カオスブレイカー。虚無、名をヴォイド。
かつて、リバースという災厄をこの世界に齎した存在。
その尖兵となって、ヴォイドの力を奮った。
己の弱さを直視できず、アイチやレンを妬み、強く在りたいと願った。自分は強いのだと思い込もうとした。
力は純粋な力であり、絶大な強さを与えはしたが、結局はアイチの前に敗れることとなった。
彼を命の危険に晒して得たその後のあたたかな日々は長く続かず、アイチという犠牲を払って世界は存続しかけた。
ーー全て、自分が原因だ。
櫂は、暗闇の中で何度も自らを戒める。
どこかの歯車がひとつでも欠けていたら、アイチを取り戻すことはできなかった。彼と再び笑いあう日々は訪れなかった。
だから、幾度となく自身に言い聞かせる。
アイチの先導者として、強く在り続ける。彼に恥じない自分でいるため、いつだって上を目指す。
けれどそれは、下を鑑みないということじゃない。
後ろを着いてきたアイチは、遠く離れてしまった気がしたアイチは、今、櫂の隣を歩いている。隣を歩きながら、櫂を支えてくれている。
櫂が渡したブラスターブレードを手に、惑星クレイの祈りを聞きながら、二つの世界を救おうと心を砕く。故に、櫂は彼が自分にそうしてくれたように、アイチを支える。彼が失意に飲まれそうになっても、膝をついて歩みを止めてしまいそうになっても、自分だけは彼の隣に居続ける。
そう決めた。
だから、たとえ敵が虚無であろうと、櫂は揺らがない。
リバースをした頃の自分を前に、櫂は不敵に笑った。


道化師との決別



まさか再びこの自分と相対することになるとは思わなかったと、櫂は赤みがかった闇の気配に眉を寄せた。
どうせなら一生会いたくなどなかった存在が、今、回の目の前で鏡のように己を写し、赤く漂う特徴的な模様を頬に刻んでいる。
リバースの証であったそれは、己の弱さの象徴だ。

「カオスブレイカーの影響か……」

世界の異変に際して、暗躍する竜たちの中の一体に、かつて世界を破滅に導こうとした虚無の力が存在していた。云わば、因縁の相手。櫂にとっても、アイチにとっても、浅からぬ縁を持つ敵だ。
もう四年近く前になる事件での出で立ちを前に、櫂は嘆息する。こうやってかつての罪を突きつけられるのも久しぶりで、忘れていないかと確認されているような気分だ。
カオスブレイカーの影響か、かの存在に記憶や後悔を刺激されたのか、どちらにせよ、いまさらこの類の夢でいちいち動揺するほど脆弱なつもりはなかった。
アイチやメイトたちのおかげて乗り越えたのだ。己の弱さも、決意も、後悔も、全てを前に進むための原動力へと変えた。

「俺の動揺を誘っているのなら、無意味だ」

宣言し、己を睨みつけた。
すると暗い瞳を漂わせる虚無の陰は、す、と左手を櫂に向かって掲げる。感情の見えない表情からは何も読み取れず、しかし背をかける悪寒は、はっきりと櫂に危機感を与えた。

「何を……」

囁きに応じるかのように、黒く冷たい風が吹く。
黒輪が舞う空の世界で、虚無の力は絶大だ。己の姿形でその力を奮い、呵責の念を抱かせようとしているなら、無意味にも程がある。

「俺は、もうおまえの力に屈したりなどしない!」

黒い風を吹き払い、櫂は高らかに言い放った。
虚無は静かに櫂と相対したま、やがて双眸を閉じ、その姿をよく見知った青い色彩へと変貌させた。
心臓がどくりと音を立てる。

「……っ」

冷や汗がこめかみをつたい、櫂は踏み出しかけた足をなんとか留めた。
海を思わせる青い髪が風に揺れ、黒いコートがはためく。開かれた瞼の奥には、空色の瞳が赤い輝きを放ちーー櫂を映した。

