時々、本当に時々、夢を見る。
二十歳にもなってと妹には笑われてしまいそうだけれど、見てしまうのだからしかたがない。それに、僕の中で夢というのは大きな意味を持つ。
良い夢も悪い夢も、それは未来の暗示であったり、過去の景色であったり、僕を安堵させもするし苛みもするものだ。
今日の夢は後者で、つまりあまり嬉しくも楽しくもない夢だった。
閑散とした世界に、一人青い星を見上げるーー月の宮。
僕が僕を封印し、世界を救うために作った場所。
今でもこの場所は、こうして夢という形で僕の記憶を刺激し、現実との境を曖昧にする。あのリンクジョーカーの事件から始まり、僕の中に根付いたシードが僕を乗っ取ろうとした時のことが。
じくりと痛む胸元を握り締め、ふと視線を下ろすと指の間から赤黒いモヤのようなものが滲んでいた。

「――っ」

息を呑む。これは夢だと自分に言い聞かせる。
そう、これは夢なのだ、もうシードが暴走することなんてない。ブラスターブレードのおかげで、櫂くんやレンさんたちとシードを分け合い封印した。だから、シードが僕を乗っ取ろうとすることなんてない。
わかっていても、夢の中でリンクジョーカーの赤が僕を侵食していく。
僕の身体も意識も食い尽くし、真っ赤で真っ黒な世界に僕を堕とそうとする。

「だめ……」

黒に覆われようとしている意識を何とか繋ぎ止めようと、腕に爪を立て歯を食いしばり耐える。
闇の一片であろうと、この力に己を明け渡してはいけない。
世界を滅ぼそうとするこの力に、奪われるわけにはいかない。
カトルナイツが施してくれた封印があっても、完全にリンクジョーカーを抑え込めるわけではないとわかっていても、僕には他の手段なんて思いつかなかった。
大切な人たちを巻き込むことなんてできっこない。
そんなことになってしまったら、僕は僕を許せない。

「……いやだ」

リンクジョーカーに、虚無に飲み込まれたくない。
僕は僕のままでいたい。
絶対に負けてたまるか。僕は、僕の大切な人たちを守るんだ。
恐怖なんかに、負けたくない。

「――か、い、く、ん」

怖いんだ、本当は。
怖くて怖くてたまらなくて。
だからきみが僕を見つけてくれた時、嬉しくてすぐにでもきみの傍に駆け寄りたかったんだ。

助けて、なんて言えなかった。
言いたくても、僕は皆を守るために強く在らなきゃいけなかったから。

でも、本当は。

「かい、くん」

きみに会いたかった。
怖くて泣きそうだった。
何度もくじけそうになった。
でもその度に、きみの言葉が僕を奮い立たせてくれた。
僕が望む優しい世界に、現実に、きみが幸せになれる場所があるなら。
僕はそれを守るために、どんな恐怖だって、乗り越えてみせるから。
たとえ僕が、僕のイメージするきみの幸せの中にいなかったとしても、僕は嬉しいんだよ。

櫂くん――

「――あ」

手を伸ばした先の見慣れない天井に、今がいつで、どこなのかを思い出すのに時間がかかった。
不鮮明な視界に目を擦ろうとして、幾筋もの涙の跡が目尻に残っているのに気付く。
夢見が悪かった、ということは、ぼんやりとした意識の中でも覚えていた。
またあの夢だ。僕は身体を起こし、シーツの端で乱暴に目元を拭う。
枕を確かめれば、明らかに涙で湿っている箇所がしっとりと濡れていた。
ここまで泣くのは、月の宮から帰ってきた時以来かもしれない。何に感化されたのかはわからないが、再び寝る気にもなれなくて、冷蔵庫から冷えた水を取り出し栓を開ける。
喉の渇きというよりも、現実の実感が欲しかったのかもしれない。指先に触れた水の温度に少しずつ思考がクリアになって、時計を見遣ると深夜の三時を回ったところだった。

