締め付けられる様な苦しさと愛おしさを覚える。かつて一騎には感じた事の無い情であった。
 ただただ慈しみに溢れ、純粋に幸せになってもらいたい。この子供の未来が自分の手から離れた場所にあったとしても、きっと躊躇いなく彼の背を押す事ができる。できる、はずだ。
 求め、愛し、渇望した真壁一騎は、もう、いないのだから。
「一騎はもういない。あいつが砕け散るのを、僕はこの目で見た」
「総士」
「…大丈夫だ。僕は、ちゃんと受け止めている」
 声が震えていないのが幸いだった。甲洋の案じる視線に微笑みを返せる。
「まだ、五年しか生きていない子供だ。見た目は十五歳でも、俺達が気にかけてやるしかないだろ」
「剣司…」
「だから総士、なんかあったら絶対俺達に相談しろよ?一人で抱え込むんじゃねーぞ」
「そ、そうだ!私も、力になれることがあったらなんでも言って欲しい」
「カノン…そうだな。その時は頼む」
 頼もしい仲間達に感謝を伝えると、肩の力が抜け沈みかけた気持ちが浮上する。一人ではないと実感した。
「一騎の身体は普通の人間のものだ。僕や甲洋とは違う。今、問題は起こっていないが、時間をかけて育むべき事柄を一足飛びで会得してしまった様なものだ。今後…メモリージングの開放がどう影響するかもわからない」
「一騎が島の事を既に知っている様子はあるのか?」
「現段階では不明、だな。特にそういった兆候は見られないが、下手に話ができるものでもない。ただ…」
 いつだったか、海辺で無邪気に差し出された緑の石に動揺して彼を拒絶してしまった。一騎の最期と被って見えた、あの瞬間。差し出される緑の石が再び一騎の存在を連れて行ってしまいそうで、気付けば右手が彼の頬を張っていた。
 今なら、一騎が純粋に綺麗なものを共有しようとしていただけなのだと理解できるが、あの時の自分にとっては恐怖でしかなかった。反射的に手を上げ、暴力を振るってしまったことを、今でも後悔している。だがあの事が契機だったのか、一騎の目にはそれまでにない感情が浮かぶようになった。
「ただ?」
 促す遠見の声に、なんと表現にすれば良いのか逡巡し、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「時折…声に出さないで問い掛けてくる。『自分はここにいるのか』と」
「それって」
「推測だ。それこそ、僕が十五歳の頃の一騎を重ねてしまっているだけかもしれない」
 今の一騎は人の感情に敏感で、推し量ることもする。決定的にかつての一騎と異なるのはその点だ。内に溜め込み易い性格でも根は正直だったから、少し厳しい姿勢を見せれば存外あっさりと本音を吐露していた。だが、今はそれすらも繕うことができてしまい、心配になる。一騎が何を考えているのか分からず、言葉を交わそうにも立っている場所が違いすぎてこれ以上踏み出すことができない。
 このまま時が経つのを待って、いずれ来る日の覚悟をするしかないのではないか。たとえ一騎が真壁一騎のことを知っても、彼と一騎は別の人間であると、ちゃんと自分自身が向き合うためにも。
「ぅ…」
 眩しそうに眉を寄せて、ゆるゆると大地色の瞳が姿を現した。
「そおし…?」
「一騎、起きたのか」
 舌足らずに呼ばれて、自然と手を頬に滑らせる。
 彼が瞳に自分を映し、暖かな体温が頬の手に添えられた。一騎の頬と掌に挟まれ、自分の手に温もりがじわりと馴染んでいき、ひどく幸せだと感じる。目を覚ましてくれた。
 いつもやっていることだが、自分の声を聞いた咲良と遠見が微妙な顔をする。何故そんな顔をされなければいけないのかと思い二人に顔を向けた。
 起き上がろうとした一騎から一瞬だけ目を離した、たった一秒にも満たない瞬間だった。
「…ぐぅ…!」
 腕の中で引きつり堪える様な悲鳴を上げて、一騎の身体が硬直する。両腕で自身の身体を抱え込み、膝から滑り落ちそうになるのを慌てて支えた。
「一騎!」
 狭い席では脈を取る事もできないので、刺激を与えないように抱きかかえて床に寝かせる。呼吸が浅い。
「一騎、どこが痛いか教えてくれ。頭か?身体か?」
 問い掛けても、よほどの激痛が走るのか歯を食いしばって眉を寄せたまま答えは無い。
「僕の声が聞こえるか、一騎!」
 苦しむ姿が、十九歳の青年に被って目の前に晒される。助けなければ今度こそいなくなってしまう、と残酷なささやきが反響して冷静な思考を苛んだ。いなくならないで、と緑の結晶に覆われた姿に縋り付く。
 周りの必死の呼びかけすら頭に入らず、ただひたすらに一騎の身体を掻き抱いた。押し殺した苦痛の声が漏れるだけだ。あまりにも突然の出来事に動揺が先立って手指が震える。一騎、と何度目になるか分からないほど名前を呼び、ようやく目が開いた。
 そこに現れた色に息を呑む。

