戦闘は過激を極めた。

あちこちに広がる硝煙と、煤けた建物と生物の匂い。

虚無は消える。だが、生物は余程の高温で焼かれない限り形は残る。

濃くなる匂いは、それだけ守るべきものたちの死が溢れた証拠だった。

「我らが王に勝利を」

「我らが王に忠誠を」

そうやってアイチを信じてくれた者たちが、虚無によって死んでいく。

何度も繰り返した。
何度も何度も何度も、長い時間を繰り返した。

はじめて相対した瞬間から、アイチが何度も繰り返してきた戦い。

今回が最後だ。






虚無は強かった。
これまで何度も戦ってきたが、これほどまでに手強いと感じたことはなかった。
その圧倒的な物量もさることながら、戦闘に関しては秀でていると自負する帝国を相手に互角の戦いを繰り広げた。
虚無の半数を消し去ったものの、櫂たちの損害も決して楽観視できるものではない。
櫂が相対する、あの夢の中にも現れた虚無は、ゆらゆらと揺れる闇の炎を纏いながら嘲笑う。
『無様だな』
「貴様に言われる筋合いはないな」
ぜえ、と息をついて眼前の敵を睨み付ける。
満身創痍であることは変わらないが、虚無もまた同等かそれ以上に力を失って、姿は微かに消えては点いてを繰り返している。
『青の王の宿命はわかったか?』
「知らない」
『それは残念だ。信頼されていないってことだ』
「……そうかもしれないな」
問い質すだけの時間も無かった。アイチの様子がおかしかったことに気付かなったのは櫂の落ち度で、あの走馬灯のような光景が何を意味しているのかもわからない。
「なら、さっさとこの戦いを終わらせて、何度だってあいつに聞くだけだ」
『この短時間で吹っ切れたか、興覚めだ』
遊ぶための餌が効果を失くしたことを感じたのか、虚無は心底つまらなそうに言葉を吐き捨て、櫂に向かって闇の力を繰り出す。
帝国最強の竜、オーバーロードの力を借りた剣が光り、櫂は虚無の力を薙ぎ払った。本体に繰り出した剣を飛び上がって避けた虚無は、再び触手のような闇の力を両手から放ち櫂と距離を取ろうと試みる。一歩踏み出した足を回転軸に、風圧を乗せた剣が触手を一刀両断すると共に斬撃となって虚無を捕えた。胸元を抉る衝撃をまともに受け、憎しみに満ちた声を上げながら虚無は後退る。
「ぐっ……!」
虚無もまた櫂に向けて闇を繰り出し、攻撃直後で軌道を変えきれなかった左半身を襲う。
生きる力を奪うかのような脱力感と倦怠感とが纏わりつくが、なんとか堪えて足場を踏みしめた。
「終わりだっ!」
よろけた隙をついて踏み込んだ櫂は剣を振るう。だが、その切っ先はかするだけで手ごたえはない。
外したと目で確認するよりも先に、次の手をうつべく軌道に乗せた剣の柄を握り締める。
左足に力は入らない。左腕も、感覚は遠いものの動かせないことはない。目はまだ、見える。瞬時に残った五感を最大限に研ぎ澄ませ、熱を帯びた大地をさらに炎で焙るべく炎の力を込めた、その時。
漆黒の鎧が、櫂の反対、つまり虚無の背後から間合いを詰め切りかかった。
「櫂!」
「その声は、レンか」
見たことがないわけではなかった。黒い装束は夜域の人間の証。聖域と対になりながらも、まったく異なる性質を持つ彼等ダークパラディン、そしてその先導者たるレン。
一度は刃を交えたことのある存在と、共に戦っている。
『盟友と魔術師が揃い踏みか!』
「生憎、僕の仲間たちが虚無のほとんど倒してしまいましたから」
『さすが、これまでで一番力が強い”時代”だ。虚無の負けは確定している』
レンの剣は、虚無を真っ二つに切り裂く。
隙を狙い切りかかった櫂の剣も、既に霧となりつつある虚無を散り散りに削ぎ、勝敗を決した。
