つい数刻前まで兵士たちで埋まっていた廊下を歩きながら、櫂は眼下に広がる城下町を眺めていた。
国境付近での戦闘が終わり、城に帰還した兵たちはそれぞれの家族の元へと無事を知らせに戻っている。
この国の政治的なトップであるアルフレッド王や、その側近たち、そして軍上層部は未だ戦後処理に追われているが、勝利を得て城へと戻れたことで城内の雰囲気は明るい。死者がいなかったことも幸いした。誰かの死は、たとえそれが自らに関係なくとも重みが伝播する。

戦闘の半ばで城に戻ったアイチは、未だ国境付近で戦いに身を投じていた櫂たちの身を守るため一心不乱に祈り続けた。
祈りは、ただ気持ちを捧げるのではない。アイチの祈りによって力を得たこの国の守護神は、聖域の加護を祈りの対象に与える。それは身体の疲弊の回復であったり、精神的な向上であったり、僅かなものであっても兵士たちを奮い立たせるに絶大な威力を発揮する力だ。
アイチが、青の王が無事を祈ってくれる。加護を与えてくれているのだという希望と、自分たちの先導者への献身は、純粋な力よりも時に敵を凌駕する想いとなる。
それだけの期待を一身に背負うアイチを、櫂は誇らしく思いながら、憂いてもいた。

「櫂、こんなところにいたんですね」

廊下の先からやってきたレンは、常は身に着けている魔術師としてのローブを外し軽装になっていた。
会議に出席していたのなら正装でしかるべきなので、散歩でもしていたのだろう。櫂は特に答えることも無く、レンを一瞥しただけで視線を城下へと戻した。
「まったく、医務室にいないと思ったら」
「余計な世話だ」
「きみの副官くんも心労が絶えませんね。ちゃんと治しておかないと、アイチくんに見つかりますよ?」
取りつく島もないと呆れの溜息をつくレンの忠告はもっともであり、櫂は本来ならばこんなところで呑気に歩いてあるべきではない。
先の戦闘の最終局面、アイチを城に戻した後、前線でドラゴンとしての力を使った櫂は蓄積した疲労と力の使い過ぎで意識を失った。櫂の副官として片腕を担う三和のおかげで、倒れたところを敵に狙われることは無かったが、自陣営の士気に関わる失態だ。
幸いなことにアイチまで報告は伝わっていなかったらしく、帰還後に逢いに行った際は話題に上らなかったため黙秘を貫き通すつもりだった。
「怪我の程度は?」
「大したことじゃない。目に見えるような傷は治った」
「そーゆーのは医療部隊のみなさんが治してくれるけど、力の回復にはそれなりに時間がかかります」
「知っている」
「返事だけ良くても意味ないんですけどね……」
櫂の傍にそそくさと寄ってきたレンは頭の上からつま先までを眺め、ふむ、と顎に手を当てる。何やら呟いた途端、櫂の身体を魔術が包み込んだ。淡い紫の霧が風のように髪をなびかせ、下から上へと昇り通り抜ける。瞬く間に身体の内側から満ちた力の気配を覚えて、櫂は小さく頷いた。
レンの魔術による力の回復は、自然と蓄積される聖域の力を魔術によって増幅させるものだ。櫂が有するドラゴンの力に合わせて力を蓄積させる並外れた魔術の解析と分析をもつ彼にしかできない芸当だろう。世界中を探せば、存在するかもしれないが。
「とりあえず応急処置です。すぐに次の戦いが始まることはないと思いますけど、何があってもおかしくない情勢ですからね」
「虚無の侵攻は待ってくれない。いつでも万全の態勢で迎え撃たねばな」
「ええ……できれば、アイチくんにもちゃんと休んでもらいたいですね」
戦いの度にクオリアの力を使い、決して体力があるわけではないアイチは常に倒れる寸前まで己の使命を全うしようとする。
レンが傍に控えても、嗜めようとも、彼がその姿勢を崩すことはない。
先の戦いだって、飲まず食わずで祈りを捧げた末に、櫂が戻ってきたことに安心したと言って気を失った。これまでも何度か同じことがあり、その度に櫂は命が縮むような思いをしている。
「……アイチは」
「アルフレッド王と話があると言っていましたね。それからは見ていませんが」
アイチに最後に触れたのは、倒れた彼を抱き留め運んだ時。順調に回復している、とマロンから聞いてはいるが、直接会う許可は下りていない。
力の回復のため、聖域の特別な区域で休息をとっているアイチに会えるのは、聖域が認めた者だけだ。一度でも虚無に支配された櫂は、たとえどれほど懇願しようとも足を踏み入れることはできない。
頭で理解しても、感情はアイチに寄り添いたいと悲鳴を上げる。だが、ひたすら耐えるしかないのだ。
「ブラスターブレードが護衛についています」
「……知っている」
「今の櫂は、嫉妬に濡れた男の顔ですね」
「燃やされたいか、レン」
「冗談ですよ。遠慮しておきます」
飄々として食えない男だが、櫂の事を心配しての軽口だろう。
こうやって気にかけてくれる存在が櫂には少なからずいて、己は恵まれていると実感する。かつては諍いもあったけれど、アイチを守る仲間同士、レンのことは信頼していた。
もちろんブラスターブレードやアルフレッド、アイチに関わる聖域の者はすべて、彼の味方だ。信じるに値する。
それでも。
「……傍にいたいと思うのは、俺のエゴなんだろうな」
アイチに救われたあの日から、どうすればアイチを彼に課された宿命から救うことができるのか、櫂は悩み続けている。