 鮮やかな赤に彩られた瞳。
 肉体の同化現象が発現している証。

「…そ、し…」
 微かに聞こえたか細い音が、名を呼ぶ。助けを求めている。
 求めているのは、誰だ。一騎はもういない。彼を助ける事はできなかった。手を伸ばしても、優しく残酷に微笑むだけで、決して助けてなどと言わなかった。戦いによって命を落とす事があると、彼は十分に理解していた。それでも共に島に帰ろうと、最後の戦闘を終えてまた残り少ない平和の時間を共に生きようと誓った。未来の約束には意味があったはずだ。それなのに一騎はいなくなった。
 目の前で手を握るのは誰だ。一騎に瓜二つの、けれど一騎ではない存在。いなくなってしまった彼の代わりにコアが授けた幼子。一途に自分を慕ってくれる、愛おしい存在。彼を育てる事で、助けられなかった彼への懺悔になると思った。思わなければ、瓜二つに育つ一騎が彼の面影に重なる度に、殺してしまいたい程憎んでしまいそうだった。何故お前がここに生きて、一騎はいないのだと。あまりにも身勝手で、最低で、人としてあってはならない思考に黒く塗りつぶされてしまいそうになった。
「一騎…」
 今、どちらの名前を呼んだ。どちらの名前を呼びたかった。最早自身にすらわからない。剣司が、一騎を奪い取るように抱え上げ、担架へと乗せるのを呆然と眺めた。
 立ち上がって一騎の隣にいてやらなければと思うのに、足が震えて動かない。床に座ったまま動かない自分を一瞥しただけで、剣司は急いで楽園を後にした。彼は医者だ。一騎の治療は任せておけば良い。自分が行ったところでなにができる。
「総士」
 強い力で肩を掴まれた。半ば強制的に腕を持ち上げられ、無様によろける。
「行くよ。一騎の傍に、ついていてあげるんだ」
 甲洋に促され、躊躇いが掠める。自分の弱さを、表情と心を読む事で把握した甲洋は、徐に拳を振り上げて左頬を打った。
 さほど大きくない打音と、女性陣が背後で息を呑む音が静かな店内に響いた。殴られた頬が痛みを訴え始めた時、ようやく甲洋を正面から見る事ができた。
「失いたくないんだろう?ならもっと、無様に縋れよ。まだ手の届く所にいるのに、どうして諦めるんだ。あいつが一騎じゃないからか?だったら、どうして一騎であることを彼に求めない。一騎がいいなら、同じ名前を与えるなら、お前のその手で一騎と全く同じに育てれば良かったんだ」
「それは…」
「違うだろ、総士。お前はもう分かってる。あれは、一騎じゃないんだ。あの子は、それなのに、ずっと真壁一騎になりたいと願ってたんだぞ」
 どういう意味だ。一騎が、真壁一騎を、知っているのか。
 胸ぐらを掴まれ壁に押し付けられる。どん、と殴られたよりも強かな痛みが背筋に走った。
「あの子はお前が、ずっと一騎の面影を求めていると思い込んでる。それなのに、中途半端にあの子の意志を尊重する様な、別の人格に育てる様な真似をして、苦しめていたのは総士、お前だ」
