薄らと地球の光に照らされた場所。
中世の宮殿が廃墟と化した、まるで歴史の教科書の一節がそのまま具現化したこの箱庭に、彼は眠っている。

黒を基調とした服は、彼と同じ配色を施したものだ。櫂と同じ役割を担う一人が作り、手渡された。
いらないと突っぱねてはみたものの、彼と同じ色を纏えばなんだか少しだけでも近くなれるような気がして、結局は袖を通した。昔の服は全て焼き払って、過去と共に捨てた。
頭上で輝く地球に暮らしていた、あの頃と共に。

彼が眠る場所は、月の宮と称されるこの空間の、最奥に位置している。
かつてのカトルナイツが作り上げた迷宮を、さらに複雑に、決して誰一人辿り着けないように術を施して、彼の眠りを妨げることを防いだ。
もう何十年も、櫂と、役目を同じくする残り三人以外、この場所には足を踏み入れていない。
それでいい。それが、彼の望みだったのだから。

「――……」

孤独の王座に座る少年の眼前で、櫂は膝をついた。
肘掛に置かれた手をすくい、薄く頼りない手の甲に額を押し当てる。
仄かな暖かさに少しだけ目元を緩め、櫂は少年の名を呼んだ。

「爪が、伸びたな」

少年は眠りについて久しいが、成長していないわけではない。ほんの少しだけ頬の丸みが無くなり、髪が伸び、代謝を繰り返している。
だが、櫂と同じ時間を生きてはいない。
彼は、彼の内に潜み蝕み続ける力を抑えるために、彼が生きるために必要なエネルギーのほとんどを費やしているのだ。そのために、彼の容姿は、彼が眠りについた時からほとんど変わっていなかった。
この月の宮にいる時は、櫂自身も高校生の時の容姿となる。彼の望む姿が……いや、彼が知る櫂の姿が、その頃のものだからだ。
この場所は、彼のイメージによって構築された、云わば閉ざされた迷宮のようなもの。彼が望む通りにすべては為され、現実の時間がどれほど過ぎようと、彼のイメージがすべて。
故に、櫂は己の本来の年齢など忘れ、あの頃と同じように彼に接するのだ。

「おまえはまだ起きないのか……まったく、何年経っても変わらないな」

彼の指先に爪切りを当て、一本ずつ丁寧に切り落としていく。
パチン、パチン、と乾いた音が静寂に響き、十本の指はやがて美しく整えられた。
櫂は満足気に目を細め、彼の手を肘掛に戻す。恭しく、壊れ物を扱うように。

「髪も伸びたな。長いより、短い方が好きだったろ?」

弱い自分を変えるのだと、髪を切った彼を思い出す。
未来に視線を向けることを躊躇わなくなって、能動的に活動する彼の背はとても眩しかった。
一度は羨み、嫉妬し、突き放してしまったけれど、櫂を必死に取り戻そうとしてくれた彼のお陰で、こうして今、自分は生きて彼の傍にいられる。
だがそれがきっかけで、こうして彼を永久の眠りに落としてしまった。
本来は櫂が負うべき責務のすべてを、彼は一人で抱え込んでしまった。
彼はもう戻らない。
彼はもう戻れない。
目を覚ましてほしいと願い続けたこの数十年、声すら聞けないまま。

「……何度か、地球で生きろとレンたちに怒られた。おまえを封印して、その封印が破られないようにさらに入り口を頑丈に……おれたちの命を使って封じた時に、一緒に地球に帰るべきだと」

頬に手を添える。
ひんやりと伝わる温度に眉を寄せ、両手で彼の頬を包んだ。

「だが、俺にはお前を此処に一人置いていくことなどできなかった。地球に戻る度に、気付けばこの場所に……おまえの傍にいないと落ち着かなくて」

彼が自らを犠牲にすると決めた時。
彼の決意を止められなかった時。
あの瞬間から、櫂の心は彼の傍を離れて生きることができなくなった。
誰が何を言おうと、彼と離れることなどできやしなかった。
彼を止められなかったことが、ずっとずっと、櫂を縛り続けていた。