***



『――アイチ、やめろ!』

懐かしい声が聞こえた。自分の名を呼ぶ声。叫び。慟哭。
アイチは手を伸ばす。 榛色のいくらかを赤く染めた髪は、彼の持つ優しい色だ。だから、怖いことなんて何もない。

『櫂くん、大丈夫。僕がいるから』

虚無に捕らわれ、侵され、荒廃した国は枯れた心をそのまま写したようであった。
櫂の心もまた悲しくも強い力によって囚われてしまっていた。かつての櫂の心は優しく勇気に満ち溢れていたのに、虚無は櫂の心を捻じ曲げた。望まぬ力を与えた。
だから、アイチは櫂を助けたかった。
櫂が手を差し伸べてくれたように。

『虚無は、僕がすべて薙ぎ払う』

聖域の力は、虚無に対抗する唯一の力。
心の闇を増幅させ、内に閉じ込めた欲、他者への嘲り、あらゆる負を力の源にするのが虚無ならば、人の心に光を与えるのが聖域の力。
純粋な戦争という争いの形の方が、遥かに単純なのだ。
心を侵食する虚無に対抗できるのは、どうしたって人の心でしかない。だからアイチは、人々が強い心を取り戻すための手伝いをする。

『櫂くん。強くて、優しくて、ちょっぴり照れ屋で、僕の大切な人。僕に光を与えてくれた人』

――もう、”かつて”のようにきみを失うことを、繰り返したくない

『今度は僕の番だ』

――今度こそ、虚無を倒してみせる。

『きみが生きる未来を、僕が作る』

――皆が生きている、未来を。



「……マイヴァンガード」
「ブラスター……ブレード……」

暗闇と炎の中で手を差し伸べた人は消え、鎧を被った端正な顔がアイチを覗き込んでいた。
良く知るその人の名を囁けば、現実へと移り変わる意識がようやくはっきりとアイチに現在を認識させる。
此処は聖域の加護の中でも、最も強い場所。名を、寄る辺の揺り籠、というアイチに与えられた部屋だ。
アルフレッド王との面会後、急な睡魔に襲われたところで記憶が途切れていた。どうやら、ブラスターブレードがアイチについていてくれたようだ。ここまで運んでくれたのだろう逞しい騎士は、仏頂面ながら心配げな瞳をアイチに向けていた。
「きみがここまで運んでくれたんだね、ありがとう」
「滅相もありません。急に倒れられたのは驚きましたが」
「はは……ちょっと疲れたのかも」
「そうかと思い、この場所に。僭越ながら、お召し物も整えさせて頂きました」
アイチが自分の服を見下ろすと、面会のために来ていた正装から柔らかな寝間着へと変わっていた。
そこまで手を煩わせたのかと俯くアイチの手を、ブラスターブレードの冷たい指先が掬う。
「虚無の浸食は、酷いのですか」
「……誰から聞いたの?」
「王よりお話がありました。私と、マロンは知っているべきであろうと」
「そう……アルフレッドが判断したなら、何も言えないな」
アイチは横になっていた身体を起こすが、途端に襲い来る眩暈に眉を顰めた。清浄な気に満ちた揺り籠の中でも、アイチを虚無に染めようとする力は手を緩めない。
「マイヴァンガード……!」
「だいじょ、ぶ……」
慌てて支えてくれたブラスターブレードの手を借り、アイチは深く息を吐く。
血の気が引いているのは、アイチ自身も感じていた。それでも心を気丈に保たなければ、この国の守護者足る資格はないと言い聞かせ、笑顔を作る。
「こんな情けない姿、きみにしか見せられないな」
「……私で宜しければ、いくらでも」
「ふふ……ねえブラスターブレード。櫂くんとレンさんには、内緒にしてね?」
アイチの頼みに、ブラスターブレードは顔を渋く歪めた。
こうやって表情に出すのは珍しい。余程不本意なのか、それとも逆なのか、本心はアイチに推し量れるところではないけれど、短くない沈黙の末に首を縦に振った。
「私は伝えるべきであると、思いますが」
苦言を呈しながらも、ブラスターブレードは片膝をついてアイチの命に従うことを約束してくれた。
ありがとう、と忠実な騎士に礼を言う。
「僕は大丈夫……皆を守るために、僕はここにいるから」
「まず御身を大切にしてください」
「うん、そうだね。そうしなきゃ、皆を守れないものね」
目を閉じ、己に言い聞かせるように呟くアイチを、ブラスターブレードは悲し気に見遣る。
己の役割を他者のために費やすアイチに、それだけではないのだと語る瞳に、アイチが気付くことはなかった。