 一騎と違う運命をたどって欲しかった。それは、間違いなく心から願った事だ。ファフナーなど知らない、乗る事も無い、また砕け散っていなくなってしまうことのない生を歩んで欲しい。一騎の生まれ変わりなら、せめてザインと相見える日が来るまでは、彼を慈しみ愛する存在がいることを教えてあげたい。此処に、この島に、故郷に、帰りたいと望んでもらうために。
 甲洋の手が離れ、ずるずると壁を伝って崩れ落ちる。殴られた拍子に切ったのか、血の味が舌に広がった。
「皆城くんは、一騎くんをどうしたの?」
 甘いのに、心に突き刺さる様な冷たい声で、遠見が問うた。視線が心を無遠慮に切り裂く様に痛んで、一騎を喪って初めて、声を荒げた。
「では僕にどうしろと言うんだ…!一騎は…あいつは、もう、いないんだ!」
 うん、と遠見はなんでも無い事のように頷く。あまりにもあっさりと肯定され、悔しさに心が張り裂けそうになる。一騎の喪失を悼んでいるのは自分だけなのではないか。誰も、島を護った英雄と祀り上げておきながら、悲しそうに微笑んでいなくなった一騎を覚えていようとしない。あの子供に、一騎がいたという事実が書き換えられていくのが、恐ろしくてたまらない。
 俯いた頭を、そっと柔らかな何かが触れ抱えた。とても些細な、擦る程度の接触だ。
「すまない、総士」
 カノンの声が、心に寄り添うように悲しみを注ぐ。
「最後に一騎とクロッシングをしていたのはお前だった。あいつの最期を知っているのも」
「…僕は…」
「私は最低だ。一騎の最期に共にいられたお前を羨ましいと思っていた。あの子のことを全部押し付けるように任せて、それが良いと知ったふりして、ずっとお前に甘えていた」
「…僕が、あいつを護りたかったという後悔に、一騎を付き合わせたんだ」
「でも、見てれば分かるよ。一騎くんが、皆城くんのこと、大好きだって」
 私も羨ましい、と遠見が言葉を重ねた。そうか、外から見ても一騎は自分を好いていてくれたのかと今更ながらに実感する。だからこそ、一騎を一騎として接してあげられない自分に嫌気が差した。いっそ手放して、自分に縛られることなく過ごした方が彼の為になるのではないか。そうすれば…この苦しみと葛藤から解き放たれる。
 ふと、目の前が明るいことに気付いた。差し込む光が目元にあたり、眩しさに顔を上げる。少し目を細めた頬を懐かしい体温が撫で触れた。
「か……っ!」
 この温度を知っている。何度も何度もこの身に刻み込むように触れさせ、覚えきった暖かさ。楽園の窓から差し込む日差しはそのまま一騎との、思い出だ。彼が確かに存在ここにいたという、自分にとっての証。
 溢れるものを止めることなどできなかった。
 一騎、と押し殺した嗚咽の合間に呟く。みっともなく泣き崩れる自分に、カノンは、遠見は、咲良は、甲洋は、ただ寄り添ってくれた。
 それでいいと、許された気がした。