「……随分と、悪趣味なイメージだ」

彼の普段の優しい面持ちからは考えられないほど冷たい眼差しが、櫂を見据える。背の高さも、何かを我慢し引き締めた口元も、意志の強い瞳も、櫂の記憶のまま。だからこそ、これは現実ではないことと、現実に在ったが故に鮮明なイメージであることが混ざりあって、櫂の心に小さな棘を打ち込む。
精神的な揺さぶりには十分すぎて、腹の奥に力を込めた。足元を踏み締め、次に何が来ようと迎え撃つつもりで眼光を鋭く細める。
彼の……アイチの姿をした虚無は、じっと櫂を見つめたかと思うと、徐にその口を開いた。

「櫂くん」
「おまえはアイチじゃない」
「櫂くん」
「黙れ」

惑わそうとしているには、あまりに杜撰な方法だ。
あるいは己が見せている夢であったとしても、これではあくまで姿形を真似ているだけの人形だ。
悪夢なら早く覚めてしまえばいい。

「貴様がアイチの姿を偽るな。不愉快だ」

右手で薙ぎ払うようにした櫂に、アイチは悲しげに瞼を下ろし唇で弧を描く。
彼の表情そのままで、僅かにでも生まれた罪悪感を振り払い、櫂はアイチの形をした敵を睨みつけた。
虚無は諦めたのか、その姿を闇に溶かし櫂の前から消え去ろうとしている。悪夢が覚める。櫂は気を抜くまいと最後まで歯を食いしばり、やがて完全に消え去った虚無に肩の力を抜いた。
その瞬間を狙っていたのか。アイチの声で、アイチの気配を纏い、背後で囁きが落とされた。

「……さよなら、櫂くん」

咄嗟に振り向いてしまった視線の先、アイチは闇に身を染めて涙を流し、微笑む。柔らかな青が櫂に助けを求め、伸ばしかけた手は空を切り、櫂の喉を悲鳴のような何かが通り過ぎた。
瞬く間に、世界は白く反転した。





全力で駆けた後のような動悸を鳴らし飛び起きた世界では、よく知っている部屋のカーテンが揺れていた。
物の少ない、というには閑散としすぎている部屋の主は櫂自身で、日本に来た時に寝泊まりするための部屋だ。叔父の持ち物である此処は、櫂がパリに単身引っ越した後も継続して櫂が使っている。いつ帰ってきてもいいように、という叔父の優しさに甘え、必要最低限の荷物だけは置いてあった。
ベッドのサイズがセミダブルなのはなんの配慮が働いたのか知らないが、有難く使わせてもらっているーーほぼ、アイチが泊まりに来た時のために。
カオスブレイカーを初めとするゼロスドラゴンへの対策のために、チームQ4を使った囮作戦を話し合うため、櫂は日本に一時帰国している。その流れでアイチは櫂の部屋に泊まりに来て、再会と話し合いついでに久々に夜更かしをしてしまった。どちらが先に寝てしまったのかはいまいち記憶が定かではないが、同じベッドで眠るのはいつものことであり。

「アイチ?」

隣に寝ているはずのアイチがいなくなっていることに、ようやく思い至った。
途端、夢の中のアイチが過ぎり肌を粟立たせる。
あれは夢だとわかっていても、姿が見えないことへの不安は、常に櫂の安寧を崩すものだ。いつかのように、突然いなくなられたら、たまったものじゃない。
慌ててベッドを滑り降り、はためくカーテンを乱暴に引いた。窓が開いているなら、そこにいる可能性は高い。