***



櫂と、レンと、アイチが出会って少し経った頃。
虚無との戦いが激しさを増し、戦場に出る機会が増え続けていたある日、レンはアイチに尋ねたことがあった。

『アイチくんは、戦争が終わったらどうしたいですか?』

束の間の休息にとマロンが用意したお茶菓子を齧りながら、アイチは目を丸くした。
それまでの会話との繋がりもない、突然の質問だった。隣で紅茶を飲んでいた櫂も気難しい顔に眉間の皺を足して、レンを睨む。

『まだ終わってもいないのに、終わった後の話を』
『いいじゃないですか、後のことまで考えておかないとつまらないです!』
『レンさんらしいなぁ』

アイチは特に気分を害した様子も無く、ふわりと微笑した。
毒気を抜かれたらしい櫂は、続けようとした言葉を飲み込んで押し黙る。アイチが良いならそれでいいようだ。

『僕は皆を守れたら、それでいいです』
『それは終わった後じゃないです』

すっぱりと言い返され、アイチは首を傾げた。困り顔でなんとかひねり出そうと唸る青色を静かに見つめ、櫂も答えを待っている。
ひとしきり悩みぬいて絞り出した答えは、なんともアイチらしいというか、お人よしが丸出しだった。

『櫂くんとレンさんが幸せに生きていられる未来を、作ります』
『あらら』
『おまえは……』

小さな頭を櫂が小突くと、アイチは大きな目を見開いて櫂を振り返った。
レンの声にも呆れが混じっていて、テーブルの上の菓子をアイチの口に突っ込む。

『じゃあ僕は、アイチくんの幸せを願わなくてはいけませんね』
『んぐっ』
『俺もだな』
『ひょんな、櫂くんまで……いたっ』

額にデコピンをお見舞いし、櫂は腕を組んで半泣きになったアイチを見下ろした。
櫂の行動の意味も、レンの質問の意味も、アイチはわかっていないのだろう。櫂の心には、怒りと悲しみが混ぜこぜになったどうしよもない感情だけが渦巻いて、だがそれをどう伝えていいのかがわからず途方に暮れた。
苛々と舌打ち交じりの櫂に、アイチの顔が泣きそうに歪む。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、なんと言えばアイチは分かってくれるだろうか。
アイチは自分の事を二の次に据える。
そのことが腹立たしくて、悔しくて、悲しいということを。

結局、アイチがアルフレッド王に呼ばれたことでうやむやになってしまったが、櫂の心には抜けない棘のようにアイチの”願い”が刺さったままになった。



「俺の幸せはおまえがいることだ――くらい言ってあげればいいのにって、あの時は思いましたけどね」
「うるさい」
櫂の治療を終え、自室に戻る途中のレンがぼやく。
ほんの一年前のできごとだ。あれから、未来の話などする余裕もなく戦いばかりの日々で、アイチは常に虚無に狙われ気の抜けない日々を送っている。
「アイチくん、自分の事は全然話してくれない。未来を見ていない」
アイチの過去に何があって、どうして虚無に対抗するだけの力を有しているのか、櫂は知らない。知らなくても助けてもらった恩を返すだけだと言い聞かせていたけれど、それ以上に櫂の中で大切な存在へとなっていったアイチの、すべてを知りたいと思うようになってしまった。
アイチが時折、どこか遠くへと想いを馳せる眼差しが、心をざわめかせる。
櫂を通して、見知らぬ誰かを想うような表情。憧憬ともいうべき、悲しさと優しさを湛えて。
アイチは何を抱えているのだろう。
アイチはどうして、未来を見ていないのだろう。
「……ああ」
「僕は、悔しいです」
レンの声には、珍しく怒りが滲んでいた。アイチに対するもの。
「虚無なんかに、終わらせたりしません」
「言われるまでもない」
「アイチくんと、櫂と、僕は必ず生き残ります。生き残って、三人で未来を生きるんです」

――それはかつて、アイチと同じ力を持ちながら非道に身を投じた己に対する、憤りでもあったのかもしれない。だからこそ掴みたいと願う、たった一つの願いを込めているのかもしれない。

レンの言葉に宿る力強さに、頷く。
櫂も、同じ気持ちなのだから。