 なあ一騎、どうしていなくなってしまったんだ。あの時、フェンリルを起動した時、諦めてしまったのがいけなかったのか。お前のように相手を同化できれば、お前を喪う事無く倒せていたのだろうか。
 お前と共に生きたかった。この命が尽きるその時、お前に側にいて欲しかった。戦いが終わったら、つかの間の平和にお前と笑い合いたかった。僕が望んでいたのは、たったそれだけのことなんだ。お前が隣にいてくれるだけで良かった。言葉を交わし、時にお前の温もりに浸りながら、互いに長くない命を生きられたらそれだけで良かった。
 どうして僕を置いて行ったんだ。お前に伝えたい言葉が、まだ残っていたのに。
 一騎、僕はお前を――


 それからどうやって医務室までたどり着いたのか定かではない。泣き腫らした目元に微かに驚きを見せた遠見先生は、けれど何も言わずに一騎のいるベッドまで案内してくれた。備え付きの椅子に座り、一騎の呼吸音と脈拍の音をぼんやりと聞きながら、時間の感覚を麻痺させる点滴と上下する胸元を見つめひたすらに目覚めを待った。
 点滴がちょうど空になった時、眠りについていた瞼が震え、琥珀色の双眸が徐々に焦点を結び自分へと辿り着く。詰めていた息を吐き出すと、点滴に繋がれている手が目元を擦った。
「総士、泣いてた?」
 曖昧に笑えば、ごめん、と小さな声が掠れる。
「俺、あのまま死んじゃうのかなって…ちょっと、怖かった」
「心配した。誰でもない、お前が、いなくなってしまうのではないかと、僕も怖かった」
「…俺の事、心配してくれたの?」
「当たり前だ。お前を失ってしまうなど、僕にはもう耐えられない」
 身体に障らないように、柔らかな髪に指を絡めて撫でる。一騎は凪いだ瞳をひたりと自分に向け何か言いた気にする。どうした、と促せば、一呼吸の間を置いて一騎はその名を口にした。
「『真壁一騎』」
 声色は淡々としているのに、反応を伺って、まるで叱られる前の子供の様な表情に思わず苦笑する。頭を撫でていたのとは別の手で掌を握り込んだ。大丈夫だ、と教えるために。
「もう、その名を知っていたんだな」
「驚かないの?」
「驚いたさ…コアに聞いたのか?」
「うん。ねえ、総士。俺、行きたい所があるんだ。連れてってくれるか?」
「お前が望むなら」
 彼の全てを受け止めようと思った。まずはそれからだ。一騎が何に悩み、何を見て、何を不安に思っていたのか。一つ一つ拾い上げて、ちゃんと一緒に考えて。懺悔じゃない、後悔でもない。
 真壁一騎ではない彼とちゃんと向き合おうと、思えた。
「どこに行きたい?」
 繋がる手をきゅっと握り締め、一騎は謳うようにその場を紡いだ。
「コアの眠る場所。ワルキューレの岩戸に、行きたい」





 赤に染まるワルキューレの岩戸へ、一騎を伴い足を踏み入れる。一騎の希望で二人だけだ。危ない事は無い、と告げる顔はひどく大人びてどことなく日野美羽を彷彿とさせた。
「総士、こっち」
 手招きに応じてよりコアの眠る場所の近くで立ち止まれば、背を向けていた一騎が突如くるりと反転し向かい合う形となった。
「『真壁一騎』がここにいるんだ、総士」
「…は?」
「だから、お話して。いなくなっちゃう前に。総士が伝えたい事、全部、伝えてあげて」
「一騎、お前、一体何を…」
 一騎が指す場所には、当たり前だが誰もいない。影の一つも落ちていないし、人の気配だってない。この場所がコアが生と死を循環する特殊な場所だとしても、突拍子のない発言に対処の術が分からず困惑した。
「俺が邪魔だったらここから出てくから。ほら、お前
も固まってないでなんとか言えよ」
 虚空に向かって一人芝居をするには妙に刺々しい言葉に、動揺は逆に収まっていった。
 なぜだか、そこにいなくなってしまった一騎がいるのは本当なのではないかと、受け取れたのだ。一騎が嘘を言うとも思えない。
「そこにいるのか…一騎」
 答えは無い。代わりに、幼い一騎が頷いた。
「総士に謝りたいって。勝手な事してごめん、でもお前なら許してくれるだろうって言ってる」
「許すもんか。勝手に決めていなくなって、しかも僕の同化現象を肩代わりするなど…無茶にも程がある」
 何も見えない筈なのに、怒られて決まりの悪そうに目を伏せる一騎がそこにいる気がした。たぶん、外れていない。
 あの戦いから五年の月日が流れた。記憶の中の一騎は色褪せず、不変の形で自分の中に築かれている。もう彼の生を見る事は叶わない。けれど、変わらず彼の面影が残っている事を知って、胸が締め付けられるほど切なく、狂おしい程に愛おしい。
「…なあ、一騎」
 虚空に向かって手を伸ばす。驚いたように、幼い一騎が一歩下がった。
「伝えたいことがあった。伝える前に、お前はいなくなってしまったが」
 今この想いが果たせるのなら、きっと自分は新しく歩き始める事ができる。彼の最期を引きずる事無く、優しく掌に包んで仕舞っておける。自分の中に根付く、宝物として。
 隣に一騎はいない。もうどこにもいないはずだった。
 でも彼は、ここにいる。
「お前を…愛しているよ」
 ちゃんと伝えよう。
 生涯を掛けて、抱き続けてきた想いを。