人間のように、どこを抉れば死ぬとか、血を流し過ぎたら危ないというわかりやすい兆候のない個体ではあるが、虚無とて不死身ではない。
櫂が纏う竜の力と聖域の力が眩く混ざり合い、虚無の闇が再び一つの形へと成されない様に散らしてしまえば、櫂とレンの勝利だ。
『先導者は、おまえに救えやしないさ』
なお深く呪詛に満ちたおどろおどろしい声が櫂を捕える。
既に消えかかっている本体を冷たく見下ろす櫂に、不快な愉快さを込めた声がわらった。
「うる、さい……っ!」
『虚無の力が辛いだろう? その左半身、もう使えないぜ』
「く……」
「櫂」
消えかかっているのは虚無の方だというのに、気に入った獲物を最期まで嘲笑うかのような態度。精神的に相手を痛めつけることを得手としているとはいえ、あまりにも不気味なそれを前に櫂はせり上がりそうになる悪寒を耐えた。
レンが近くまでやってくる。櫂を支えるように腰に手を当てて、真っ向から虚無を睨み付けた。
『虚無が消えて、青の王も消え、このせかいはりっぱな平和を手に入れる。そんなくだらない結末を、おまえは変えたくないのか』
「変える。変えてみせる。だがそのために……虚無の力は、俺には必要ない」
『りっぱだなぁ青の盟友』
ひたりと、虚無の消えかかった手が櫂へと伸ばされた。
『だとさ、青の王。もう消える命だってのに、ずいぶんと生き永らえてるじゃないか』
「果たすべき使命が、あるから」
こんな場所で聞くはずのない声が、櫂とレンの背後から凛と響く。
『これで虚無は永久の戦いに負ける。だが、俺たちは消えない』
「そうだね。きみたちもまた、この世界に存在する力の一端なのだから」
はっとして後ろを振り返った時には、虚無は霧散し赤黒い靄となってアイチへと吸い込まれていった。
「アイ、チ」
アイチが、虚無を取り込む。レンが語った通りの光景。
赤いモヤのようなものに包まれ、青く澄んだ瞳に赤い光が明滅していた。
「アイチ、それはいったい」
苦しそうに胸元を抑え、荒く息をついたアイチは玉のような汗を浮かべて、それでも気丈に胸を張る。
櫂のそばまで小走りに辿り着くと、ボロボロになっている左側に目を見張りさっと青ざめた。
「櫂くん、虚無の攻撃を」
「答えろアイチ、おまえのそれはッ!」
「う、動いたらだめだよ……!」
アイチに向かって踏み出した脚から力が抜け、がくりと膝を折る。
情けない、こんな醜態。辛うじて動く右でアイチの服にしがみつくと、櫂に引き摺られてアイチも膝を着いた。
「無理して動いたら」
「そんな、ことは、いい。アイチ、俺は」
朦朧としつつある意識の淵でなんとか己を奮い立たせ、アイチを逃すまいと腕を伸ばす。
このまま手を離してしまったら、アイチを失ってしまうのではないかという恐ろしさ。黒い霧を身に纏うアイチの、神々しいまでの先導者としての力が、すべてを奪ってしまいそうで。
「櫂くん、大丈夫だよ」
アイチの掌が櫂の左半身を撫で、崩れかけていた四肢が淡く光り出す。
だめだ、そんな力を使ったらおまえは、と。櫂は首を横に振ってアイチを止めようとするけれど、あたたかな温もりに抱かれて瞼がゆるりと落ち始める。
「死なせない」
清らかな声が。
「繰り返したくない」
悲愴な決意を秘めた声が。
「ここで終わらせるんだ……ううん、始めるんだ」
薄れゆく意識の中で、アイチの言葉は櫂へと注がれる。前にもこんなことがあったような気がした。
そう、それはずっと昔の光景のはずなのに、まるで昨日のことのように実感を伴って櫂の記憶を刺激する。
輪廻転生という、アイチが背負う宿命を。