「……はあ」

小さく溜息をつき、ごろりとベッドに寝転がる。
やはり眠気は訪れない。あの夢を見た後はだいたい眠りが浅くなるけれど、今日は一段と酷く不快感が肺に残っていた。
目を瞑る気にもなれず、ベッドヘッドの薄明かりを点けどこともなしに寝返りを打つ。
夢の中の櫂くんを思い浮かべ、ぎゅうっとシーツの波を握り締めた。
最後に直接顔を合わせたのは、一年も前になる。
彼がユーロリーグに挑戦すると言って単身パリに渡り、僕も高校を卒業と同時に進学のためアメリカに移った。父が住むアパートメントと同じ部屋を借り、少し落ち着いて大学の講義が始まる九月を前に連絡を入れたら、すぐにそっちに行くと言い出して三日後には櫂くんと一緒にカフェでお茶をしている、という状況になっていた。
彼の突飛な行動力にはいつも驚かされるけれど、ユーロリーグが始まるまでのほんの少しの合間に飛んできたと告げられて、喜ばないわけがない。
結局、僕の部屋で二日ほど過ごして櫂くんはパリに帰ってしまったけれど、夜通しヴァンガードをして、互いの近況を話し合って、同じベッドで寝るのは、まだ僕らが高校生の時を思い出して楽しかった。
月の宮から帰ってきて、櫂くんが高校を卒業するまで、僕らの関係はきっと異様なくらい近くて、互いに依存していて、でも自立しなければいけないということはわかっていた。ただ束の間の、それこそ夢のような時間に浸っていただけなのだ。
その証拠に櫂くんはパリに行くことをちゃんと僕に伝えてくれて、僕も彼の決意に背中を押すことができた。
互いを大切に想い合って、物理的な距離が離れていようと心は傍に在る。そう思えるようになった。

「……櫂くん、もう起きてるよね」

夢からずっと櫂くんのことを考えているせいか、無性に彼の声が聴きたくなった。
パリとの時差は六時間。
子どものような不安を拭いたくて、僕の手は意識的にスマホの電源を点ける。
着信履歴の一番上。次は伊吹さん。この二人は、そこそこ頻繁に僕に連絡をくれる。海外生活に不慣れな僕を気遣ってくれているのだけれど、正直初めの頃はマメだなぁと呆れてしまったくらいだ。
櫂くんの名前をタップして、緑のボタンを押す手前、僅かな逡巡が待ったをかけてきた。
時刻は明け方、まだ宵の時間だ。パリは既に朝の活動を始める時間で、つまり櫂くんはもう忙しくしている可能性があり、よって電話には出られないかもしれない。
明らかにアメリカは夜なのに、僕からの履歴が残っていたら、きっと心配させる。いや、櫂くんのことだから絶対に心配する。口にも態度にもそう出さなくたって。
彼を僕のことで煩わせたくない。
……でも、声が聞きたい。

「……」

たっぷり五分は悩んだ末に、僕は暗くなった画面をそのままに、ベッドに逆戻りした。
もっと頼れとか我儘でいいなんて櫂くんは言ってくれるけれど、やっぱりこの夢は僕自身が克服しなきゃいけないものなんだから、いつまでも櫂くんに頼ってばかりじゃダメだ。
それに櫂くんだってーー未だに僕がこの夢を見続けることを、あまり良くは思っていないだろうから。
ぐるぐると取止めのない思考に追い込まれ、ツンと鼻の奥が痛くなる。弱いなぁ、と思わず苦笑を漏らしたちょうどそのとき、枕の下敷きになっていたスマホが控えめにバイブ音を鳴らした。