 ふわりと首筋に温もりが触れ、咄嗟に抱き返した。
 一騎が緑の結晶に消える瞬間、手を伸ばしたのは自分だけだった。今度は、一騎から求めてくれた。

――本当は総士のこと抱き締めたかった。嬉しかったんだ。最期に感じるのが、総士の温もりだったことが。

「ああ…」

 一騎の声だ。自分を包み込み癒してくれる、唯一の人の声。
 頬を伝った一筋の涙が宙で弾かれ、綺麗な雫となって消えていった。
「総士」
 残されたのは、幼い一騎だ。
 膝をつく自分の頭を抱えて、こんなに情けない自分をちゃんと待っていてくれた優しい子供。
「一騎」
 今度こそ、本当に一騎の名前を呼べる。
 真壁一騎じゃない、でも一騎から生まれた、この世に生を受けたたった一つの命を。
「俺だって…総士の事、大好きだからな」
 こんなにも無垢な魂が、自分に精一杯の想いを向けてくれる。なんという幸福だろう。どれほどの僥倖だろう。
 幼い身体を抱き寄せて、己に刻んだ。これから、この幼い一騎と共に生きていく自分への、導を。
「僕もだ…一騎」
 この想いを、もう間違える事は無い。

05.ここにいるよ

 肌を刺すような冷たい風に晒され、鉄の塊は眼前で静かにこの時を待っていた。
 ここ数年、フェストゥムの襲撃は受けていない。だが、ソロモンは来る脅威を既に感知している。
「これが…マークザイン」
 果たしてこの塊を機体コードで呼んで良いものか定かではなかったが、まるで孵る寸前の卵のように、存在の脈動を感じた。
 自分の機体だ。『真壁一騎』と同じ遺伝子を持つ自分にしか受け入れる事のできない、世界を救うザルヴァートルモデル。
 再び選ばれた。おかしな表現だが、これが一番しっくりくる。
「いいんだ、一騎。お前はこれに乗らなくて良い。お前が戦う必要なんて無い」
 シナジェティックスーツを着ている自分に対し、総士はアルヴィスの制服を着ていた。総士は戦闘指揮官だ。本来ならこんな場所にいてはいけないのに、養い親としての顔を隠す事無く引き止めた。
 総士は、きっと同じ事を『真壁一騎』に言いたかった。けれど、かつての総士の立場が、生き方が、それを許さなかった。
 でも今、総士は乗らなくていいと言ってくれる。戦う必要などないと、断言してくれる。
 それだけで、もう十分だ。
「ありがとう、総士。俺の事、護ってくれて」
 身体の成長は、十八歳前後で止まった。まだ十年も生きていないけれど、ファフナーに乗る年齢としては適当と言える。同じように、戦士達はこれから訓練に明け暮れるだろう。故郷を、帰る場所を、大切な人がいる島を、護るために。
「戦うよ。俺の意志で、選んだ。マークザインと一緒に、俺は総士がいる島を護る」
 この言葉がどれほど総士を打ちのめそうと、言わなくてはいけない。
 いつかフェストゥムと戦わなければいけなくなった時、マークザインは必ずそこに存在する。島を護るため、世界の戦士の象徴として。
「だから、時が来たら俺を使って。俺が、戦う」
 後から知ったが、真壁一騎も総士に同じ言葉を告げた事があったらしい。
 総士にしてみれば、さぞ気を揉んだ事だろう。
「…忘れるな、一騎。僕はお前の帰りを待っている。ここで、ずっと」
「うん」

 白亜の機体が再び戦乱を駆け抜ける時。
 一騎の時間は、終わりへの道を再び刻み始めた。

AFTERWORD

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一騎以外の全員が生きていて、一騎だけがいなくなるお話でした。
真壁一騎を元にした子供は一騎の身体的な特徴を似せただけです。
アザゼル二体を同化した一騎が完全に消えてしまう前に、海神島のコアとなったエメリーや他のエスペラントたちの集合体が、一騎の欠片を同化して『真壁一騎』の命を微かに繋ぎとめていただけでした。
守ってくれたからその御礼、くらいの気持ちで、残してしまう総士を心配した一騎の願いをかなえてあげようとします。
けれどコアは完全に一騎の願いを理解したわけではなかったので、決して蘇らせることができないなら『新しい一騎』を総士の傍にいさせてあげればいい、と考えて幼い一騎を生み出しました。一騎の意識体も、地平線を超える前に故郷を見ておくといいよというありがた迷惑な配慮です。

2016.5.3 published