崩れ落ちた櫂の身体は地面に倒れ伏し、アイチの服を握ったまま気を失ってしまった。
右手だけが、アイチを逃すまいと力を込めて彼の意志を伝えてくる。
「……レンさん」
「聞けません」
「まだ、何も言ってないですよ」
「こういう時のアイチくんは、僕が嫌がることしか言わないんです」
「そんな」
「経験則ですから」
「じゃあ、勝手に言います」
アイチの右手が、櫂の髪を梳く。左の頬に滑らせた掌に、虚無と同じ力が浮かび上がってアイチの身体を覆った。
反して櫂の左半身は、このまま崩れ落ちるはずだった組織を繋ぎ合わせ、みるみると元の形を取り戻していく。
「アイチくん」
語らずとも、魔術師であるレンにはアイチが何をしているのかわかってしまった。
唇を引き結んでいなければ、恨み言の一つでも吐いてしまいそうだ。そんな自分が情けなくて、けれどどうすることもできない事実を前にレンは何もできなかった。
「いつからですか」
「もう、ずっと前からです」
赤黒い霧さえなければ、戦乱の只中でなければ、アイチの表情は、眠る櫂をひたすらに愛おしく見つめる優しさに満ちていた。ずっと見ていたいと思えるような穏やかな光景だった。
大好きな人を想う、普通の人間だった。
「生まれた時から、虚無を倒すためだけに生きてきました。決められた定めを歩いて、櫂くんとレンさんに出会って、二人は僕を置いていなくなってしまう。そんな世界を、ずっと繰り返してきました」
夢物語だと笑い飛ばしてしまえれば、きっと三人はこんな風に惹かれ合う運命になかったのだろう。
「一番最初にいなくなってしまうのは櫂くんでした。僕を守って死んでしまうこともありました。一人虚無と戦って、僕が知らないうちに命を落としていることも、ありました。絶対に変わらない、変えられない過去でした」
アイチの指先が階の後ろ毛を優しく弾く。先より赤くなった瞳は、もう元の青を宿していない。
「次に、レンさんがいなくなりました。レンさんは最後まで僕と一緒に戦ってくれて、櫂くんの分まで一緒にいてくれて。でも、僕を置いていなくなってしまうことに変わりはありませんでした。この流れは、一度だって覆ったことはありません。どんな世界であっても、僕は虚無と戦い相打ちになり、死んだと思えばまた新たな生で虚無と戦う。もう、何度繰り返したかなんて思い出せないくらい、長い間僕は虚無と戦ってきました」
「それが、この”時代”で変わったと」
「……なんでご存知なんですか?」
「さっき、虚無がそんなようなことを言っていましたから」
アイチは苦笑すると、レンに向かって首を縦に振る。
「そうです。この”時代”に生まれた僕は、今までで一番強い力を持っていました。虚無を打ち払うこともできる。虚無を永遠に葬り去ることもできる。難しかもしれないけれど、決して不可能ではない。そんな強大な力を持って生まれました。だからなのか、命が短いということもすぐに知りました。オラクルシンクタンクのお告げにもダメ押しされて、ちょっとだけ自暴自棄になった時もあったんですよ?」
ふふ、と笑って、アイチは遠い眼差しでレンを見上げた。
「やるべきことは変わらない。虚無と戦うという事は、永遠に続いていく僕の宿命だと、思っていたんです。でも、櫂くんやレンさんを見ていて、僕は一つの可能性に気付きました。もしかして、虚無だってこの世界に存在する力の一つとして、他と共存することもできるんじゃないかって」
「それは……」
「虚無に侵されてなお、自我を保ちながら力として揮うことができる。確かに恐ろしい力かもしれない。でも、もしこの世界に遍く力として、存在させることができれば、この戦いを終わらせることができるかもしれない」
それはつまり、櫂とレンが自分を置いて死んでしまう、この流れを断ち切ることができる。
「二人に未来を生きて欲しかった――たとえ僕が、そこにいなくても」
「っアイチくん!」
「ごめんなさい、レンさん。僕は、まだやらなきゃいけないことがあるんだ」
「いけませんアイチくん、僕だってきみを失いたくない」
「ありがとうございます」
櫂の手を外し、アイチは立ち上がった。ゆらりと立ち昇る煙のような、虚無の残滓。いや、残滓どころではない。アイチは今、虚無と聖域の力をその身に宿しているのだ。
そんな彼が成すことなど、容易に想像ができてしまう。
「聖域の力と融合させたとして、それがどれだけきみに負荷をかけるか。最悪、きみが命を落として虚無の力が暴走するかもしれないんですよ!」
「……さすがレンさん、すぐばれちゃうなぁ」
頬を掻く仕草は、彼の常の癖。
そんな普通なところを見せられてしまうと、泣きたくなる。
悲愴な決心をした彼が、もうどんな言葉をかけようと揺るがないことを見せつけられているようで。
「櫂くんにも、伝えてください」
アイチの周囲に、突如魔術の陣が描かれた。
転送の魔術だと一目で見抜いたレンは、それを打ち破るべく術を唱える。
だが。
「僕が世界に仇なす存在となったら、きみの手で殺して、と」