『……ねえ、櫂くん』
『どうした』

リンクジョーカーの脅威が去って間もなく、彼は塞ぎ込むことが多くなった。
何かを言いかけ、櫂の姿を見かけると安堵と罪悪感が混ぜこぜになったような表情をして、だが何も語らない。

『……ううん、なんでもないよ』

そんな彼の様子に気付くこともできず、のうのうと戻ってきた日常に浸っていた自分を、殴りたくてしかたがない。
もし問い質していれば、彼は今こうして、孤独のうちに戦うことなど無かったのだろうか。
あるいは、櫂や、せめて他の誰かに助けを求めることができたのだろうか。
何もかもを一人で背負って、分け与えることすらしないで、彼は永遠に櫂を傷つけ続けているのだとわかっていないだろう。
代われるものなら代わりたい。その想いはずっと櫂の中で燻り、淀み、暗い影を落としている。
悔しくて、悲しくて、辛い。

「……すまない」

がくりと両膝をついて、櫂は座す彼の膝に額を押し当てた。
頭を垂れ、胸元を抑える。
息は荒く、冷や汗が喉を伝った。

「おまえが目覚めるまで守ってやれなくて、すまない」

彼は命令だと言って不安を押し込めようとしていたけれど、本当は泣きそうな声で櫂たちに願っていた。
眠りにつく瞬間、最後に名前を呼んだ櫂に振り向いたその、瞳に映る後悔と諦めと――無理につくった笑顔が、涙を堪える彼の優しさが、櫂を苛み続けている。

「こいつにお前を託す。俺の代わりに、おまえを守ってくれる」

彼は年をとらないけれど、櫂の時間は確実に進んだ。
肉体の年齢は見た目だけのもので、数十年を生き、もう櫂は生きるに足る寿命を全うしている。
彼の傍にいたいという気力だけで、月の宮に居続けた。
だがそれも、もう限界を迎えてしまった。
櫂の分身であるカードを、彼の膝の上に置く。櫂の身体が朽ちようと、きっと己の分身ならば、己の代わりに大切な人を守ってくれると信じて。

「すまない」

口をつくのは謝罪ばかりだ。
彼ならこんな時、謝らないでと言って困るだろうか。
櫂くんは悪くない、と必死に言い募る姿が目に浮かぶようで、色褪せない記憶に安堵する。

「最後に一度くらい、おまえの声が聴きたかった」

忘れたことはない。
でも、彼の声を聞いていない時間が長すぎて、身体中が渇きを覚えていた。

声が聞きたい。あの柔らかな声で、櫂くん、とまた名前を呼んでほしい。

彼の膝の上に頭を乗せて、身体から力を抜くと、どうしてか彼の腕に包まれているような気がした。
彼が生きている音が、聞こえてくる。

「すまない」

ああ、また謝ってしまったなと櫂は苦笑し、そっと目を閉じた。

「どうか、いつか安らかな眠りが、おまえにも」

訪れますように。
言いかけて、櫂はだらりと垂れ下がったままの拳を、きつく握りしめた。
彼の何をも見届けることができず、ここで命が終わってしまうことを、いまさらながらに実感する。
もう彼のために生きることができない。
もう彼の傍にいることができない。
守ると約束したのに――本当は守るんじゃなくて、彼が目覚めて、彼と一緒に生きれれば、それだけでよかったのに。

「……死にたく、ない、な」

言葉にすれば、もう抑えられないと思っていた。
死の淵からその咢に飲み込まれる時になって、ようやく形にできるなんて。

何年経っても自分は――愚かなままだ。

「俺が、ずっと……守る、から」

いつか彼に、櫂の大切な人に、安らぎが訪れますように。
本当の眠りにつく瞬間まで、彼を守り続けることができますように。
そしていつか――

「アイチ……」

呼び掛けた櫂に、『なあに、櫂くん』と海のような色彩をもつ彼が振り返って、屈託のない笑顔を、