「アイチ!」

予想より大きく響いた声に、ベランダで見えた青い頭が跳ねた。ぎょっと目を剥いて振り返ったのは、探していた人物その人で、櫂は脇目も振らずその細い肩を掴む。

「か、櫂くん?」
「ばか、そんな薄着では風邪をひくだろう!」

トレーナー一枚で外気に晒されて良い気温ではない。
案の定、掴んだ肩は冷えてしまっていて、櫂は眉根を寄せた。

「いや、あの、そんなに心配しなくてもちょっと外に出てただけだから……!」
「なにがちょっとだ、こんなに身体を冷たくし……て……?」

ハッとそれに気づき、櫂の勢いが徐々に弱くなる。
夜の闇の中でもはっきりとわかるほど、アイチの瞳は潤み水面のように揺れていた。
泣いていた後なのか、赤く擦った跡のある目尻に語気を削がれ、両肩を掴んでいた指先からも力が抜ける。
櫂の様子に己の状態を察したのか、アイチはバツが悪そうに視線を落とした。

「ごめん」
「何を謝る」
「心配、かけたよね?」
「俺が勝手に心配しただけだ……泣いていたのか」
「少しはオブラートに包んでよ。これでも恥ずかしいんだから」
「恥ずかしがる必要はないだろう」
「この年になって泣いて起きるって精神的なダメージあるんだよ?」
「ならせっかくだから吐き出しておけ。敵との戦いを前に、憂い事は全部払っておけばいい」

当たり前のように言い切った櫂を、アイチは呆気にとられた顔で見上げた。
すごいなぁと呆ける時の顔だ。間抜け面、と思う反面、これなら話すのに抵抗はないだろうとアイチの手を引きベランダから部屋の中に連れ戻す。
暖かい部屋の中で、アイチが纏う空気はひんやりとしていた。やはり短くはない時間ベランダにいたようだ。抜け出されたことに気付かなかった己は棚に上げ、ベッドに座るように促した。

「お茶とホットミルク、どっちがいい」
「……ミルクで。あ、今笑ったでしょ」
「笑ってない」

相変わらず可愛らしいチョイスに思わず口元が緩んでしまっただけなのに、拗ねたように口を尖らせるアイチが余計に可愛らしく見えてしまう。
希望通り即席でミルクを二カップ分温め、アイチのカップと櫂のものに分ける。手渡したそれを両手で包み込み、アイチはおとなしくベッドの上で口を付けた。

「……で、夢でも見たのか」

カップがほとんど空になった頃、櫂は切り出した。
手を伸ばし、アイチの頬に指を滑らせる。頬に温もりは戻っていたが、耳はまだ少し冷たかった。

「……うん」

されるがまま、櫂の手に身を預けるアイチは、遠くを見ながら小さく頷く。
そうか、と呟いて、櫂は己の夢を思い出した。お互い、敵に対して敏感になってしまっているのだろう。因縁の相手というにはあまりに深く関わり過ぎた相手だ。

「俺も、夢を見た。懐かしいが……二度とごめんだな」
「櫂くんも……?」
「忘れるな、とわざわざ確認してくる。言われずとも、忘れやしないというのに」
「それって、リバースしてた時のこと、だよね」
「ああ」
「そっか」
「おまえは……」

言いかけ、アイチは首を縦に振った。
空になったカップをテーブルに置き、アイチの分も同じようにして彼の両手を包み込む。丸くなった背は、それでもあの時より随分大きくなった。だが櫂より一回りは小さく、後ろから抱き締めたらすっぽりと覆ってしまえそうだ。