ごめんなさい。

そう呟いたアイチは、瞬く間に光の柱に包まれた。

「――アイチくん!!」



***



走馬灯、というものだろうか。
櫂は頭の中で渦巻く多くの記憶に、忘れていた己を殴り倒したい気分に駆られた。
アイチがずっと抱えてきた、いくつもの”時代”の記憶。
戦いばかりの中で、僅かでも穏やかな時間を過ごすアイチとレンの朗らかな笑みが。
庇った櫂を抱き締め、何度も涙し「死なないで」と叫ぶ彼の表情が。
アイチは、ずっとこれを抱えてきたのか。
だから、未来を夢見れなかったのか。彼の中の未来は戦いばかりで。櫂が死に、きっとレンもいなくなって、一人ぼっちになってしまうばかりの世界だから。自分の未来なんて思い描きたくもなかったのか。

だったら、全部忘れてしまえればよかったのに。
櫂のように、何度やり直しても、生まれ変わっても、記憶を宿していない存在だったら。

「アイチ」

未来を生きて欲しかった。
そう願うことすら、アイチにとっては苦しくて。
気付いてやれなった己に、腹が立った。

だがアイチは、いつだって決意を胸に立ち上がる。
虚無と戦い、傷つき倒れても、諦めずに立ち向かう。
そうして希望を見つけ、やがて彼が求めるあたたかな世界が訪れるんだろう。
この世界で、生きていくすべてのために。

「アイチ」

その中に、アイチが含まれていない。
自分の未来を描いていない。
悲しそうに。泣きそうになりながら。

『櫂くん、死んじゃやだ』
『いなくならないで、僕と一緒にいて』
『僕が守る。みんなを。きみを』
『櫂くんとレンさんが生きる、幸せな未来を』

『大好き――櫂くん』

涙ばかり流させて。
優しいぬくもりばかりを享受して。
アイチに、もらってばかりだ。

「アイチ……!」

助ける。
そばにいたい。
守りたい。
彼が笑って生きている未来を、掴みたい。

『じゃあ僕は、アイチくんの幸せを願わなくてはいけませんね』

レンの言う通りだ。

「俺の幸せを願うなら、おまえがずっとそばに居ろ――」



***



白亜の階段を上ると、そこには重厚な扉が待ち構えている。
選ばれた者しか開くことのできない扉は、生体と連動する特殊な魔術が施されており、破られることの無いよう幾重もの厳重な封がかけられ<青の魔術師>の名は伊達ではないことを城中に知らしめた。
その扉をゆっくりと押し開いたのは、鷲色の髪に緑の瞳を持つ端正な若者だ。彼は<青の盟友>と呼ばれ、虚無から世界を救った救世主の一人として名を知られている。帝国の若き軍大将の地位を持ちながらも、聖域の守護を担う存在であるということも。
彼は扉を開くことを許され、本当の救世主の元へと毎日足を運んでいる。
どれほど忙しかろうと、たとえ数分しか顔を見ることができなくても、欠かすことは無い。

かつて神殿があった場所。
その中心、揺り籠と呼ばれた先導者のための寝床で、<青の王>は眠りについていた。

時折揺らめく赤い光を、少しずつ、少しずつ聖域の力と馴染ませ、どれほどかかるかわからない長い時をかけて、この世界の力の一つとする。
敵であった虚無を、仲間として迎え入れようとしている。
先導者らしい、と人々は口を揃えて讃えた。

我らが王、世界を導く先導者。
彼が繋いでくれた未来を、次へと繋げていこう。

善意ばかりではない世界であっても、人の和をもたらした彼は、一人孤独の中で戦っていた。

揺り籠に近付くと、彼の寝顔がはっきりと見えた。
白に包まれた頬に手を滑らせ、あたたかいことを確認し、青いふわふわとした髪を梳く。
ただ寝坊しているだけのような表情に目元を綻ばせ、近くに置いてあった椅子を引いて彼のすぐそばに腰かけた。
揺り籠の淵に頬杖をついて、寝顔を眺める。

戦いのない世界を、アイチに見せたい。

一緒に生きよう、と伝えたい。

虚無が暴走してしまったら、アイチを殺して、自分も後を追おう。

そして、次の世界でまた出会う。

今度こそ、一緒に生きる未来を掴むために。

三人で笑い合える、そんな未来を。