「ふぁっ!?」

驚きすぎて目を白黒させる僕に構わず、光り続ける画面に輝く発信者の名前は、櫂くんだ。
どうして彼が。しかもこんな図ったようなタイミング。
不審物でも見つけてしまったかのような気持ちのままスマホをじっと観察していたら、やがて留守番電話に切り替わった。
あ、出なかった。
そのまま暗くなってしまうだろうかと恐る恐るスマホを手に取って、画面を眺めていたら、録音の機能が開始した。
今、櫂くんが、メッセージを入れてくれている。もしかしなくても、初めてだ。
櫂くんが、こんな時間に電話をかけてくることは無いし、何より櫂くんの名前が表示されたら、いつもの僕はすぐに出てしまう。
わざわざ留守番を残すならまた掛け直す、と言ってしまうような人だし、こんな風に声が残るなんて。
一秒ずつカウントされる時計がずっと続けばいいのに、なんてどうしようもないことを願う。
しかし、二十秒程で録音は終わってしまった。

「櫂くんから、メッセージ……」

着信有り、のボタンがきらきらと見えて、胸が高鳴る。ちょっとおかしいかもしれないけれど、他に言いようがない。
ゆっくりと電源を点け、留守番電話のアイコンをタップして、櫂くんの名前が夢じゃないことを実感する。
どうしよう。聞きたい。躊躇うことなんて何も無いはずだけど、もし聞いた後に録音が消えてしまったらどうしようなんてそれこそどうしようもないことを考えて、震える指でボタンを押した。

『……朝早くすまない……おはよう、アイチ』

冒頭から謝るなんて僕の癖が移ったみたいだよ、櫂くん。

『特に用はないんだが……もし時間があったら、話したいことがある』

用はないって言ってるのに。
おかしくて、ふふ、と笑い声が漏れる。

『またかけ直すから』

じゃあな、と簡潔に終わってしまった留守電をしっかり保存して、スマホを大切に両手で包む。
この小さな機械が、僕に幸せを運んでくれるんだ。これで、櫂くんの声がいつでも聞ける。電話が無理な時、この声があれば元気が貰える。
ふふ、と笑いが止まらなくて、目尻から涙が零れた。

「櫂くん……ありがとう」

こんなタイミングで電話がかかってくるなんて、もしかして彼には僕が何を考えているのかわかってしまったのだろうか。
時々そういう所を見せる人だから、僕の想いを察してくれたのかもしれない。
櫂くんは、優しい人だから。

「電話したら……びっくりするかな……」

着信履歴は五分前。
彼の名前をなぞって、電話ボタンを押して、それで。
耳に傾けたスマホから、少しばかり焦った声が僕を呼んだ。

「……おはよ、櫂くん」

まだおはようには、早い。
でも、櫂くんの声から始まる一日がおはようになるなら、こんなに嬉しいことは無い。

櫂くんの話をするだけで、僕は悪夢から救われる。

「……会いたいな」

会って、触れて、話がしたい。電話だけで満足できなくなってしまうのは我儘だとわかっていても、想いは止められない。
電話の向こうで、彼は息を呑む。こんな我儘を僕が言うなんて、僕らしくないからだろう。

『……俺もだ』

ああ、そんな声をさせるつもりはなかったのに。
ごめんなさい、と謝罪が口をつきそうになって、堪える。今伝えるべきは、違う言葉だ。

「ありがとう、櫂くん」


櫂と海、そして導くということ



いつだったか、同じように夢に魘された僕に、きみは海と櫂の話をしてくれた。
櫂というのは、大海原を漕ぐためのオールのこと。己の強さをもって、道を切り開くためのもの。
まるで櫂くんのことだねと言ったら、櫂くんに、海はお前だと返された。
青という色彩もそうだけれど、僕という存在は、櫂くんにとって海みたいなものらしい。
その時は意味がわからなかったし、今でも櫂くんが何を思ってそう言ったのかはわからないけれど。
僕は導くという意味を持つ言葉をもっていて、櫂くんに出会うことで誰かを導くことができる存在になれたのだと思う。だから、僕という海は櫂くんの導きで、誰かをどこかへ届けることができる。そう思うんだ。