「月の宮のこと……おかしいや、ちゃんと克服したはずだったんだけどな」

アイチは月の宮から帰還してしばらくの間、眠れない日が続いた。眠っても魘されて起きてしまうため、睡眠時間はほぼ無いに等しく、体調不良で学校を休まざるを得ない状況にまで陥っていた。それを櫂が知ったのは、カードキャピタルで妹のエミが戸倉に相談していた時だった。
かなり強引に櫂の家に誘って諸々を吐き出させた後、櫂は激しい後悔に見舞われた。
帰ってきてほしい、取り戻したいという想いばかりが先行して、アイチが傷つき苦しんでいることをちゃんと見ていなかった。
悪夢を見るというなら、それはもう終わったのだとアイチが落ち着くまで傍にいてやらなければいけなかったのに。
眠るのが不安なら、眠ってもきちんと明日を迎えて目が覚めるのだと教え、憂いを払ってやらねばならないのに。
なにより、櫂が、アイチの傍にいて安心したいという本音を隠すことはできず。半ばなし崩しで毎週のように泊まりに来させて、櫂はアイチを構い倒した。ようやく夢を見ずに眠れるようになる頃には、二人の関係は親友の枠からはみ出てしまっていたけれど。
だが、アイチが時折、月の宮での夢を見て魘されていることは知っていた。その度に、せめて彼が悪夢に蝕まれてしまわないようにと心を砕きはしたけれど、それぞれが各々の道を歩み始めたことでその機会も減っていった。
アイチは、弱くない。そう信じているからこそ、辛かったり苦しかったりするときは、自分が受け止めてあげたいと願う。

「たまにはそんなこともある……俺もだからな」
「そっか……」

だから一人で抱えるな、と正直に口に出すことができる性格なら良かったのだろうが、不器用だと親友に評される慰めではそうもいかない。
アイチは確かめるように「そっか」ともう一度囁き、櫂の手の上に自分の手を置いた。細く折れそうな指先が甲をなぞる。柔らかな頬の感触が、心地よい。

「大丈夫。ありがとう、櫂くん」

眉を下げ笑みを刻む表情に力はない。
まったく強情な、と内心で舌打ちし、櫂はアイチの手首を掴むとそのままベッドに引き摺り倒した。

「わぷっ!」
「寝ろ」
「ふぇ……かぃ、櫂くん!」

足元に丸まっていた毛布を広げ、アイチにかけてやる。そのまま隣にもぞもぞと入り込み、眠る前よりさらに身体をくっつけて腕の中に抱き込めば、青い頭が胸元で暴れ出した。
しかし抵抗も束の間、アイチは浸透するぬくもりに寄り添うように身体の力を抜いて、おとなしくなる。
自分が誰かに熱を分け与えることができる存在になるのは、思ったよりも喜ばしいことだと、アイチが教えてくれた。だから、アイチがこうして目に見えて安心してくれるのは、櫂の心の柔らかい部分をくすぐる。

「櫂くんはやっぱり優しい
「アイチ限定だぞ、おそらく」
「ふふ、ちょっと嬉しいかも」
「ちょっと、なのか」

ゆるりと首を傾げ、アイチの瞳に櫂が映り込む。
青い瞳にゆらゆらと揺れる顔は、さながら水面を覗き込んでいるかのようだ。
夜の闇の中で輝く星のように、アイチの瞳は美しい。

「……すごく嬉しい、かな」

照れ笑い半分、本気の眼差しが半分。
櫂の背に手を伸ばし、同じように抱き寄せられて、言葉では表現しきれないのであろう感情が伝わってくる。胸がいっぱいになる。
こうやってアイチに触れて、触れられて、安堵をもらっているのは櫂の方なのだ。

「今から寝たら、朝起きれない気がする」
「心配するな。ちゃんと起こしてやるさ」
「本当に?」

朝まで一緒にいてくれるのか、という問いだ。
その意味を察せないほど薄情なつもりは無い。櫂は薄く笑い、アイチのこめかみに唇で触れた。
幼い子どもにするような戯れにアイチは満足したのか、櫂の胸元に顔を埋めて目を閉じたようだった。

祈り聞くもの、と立凪ノームはアイチを呼ぶ。そして惑星クレイでも、アイチはその呼称をもって特別な存在として扱われているらしい。
望むと望まざるとに関わらず、彼の力は悪も正義をも内包し、多大な影響を与える。時に彼自身を蝕み、時に導きながら。

「……虚無などに、おまえの輝きを損なわせたりなどしない」

いつか、この夢が懐かしいだけの思い出になる日までーー


決戦の日はすぐそこにある。